梟の独り言

色々考える、しかし直ぐ忘れてしまう、書き留めておくには重過ぎる、徒然に思い付きを書いて置こうとはじめる

「菊と刀」と「罪と罰」

2025-02-13 09:07:05 | 雑記
「菊と刀」と言う本を読んだ、大戦中にアメリカで書かれた文化人類学者ベネティクトと言う女性が書いた本だ、
「菊と刀」と言う著書名は実に日本人好みだが原題は「Chrysanthemum and the Sword」
で特に菊も刀もないので翻訳者が日本人受けでも狙ったのか
『菊と刀』は日本文化の行動規範の独自性を強調する。しかし、懐疑する傾向も見られる。すなわち日本文化が西洋文化とは対極の位置に置かれていることに、批判の目が向けられている。また、日本の文化を他者との相対的な空気を意識する「恥の文化」と指摘し、欧米の文化を自律的な良心を意識する「罪の文化」と定義、倫理的に後者が優れているとの主張を展開し、そのことへの批判もある。
現在の書評だが読んでいて大きな違和感があったのが「恥の文化」が他人の眼、いわゆる世間の眼と言う評価が基準だとしている部分だった
この著者は一度も日本に来ていない、多くの書物とアメリカ移民;コミュニティを訪れてまとめたものだが此れで日本の文化分析として優れた評価を受けていると言う
アメリカ移民の日本人はあくまでアメリカ文化の中の日本人で本当の意味での文化圏では無い
恥の文化と言う表現は言いえて妙かも知れないが一番重要な事を誤解している
恥と言うのは他人の眼ではなく自らの眼で有る、
他人の行いを見て不快を感じて、それを自らが行う事に対して自分を戒めると言う意味の恥と行く言葉だ
少し前、団地の自治会で有る役職を長年担ってきた人物がその年住民の評議で他の人に変わる事になった
その時彼が「私のプライドはどうなる!」と叫んだのだが皆の答えは「自分のプライドは自ら保つべきでプライドを傷つけられたと言うのはおかしい、プライドが傷ついたと思ったら自分で取り戻すしかない」と言われた
人の評価を求めるのは争いになった後でその前に日本人は「自らを恥じる」事で文化を維持してきたと思う
「他人の眼」を生き方の評価基準にしていると言うのは違う筈だと思いながら読み終えたが最後までこの判断は変わらなかった
彼女が定義した「罰の文化」は誰が与える罰か、一神教には神の試練と罰が有るが我が国の神教では神が試練を掛けたり罰を与えると言う事は無い
まあ、罰が当たるとは言うがそれは例えだ
しかし有名な「罪と罰」は恐らく内容的には自ら罪を悔い呻吟する事で罰を受けた筈だ
ドストエフスキーが敬虔なクリスチャンだったかは知らないが彼がこの本で言っていたのはやはり自ら恥じると言うのと若干違うが考え方としては似通っている感じがする