百日紅が咲き始めると夏が来る、
遠き別れに たえかねて
この高殿(たかどの)に 登るかな
悲しむなかれ 我が友よ
旅の衣(ころも)を ととのえよ
別れといえば 昔より
この人の世の 常なるを
流るる水を 眺むれば
夢はずかしき 涙かな
君がさやけき 目のいろも
君くれないの くちびるも
君がみどりの 黒髪も
またいつか見ん この別れ
君が優しき なぐさめも
君が楽しき うた声も
君が心の 琴の音も
またいつか聞かん この別れ
惜別の歌は中央大学の寮歌だそうだが私は小林旭の歌で知った、作詞は島崎藤村である、
二番の部分は恐らく女性を意識しての詩文で学生寮歌だから卒業の別れを意識していたのだろうが愛おしい女性の美しさ、嫋やかさが綺麗な文章で歌われている、
石川啄木の詩に「君が花」と言うものがある
「君くれなゐの花薔薇(はなそうび、
白絹かけてつつめども、
色はほのかに透きにけり。
いかにやせむとまどひつつ、墨染衣袖かへし
掩へども掩へどもいや高く
花の香りは溢れけり。」
おなじ様に女性の美しさをうたっているが本当に優雅に想う女性を歌い上げている
昔の女性はこのように美しく嫋やかであったのだろうか、
それとも天才の感性がずば抜けていただけなのか
未だ自分が生きて来た昭和の時代はこういう詩に感激する気風があった気がする、
むろん、そんな美しく優雅な恋愛は出来るわけもなかったが偶々そんなに思い焦がれる女性が居なかっただけなのか、
はたまた現実の壁の高さにすっかり諦めて自分にあったところで妥協していたのか、
それでもこういう詩を見るとそんな女性にと言うよりその心情にあこがれたものだった
社員寮の同僚が同じ職場の女工に片想いをして、失恋しある日睡眠薬自殺をしたことがあった、
明るく剽軽な奴だったが失恋した相手の女性は社内でも結構有名な遊び人だった、
彼にとっては藤村の歌の様にあるいは啄木の詩の様な存在だったんだろうな
男女の関係はプラトニックから男女の関係になってから本当の恋愛になる
それは甘酸っぱい詩の恋情からより激しい恋情に変わるが同時に嫉妬や感情のぶつかりあいをもたらしてドロドロとした関係に変わる
その時になっても「きみ紅の華薔薇」であり続ける関係もあるだろう
しかし、「百年の恋も」冷めると言う事も多々あるだろう、
それでも男は惜別の歌の様な別れにあこがれて、勝手に思い出を作る、
「恋愛と結婚は別よ」と言う話をよく聞く、どうやら女性達はもっと現実的の様だ、
野辺の花、紫露草はささやかに咲いている
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