吼える狼、手負いの熊の声も届かぬ原始林、嵐に向いまっしぐら
緑のコタンを夢に見て、ああ若き勇者、勇者は進む
あーあー、ああああああああ~、ああ、緑のコタン(記憶違いもありそうだが)
未だテレビが普及していない頃、ラジオでラジオドラマと言うのがあった、夕方の4時頃からだったと思うが15分程度の番組で「朗読」ではなく複数の声優と効果音も有る、
母親が死んだ後学校から帰ると夕飯の支度をしながら風呂を沸かす、丁度この頃にラジオドラマが流れていた、一年替わりで平日の夕方に流れるのだがこの番組で一番覚えているのが「緑のコタン」だった、と言うよりそれ以外は覚えていない、ストーリーも定かで無いのだが少年が銃を持っていてこのテーマソングの最後に銃声がするのが印象的だった、
「一丁目一番地」もこの番組だったかも知れない、ホームドラマのラジオ版だったがストーリーは欲覚えていない、
この時間の直ぐ後に「今月の歌」と言う10分程度の番組があって毎月新しい曲を流していた、姉はこの番組が好きでそこで覚えた曲もかなり有った、中曽根美紀の「川は流れる」はこの番組だった気がする、
「山から街に来た娘、隠していても直ぐわかる、空を飽きずに見てる目がそら陽の匂い」と言う曲を覚えている、毎月だから当然もっと有ったのだがどう言うわけかこの二曲を覚えている(覚え違いかもしれないが)
その後の時間は大人の時間で親父の好きだったのは「ラジオ寄席」と「土曜の夜の贈り物」と言う番組だった、「とんち教室」と「私は誰でしょう」、「20の扉」も此処だった気がする、この番組はおもっと前からやっていて母親も聴いていた、
家の狭い入り口を入ると三畳間(と言っても畳は敷いていない)で蹴上がりの所に囲炉裏が切ってありその奥の畳2枚弱で食事をする、その奥に板の間が畳一枚分くらいあって其処に食器入れと米びつなどが置かれ食器入れの上に木製のラジオが置いてあった、
当時我が家の電気は「定額」という奴で基本的には一箇所しか利用が出来ないことになっているのだが多少の目溢しがあって「二股ソケット」でラジオを聞いていた、
しかし電球は1つしか点けられないので親父が家を横断するように番線を渡して其処に電球は吊下げてあり時間に応じて移動して使っていた。
家の入り口(玄関と呼んでいたが半畳の土間である)の向かって右手に細長い土間が有った、板戸がつけてあり入り口側から便所、風呂とあり有り、その奥の右手が流しである、
突き当たりに2連の竃があって煮炊きは此処でする、流しは最初の頃は板だけだったがその後とたん張りになった、
当然水道なぞ無い、裏の沢から掛け樋で水桶に引いた水をブリキのバケツで流し脇に用意して全て此れで調理から食後の始末までする、しかし、沢の水はきれいだが水量が少ない、風呂の水は天秤棒に雑巾バケツを前後にぶら提げて200m程度離れた川から担いできた、上の姉が働きに出るまでは自分と二人の仕事だったが中学を出ると直ぐ鷲津の紡績に働きに出たのでその後は自分の仕事だった
風呂を沸かすのも竃の火も山に行って立ち枯れの木をとってきて使う、しかし竃の方はお袋が癌で倒れた時に石油コンロに変った、炒め物は石油コンロの前は火が弱くてべちゃべちゃになったが炒め物らしく出来るようになった、因みにこの頃は「中華鍋」と言う物が無かったので竃ではやりにくいのである。
風呂桶は木製で「へそ釜」という奴なので湧くまでの時間がかなり掛かる、夕飯の支度を先に終えて窯の前に座って薪を一時間以上くべるのだが結構その時間が好きだった、
裸電球は3畳間の食卓前にあるだけなので竈の前は真っ暗である、
へそ竈の中から薪の燃える光が手元と足元を赤く照らすのをぼんやりと眺めながら座っている時間は何を考えていたのだろう、今ではとても考えられない生活だが自分には結構楽しい思い出である、
緑のコタンを夢に見て、ああ若き勇者、勇者は進む
あーあー、ああああああああ~、ああ、緑のコタン(記憶違いもありそうだが)
未だテレビが普及していない頃、ラジオでラジオドラマと言うのがあった、夕方の4時頃からだったと思うが15分程度の番組で「朗読」ではなく複数の声優と効果音も有る、
母親が死んだ後学校から帰ると夕飯の支度をしながら風呂を沸かす、丁度この頃にラジオドラマが流れていた、一年替わりで平日の夕方に流れるのだがこの番組で一番覚えているのが「緑のコタン」だった、と言うよりそれ以外は覚えていない、ストーリーも定かで無いのだが少年が銃を持っていてこのテーマソングの最後に銃声がするのが印象的だった、
「一丁目一番地」もこの番組だったかも知れない、ホームドラマのラジオ版だったがストーリーは欲覚えていない、
この時間の直ぐ後に「今月の歌」と言う10分程度の番組があって毎月新しい曲を流していた、姉はこの番組が好きでそこで覚えた曲もかなり有った、中曽根美紀の「川は流れる」はこの番組だった気がする、
「山から街に来た娘、隠していても直ぐわかる、空を飽きずに見てる目がそら陽の匂い」と言う曲を覚えている、毎月だから当然もっと有ったのだがどう言うわけかこの二曲を覚えている(覚え違いかもしれないが)
その後の時間は大人の時間で親父の好きだったのは「ラジオ寄席」と「土曜の夜の贈り物」と言う番組だった、「とんち教室」と「私は誰でしょう」、「20の扉」も此処だった気がする、この番組はおもっと前からやっていて母親も聴いていた、
家の狭い入り口を入ると三畳間(と言っても畳は敷いていない)で蹴上がりの所に囲炉裏が切ってありその奥の畳2枚弱で食事をする、その奥に板の間が畳一枚分くらいあって其処に食器入れと米びつなどが置かれ食器入れの上に木製のラジオが置いてあった、
当時我が家の電気は「定額」という奴で基本的には一箇所しか利用が出来ないことになっているのだが多少の目溢しがあって「二股ソケット」でラジオを聞いていた、
しかし電球は1つしか点けられないので親父が家を横断するように番線を渡して其処に電球は吊下げてあり時間に応じて移動して使っていた。
家の入り口(玄関と呼んでいたが半畳の土間である)の向かって右手に細長い土間が有った、板戸がつけてあり入り口側から便所、風呂とあり有り、その奥の右手が流しである、
突き当たりに2連の竃があって煮炊きは此処でする、流しは最初の頃は板だけだったがその後とたん張りになった、
当然水道なぞ無い、裏の沢から掛け樋で水桶に引いた水をブリキのバケツで流し脇に用意して全て此れで調理から食後の始末までする、しかし、沢の水はきれいだが水量が少ない、風呂の水は天秤棒に雑巾バケツを前後にぶら提げて200m程度離れた川から担いできた、上の姉が働きに出るまでは自分と二人の仕事だったが中学を出ると直ぐ鷲津の紡績に働きに出たのでその後は自分の仕事だった
風呂を沸かすのも竃の火も山に行って立ち枯れの木をとってきて使う、しかし竃の方はお袋が癌で倒れた時に石油コンロに変った、炒め物は石油コンロの前は火が弱くてべちゃべちゃになったが炒め物らしく出来るようになった、因みにこの頃は「中華鍋」と言う物が無かったので竃ではやりにくいのである。
風呂桶は木製で「へそ釜」という奴なので湧くまでの時間がかなり掛かる、夕飯の支度を先に終えて窯の前に座って薪を一時間以上くべるのだが結構その時間が好きだった、
裸電球は3畳間の食卓前にあるだけなので竈の前は真っ暗である、
へそ竈の中から薪の燃える光が手元と足元を赤く照らすのをぼんやりと眺めながら座っている時間は何を考えていたのだろう、今ではとても考えられない生活だが自分には結構楽しい思い出である、
私は、友達と日が暮れるまで遊んで、このドラマに間に合うように帰宅して、母がゆうげの支度をする音を聞きながら、寝転がって、聴いていました。チワンミレ、まきり、小樽、など憶えています。hkc3a303@catv296.ne.jp 千葉県佐倉市61才