日本会議が新教育基準に道徳教育の復活を盛んに喧伝する、
安倍政権は「美しい日本」を謳い日本の心として道徳教育の復活を打ち上げる、
自衛隊の明記、「必要最小限」の削除、などを見ていると「美しい日本」ではなく「強い日本」を目指しているとしか思えない、
道徳は広辞苑によると下記の様になっていた
道徳=
①人の踏み行うべき道
②ある社会で、その成員の社会に対する、あるいは成員相互間の行為の善悪を判断する基準として一般的に承認されている規範の総体
→東洋的イメージが強い
倫理=
①人倫(人として守るべき道)
②実際道徳の規範となる原理
→西周・井上哲次郎らの訳語
筆者は価値の内面化を重視する立場から、儒教的なイメージの強い「道徳」よりも、学問的イメージの強い「倫理」の用語を好んで用いているる
これによれば「他国に派兵可能な強い日本」にはなじまない
そこで独断と偏見で道徳を「徳に至る道」と定義してみる
とすると今度は「徳」の意味は?となる
広辞苑では
とく【徳】
1.道をさとった立派な行為。善い行いをする性格。身についた品性。徒然草「人に本意なく思はせて我が心を慰まん事、―に背そむけり」。「―が高い」「道徳・徳性・人徳・美徳」
2.人を感化する人格の力。めぐみ。神仏の加護。枕草子161「宰相の中将の―を見ること。その方に向ひて拝むべし」。源氏物語澪標「心のうちに神の御―をあはれにめでたしと思ふ」。「徳化・恩徳」
と書かれていた、
長幼の序は儒教の教えである、親を敬うのは別に儒教に拠らなくとも日本人には備わっていたと思うがそれが自然に備わって来たのは教育と言う様な上からのものでは無く生まれて育つ間に自然に親から子に伝わって来たと思う
確かに今の研究では結構日本人の識字率は高かったと言われているがそれはあくまで江戸や大阪など都会の話で寺子屋などの有るある程度人口密度の有る所で農業村や漁村ではそれほどの識字率は無かったと思うが子が親の面倒を見る事などは当然のこととして継続して来た、
だからこそ「姥捨て」は悲劇として記憶に残ったのだ、
無論、三世代同居は経済的な理由も大きいがそれでも赤貧の村落でも善行と恥の識は有ったと思われる、
新戸部稲造氏は海外で「日本には統一した宗教は無い」と言う事を白人に「では道徳(どう言う意味はは不明だが)どうしているのか?」と言われ、考えた結果それは「武士道」ではないかと言う結論になったと言う話を聞いた記憶が有る、
貧しい人々の徳の意識は生き続ける為の規範だっただろうが今の日本人と違うのは裕福な立場の人間に「徳」が備わっていたと言う事だろう、
農村には「徳農家」と言う言葉が有り、商人にも「有徳人」と言われる記録は多くみられる、
しかし、現在こう資産家と言う連中を見る限り「有徳」とは全く逆の印象しかない、
金が金を産むのは「21世紀の資本論」などを読むまでもなく「債権」と言いうシステムは資本家に集まるのは当然である、
そこで新資本主義の道徳はこう定義しよう
得に至る道、すなわち「道得」であり「道得教育」とは「儲けの為なら情け容赦なく完膚なきやれ!溺れている子犬には石をぶっつけろ」と言う事、
産官政は庶民から搾れるだけ絞り「それが正しい生き方」だと言う教育を推し進める
しかし、親父さんは政界のプリンス(プリンスメロンだとしても)言われていたが息子はとてもじゃないがプリンスではないな、
安倍政権は「美しい日本」を謳い日本の心として道徳教育の復活を打ち上げる、
自衛隊の明記、「必要最小限」の削除、などを見ていると「美しい日本」ではなく「強い日本」を目指しているとしか思えない、
道徳は広辞苑によると下記の様になっていた
道徳=
①人の踏み行うべき道
②ある社会で、その成員の社会に対する、あるいは成員相互間の行為の善悪を判断する基準として一般的に承認されている規範の総体
→東洋的イメージが強い
倫理=
①人倫(人として守るべき道)
②実際道徳の規範となる原理
→西周・井上哲次郎らの訳語
筆者は価値の内面化を重視する立場から、儒教的なイメージの強い「道徳」よりも、学問的イメージの強い「倫理」の用語を好んで用いているる
これによれば「他国に派兵可能な強い日本」にはなじまない
そこで独断と偏見で道徳を「徳に至る道」と定義してみる
とすると今度は「徳」の意味は?となる
広辞苑では
とく【徳】
1.道をさとった立派な行為。善い行いをする性格。身についた品性。徒然草「人に本意なく思はせて我が心を慰まん事、―に背そむけり」。「―が高い」「道徳・徳性・人徳・美徳」
2.人を感化する人格の力。めぐみ。神仏の加護。枕草子161「宰相の中将の―を見ること。その方に向ひて拝むべし」。源氏物語澪標「心のうちに神の御―をあはれにめでたしと思ふ」。「徳化・恩徳」
と書かれていた、
長幼の序は儒教の教えである、親を敬うのは別に儒教に拠らなくとも日本人には備わっていたと思うがそれが自然に備わって来たのは教育と言う様な上からのものでは無く生まれて育つ間に自然に親から子に伝わって来たと思う
確かに今の研究では結構日本人の識字率は高かったと言われているがそれはあくまで江戸や大阪など都会の話で寺子屋などの有るある程度人口密度の有る所で農業村や漁村ではそれほどの識字率は無かったと思うが子が親の面倒を見る事などは当然のこととして継続して来た、
だからこそ「姥捨て」は悲劇として記憶に残ったのだ、
無論、三世代同居は経済的な理由も大きいがそれでも赤貧の村落でも善行と恥の識は有ったと思われる、
新戸部稲造氏は海外で「日本には統一した宗教は無い」と言う事を白人に「では道徳(どう言う意味はは不明だが)どうしているのか?」と言われ、考えた結果それは「武士道」ではないかと言う結論になったと言う話を聞いた記憶が有る、
貧しい人々の徳の意識は生き続ける為の規範だっただろうが今の日本人と違うのは裕福な立場の人間に「徳」が備わっていたと言う事だろう、
農村には「徳農家」と言う言葉が有り、商人にも「有徳人」と言われる記録は多くみられる、
しかし、現在こう資産家と言う連中を見る限り「有徳」とは全く逆の印象しかない、
金が金を産むのは「21世紀の資本論」などを読むまでもなく「債権」と言いうシステムは資本家に集まるのは当然である、
そこで新資本主義の道徳はこう定義しよう
得に至る道、すなわち「道得」であり「道得教育」とは「儲けの為なら情け容赦なく完膚なきやれ!溺れている子犬には石をぶっつけろ」と言う事、
産官政は庶民から搾れるだけ絞り「それが正しい生き方」だと言う教育を推し進める
しかし、親父さんは政界のプリンス(プリンスメロンだとしても)言われていたが息子はとてもじゃないがプリンスではないな、
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