村の山は杉が植林されている所は少なく雑木林が多い、当時は未だ木炭が主流で定期的に炭焼をして町に持って行って売り、家計の足しにしていた、山の持ち主に「この山の此処から此処まで」と言う契約で生えている雑木を買うと都合の良い場所に炭焼釜をつくる。傾斜地を切り取って先ず釜の外側を壁を塗る要領で丸く囲う、大人が屈んで入れる程度だったから1m少々だったと思う、この中に炭にする為に伐った楢材を隙間無く立てて、更にその上に半球状に枝材を並べるとその上に土でドーム上に覆う、入口は閉じる事の出来るようにアプローチを作り正反対の場所に土管を立てて煙突にすると最初の火を入れる、火が点いたら1日位だったと思うが全体が燃え出すまで火の番をし、煙突から炎が見えてから暫くして入口に用意した石を立てると土で目張りをする、そのまま1昼夜置くと煙突の煙が徐々に白く薄くなって来る、炭の完成である。入口の石を外すと真っ黒になりながら親父が炭を取り出すと残りの家族が総出で売れる物を仕分け、此れも草取り山で取ってきた萱で作った炭俵に入れて行く、お袋とリヤカーに積み上げて市内まで「4里」と言われていたから約15~16㎞を引いて売りに行った。毎年同じ頃もって行くのでお得意さんが有った様だ、声を上げて売り歩いた記憶も有るが少なかった様な気がする、帰りは押したり乗ったりで帰って来たが町から家のある村までは標高差が200m位有ったから今考えると大変だったろうな、当時自分は小学校に行っていなかったので恐らく4~5歳位だったろう、
お袋は群馬の裕福な家に生まれたと聞いていたが中島飛行機の技術士だった親父と一緒になったが敗戦で疎開先で貧乏暮らしになって仕舞ったのだが愚痴をこぼすのを聞いた事が無かった気がする、もっとも自分が11歳の時に癌で死んだので上の弟妹達は聞いていたのかも知れない。結局死ぬまでに一度だけ故郷の伊勢崎に戻っただけだったが、あれからもう50年以上が過ぎて死んだ両親の年齢も超えてしまった。
お袋は群馬の裕福な家に生まれたと聞いていたが中島飛行機の技術士だった親父と一緒になったが敗戦で疎開先で貧乏暮らしになって仕舞ったのだが愚痴をこぼすのを聞いた事が無かった気がする、もっとも自分が11歳の時に癌で死んだので上の弟妹達は聞いていたのかも知れない。結局死ぬまでに一度だけ故郷の伊勢崎に戻っただけだったが、あれからもう50年以上が過ぎて死んだ両親の年齢も超えてしまった。
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