東京新聞より
先住民族の研究倫理指針を巡り、日本人類学会など研究者側とアイヌ・琉球民族が一堂に会す集会が14日、札幌市内であった。ただ、遺骨を「盗掘」したことへの謝罪はおろか、琉球民族を先住民族と認めない姿勢に研究者との溝は深まるばかり。世界では先住民族の自己決定権を重視した研究はもはや常識だ。世界の潮流と真逆の方向へひた走るこの国の「学問の自由」はこれでいいのか
日本人類学会と日本考古学協会は「謝罪は、謝罪すべき事項や範囲、立場などさまざまな意見がある」とし、「国の返還ガイドラインは慎重な議論を経て策定された」と見直しを否定。日本人類学会で東京大の近藤修准教授は「謝罪についてはそれなりに議論はしているが、過去の個人の行いに対して学会が責任を持つのかなど意見の相違がある」と否定し、日本考古学協会で東北大総合学術博物館の藤沢敦教授は「協会は1948年に発足した。自分たちの学会がなかった時代のことも謝罪するのはちょっと違う」と続いた。
一方、4月にすでに謝罪を表明した日本文化人類学会は、国のガイドラインの「改正に向けて努力する」と回答。九州大の太田好信名誉教授は「アイヌ民族の怒りが学問への拒絶反応を生み出しており、向き合わなければならない。3学会で統一見解をと思ったが、どうしてもできなかった」と述べ、他の2学会との違いを鮮明にした。
アイヌ民族と琉球民族の学問的研究と言う事に関しての記事だ
言い方は悪いが考古学と言う学問は学者の好奇心の延長戦にあるとしか評価できない
まともに向き合っているのは「文化人類学」だが名の通り「人類の文化」と言う研究は過去の事象から現在の文化や未来に対して何らかの貢献はあるだろう
しかし考古学は知的好奇心は満たすだろうしそれなりに人類或いは生命体がどのような経過を辿って現在を構成しているのかを研究する事はそれなりに意味はあるだろう
しかし、墓を暴いて頭蓋骨の容積を測定し、歯のすり減り具合を見て何を食べていたか調べる事が今後の社会にどんな貢献ができるか全くわからない
だから無駄な研究だと言う気は更々ない、更々無いが埋葬する、墓があると言う事はそこに生きて来た、いまだに生活を営んでいる人達、(民族と言う括り方はあまり好きではないので)独自の文化を生きている人達にとっては祖先に対する畏敬の念、そして固有文化に対する尊厳がある
学術の為なら人の尊厳など関係ない言わんばかりの発言だがもし敗戦後連合国側の研究機関が日本人の墓を掘り起こして大学の研究室で棚にタグを付けて保管されていたとしたら日本考古学会の先生方は「学術の為だから」と唯々諾々と納得するのだろうか
菊と刀と言う本でベネクトが「西洋では罪の文化で、日本は恥の文化」と書いている、未だ最後まで読み切っていないので決めつけるにはまだ少し早いかも知れないがその中で「恥の文化は他人の目を気にする文化」と書かれている様だ
しかし、日本人の恥の在り方は現象的には他人の眼かもしれないが其れは根本的に間違えている、
日本人の「恥」は自らの眼なのだ、そんな事をしている自分が恥ずかしいと言うのには「自分が他人を見て嫌だなと言う事を自分が行うのは恥だ」と言う事でそれには「人がどう言おうと」と言う事も含まれる
学術有識者であるこの方たちは「自分がその立場になったら」と言う一番大事な考えを持っていないのだろう
それが古来日本文化では禁忌だった「他人が嫌がる事をするのが面白い」と言う発想が育ち、虐めの考え方に結びついているのではないか
琉球の墓も同じような事をされている様だが日本が併合するまでは独立した王国で大陸台湾とも同等の国交があった国だ、
大英博物館も過去の過ちを謝罪して元の国に返還している、国際的には日本の文化と言うより考古学会は遅れている、菊と刀で分析された結論の「他人(他国)の眼」から見てもそれは「恥」だろう
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