梟の独り言

色々考える、しかし直ぐ忘れてしまう、書き留めておくには重過ぎる、徒然に思い付きを書いて置こうとはじめる

通勤途中で、やっと少し慣れてきた

2012-04-13 11:05:32 | ぶらり
自転車通勤にも慣れて来て少し写真を写す余裕が出て来た、今使っているコースに江戸時代の東海道が少しだけ入っている、本によっては別の場所が書かれているが最近になってこの通りに石碑が建てられた、
環七から池上通りの直ぐ北側に平行して走っている、そのまま西に向うと本門寺の表参道に出るので何処かから南に下がらなければ有名な梅屋敷には出ない、
まあ、其処はそれでそう思って歩く方が楽しめる、その環七から入ると直ぐ左側に神社があって「村社」と言う石碑が有る、いずれにしても古くからあるようだ、
此処に幾つかの桜が植わっていて前から写して置こうと思っていたのを今朝出勤途中で納めて来た、
若干時期を過ぎているのでくすんだ色合いになってきていたが満開を少しだけ通り過ぎた程度なので何とか収まった。
樹自体はまだ若い様だ、一般的な染井吉野は無い、枝垂れ桜にしては花の感じが違うような気がするが最近花の区別に自信がなくなって来た、みんな綺麗だからいいかと言う事にする。






もう一本枝垂れの木が有るが桃の花を八重にした感じがする、八重桜は時期がまだ早いしもっと大きく半球に咲くので違うだろう、八重桜の枝垂れと言うのは有ったのかな?



其処から少し離れた路地に白い花が咲いていて此方も気になっていたのだがなんとか開花中に収める事が出来た、此方もなんだか解らないが葉の感じでは柑橘系の様だが花自体はもう少し大きく派手な感じがする、

始め通過する時に感じたのは(花梨かな?)と言う印象だったが良く見ると違う、花梨の花は杏の花に似ている筈だ、
全体と季節では梨の花にもと思ったが此れも樹の形が全く違うし花ももう少し小さいはずだ、白い花弁は少し緑掛かった色をしていてこの花色は何処かで記憶があるが思い出せない、




いい季節だ、又少しづつ写してみようと思う

初春から本格的な春へ:林道の話

2012-04-12 17:31:32 | 雑記
甲府盆地に入るには甲州街道が一般的だが私は余りこの道を使うことは無い、
高速道路を使用する事意外は青梅街道か道志村を通る道を使う事が多い、今でこそ前線舗装の綺麗な道路になっているが30年位前は全くのダートだった、幅も狭く対向車が来るとかなり苦労する様な道だったが林道が好きだったのでこの道を良く通った、
相模湖から津久井湖に向うと右に折れて行くと一寸した高原の様な雰囲気の青野と言うところを通過し月夜野と言う場所に出る、狭い川沿いの道路だが所々にキャンプ場の入り口が有る、当然昔はこんな物は無かった、
山肌に沿った道が少し下がり気味になると小集落がある、この辺りは青梅街道で奥多摩湖を過ぎて丹波山村に入った所に雰囲気は似ている、川沿いに地物を売る店があったが最近は無くなった様だ、人家が増えて来て暫くすると何年か前に出来た「道の駅道志」がある、
道の駅の裏側は道志川でこの付近の桜は中々綺麗だが山肌の枯木の中の山桜の景色も中々良い、桜の少し前に躑躅に良く似た紫の花が林道の脇に良く咲いている事があるのだが花の大きさと形状が違う、樹もかなり背が高く葉が付いていない状態で咲くので躑躅ではないだろう、余り里に近い所では見ないが表富士から十里木に廻る道に咲いていた、
もう少し後になると林道の少し日当りの悪い所に背の低い玉紫陽花が見られるようになる、
正に「玉紫陽花」と言うのに相応しい綺麗な丸い蕾が付くが開くと余りぱっとしない、
しかし花の期間は長く林道を走っていると山紫陽花の下にひねたコスモスが咲いていたりする、林道は里ではあまり見ない植物が多く其れを見て歩くのも楽しみの一つだ
季節はもう少し後になるか、蔓の葉が白い班をつけているのはマタタビである、
山吹が林道を飾るのもそろそろだ、大田道灌の逸話にあるのは八重山吹だが私は普通の山吹が好きだ、都内の植込みにも良く咲いているが林道の斜面に張付いて咲いている鮮やかな黄色は見ごたえがある

初春から本格的な春へ:林道の話

2012-04-12 17:31:32 | 雑記
甲府盆地に入るには甲州街道が一般的だが私は余りこの道を使うことは無い、
高速道路を使用する事意外は青梅街道か道志村を通る道を使う事が多い、今でこそ前線舗装の綺麗な道路になっているが30年位前は全くのダートだった、幅も狭く対向車が来るとかなり苦労する様な道だったが林道が好きだったのでこの道を良く通った、
相模湖から津久井湖に向うと右に折れて行くと一寸した高原の様な雰囲気の青野と言うところを通過し月夜野と言う場所に出る、狭い川沿いの道路だが所々にキャンプ場の入り口が有る、当然昔はこんな物は無かった、
山肌に沿った道が少し下がり気味になると小集落がある、この辺りは青梅街道で奥多摩湖を過ぎて丹波山村に入った所に雰囲気は似ている、川沿いに地物を売る店があったが最近は無くなった様だ、人家が増えて来て暫くすると何年か前に出来た「道の駅道志」がある、
道の駅の裏側は道志川でこの付近の桜は中々綺麗だが山肌の枯木の中の山桜の景色も中々良い、桜の少し前に躑躅に良く似た紫の花が林道の脇に良く咲いている事があるのだが花の大きさと形状が違う、樹もかなり背が高く葉が付いていない状態で咲くので躑躅ではないだろう、余り里に近い所では見ないが表富士から十里木に廻る道に咲いていた、
もう少し後になると林道の少し日当りの悪い所に背の低い玉紫陽花が見られるようになる、
正に「玉紫陽花」と言うのに相応しい綺麗な丸い蕾が付くが開くと余りぱっとしない、
しかし花の期間は長く林道を走っていると山紫陽花の下にひねたコスモスが咲いていたりする、林道は里ではあまり見ない植物が多く其れを見て歩くのも楽しみの一つだ
季節はもう少し後になるか、蔓の葉が白い班をつけているのはマタタビである、
山吹が林道を飾るのもそろそろだ、大田道灌の逸話にあるのは八重山吹だが私は普通の山吹が好きだ、都内の植込みにも良く咲いているが林道の斜面に張付いて咲いている鮮やかな黄色は見ごたえがある

季節が変る頃、武蔵野国から甲斐の国へ

2012-04-11 13:57:07 | 旅行
やっと暖かくなって来た、お陰で神経痛もやや沈静して来た様だ、私は春先のこの時期と秋から冬に変る頃が好きだ、季節の変り目といった方がいいのかもしれない,
冬の間葉をすっかり落して枯れ枝の間を木枯らしが吹きぬける山がもう少し立つと全体にふわっとした感じになってくる、植林された杉の部分は暗緑色の布団を置いたような按配になっていた雑木林全体がうっすらと白味ががって来る、この時期までは山の地肌は直接枯葉の折敷いた地面だったのが梢の先に小さな葉の芽が全体に吹き出して来るので其れが霞を掛けたような、ふんわりと紗を置いた様な按配になる、
所々に少し緑が濃くなってきたと思うとその部分が膨らむように白い花を噴出す、山桜である。
山桜が終える頃里では薄桃色の染井吉野が咲き始める、染井吉野は山桜と違い先ず花が咲く、
そして盛大に吹雪くように散ると咲く前裸だった枝は新緑の葉に埋め尽くされる、
この頃になると里山の雑木林も白っぽい靄の様な色から明るい黄緑色に変ってくる、
1ヶ月程度で夏の濃い緑の山に変るまでの萌黄色と言う様な山の色が一番好きな季節となる、
東京から山梨に入るのは甲州街道と青梅街道、秩父から雁坂峠を越える秩父往還がある、
此処も駆り坂トンネルが出来てから走り易い道路となったが余り交通量は無い、
八王子ジャンクションから中央高速道路を西に向うとそう高くは無いが切り立つような山々が迫る、
小仏のトンネルまでの付近がこの時期に通ると実に気持ちの良い風景に合う、
左右、正面に立ち上がった山肌は冬の高さから少しだけ背が伸びる、小仏峠を抜けると相模湖だが自分はトンネルに入る手前の数キロが大好きな景色だ、
青梅街道を抜けて柳沢峠から塩山に下りる道路もこの時期に行くと素晴らしい新緑に合うことが出来る、特に丹波山村を過ぎてから柳澤峠までの小さな沢沿いの道路は背の低い潅木が殆どで枝の先がいっせいに小さな芽を吹き出している様は匂うような暖かさをかもし出してくれる、
大菩薩峠の稜線鞍部の柳沢峠を過ぎると道路は急激な下り九十九折である、こちら側はかなり樹盛は濃く車の直ぐ上に迫る、所々に針葉樹林も有るので暫くは薄暗い道路である、
道が開けると正面に甲府盆地が見える、この辺りまで来るとそろそろ葡萄畑も見え始める、
昔は養蚕が盛んだったそうで古い家は大きな屋根に空気抜きの戸屋根が乗った趣の有る家々だが昭和時代には茅葺屋根だった物は今はトタンで覆われて銀色に光っている、私は静岡の育ちなので銀色に光るトタン屋根は見た事が無い、海近くだと直ぐ錆びてしまうのでペンキが塗られている、私の子供の自分はペンキではなく「コールタール」が殆どで固まるのに時間が掛かるので隅にツララの様にタールが垂れ下がり、下の土にもたまりが出来ていたものである。
近くに裂石温泉があるが最近は日帰り温泉が出来ていた、かなり昔裂石温泉に泊まった事が有るが直ぐ脇を小川が流れていて急流の音がしていて下戸の友人が「煩くて寝られなかった」と言っタ事を思い出した
彼以外はしこたま飲んでいたので川の音なぞまるっきり気にならなかったのだが確かにせせらぎとは言えない「瀑布」の音では有ったな

民主党では無い!官主党だろう

2012-04-08 08:00:12 | 雑記
大飯原発再開の記事を読んだ、この中に反対派の住民が「同意ではなく理解を求めると言うのはようするに納得出来ない事を納得しろと言う事だ」と言う発言が乗っていた。
政府は住民の「同意」は必要ない、と言う事を鮮明にしたと言う事だ、再稼働に関する政府の発言はぶれると言うより稼働を前提に変更されていると言う事だろう
安全性が確認されて居ない、国民の同意は得られていない状況で何故「再稼働ありき」に政策が方針変更して来たのか、政府は民を見ないで経済界と官僚の方しか見なくなったと言う事の表れだと言われても仕方ないだろう
別の記事に元派遣村村長だった湯浅誠氏の話が載っていた、彼曰く「霞が関の二年間は文化も言語も知らない外国で生活している様な物でした」と有った、この状況が今の日本の病巣その物を表している、1億2千万人を統べる国家官僚機構が一般人からすると文化も言語も違う異人種たとしたら国民に良い訳は無い
言語は通訳が居ればお互いの努力で何とかなるが文化意識が違うと言う事は致命的だ、
しかし彼らは同じ日本人で同じ文化を共有して来た筈だ、少なくとも数10年前まではそうだった事は間違いないだろう、何時から官僚機構はこんなに国民から掛け離れてしまったのか。ロシア革命が起きて労働者の国になった筈が共産党書記と言う官僚機構になって結果的に1世紀も持たないで崩壊したが日本の官僚は一見民主的な機構で成り立っているように思えるが結局その実務能力を質にとって政府までコントロールして強大な官僚機構となってしまった
三権分立も殆ど意味をなさなくなっている現在の国の在り方を修正する必要があるがどうしたらよいか解らない、
野田政府になって民主党は全く国民の方向を見なくなった、街を走る党の車を見るたびに「民主党ではなく官主党じゃないか」と思う様になった