私の生まれた家の直ぐ裏には竹薮になっていた、元々屋敷跡だったと言う事で1.5m位の石垣があって凡そ50坪程度の平らな土地で、その奥も屋敷跡だったが此方は大きな杉の木が植わっていた。
竹薮は多分「破竹」という種類で親父は「ハチコウ」と読んでいたが村でそう読んでいたのか親父の洒落だったのか解らない。
背丈は10m近くなるが太さは根本で5~6cm程度、節間は15~16cm程度だ、密生して生えるのと根張りが強いので竹林の中は余り他の植物は生えていない、
エビネ蘭とシャガ、熊谷草に千両が生える程度で一面に枯れた笹の葉が敷き詰められている、此れは孟宗の竹薮も同じだが此方は枝の生え始まりがかなり上の方なのでもう少し明るい、
幹は竹箒の柄に、小枝は掃く部分になる、枝の部分はこの辺りでは「よどろ」と呼んでいたが方言かも知れない、
小枝を集めて加工工場に持ってゆくと小銭を呉れる、重さで貰っていた筈だが大体二抱え位の束に纏まると背負って県道まで持って行きそこから先は転がして行く、
今行って見ても殆ど車は走っていないが当時は更に来ない、1時間に一度の路線バス以外の自動車と言う物は来ないので安心して2つも3つも転がしてゆく、たしか1つで80円程度だったと思うが貨幣価値からすると結構な稼ぎだった、
竹薮は我が家の納戸になっている6畳間の上まで覆い被さるように伸びている、後から親父が増築した部分だから天井板は無く直接杉の皮で葺いてあったが雨漏りがし始めて全体を波板トタンで覆ったのだが上に枯れ笹が落ちてきて風が吹くとさらさらと音を立てて移動する、田舎の夜は静かなのである、
ハチコウの竹林は村を流れる川岸で増水すると必ず水没するような低地には殆ど生えていた、しかし水田や畑を守るように作られた土手に生えているのは篠竹である、恐らく土を盛り上げただけの堤を補強する為に人為的に植えられたのだろう、これは川が市内の先で他の川に合流するまで延々と続いていた、この藪の周りには必ず彼岸花が生えていて春秋に真っ赤な花を咲かせていた。
篠竹林は川が大きく曲がる内側でかなりの幅広の竹林になる、背の高さは精々3m程度までだが直径が1cmも無い笹竹は全く向うが見えないほど密生して生える、余談だが此れが「見通しが利かない」と言う意味で藪医者と言う例えになったらしい。
小学校の頃この竹薮を上手に刳り貫いて真ん中辺りを切った笹竹を折りしいてその上に筵を敷いて隠れ家にしたと言う思い出がある、周囲は密生した笹竹で空が丸く見える格好の隠れ家だったが一体誰と入ったのか思い出さない、此処で漫画を読んだりしていたのだが若しかすると自分だけだったかもしれない、
家の裏の石垣には中央付近に半分は石垣に埋もれる様に井戸が有った、この井戸の正面になる様に刎ね出した屋根が有って勝手口が付いていた、当時では村中どの家庭も水道などは無い、井戸から小ぶりのバケツで流しの脇に置いた大バケツに水を入れておいて此れで調理する、
井戸口から土間に入ると左手に此れも親父手作りの竈があった、二つ口で高さは精々50cm程度だったと思う、竈「かまど」とは言わないで「ヘッツイ」と言っていたが変換すると同じ字が出るので同じ物なんだな、きっと、
お袋が死んで親父と2人の生活になった頃親父が「石油コンロ」を買ってきた、石油ストーブと七輪のアイノコの様なこの道具は実に便利でそれ以後竃に火を入れる事は無くなった。
それでも風呂は木製の風呂桶で焚くのは臍釜なので薪割りの仕事は村を出るまで続いた、暗闇の中で小さな臍釜に薪をくべながらぼんやりとしている時間は結構好きだった、
その頃近所の多分3歳か4歳の女の子が来て釜焚きをしている自分の足の間に座って自分の親が帰るまで一緒に居たのを思い出す、何の話をしたのか覚えていないが暫く毎日来ていた、
寒くなった頃夕飯を三畳間で取るのが如何にせん寒い、暖房は囲炉裏か火鉢である、そこで一計を講じて火鉢の上に乗せられる矢倉を端材でつくりその上に古い掛け布団を乗せてコタツ代わりを作った、
親父も「此れは良いな」と言ってくれたのだが少々背が低すぎたらしい、端材の板が焦げて煙が出てきたのは驚いた、中学の3年間はこんな風に親父と暮らしたのだがあまり苦労していると言う意識はなかったな、廻りは廻り、家は家と考えていたし友達も生活の差を感じさせる様な奴らは殆ど居なかった、その代りと言っては変だが同情する奴も大変だろうと言う奴も居なかった、あいつは忙しいから遊びにいけないと言う程度の認識だったと思う、まあそう言う意味では良い奴らだった
竹薮は多分「破竹」という種類で親父は「ハチコウ」と読んでいたが村でそう読んでいたのか親父の洒落だったのか解らない。
背丈は10m近くなるが太さは根本で5~6cm程度、節間は15~16cm程度だ、密生して生えるのと根張りが強いので竹林の中は余り他の植物は生えていない、
エビネ蘭とシャガ、熊谷草に千両が生える程度で一面に枯れた笹の葉が敷き詰められている、此れは孟宗の竹薮も同じだが此方は枝の生え始まりがかなり上の方なのでもう少し明るい、
幹は竹箒の柄に、小枝は掃く部分になる、枝の部分はこの辺りでは「よどろ」と呼んでいたが方言かも知れない、
小枝を集めて加工工場に持ってゆくと小銭を呉れる、重さで貰っていた筈だが大体二抱え位の束に纏まると背負って県道まで持って行きそこから先は転がして行く、
今行って見ても殆ど車は走っていないが当時は更に来ない、1時間に一度の路線バス以外の自動車と言う物は来ないので安心して2つも3つも転がしてゆく、たしか1つで80円程度だったと思うが貨幣価値からすると結構な稼ぎだった、
竹薮は我が家の納戸になっている6畳間の上まで覆い被さるように伸びている、後から親父が増築した部分だから天井板は無く直接杉の皮で葺いてあったが雨漏りがし始めて全体を波板トタンで覆ったのだが上に枯れ笹が落ちてきて風が吹くとさらさらと音を立てて移動する、田舎の夜は静かなのである、
ハチコウの竹林は村を流れる川岸で増水すると必ず水没するような低地には殆ど生えていた、しかし水田や畑を守るように作られた土手に生えているのは篠竹である、恐らく土を盛り上げただけの堤を補強する為に人為的に植えられたのだろう、これは川が市内の先で他の川に合流するまで延々と続いていた、この藪の周りには必ず彼岸花が生えていて春秋に真っ赤な花を咲かせていた。
篠竹林は川が大きく曲がる内側でかなりの幅広の竹林になる、背の高さは精々3m程度までだが直径が1cmも無い笹竹は全く向うが見えないほど密生して生える、余談だが此れが「見通しが利かない」と言う意味で藪医者と言う例えになったらしい。
小学校の頃この竹薮を上手に刳り貫いて真ん中辺りを切った笹竹を折りしいてその上に筵を敷いて隠れ家にしたと言う思い出がある、周囲は密生した笹竹で空が丸く見える格好の隠れ家だったが一体誰と入ったのか思い出さない、此処で漫画を読んだりしていたのだが若しかすると自分だけだったかもしれない、
家の裏の石垣には中央付近に半分は石垣に埋もれる様に井戸が有った、この井戸の正面になる様に刎ね出した屋根が有って勝手口が付いていた、当時では村中どの家庭も水道などは無い、井戸から小ぶりのバケツで流しの脇に置いた大バケツに水を入れておいて此れで調理する、
井戸口から土間に入ると左手に此れも親父手作りの竈があった、二つ口で高さは精々50cm程度だったと思う、竈「かまど」とは言わないで「ヘッツイ」と言っていたが変換すると同じ字が出るので同じ物なんだな、きっと、
お袋が死んで親父と2人の生活になった頃親父が「石油コンロ」を買ってきた、石油ストーブと七輪のアイノコの様なこの道具は実に便利でそれ以後竃に火を入れる事は無くなった。
それでも風呂は木製の風呂桶で焚くのは臍釜なので薪割りの仕事は村を出るまで続いた、暗闇の中で小さな臍釜に薪をくべながらぼんやりとしている時間は結構好きだった、
その頃近所の多分3歳か4歳の女の子が来て釜焚きをしている自分の足の間に座って自分の親が帰るまで一緒に居たのを思い出す、何の話をしたのか覚えていないが暫く毎日来ていた、
寒くなった頃夕飯を三畳間で取るのが如何にせん寒い、暖房は囲炉裏か火鉢である、そこで一計を講じて火鉢の上に乗せられる矢倉を端材でつくりその上に古い掛け布団を乗せてコタツ代わりを作った、
親父も「此れは良いな」と言ってくれたのだが少々背が低すぎたらしい、端材の板が焦げて煙が出てきたのは驚いた、中学の3年間はこんな風に親父と暮らしたのだがあまり苦労していると言う意識はなかったな、廻りは廻り、家は家と考えていたし友達も生活の差を感じさせる様な奴らは殆ど居なかった、その代りと言っては変だが同情する奴も大変だろうと言う奴も居なかった、あいつは忙しいから遊びにいけないと言う程度の認識だったと思う、まあそう言う意味では良い奴らだった