河口公男の絵画:元国立西洋美術館保存修復研究員の絵画への理解はどの様なものだったか?

油彩画の修復家として、専門は北方ルネッサンス絵画、特に初期フランドル絵画を学んできた経験の集大成を試みる

一休み

2016-09-11 17:29:00 | 絵画
先日、立て続けにブログを更新しようと新しい記事「写真的な絵画」と「技法について」を書いていたら、どちらとも作業中に飛んでどこかへ行ってしまった。
少しくたびれて、またやる気を起こすまで一休み。

3.絵画の概念と作者の選択

2016-09-01 08:39:51 | 絵画
2の項で、日本人の描く絵画作品が皆似ていると述べたが、周囲を見て制作する人はまずプロではない。趣味人である。上野で毎年開催される団体展に出品のたびに「今年は何を描いて出品しようか」と悩む人も趣味人である。出品料を払って、団体展の運営をサポートする参加者で、それを楽しみにしているのだろう。
他人の真似が結果として、モチーフが同じ、描き方が同じ、レベルが同じ。要するに絵を描くことはそういうものだと、狭い概念に落ち着いて、自分が最も楽な状況でいようとしているのではなかろうか?

しかし会員という立場の人にも「今年は何にしようか・・・」という人も見受けられる。二紀展で仏像を写真のように克明に描いた作品があった。間違いなく写真を写したのであろう。写真は創造性を失わせると19世紀の半ばに写真が流行って、制作に便利であると写真を参考にしたドラクロアやアングルも、その問題点は指摘している。しかし具象画家としての在り方を問わなくなって、写真を撮ってきて参考にするどころか、そのまま写す者も現代には増えている。写真製版、シルクスクリーンなどの技法を油彩画のみならず日本画のジャンルにも用いる者もいるから、手軽な制作技法のひとつとして考えているのだろう。しばしば技法に魅力を感じると、それに快感を感じて、当分の間飽きるまで繰り返しやってみるのは不思議ではない。しかしそれが目的化するとおかしい。

常に制作が持続することは実は大変難しい。
画家として描き続けるには、モチベーションとなる「表現したいイメージの世界」が個人的に必要で、誰が何を言おうが、どのような批判を受けようがびくともしない自己満足の塊の自分が必要である。そして描き続けているうちに「表現の様式」が生まれ、「手段」となる。これに個人的な趣味趣向が入り、他者との違いが生まれる。
同時代を生きたレンブラント、リューベンス、ヴェラスケスこの三人は同じかに座のバロックの巨匠である。星占いの共通点は見つからないでもないが、生まれた環境、育ちの違いもさることながら、基本は教えを受けた師匠の影響のほうが大きく影響している。三人三様の表現様式の違いは、それらの「高い完成度」によって我々を魅了している。
い完成度」を作り出していて、これこそ私が「絵画性」と呼ぶ平面に形作られた虚構の状態なのだ。
この言葉は別に具象絵画だけに当てはまる言葉ではない。


すぐれた作品を歴史の中で残した巨匠たちの制作目的は明らかだ。平面の中に虚構を構築する完成度の高さこそが求める結果だった。「作品としての完成度」が毎回制作のたびに積み重ねられれば、さらなる高みに望みが見えてくる。描き重ねていくと次第に絵画の中の世界に生きてい居る錯覚さえ覚えるのが、画家の人生だろう。




2.絵画の概念と作家の選択

2016-09-01 02:20:18 | 絵画
1980年代に上野の東京都立美術館で開催された団体展に出品した自称作家たちは40万人からいたといわれた。出品料を払えばだれも参加できるわけだが、その数に身を引いてしまう。あれからその数はずいぶん減ってしまったと思うが、大半の人が絵画作品を出品し、制作方法が素人には難しい彫刻は僅かである。この団体展を見たことがある人は多かれ少なかれ感じ取ったと思うけれど、どれも似たような作品が多いのに退屈しなかったであろうか?
ここにわが国独自の特徴が見て取れる。日ごろから集団の価値観を大切にし、皆と同じことを考え、同じことをするのが当たり前だと考えている国民性は、周りの誰かがやっていることを真似したがる。そうすることで安心して、自分は間違わないと思うのだろう。
しかし真似といっても、古典の巨匠の作風を真似るわけではない。どうしてだろうか?
古典の巨匠の作品と現代作品のレベルを比較すれば、明らかだが古典の巨匠たちの時代は「力量が第一」で、お金を稼げること、つまり当時の金持ちや権力者から注文が来なければ絵具もけ買うことが出来なかったし、生活は無論できなかった。「無いものを在るがごときにする」能力が直接の収入に影響したのだから、今日のように何かの職業で得た収入で大きなキャンヴァスや絵具が簡単に買えるような状況はなかったわけで、厳しさの中で出来上がった美術界だった。その作家たちの力量は具象画を描くにも「デッサン力」が最も大切だった。私が美大を受験したころは石膏デッサンが試験されたが、この石膏デッサンがうまく描けた程度の力量ではない。石膏デッサンは「在るものを在るがごときに描く」能力であって、誰もができる、つまり集団の価値観の中から一歩も出ることが出来ない状況にいる。
デッサン力は「個人性の造形力」で、作り上げていく力であるから、目の前にあるものを右から左に写すのではなく、感性で説得できる何かを付け加えていかねばならない。そうすると一旦、これまで学んで身についてしまった石膏デッサン的な感じ方の殻を破らなければならなくなる。これが意外と難しいが、巨匠のデッサンを多く見て、真似をして学び、ある日、突然感性が変わっていくのを経験するほかない。

静物画が盛んに描かれ始めた17世紀には、静物画というのはキリスト教やギリシャ神話をテーマとした作品や肖像画と比べて、価値の低いものとして扱われた。物を台の上において描く行為は難しい人物や物語を描くのと比べると、その前の「練習」のように評価されたのである。
物語を作り上げて、登場人物を生き生きと存在させるのと比べると、机の上の静物画は確かに「見える通りに描く」行為に近い。
確かにデッサン力も限定的で十分だといえるだろう。

しかし現代の静物画や人物画を見てもらいたい。何とも写真的に描く人が多いことか。在るものを在るがごときに描くところから何一つ進歩しないところで、静物画や人物画が終わっているのである。しかも皆が皆、同じような作品になってしまうので面白くもなんともない。写真的に描く能力は誰にでも身に着けられる能力で、ピアノが楽譜通りに弾けるというのと同じで特段優れたことではないが、技術力が優れた作品と勘違いされる。確かにそこには物があるように錯覚する存在感はある。しかしこれは絵画ではない。写真で代用できるのだから。わざわざ描いて見せる必要がないということだ。
現代具象絵画の行き詰った状況がここにある。
特に写真的に克明に描くことで行き着いたと思っている人たちは、確かに古典の巨匠たちの影響を受けなかった人たちだろう。
影響を受けることが怖かったのだろうか?
だが、巨匠たちの影響を受けることは、周りにいる人たち程度の影響を受けるよりはマシであったであろう。

何事も人の影響を受けずに、新しく物を作り出せる人はいない。
芸術でも科学やビジネスであっても同じだ。
聖書にも書いてある、「陽の元に新しきはなし」と。