2の項で、日本人の描く絵画作品が皆似ていると述べたが、周囲を見て制作する人はまずプロではない。趣味人である。上野で毎年開催される団体展に出品のたびに「今年は何を描いて出品しようか」と悩む人も趣味人である。出品料を払って、団体展の運営をサポートする参加者で、それを楽しみにしているのだろう。
他人の真似が結果として、モチーフが同じ、描き方が同じ、レベルが同じ。要するに絵を描くことはそういうものだと、狭い概念に落ち着いて、自分が最も楽な状況でいようとしているのではなかろうか?
しかし会員という立場の人にも「今年は何にしようか・・・」という人も見受けられる。二紀展で仏像を写真のように克明に描いた作品があった。間違いなく写真を写したのであろう。写真は創造性を失わせると19世紀の半ばに写真が流行って、制作に便利であると写真を参考にしたドラクロアやアングルも、その問題点は指摘している。しかし具象画家としての在り方を問わなくなって、写真を撮ってきて参考にするどころか、そのまま写す者も現代には増えている。写真製版、シルクスクリーンなどの技法を油彩画のみならず日本画のジャンルにも用いる者もいるから、手軽な制作技法のひとつとして考えているのだろう。しばしば技法に魅力を感じると、それに快感を感じて、当分の間飽きるまで繰り返しやってみるのは不思議ではない。しかしそれが目的化するとおかしい。
常に制作が持続することは実は大変難しい。
画家として描き続けるには、モチベーションとなる「表現したいイメージの世界」が個人的に必要で、誰が何を言おうが、どのような批判を受けようがびくともしない自己満足の塊の自分が必要である。そして描き続けているうちに「表現の様式」が生まれ、「手段」となる。これに個人的な趣味趣向が入り、他者との違いが生まれる。
同時代を生きたレンブラント、リューベンス、ヴェラスケスこの三人は同じかに座のバロックの巨匠である。星占いの共通点は見つからないでもないが、生まれた環境、育ちの違いもさることながら、基本は教えを受けた師匠の影響のほうが大きく影響している。三人三様の表現様式の違いは、それらの「高い完成度」によって我々を魅了している。
い完成度」を作り出していて、これこそ私が「絵画性」と呼ぶ平面に形作られた虚構の状態なのだ。
この言葉は別に具象絵画だけに当てはまる言葉ではない。
すぐれた作品を歴史の中で残した巨匠たちの制作目的は明らかだ。平面の中に虚構を構築する完成度の高さこそが求める結果だった。「作品としての完成度」が毎回制作のたびに積み重ねられれば、さらなる高みに望みが見えてくる。描き重ねていくと次第に絵画の中の世界に生きてい居る錯覚さえ覚えるのが、画家の人生だろう。