実はNHK総合は受信できないので、教育テレビを見ることができる。その中でも日曜美術館はめったに見ないけど、「天使か悪魔か?白井晟一」という奇妙な題名に魅かれて録画しておいた。最期まで見ると題名に隠されたNHKの視点が理解できる。彼の展覧会が渋谷の松涛美術館(渋谷東急デパートを上がっていくとすぐそこ)で今彼の業績を紹介する展覧会が開かれている。松涛美術館の建物は彼の設計だそうだ。
今日多くの有名建築家は巨匠として崇められ、何か建築芸術とか絶対的な建築基準のように扱われている。例えば丹下健三とか黒川、安藤とか、もう不滅の評価を受けていると言えるかもしれない。
現代の美術の基準を語る者はやたら観念的な世界から感想を述べる.装飾語がやたらポンポンと羅列されて、意味が良く分からないが。しかし実際を見ているのか、「物」を見ているのか。いつも言うことであるが「芸術とは何か」ということには触れないで。
そこで、1994年に西洋美術館が前庭の地下に展示室を作ろうと議論を始めた時の話をしよう。西洋美術館はメインの松方コレクションを昭和34年に敵性財産として取り上げられていたフランスにあった松方コレクションをフランス政府から「寄贈」をうけ・・・元より個人の財産であり日本国の財産ではないが、国際条約違反にも拘らず取り上げられていた・・・フランス美術を紹介するという名目で返還されたのである。日本人は「返還」と、フランス人は「寄贈」という・・・。その主たるコレクションはフランス近代美術である印象派が主体となっている。西洋美術館開館当初はルコルビジエ設計とされる本館に庭にロダンの彫刻、エンタランスにもロダン作品を主に屋内彫刻を展示してきたが、国立の使命として教育的配慮からコレクションの地方での公開が求められ、地方巡回展を年に一か所開催した。しかし「西洋美術館」の所蔵品の内容からして「西洋美術」を名乗るほどに充実している訳でもなく、近代美術だけでなくルネッサンスや近世まで広げて収集することが始まった。当然のこと本館の展示室だけでは展示空間は不十分で新館建設となった。新館が出来たのは1970年代で、私がドイツから帰国した時にはもうそこにあった。本館とは全く外観の調和がとれない緑色のタイルブロックを重ねた合理性を感じない建物であった。これを設計したのは前川設計事務所で、本館建設当初、コルビジエの教え子で会った板倉が本館の基本設計に基づいて図面お越しを補助した前川が板倉亡きあとに西洋美術館の建築の専門家のように認められたのであり・・・・新館の外観や施設設備に不適切が散見されたのは仕方がなかったのか?
いずれにせよ問題は建築家がどこまで美術館の存在意義や機能を理解して設計してきたかである。当の学芸員たちはこの新館で常設コレクション展と企画展を20年以上に渡り実施してきて、その使い勝手の悪さに辟易してきたのである。この建物の外光を取り込む照明のコンセプトは、屋上がガラス張りでその下の天井にその明かりを取り込む丸い穴が開いており、カメラのシャッターのような開閉が出来るようになっている。曇りの日には外光は不十分で、180ルックス以下になると人工照明がつくシステムであるが、実際は言葉通りではない。天井の小さな穴から直線的に入光するシステムでは光は「不快な波長」のみ入って来る。それで不足分を補うための照明に昼光色とされる白熱灯を点灯するシステムで、もしいきなり展示室で鑑賞している時にバーンと明かりがついたら、今まで感じていた印象派の色彩は何であったのか、いや古典絵画でもそれらが描かれた環境からほど遠い条件に展示室が変わるのである。これが前川設計事務所の売りであったようで、実際の問題が議論されずに前川の当時の責任者は我々に鼻高々に威張って見せた。
この天井の穴にはガラスなどの遮蔽はなく、シャッターのみである。この上の階に上がってみると天井は温室状態で、いきなり汗が噴き出る状態であった。ここには換気扇もなく、もし換気すれば展示室からの空調された空気は吸い出されてしまう。だからそれに気が付いてシャッター部分にアクリル透明板を設置した。
こうした空調の問題は哀れであった。運営資金不足から入館者があるときだけ空調して、美術品の保存環境は無視されていたのである。私が帰国した82年には8時間空調が日本中でまかり通っていた。だが欧米から作品を借用して行う企画展はそういう訳にはいかない。ある時、貸し出し相手から要求された施設概要に記入する数値をごまかしていたら、相手から貸し出された作品の額の裏にデータロガー(温湿度を自動的に記録する小さな機器)が着けてあったのである。東京の秋に台風が押し寄せる9月は「芸術の秋」とばかりに展覧会だらけであるが、「こっぴどいお叱り」を受けて、24時間空調が議論されたが、8時間が24時間になると費用も3倍であろうと思ったら・・・実は20%増し程度であった。なぜ最初からそうしなかったのか、庶務の官僚的発想がそこにあったし、学芸員の無知も原因だった。こうした問題を新館、本館と少しづつ解決しなければならなかった。そのために私が任官した時には「空調委員会」とか有識者を呼んで会議を行ったが、大金が動くときにはたかりの様な者まで登場して、私自ら会議を解散させた。
色んな意味で新館の施設設備に尾を引く問題があり、少しは学芸員の意識も変わり始めていた。そこにさらに企画展示を行う空間として新たな場所が必要であるという意識が生まれた。しかし西洋美術館の土地は狭く、建蔽率は一杯に使ってしまっていて建てられる場所と言えば・・・地下しかない。もし地下に作るとしたらどのような建物が可能か?今ある新館本館との関係はどうなるのかなど、使う側の要望はこれまで不満だった新館展示室からの教訓は解き放たられような事件が起きた。
地下に建設しなければならない「企画展示館」構想は少なくとも既設の新館や本館と繋ぎ合わせる基本で学芸課内でも合意しており、一級建築士の資格のある庶務課の施設係が簡単なプロットを作ってくれた。これが優れものとは言わないまでも、基本的なアイデアが含まれていたので、建築関係者で最初の会議を始めるにあたり提出したのであるが。
これを建築会議の冒頭で、こちらが呼んだわけでもない前川建築事務所の永田(新館建設の責任者で天井光を誇った男)が建設省関東地方建設局(通称、関東地建)の部長、当館メンバー庶務課長、学芸課長、学芸課員、プロットを作った施設係長の前で、机の上に放り出し「こんなものは何もならない!!」と言い放ったのである。
私は瞬間湯沸かし器の様な性格だから「こんなものとはなんだ!!」と怒鳴った。そして「あんたたちは自分たちを芸術家だと思っているのか・・・ちがうだろ!!建築やなんだよ!!」と怒鳴ったのだ。元よりこの永田に対してはムカついていた若い学芸員越川が一番槍を挙げて、私の右隣りから立ち上がり、座っていたパイプ椅子をガチャンと蹴って席を後にした。それに負けじと左隣に座っていた幸福が「やっちゃいられない!!」と立ち上がり部屋の出口に向かった。私も遅れてはならじと立ち上がり出て行った。椅子は蹴らなかったが・・・。さすがに学芸課長の雪山は相手に礼を尽くして出て行かなかった。
これで会議は良い始まり方をしたと思う。言うべきことは言っておかないとまたやりたい放題にやられるというのが学芸課の認識だったから。関東地建の部長は会議がつぶれて「いやー!お宅の若い人たちは元気ですねー!」と一言課長に言って帰ったそうな。
建築家というのは関東地建の担当者も丸投げして公共建築の新たな建設には会議で座っているだけで何もしない。丸投げなのである。そして建築家として威張っている者は世界でどの様な美術館基準が議論されているか、いや実際に実現されている環境条件を学んでいないのは全く許せないことである。
その後も建築会議でおそ松が露呈。私が要求した予算配分で「展示室は空調を温度22度、湿度53%の恒温恒湿にしてほしい」と言えば、建設省の担当者は温度は26度が基準で予算建てしてある」と言うから「欧米から借用する美術品に要求される温度湿度であり、これでなければ企画展示は実現しない。貴方たちは西洋美術館をつぶす気か!!」と怒ったり、まあ色々あったね。結局最後は前川の連中に仕返しされた・・・修復室の北側の窓は床から始まるように要望してあったのに、腰から始まる。空調は給気配管が天井むき出しに出ている。さらに排気配管は扉に隣接してあるとか・・・・めちゃくちゃにされた。これが前川建築事務所である。展示室内もひどい有様で、私が空調予算を食ったから内装は安普請でやるしかなかったとか言う。そのくせ展示室空調で口を酸っぱくして要求した災害時の予備の「熱源:ヒートポンプ」であるが、何とこれがメインの空調システムと繋がっていなかった。
私はただの絵画修復家である。こいつにこんなにボロクソに言われていいのか!!??
ここで話を白井晟一の建築に戻そう。
彼の業績を松涛美術館で展示公開しているそうだが、建築家の所業は私は疑う。松涛美術館を見学した時に展示室がなんと深く谷間に作られ、展示室が下から吹き抜け状態になっている。そして一番下には噴水があった。これはどこかで見たことがある。ニュウーヨーク近代美術館(通称:グーゲンハイム美術館)である。入り口は下で上ではない。その下の階の展示室に上がる上り口に「これはナニ」というような小さな噴水があった(現在は使ていないが)。そしてらせん状に上りながら作品を鑑賞するのである。床は斜めであり。壁はゆっくりカーブしている。三半規管の反応に逆らって鑑賞しなくてはならない。私はムカついた!
これが美術館建築としてその現代的な造りが多くの書籍で紹介されていたグーゲンハイムである。この吹き抜け構造はいろんな建築家が模倣している。サンフランシスコ現代美術館を設計した確か黒川紀章の設計も下から上へ突き抜けている。この構造でどれほど空調が乱れるか理解しないのである。空調はないに等しい。
NHK教育の日曜美術館のこの「天使か悪魔か?白井晟一」はある種の建築家としての彼の「美学?」からくる独自の建築物に対する肌合いとか感性を紹介する中で、彼が無視した利用者の生活感を挙げている。番組の終わりの方で雪国のある民家を設計して、ここに今も住んでいる人の感想を映している。住人は「設計するとき、ここが雪国だって知らなかったんだね」と一言。他の生活空間とつながる軒下の吹き抜けは雪が舞い込み、そのままでは寒くて困るから、今はガラス張りのサッシで覆われている。
もし病院で病室から処置室まで一気に移動できるように扉の幅、廊下やエレベーターなどが配慮されていなかったら「人殺し」になるだろう。
「建築は一体誰のものだろう」という問いに反発した白井晟一。TVに映る彼のプロフィールは少なくとも私よりハンサムでかっこいいし、知的に見える・・・まけるね。NHK教育は良い所に目を付けた。
すみません長々書きました。
ああ、もう一言。横浜市立美術館に行ったことがありますか?がらんとした大きな空間はどうしてこんな建築になったのか? 確か丹下建築設計事務所の作品(?)。私の上司だった雪山氏が館長で「一度見に来て欲しい」と言う話で、見学に行ったら・・・これは大変だった。がらんとしている空間はパリのオルセ美術館を参考にしたと聞いた。本当に無能な連中だ。オルセ美術館は元は鉄道のターミナル・オルセ駅の駅舎を美術館に改装したものである。しかも保存修復に関心や知識のない学芸員がわんさこいる国だ。空調や照明など美術作品を展示する環境に無知であり、駅舎に空調は不可能に近い。しかもどこにもパーテーションがない。それを真似た横浜市立美術館はこのパーテンションの無いところまで模倣したのである。つまり恒温恒湿など無縁である。その元はこの空調は第三セクターの会社が美術館外から公共建築に配給しているというから、美術館用ではない。新しい試みをやってみた・・・ということらしい。こりゃ美術館とは言えないよ。招待してくれた雪山氏は帰りに中華街で行きつけの料理をごちそうしてくれた。しかし一言「あんた不幸だよ」。
さらにおまけに言うと今私の住む浜田市の浜田市立世界こども美術館の建物もグーゲンハイムの斜め展示室が採用されている。車いすの障碍者の気持ちに慣れよと言いたい。
設計者のコンセプトでは海の町の「波」を意識したものだそうな。建築屋というのは本当にプロとしての基準が自己中で困る。私が西洋美術館の貸し出し審査担当であるとき、作品の借用願いが届いたが、一発で断った。空調もまともでもないし、民法では、他人からものを借りる時には自分の物と同じように大事に扱わなければならないという条項があるが、出鱈目な保存環境で同じように扱いますと言われても・・・ダメでしょう。