河口公男の絵画:元国立西洋美術館保存修復研究員の絵画への理解はどの様なものだったか?

油彩画の修復家として、専門は北方ルネッサンス絵画、特に初期フランドル絵画を学んできた経験の集大成を試みる

チョビが戻ってきた

2022-01-29 20:59:40 | 絵画

チョビは猫である。5年ぐらい前に母屋の隣に立てた作業倉庫でゴソゴソ整理をしている時にひょいと顔を見せてやって来た迷い野良であった。全体に白い毛の猫であるが、鼻の周りに薄茶の模様があって、仏像のお釈迦様にあるチョビ髭を思わす顔に、瞬間的に「チョビ」と呼んで・・・まるで我が家の猫のように・・・・しかし性格は朴訥(ぼくとつ:論語から:質朴で無口なこと)であり・・・そおっとやって来て、いつの間にか家に上がり込んできていた。食べ物が目当てであることは分かった。25匹ばかりいた他の猫たちとケンカする訳でもなく、またイジメるわけでもなく大人しいネコであった。ちゃんと去勢をしてやって我が家に永くいることになった。

一昨年、コロナが始まった頃、我が家でも多くの猫たちが死に始めた。何か猫たちの感染症がこの浜田で流行って年間で15匹亡くなった。その中の一匹にこのチョビが数えられたのである。我が家で一番太っていた「デブ」と一緒に居なくなったのでてっきり死んだと理解した。我が家の猫の数は激減して、9匹にまでなった。それから一年半ぐらいしたある日。隣の水産高校のN先生(中村先生)が来られた時、また新しい白いネコがやって来たと思って・・・・それにしても馴れ馴れしくこだわりもなく家に上がってきた猫をよく見て、少しどこか見たことがあるような・・・・・まさか行方不明な子がもどって来るとは思いもしなかったので・・・・つい声をあげてしまった。「ひぇ!まさかチョビか!!??」と。まさか生きていたとはお釈迦様でも・・・!!当時の流行病を生き抜くために・・・家出していたのかも。

9匹が10っ匹になったと私は大喜びだった。少しやせてはいたが。我が家を目指して帰宅したとは・・・誰かの世話になっていたのは有難い・・・良かった、良かったと感激した。

彼とのコミュニケーションは目でしかない。彼は啼かない猫だった。他の猫たちと比べて行儀よく、ご飯も「ほら、チョビ食べな」と目の前に茶碗に入った缶詰を食べるように言わなければ待っている子であった。私が食事中、焼き魚を突っついていると他の猫たちは狂ったように私の周りに集まるけれど、彼は皆の後ろから「自分も欲しい」という目で待っていた。思えば悲しい。

そして戻って来て2月もしたであろうか、11月のある金曜日、最近一番の「大寒波」の日、私も外に出ることが出来ないほど、まるで台風並みの雨風、庭のプランターの風よけは壊れてそこいらへんに散ってしまっていた。松江で風速27メートルを記録したと言っていたが、我が家では30メートルはあったであろう。倉庫の西の扉が吹き飛んで、戸口周りはびしょぬれ、天井からの蛍光灯はちぎれてぶら下がっていた。吹き飛んだ扉を元に戻そうとして私は吹き飛ばされて風の治まるのを待つしかなかった。こういう日に行方不明になる猫が必ず出るもので、全く帰って来なくなった子猫もいる。そしてこの日チョビも居なくなったのである。

がっかりした。折角戻って来たのに、またいなくなった。体調が悪そうだったから、この日に居なくなったのは「死にに行った」と思えた。それから二月余りがたった昨日のことだが・・・・また倉庫に額縁を捜しに入ったとき・・・何やら臭いがした。「むっとする死臭」である。誰か死んでいる。

臭いの元を捜したら直ぐに分かった。一番あり得る場所を覗き込んだら、そこに白い猫がいた。それは私が東京に居たときに近所の野良猫を家にあげた時に作った猫ハウスで、どうしても部屋の中に入らずベランダで寝ようとするからホームセンターでスタイロフォームを買ってきてボンドで組み立てて作った断熱式猫ハウスだった。誰かが寒さをしのぐときに使うだろうと取って置いた箱。

そこにいた白いネコはやはりチョビだった。顔がまっ黒になって居て、臭いを発している。彼はここに二月もいたのだ。寒い日が続いていたから完全に腐らず、初期的な腐敗臭がしていたのだろう。

もう彼を埋葬する場所が見つからない。最後に埋葬したチロの横、つまり勝手口の1m横に埋めるしかないだろうと思い、つるはしを捜した。ただ無心に掘った。アナグマが掘り返したりしないように、大きく深く掘った。そして猫ハウスを鋸で二つに切ってチョビを出した。ビニールの手袋をしてチョビの体をつかんだ時、なんだか温かく感じた。。。。死後硬直は溶けていて先ほど死んだようだったが、持ち上げた時に顔からばらばらとウジが落ちた。穴に横たえて土をかける時「成仏してくれ」と一言声掛けをする。もう何回この言葉を口にしただろうか。土が盛り上がると死臭を消すために水をかけた・・・濡れた土で遺体を覆うのである。

チョビは最期に私の所に帰って来てくれた。

 


建築家は芸術家か?(補筆あり)

2022-01-23 22:30:39 | 絵画

実はNHK総合は受信できないので、教育テレビを見ることができる。その中でも日曜美術館はめったに見ないけど、「天使か悪魔か?白井晟一」という奇妙な題名に魅かれて録画しておいた。最期まで見ると題名に隠されたNHKの視点が理解できる。彼の展覧会が渋谷の松涛美術館(渋谷東急デパートを上がっていくとすぐそこ)で今彼の業績を紹介する展覧会が開かれている。松涛美術館の建物は彼の設計だそうだ。

今日多くの有名建築家は巨匠として崇められ、何か建築芸術とか絶対的な建築基準のように扱われている。例えば丹下健三とか黒川、安藤とか、もう不滅の評価を受けていると言えるかもしれない。

現代の美術の基準を語る者はやたら観念的な世界から感想を述べる.装飾語がやたらポンポンと羅列されて、意味が良く分からないが。しかし実際を見ているのか、「物」を見ているのか。いつも言うことであるが「芸術とは何か」ということには触れないで。

そこで、1994年に西洋美術館が前庭の地下に展示室を作ろうと議論を始めた時の話をしよう。西洋美術館はメインの松方コレクションを昭和34年に敵性財産として取り上げられていたフランスにあった松方コレクションをフランス政府から「寄贈」をうけ・・・元より個人の財産であり日本国の財産ではないが、国際条約違反にも拘らず取り上げられていた・・・フランス美術を紹介するという名目で返還されたのである。日本人は「返還」と、フランス人は「寄贈」という・・・。その主たるコレクションはフランス近代美術である印象派が主体となっている。西洋美術館開館当初はルコルビジエ設計とされる本館に庭にロダンの彫刻、エンタランスにもロダン作品を主に屋内彫刻を展示してきたが、国立の使命として教育的配慮からコレクションの地方での公開が求められ、地方巡回展を年に一か所開催した。しかし「西洋美術館」の所蔵品の内容からして「西洋美術」を名乗るほどに充実している訳でもなく、近代美術だけでなくルネッサンスや近世まで広げて収集することが始まった。当然のこと本館の展示室だけでは展示空間は不十分で新館建設となった。新館が出来たのは1970年代で、私がドイツから帰国した時にはもうそこにあった。本館とは全く外観の調和がとれない緑色のタイルブロックを重ねた合理性を感じない建物であった。これを設計したのは前川設計事務所で、本館建設当初、コルビジエの教え子で会った板倉が本館の基本設計に基づいて図面お越しを補助した前川が板倉亡きあとに西洋美術館の建築の専門家のように認められたのであり・・・・新館の外観や施設設備に不適切が散見されたのは仕方がなかったのか?

いずれにせよ問題は建築家がどこまで美術館の存在意義や機能を理解して設計してきたかである。当の学芸員たちはこの新館で常設コレクション展と企画展を20年以上に渡り実施してきて、その使い勝手の悪さに辟易してきたのである。この建物の外光を取り込む照明のコンセプトは、屋上がガラス張りでその下の天井にその明かりを取り込む丸い穴が開いており、カメラのシャッターのような開閉が出来るようになっている。曇りの日には外光は不十分で、180ルックス以下になると人工照明がつくシステムであるが、実際は言葉通りではない。天井の小さな穴から直線的に入光するシステムでは光は「不快な波長」のみ入って来る。それで不足分を補うための照明に昼光色とされる白熱灯を点灯するシステムで、もしいきなり展示室で鑑賞している時にバーンと明かりがついたら、今まで感じていた印象派の色彩は何であったのか、いや古典絵画でもそれらが描かれた環境からほど遠い条件に展示室が変わるのである。これが前川設計事務所の売りであったようで、実際の問題が議論されずに前川の当時の責任者は我々に鼻高々に威張って見せた。

この天井の穴にはガラスなどの遮蔽はなく、シャッターのみである。この上の階に上がってみると天井は温室状態で、いきなり汗が噴き出る状態であった。ここには換気扇もなく、もし換気すれば展示室からの空調された空気は吸い出されてしまう。だからそれに気が付いてシャッター部分にアクリル透明板を設置した。

こうした空調の問題は哀れであった。運営資金不足から入館者があるときだけ空調して、美術品の保存環境は無視されていたのである。私が帰国した82年には8時間空調が日本中でまかり通っていた。だが欧米から作品を借用して行う企画展はそういう訳にはいかない。ある時、貸し出し相手から要求された施設概要に記入する数値をごまかしていたら、相手から貸し出された作品の額の裏にデータロガー(温湿度を自動的に記録する小さな機器)が着けてあったのである。東京の秋に台風が押し寄せる9月は「芸術の秋」とばかりに展覧会だらけであるが、「こっぴどいお叱り」を受けて、24時間空調が議論されたが、8時間が24時間になると費用も3倍であろうと思ったら・・・実は20%増し程度であった。なぜ最初からそうしなかったのか、庶務の官僚的発想がそこにあったし、学芸員の無知も原因だった。こうした問題を新館、本館と少しづつ解決しなければならなかった。そのために私が任官した時には「空調委員会」とか有識者を呼んで会議を行ったが、大金が動くときにはたかりの様な者まで登場して、私自ら会議を解散させた。

 

色んな意味で新館の施設設備に尾を引く問題があり、少しは学芸員の意識も変わり始めていた。そこにさらに企画展示を行う空間として新たな場所が必要であるという意識が生まれた。しかし西洋美術館の土地は狭く、建蔽率は一杯に使ってしまっていて建てられる場所と言えば・・・地下しかない。もし地下に作るとしたらどのような建物が可能か?今ある新館本館との関係はどうなるのかなど、使う側の要望はこれまで不満だった新館展示室からの教訓は解き放たられような事件が起きた。

地下に建設しなければならない「企画展示館」構想は少なくとも既設の新館や本館と繋ぎ合わせる基本で学芸課内でも合意しており、一級建築士の資格のある庶務課の施設係が簡単なプロットを作ってくれた。これが優れものとは言わないまでも、基本的なアイデアが含まれていたので、建築関係者で最初の会議を始めるにあたり提出したのであるが。

これを建築会議の冒頭で、こちらが呼んだわけでもない前川建築事務所の永田(新館建設の責任者で天井光を誇った男)が建設省関東地方建設局(通称、関東地建)の部長、当館メンバー庶務課長、学芸課長、学芸課員、プロットを作った施設係長の前で、机の上に放り出し「こんなものは何もならない!!」と言い放ったのである。

私は瞬間湯沸かし器の様な性格だから「こんなものとはなんだ!!」と怒鳴った。そして「あんたたちは自分たちを芸術家だと思っているのか・・・ちがうだろ!!建築やなんだよ!!」と怒鳴ったのだ。元よりこの永田に対してはムカついていた若い学芸員越川が一番槍を挙げて、私の右隣りから立ち上がり、座っていたパイプ椅子をガチャンと蹴って席を後にした。それに負けじと左隣に座っていた幸福が「やっちゃいられない!!」と立ち上がり部屋の出口に向かった。私も遅れてはならじと立ち上がり出て行った。椅子は蹴らなかったが・・・。さすがに学芸課長の雪山は相手に礼を尽くして出て行かなかった。

これで会議は良い始まり方をしたと思う。言うべきことは言っておかないとまたやりたい放題にやられるというのが学芸課の認識だったから。関東地建の部長は会議がつぶれて「いやー!お宅の若い人たちは元気ですねー!」と一言課長に言って帰ったそうな。

建築家というのは関東地建の担当者も丸投げして公共建築の新たな建設には会議で座っているだけで何もしない。丸投げなのである。そして建築家として威張っている者は世界でどの様な美術館基準が議論されているか、いや実際に実現されている環境条件を学んでいないのは全く許せないことである。

その後も建築会議でおそ松が露呈。私が要求した予算配分で「展示室は空調を温度22度、湿度53%の恒温恒湿にしてほしい」と言えば、建設省の担当者は温度は26度が基準で予算建てしてある」と言うから「欧米から借用する美術品に要求される温度湿度であり、これでなければ企画展示は実現しない。貴方たちは西洋美術館をつぶす気か!!」と怒ったり、まあ色々あったね。結局最後は前川の連中に仕返しされた・・・修復室の北側の窓は床から始まるように要望してあったのに、腰から始まる。空調は給気配管が天井むき出しに出ている。さらに排気配管は扉に隣接してあるとか・・・・めちゃくちゃにされた。これが前川建築事務所である。展示室内もひどい有様で、私が空調予算を食ったから内装は安普請でやるしかなかったとか言う。そのくせ展示室空調で口を酸っぱくして要求した災害時の予備の「熱源:ヒートポンプ」であるが、何とこれがメインの空調システムと繋がっていなかった。

私はただの絵画修復家である。こいつにこんなにボロクソに言われていいのか!!??

ここで話を白井晟一の建築に戻そう。

彼の業績を松涛美術館で展示公開しているそうだが、建築家の所業は私は疑う。松涛美術館を見学した時に展示室がなんと深く谷間に作られ、展示室が下から吹き抜け状態になっている。そして一番下には噴水があった。これはどこかで見たことがある。ニュウーヨーク近代美術館(通称:グーゲンハイム美術館)である。入り口は下で上ではない。その下の階の展示室に上がる上り口に「これはナニ」というような小さな噴水があった(現在は使ていないが)。そしてらせん状に上りながら作品を鑑賞するのである。床は斜めであり。壁はゆっくりカーブしている。三半規管の反応に逆らって鑑賞しなくてはならない。私はムカついた!

これが美術館建築としてその現代的な造りが多くの書籍で紹介されていたグーゲンハイムである。この吹き抜け構造はいろんな建築家が模倣している。サンフランシスコ現代美術館を設計した確か黒川紀章の設計も下から上へ突き抜けている。この構造でどれほど空調が乱れるか理解しないのである。空調はないに等しい。

NHK教育の日曜美術館のこの「天使か悪魔か?白井晟一」はある種の建築家としての彼の「美学?」からくる独自の建築物に対する肌合いとか感性を紹介する中で、彼が無視した利用者の生活感を挙げている。番組の終わりの方で雪国のある民家を設計して、ここに今も住んでいる人の感想を映している。住人は「設計するとき、ここが雪国だって知らなかったんだね」と一言。他の生活空間とつながる軒下の吹き抜けは雪が舞い込み、そのままでは寒くて困るから、今はガラス張りのサッシで覆われている。

もし病院で病室から処置室まで一気に移動できるように扉の幅、廊下やエレベーターなどが配慮されていなかったら「人殺し」になるだろう。

「建築は一体誰のものだろう」という問いに反発した白井晟一。TVに映る彼のプロフィールは少なくとも私よりハンサムでかっこいいし、知的に見える・・・まけるね。NHK教育は良い所に目を付けた。

すみません長々書きました。

ああ、もう一言。横浜市立美術館に行ったことがありますか?がらんとした大きな空間はどうしてこんな建築になったのか? 確か丹下建築設計事務所の作品(?)。私の上司だった雪山氏が館長で「一度見に来て欲しい」と言う話で、見学に行ったら・・・これは大変だった。がらんとしている空間はパリのオルセ美術館を参考にしたと聞いた。本当に無能な連中だ。オルセ美術館は元は鉄道のターミナル・オルセ駅の駅舎を美術館に改装したものである。しかも保存修復に関心や知識のない学芸員がわんさこいる国だ。空調や照明など美術作品を展示する環境に無知であり、駅舎に空調は不可能に近い。しかもどこにもパーテーションがない。それを真似た横浜市立美術館はこのパーテンションの無いところまで模倣したのである。つまり恒温恒湿など無縁である。その元はこの空調は第三セクターの会社が美術館外から公共建築に配給しているというから、美術館用ではない。新しい試みをやってみた・・・ということらしい。こりゃ美術館とは言えないよ。招待してくれた雪山氏は帰りに中華街で行きつけの料理をごちそうしてくれた。しかし一言「あんた不幸だよ」。

さらにおまけに言うと今私の住む浜田市の浜田市立世界こども美術館の建物もグーゲンハイムの斜め展示室が採用されている。車いすの障碍者の気持ちに慣れよと言いたい。

設計者のコンセプトでは海の町の「波」を意識したものだそうな。建築屋というのは本当にプロとしての基準が自己中で困る。私が西洋美術館の貸し出し審査担当であるとき、作品の借用願いが届いたが、一発で断った。空調もまともでもないし、民法では、他人からものを借りる時には自分の物と同じように大事に扱わなければならないという条項があるが、出鱈目な保存環境で同じように扱いますと言われても・・・ダメでしょう。

 

 


責任の取り方(加筆あり)

2022-01-13 08:45:56 | 絵画

よくテレビで記者会見を開いて、簡易机に3人がマイクの前で、ぺこぺこと頭を下げている光景が見かけられる。一応「謝罪」という形式だ。何か罪責任を認めたから行う謝罪なのだと思うが、ここでいう責任は「頭を下げる」ということで済むと思っているのだろう。だからこれが「蔓延」する。楽なものだ。

他者に対しての行いが、それが故意であろうが過失であろうが障害や損失を与えれば、それに対する責務は逃れられない。それが「法的責任」というものだ。それも過失であっても重大な事故となって、90歳の年寄りであろうとも、禁固5年の刑罰を受けている。これはマスメディアに注目され日本国民の周知となって、厳しく問われたが、いい加減な対応も散見される。故意、過失であろうとも、相手に弁済を求められる「不法行為」として扱われる。

以前、書いたと思うがベルリンに居た70年代後半に国立図書館で借りた本の1ページを破いて持ち帰った日本人がいて、それを見たドイツ人が訴えて、その日本人の学生は「初犯です」と謝った。恐らく初犯だと言えば許してもらえると思ったのだろう。つい日本人の「謝罪」方法が出てしまったが、裁判で懲役9か月の実刑判決を受けた。ヨーロッパでは良くあるらしいのだが、塀の中で「封筒貼り」をやらされたとか・・・。「謝罪」というのは罪を認めるからするのであって、「罪の償いの一つ」ではない。償いは「懲役9か月」である。裁判官であった父のお陰(?)でドイツのこうした責任の取り方を「応報刑」ということを知った。ちなみに日本では責任は「教育刑」で償うのだそうだが・・・「そんなことしてはいけませんよ!!」というのがこの国の在り方らしい。だから無責任な「謝罪」がはびこるのだ。ドイツの責任の取り方は個人主義の国らしい。個人責任は子供の時から教える。もし職場で嘘を一度言ったら、信頼関係は失われ、ずっと嘘を言う者として扱われる。だから例えば物を壊したら「Ich!!Ich!!」つまり「私!!私!!私が壊しました」とまず先に言わなければ、信用、信頼を失う。

安倍晋三は118回、国会答弁で嘘をついたと言われている。政治家には「嘘」と「真実」の価値の違いも分からないのだ。だから謝りもしない・・・いや謝ったらおしまい(もめるていど)だから、これが正解のなのだろう。

しかしまず隠ぺいから始まる公務員、いや民間人も同様に「知らんぷり」が横行する。裁判所が関係書類の提出を命じれば「のりべん」と呼ばれるまっ黒な書類が出て来る。個人上に関することが含まれているからと言い訳する。それを裁判所が検査する義務がるだろうに・・・やらない。それでスリランカ人ウシュマさんの死に関する書類一万五千ページがまっ黒な状態で提出された。私は日本人として恥ずかしい。許せない!!担当者を殴ってやりたい。

個人情報とは誰の個人情報だろうか。ウシュマさんの個人情報であれば「故人」であるので保護の対象ではない。それが法務省入国管理局の担当者に関することであれば「公共の福祉に反しない限り個人情報は守られる」という範疇に含まれるかどうか判断されなければならない。(公務員は個人で保護されてはならない。公務員が何か損害を与えたら国が保証することになっているからだ。)個人情報保護法は「法務省の役人なら厳密に」その意義が扱わなければならないはずだが。

これは行政機関による「陰謀」だと言える。こうした陰謀を許す社会はもうおしまいだと思う。世界は陰謀で満ち溢れている。ノストラダムスの予言は2035年でお終いだそうだ。あとちょっとだ!!わたしは自分の絵の中に閉じこもって死ぬ。


岩国の実家に帰るのも憚られる(はばかられる)

2022-01-07 11:35:40 | 絵画

まさかと思ったが、岩国の米軍基地のせいでデルタ株かオミクロン株化、色々ミックスなのか分からないけど、感染者が急増の岩国。感染者がこのところゼロの浜田から帰郷するのには危ないかもと・・・思う。冷戦状態の危機の時には真っ先に水爆ミサイルが飛んできて、半径100kmでも丸焦げになると言われていて・・・・本当は隣の市の境と200メートルのへき地にあるのにもかかわらず心配が尽きない。

一時、この家を改築して老後を過ごすホテルのシングルルームのような部屋とアトリエと書斎を足して、ここに最期の住処としようかと思ったけど・・・・。気の進まないのは、孤立したくない、まだ人生に煩悩があるからだろう。とにかくこの浜田の家はもうすぐ床が抜ける。猫たちが無法者宜しく、ウン子とオシッコをやり放題して、床の合板がはがれてきた。お金をかけて住むには、冬が老体にきつ過ぎて、もうこれ以上無理をしたくない。この浜田では真鯛の80cmオーバーを釣る夢があったが、もうどうでもいいや!!

また一応、山口市の新山口駅近くの土地を捜してみる。

どっちみち、また10匹の猫たちも老々介護になるだろうから覚悟が必要である。

とにかく早いうちに安心な場所に落ち着いて絵をもう一度描き始めることだ。

自分の絵画の世界を具現化するには、今までの気難しいフランドル絵画の作法に従った描写方法より、もっと安直な・・・というか自分にとって楽な表現方法でイメージを出せればと思うようになった。それは絵を描く目的が達成できれば「まず良しとする」選択が重要で、思い込み過ぎてスランプに陥るこれまでのやり方から離れるべきだと悟った。それは地色の白から始まる明るい絵画イメージが暗くなっていくのに足かせになっていたからだ。これからは少しグレーな基調色で一度暗くしてから、暗い方明るい方と別々に少しずつ立体や空間が出来上がる方がモチーフの色も決めやすいからだ。

途中で暗礁に乗り上げずに、最期まで描き終わっている作品は皆その感覚だった。

正直言って、何でも上手くいかないとコロナのせいにする。車を運転していても、前にのんびりと制限50キロのところを30キロくらいで走る年寄りが居ると、自分も年寄りだということを忘れて「免許返納しろ!!くそばばあーーあ!!」とわめく。

我が家のトラちゃんがキャットウオークからオシッコをする。丁度私が居る場面で二回ほどオシッコが頭や腕にかかった。「ボケ爺!!降りてこい!!」とわめいても「ああ、ああ・・・」と啼いて返事するだけ。枕元の濡れ加減はトラだった。これまで前科がないネコは現存9匹中3匹だけだ。皆そこいらじゅうやるから、もし家を建てるなら床はコンクリート各部屋に水道の蛇口を付けて、もらしたらホースでじゃあーと出来ることが望ましい・・・などとまだ具体的になっていない夢を語る。

絵の中でしか息が出来ない・・・と言った通り、絵を描かないければ生きた心地がしない。今の世界の政治は嫌いだし、権威を作ってその奴隷になるなんて出来ない。

世の中、全て嫌いだ。昔からはみ出し者でアナーキーだった。

そのくせ、自分の乗っている車には、雪かきスコップから、タイヤチェーン、砂、防寒着、ホッカイロ、食料と水、シュラフに毛布、LEDランプ、そして極めつけは簡易トイレに猫の砂にビニール袋が備えてある。この上に画用紙とインクペンを足せば半日車に閉じ込められてもサバイバルも完璧で・・・・自分だけの世界に閉じこもる性格が表れている。

両親が亡くなり、姉までなくなって独りになった。年を取ったのだなあと・・・認めたくなかったことも少しずつ認めざるを得ず、転換期が来たように思う。あきらめることをこれ以上増やしたくなかったのに。

暗くなって外に遊びに出ていたまめちゃんが帰宅して、今こうして書いている私の膝の上で私を舐めている。ざらざらの舌で気持ちが悪い。まるでサンドペーパーだ。みんな連れて行く将来を考えなくては。


明けまして、猫におせち!!

2022-01-01 03:21:57 | 絵画

やっとブログが書けるようになりました。年末はGOOポイントを上げるから申し込めと言われて、そのページから脱出できなくて、書くのを諦めていました。でも年が明けたら、向こうもあきらめたのか、新(奇)投稿が出来るようになりました。

大みそかに水産高校のN先生(中村先生)が御節を持ってこられて、いつも通り話をしていかれました。独り者の年寄りが猫を相手にボーっとして時を過ごすと、やはりストレスが溜まるので、助かっています。特に猫は社会とか政治の話をしないので、私の最も興味をそそる話をもってこられます。浜田市に介護保険料を払っていても何もしてくれないけど、代わりに先生が無償の絆を作ってくださっている。自分は何をするのか、年が明けて今年は大きな決断をする年になりそうだと思う。

先生のおせちに自分が作った御節が加わって、夕食時に猫たちに囲まれて、「一口食わせろー!!」要求で8っ匹にせがまれて、生の魚、つまり刺身を買ってきて、少しだけおすそ分けする。ノルウェーサーモンがこの日光から閉ざされた冬にはビタミンDを摂取するのによいと一切れ買ってきた。年の暮れは「何でも高くなっている」のだが、一切れ850円と割高。だが私は魚屋でバイトしたくらいだから、一番脂ののっている「腹身」の所を選んで買った。

猫達は臭いで全て理解している。よそ見をすると一切れ全てをくわえて逃げそうな子もいるから油断はできない。大きい一切れをやる必要はなく、歯で細かく切って与える。猫半分、私半分という具合で、あっという間に刺身は無くなったが、私の膝の上から逃げない子はしつこくせがむ。この子たちにはくたびれるが、すこし遊び心で、別の肉とか食べさそうとすると拒否するので、ちょいとそこいらに在った物をサーモンが載っていた皿の上の脂を練りつけて箸でつまんでニャンコの口に持って行くと、飛んで食いつく。

ひひひ!!これはたくあんじゃ!!騙されよって、食い意地の張ったニャンは飲み込んでしまったので、もう一度やってみたらやはり食べた。多くの猫は噛んで砕くことをしないから、そのまま飲み込むので・・・。たくあんのまま目の前の出すと顔を背けて逃げよった。ノルウェーサーモンは特別脂がのっていて有難い刺身だ。ちょいと席を立ったら、誰かが中村先生から貰ったおせちのお重の端っこをかじっている。いけんちゃ!!油断でききんがね。次からお前たちにはたくあんにサーモン脂だ。

猫に小判、猫にかつぶし、そして猫におせち。

父が生きている時は24種類の自作のおせち料理を詰め込んで持参した。普通の主婦が作らない鰆(さわら)の山椒味噌焼き、真鯛の西京焼き、伊達巻とか、手間のかかるものまで入れ、柚子の実を半分に切り、中に大根と人参の紅白なますを入れて重箱の中に色どりまで考えて作ったものだが、父にそして姉まで亡くなってから、自分のおせちの範疇に戻った。それは数の子の松前漬けと黒豆、紅白なます・・・程度かな。黒豆を美味しく煮るのは難しく、毎年柔らかさが気に入らない。そうそう黒豆を食べるニャンコもいるから嬉しい。

ああ、老々介護のトラちゃんはサーモンを一番もらってご機嫌だった。顔が年寄りから若者に代わるから不思議だ。年寄り猫の健康は食事をたくさん食べるかどうかだ。食事が細ったら、もう直ぐだと覚悟しなくてはいけなくなる。

また書きます。皆さまにとって2022年が良い年でありますよう!!