今日も何かが失われて喪失感だけが残った。何を期待していたのかさへ分からなくなっている。
思うようにならないこの世に不満が充満し、「こうなって欲しい」という欲望の度が過ぎて復讐を心の底にめぐらす。
想像で何かの邪魔をする相手を倒す復讐だ・・・しかし空虚な想像は現実のすれ違いに覚醒されて消えていく。
弱い時分には不可能を可能にする「力」を求めて・・・、夢が覚めて恐ろしい虚無が残ったのだ。
ああ、私は絵の中でしか息が出来ないのか。
今日も何かが失われて喪失感だけが残った。何を期待していたのかさへ分からなくなっている。
思うようにならないこの世に不満が充満し、「こうなって欲しい」という欲望の度が過ぎて復讐を心の底にめぐらす。
想像で何かの邪魔をする相手を倒す復讐だ・・・しかし空虚な想像は現実のすれ違いに覚醒されて消えていく。
弱い時分には不可能を可能にする「力」を求めて・・・、夢が覚めて恐ろしい虚無が残ったのだ。
ああ、私は絵の中でしか息が出来ないのか。
絵を描く上で、目の前に物を置いて描けば「写生」という。「描写」とはその写生でも、見えている物以上にそこにある存在を洞察して描く事である。つまり見えているように描くのではなく、見えていないことも描くのである。
これは「絵空事」の世界に近づき、「無いものを在るがごときに表す」ことである。さらに画家は自分のイメージの世界を持っている(絵を描いている者全てが持っている訳でなく、優れた者という意味)がその世界は視覚的記憶の中で作られた世界であって、子供がお絵かきをするとき、モデルなしで人の顔を描いたりするのと同じ感性である。ぼんくら画家はこの視覚的記憶を持てない。
別の話から入るが、NHKの正月時代劇というのがあって、伊藤若冲を主人公にした話で、彼の精神的支えとなった僧侶との友情(?)というか、演出でいつの間にか同性愛的絆が表現されていて、彼の絵画世界については全く触れられていなくて失望した番組であった。この僧侶との付き合いで若冲が何かを悟って彼の絵画が発展したような経緯であったが、歴史的事実があるのだろうか?一部画面に模写や作画工程が示される場面もあったが、それは演出の一部でしかなく、素人だましであった。この演出の中に池大雅や丸山応挙が登場するのだが、これも刺身のつま程度だが、若冲の初期の作品を、この僧侶が若冲と知り合う前に初めてみたとされる場面で丸山応挙にふんする役者に「このかぶらの葉先が枯れているところまで描かれているが、実際と違ううそ」だと言わせる。誰がこのセリフを思いついたのか?
丸山応挙がバカ丸出しでこんなことを言うか!!絵画は昔から「絵空事」で事実を描く事ではないことは誰もが知っていただろう。どの様に描くかは作者の真骨頂であり、「売り」なのである。私に言わせれば、この作品はすでに若冲の愛した鶏のモチーフであり表現様式である描写が完成している作品であり、僧侶と出会って開眼したわけでもないと言える。
昨今、現代アートの観念的表現と「描写の絵画」が区別され、前者が主流とされる世の中にあって、「描写の絵画」の描写の意味が良く理解されていないことは残念である。特に実在する画家の実際から離れて、面白おかしく演出させて番組を作るNHKの質の悪さを感じたのは誠に残念である。
美術館で仕事をしていた時、和気あいあいと楽しく仲間と付き合っていた。それも度が過ぎて、ステンレスの台の上に乗ってスキーの2枚の板に念仏が書かれているのに裸で乗って記念写真を撮っていた。その他に顔の所がはめ込みで写真を撮るライオンのたてがみが付いたものをお面の様にかぶって、裸の体に糊をつけて猫の毛をまぶして着けて「記念写真」を撮る「おふざけ」を皆がしきりに私にやってくれる・・・・。皆が仲間として面白く遊んで切れていると思ったら、それは実は「いじめ」だった。
そこにどういう訳か、大学時代の先輩が現れて「おまえは正規の職員だと何故言わない」と注意する。「みんなはお前のことをアルバイトだと思って悪ふざけをしているのだ」という。「はあー??ああ、そうなの・・・みんな楽しそうだったのに」と思ったところで目が覚めた。夢だったのである。しかも初夢。
すごくシュールで気に入っている。
夢判断すれば、恐らく美術館時代に一所懸命に仕事をしてきたが、マジでやればやるほど周りから浮いていた。「はみ出し者」であることは「勲章」だと思っていたから、皆と仲良くしているように思えても、排除されていたことは自分はしっかりと認識していて仕事をしてきたから、こんな夢を見るのだろう。改めて「孤立・孤独を恐れるな!!」と自分に言い聞かせているのでは?
こんな話を書いたことがると思うが、30代半ばに「戦場で死体を掘り起こして洗っている夢」を見た。間が覚めた時、体から力が抜けて辟易したのを憶えている。心理学者に言わせると「良い夢」だと。今の自分が大仕事に立ち向かって、必死になっている時だそうな。
新規投稿も、年が新しくなってIDやパスワードの再提示を求められてくたびれた。何度もやり返しようやくたどり着いて、新奇投稿したら、接続できませんでした・・・で書いた原稿が消えた。
少しやる気をなくしたが、このブログで私の音信を確認している親戚、友人がいるので、またつまらないことを書く。しかし今日は部屋もファンヒーターを入れていても寒くて、疲れる。このところ外気温は0度以下で、窓に結露しているのをティッシュでで拭いて、そこにちょいと置いておいたら凍り付いていた。ここは日本海に面した西向きの家で風が強くて台風並みの風が何日も続いている。西正面の屋根瓦が強い風で落ちて・・・割れて転がっているのを発見・・・また面倒くさい話。今住んでいる家は裁判所の競売で購入した築34年にもなるボロ屋で、在来工法で建てられていて壁は泥壁、屋根瓦も泥でくっついている。板壁は釘が潮風で錆びてところどころ剥がれ、落ちていたのを拾ってステンレス釘で打ち止めておいた。屋根の上まで気が回らない。高所恐怖症だから・・・上りたくないが、隣の単管とポリカの波板で建てた倉庫は屋根も全て独りで建てたから、ロープを張って安全帯をつけて作業したが、何度もポリカが滑るので怖かった。年齢的にもう落ちるわけにはいかない。
落ちる話はしたくないが、そう言えばセンター試験のシーズンで、受験方式も毎年変えたりして、受験生は災難だ。コロナでもっとひどい目に有って、今年は本当に若い人に同情する。特に大学受験は欧米では入学資格試験(ドイツでは何歳でも受けられる)で基準に合った大学を選択し、日本の大学受験とは違う。大学に入ってからが大変で自分で学ぶ力がないと付いていけないから、途中で脱落する者も多い。日本は53%くらいが大卒だそうで、いつのまにか駅弁大学が増えたせいだ。韓国は74%位らしい。学歴社会だという点では韓国に生まれなくて良かった。多くは就職に有利だからという労働力扱いしか認められていない社会だろう。価値観のせいで欧米とはずいぶん違う。個人主義が確立していると、18歳までに自分の人生の在り方をしっかりと捉えていると言えるから、職業は自信をもって選択していると感じる。
集団の価値観で全体主義的に自己が確立しないで就職すると、ただ生活するために職を選んで情緒的に過ごすことになりかねない。子供時の「何になりたいかの夢」はそれが「町のケーキ屋さん」であっても、夢と現実の違いを学べるかどうかがドイツと日本では随分違った。
前にも書いたかと思うが、司馬遼太郎という歴史小説家が三島由紀夫が切腹自殺した時、「思想と言うのは非現実で虚構だ」とか言ったのを私は軽蔑していた。ドイツでは、いや欧米では思想や理想はこの我々が生きている現実の平面の上に立てるもので、司馬遼太郎が言うようないい加減なものではない。彼が論理主義や合理主義が理解できなかっただけだ。
ドイツでは論理主義は生活のすべてにおいて具体化していいて、曖昧にすると信用を失う。だから道路工事をしているおじさんに「今の政治をどう思うか?とマイクを向けるととうとうと持論を述べるだけの自己を持っている。それは幼年時期の教育の成果だと思う。自己を確立させてあげる教育こそ必要で、そしたら50%の大学卒は必要なくなる。大学を出なくても自分の教育は自己で出来るから。大学受験はなくなれば良いと思う。
コロナも消えてくれ!!
それにしても寒い。一日中零度以下。大風が吹いても雪が積もる。寒波がおかしい。家の前の日本海には対馬暖流が流れているはずだが?猫のいる居間は石油ストーブを満開にして9度にしかならない。ごめんよ猫たち。子猫にはこたつを入れたから心配しないで下さい。今夜中の3時だ。もう一度チェックしに居間に降りる。