河口公男の絵画:元国立西洋美術館保存修復研究員の絵画への理解はどの様なものだったか?

油彩画の修復家として、専門は北方ルネッサンス絵画、特に初期フランドル絵画を学んできた経験の集大成を試みる

72歳にして家を建てる

2024-07-29 17:24:49 | 絵画

70歳にして、ふた従妹から「貴方、何をしているの!!」と叱咤激励で怒られた。「このまま何もせずに過ごすの!!??」ときつく言われて、まあ死ぬまで何もしないでいるつもりは無かったのだが・・・・ちょうど一年前に「家を建てるために農地を買う」という記事を書いていたように、覚悟を決めて家を建てるために障害とぶっつかっていた。建売住宅を買えば、もっと簡単に家を手に入れて引っ越し、新しい生活が始められていた・・・はず。

だが、土地探しから、家の設計プランから、自分の望む家を作ろうとすれば、どれほどの苦労があるか未知の経験を始めた。これが豪いことだった。

農地は前にも書いたように、各地方の農業委員会が監督する自由に使える土地ではなかった。実家の遺産相続で田畑4500坪、山林5000坪、土地家屋250坪ほど所有しているが、何もできずに、場所も不便で、父が頑固に固執した証は、今や放棄地となって草ぼうぼうである。そこでは生きていけないという思いが、別の町に骨を埋めたいという希望を持たせた・・・が。

やはり農業委員会に制約された条件を満たすために、分からないことだらけで迷っていたところ、これまで浜田で建物について相談をしてもらっていた工務所(工務店ではなく、職人などを仲介する店)を訪ねた時、気安く「うちでやります、任せてください」と言われて、ちょういと信用したのがいけなかった。

その人物がプロだと思い込んだのは、こちらにも落ち度が少しはあるが、まるで何もかも分かったような口のきき方で、現状が不明になっていたのだ。

私は農業委員会の指示通りに「転用許可(農業以外の目的に使用する)」を得るために、多くの書類を用意しなければならなかった。事業計画書、建築計画、資金証明、近隣との関係など細かに及んで作成し、転用許可と言う墨付きをもらわなければ何もできなかったのだ。そこで建築計画、資金計画は専門家が証明する必要があって、そこを人頼みになってしまって、いい加減な見積もりや理解のない情報で混乱することになったのだ。

もし工務店であれば、そこに建築設計のプロが居て、私の希望や様々必要な条件を真っ先に聞いてきただろうが・・・・・其処では違った。そこで気が付けばよかったのだが・・・。

そのK工務所のSという営業担当と言うのは40歳は過ぎているようだし、様々な経験を積んでいると思い込んだのが間違い。山口大学の経済学部出身と言うから、もっと疑うべきだったが・・・・費用のことばかり・・・「4千万では出来ません。5千万いやもっとかかります」と「6千万を超えるでしょう」と言うから「なんだー!!生きていけなくなるじゃないか!!」と怒ったら、見積もりを6千万を切れるようにしました」と言う。こいつあくまで年寄りで家を建てようとするなら、きっと金を持っているに違いないと踏んで、膨大な出費を狙っていた。

私がどの様な建物で、どの様な余生を送るための生活を描いて望んでいることに、Sは全く興味を示さず「河口さんは金持ちだから、金持ちだから」と連呼し、まさに「カモ」にネギをしょわせてやろうとしていたのだ。(この時怒れば良かった)wtasiha

私はプロットの建築図面を描いていた。農業委員会に提出させられたからだ。その図を見れば、ほとんどの部屋が倉庫で、作業場で、絵画教室とギャラリーであることは気が付くであろう。しかしSは気にも留めていなかった。実はSは建築設計には素人で、金儲けをするために営業としていたのだ。先に工務所が建築業者を斡旋する仲介業だと言ったが、それが本当の姿で、詳しいことは対応できなかったのだ。

最初の私の建築図面では建坪は50坪を超えていたが、高い材木でなく軽鉄でギャラリーの短辺も6mを望んでいたら、「軽鉄は高いです。木材の方が安いです」と言う。これも嘘だった。自分に都合の良い高くつく木材の「在来工法の家」を勧めて、山口の大工まで連れてきた。これがもういけない。東北の震災以来、建築材料が値上がりしていて、こんな時期に家を建てようなどと暴挙だったが、さらに大阪万博や能登地震で木材は高騰。ロシアからの材木も経済制裁で不足。アメリカ、カナダから輸入材は住宅ブームで値上がり。

だからSが言う嘘を先に確認すべきであった。いくら価格差が生じているのか専門家、他の建築業者を通して確認すべきであった。「人は信頼しても信用するな」と・・・手遅れで進んでいたが、もっと大変なことが起きていた。

Sが作った見積もり内容と価格は出鱈目で中身の実態が良く分からないものだった。だから私は何度もその説明を求めたが、知らんぷりで放置。9月25日に契約を結んで、翌月初めには「農地の土壌改良」を行ったように見せていたが、私が浜田に住んでいて、山口まで132kmあるというのがSにとって好都合で、あっというまに水田に土砂を入れて「近所の工業団地などの切土から出る真砂土をタダで入れました」。つまり費用は掛かっていないから良いだろうという理屈だ。しかしこれがでたらめで直ぐに確認できなかったのを良いことに・・・・・だがこちらが「まず農地の黒土を除去、転用できなかったの頃の農地の上に盛り上げて置いてほしい」と言ったにもかかわらず・・・「やりましたよー」と嘘を言ってごまかしていたところ、雨が降って、土壌改良した場所に水たまりが出来て排水が出来ない状態・・・・・つまり土壌改良は嘘!!!建物の建築工事を請け負った大工にも作業に影響が出た。Sから連絡は全くない・・・と言うから、よほど何か都合が悪いのかと思っていたが・・・・やっと今年の6月7日になって見積内容の説明が来たが・・・・なんじゃこれ、説明になっていない!!

最近になって、何故10月に入ってから直ぐに土砂を持ち込んだのか分かった。要するに、黒土は除去せず、すぐその上に、どこかの建築現場から「廃土」を持ち込んで30~40cmの厚さに盛り上げ、その上を隠すように「真砂土」を15cmばかり盛り上げたのである。中の土を確認するために私が一部穴を掘ってみたら、「廃土」が出てきた・・・。この土を運び込んだとされる左官に「この土は何処から持ってきたの?」と尋ねたら「私はK工務所と契約しているから話せません」という。なんたる不始末!!

廃土はどこかの建築現場から出た「建築廃土」であり、その証拠に、これらの土から建築で使う接着剤やジュースの空き缶のふたなどが複数出土した。もうこれは「廃棄物処理法違反」であり「詐欺罪」である。だからトラブルが起きても知らんぷりをするはずである。

なんとういう悪党に出会ったのか!!

もう、裁判所に出す訴状は提出した。中身を確認中だそうだ。また廃土に関しては明日、警察に被害届を出す。

どうです??読者にとって面白くなった来たでしょう??

当人はもうくたくたです。星占いでは私の人生は「波乱万丈」だそうです。

この結末は事件の進展があったらまた書きます。


ガラパゴス日本の文化4

2024-07-29 11:49:09 | 絵画

日本の文化を知ろうとすると、良きにつけ悪しきにつけガラパゴス化して特異であることが目立つ。多くの日本人が考えることより、感じる事の方が先行して日常の生活を形成していると思う。この考えることには、予め知識や理解が必要で、それらを用いて「組み立て」が段階的に求められる。そうなると、この国の国民性からして「面倒くさい行為」である。日常的にこのような考えを基に生活していない。これは「倫理的合理主義」の行為であって、この国の多くの人々は情緒的あるいは感情的というべき反応で物事に接しているからである。

日本のテレビの番組を見ていて、登場人物が何か初めて見たり聞いたり、味わったりすると「わー、きゃー、おおー」とか最初の言葉として出てくる。その続きの言葉は直ぐには出ないにせよ、意味不明で声が裏返ったりして、一オクターブ高くなったりする・・・・特に女性が多い(差別だと言われるかも)と思う。

私にはすごく「子供っぽい」と感じるのだが・・・・欧米人はこのような反応はしない。多くの欧米人は驚いたりすると「うっ!!」と言葉を押し殺して、身を引いているように思う。

表現の言葉を失うというのは誰にもあるだろうが・・・・やはりここに日本人の文化感を感じてしまう。また言葉の使い方が「不正確」で、若い人達は造語を作って遊ぶのはイケないとは言えないものの、テレビのプロデューサーが番組を面白くするための言葉を発明して、意味が原語から異なる方向に誘導されて使われていることも多い・・・この国は。

19世紀末から、世界的に物事の理解が「主観的と客観的」「科学的と非科学的」とか分かれてしまうようになってきた。私の言い方で言うと「観念的と現実的」と言うが、現場を離れて幹部になった組織人は「観念的」で現場で直接問題点に向き合わねばならない者との間に「分断」が生じていると思う。ちょっと説明が必要だがアメリカで起きている「分断」もこの類で、物事の理解が異なる階層が出来あがっていて、いつの間にか「敵対」するようになってしまっている。片方は物質や金で満たされて、もう一方は物に飢えている。欲しいものに満たされていない方が体格が良くブクブクに太って不健康だ。不満を簡単に手に入る別物で満たそうとするから・・・・こうした生活様式が日常化して変化が乏しくなると、分断はより固定化されるだろう。

私は年を取ったせいか「若者の文化」が理解しにくく縁遠くなった。興味が得られなくて、日常生活が固定化されて、物忘れも、運動不足もみな老人ポイ!!「キャー、わー、おおー」は出ないから別のガラパゴスに移動したのかも。

 


日本の文化3 チョイ描き足しました

2024-07-19 16:28:21 | 絵画

さって!!3まで来た!!

少しは国際的な人物がものを言う時代になってきたかと思うが、どうやら集団ではなく個人レベルでしか語れないのが残念だ。西洋美術館のような西洋美術にはトップクラスの見識を持っていると思われてしまう組織の者たちが得ている実際の国際的な認識度は、外から見ると分からないが、中に入ると悲しい限りであると分かった時に寂しかった。海外出張や在外研修制度など利用して、欧米の美術館、博物館の専門家たちと交流できていると思うのは間違いだった。一つには語学力がない・・・とか、それ以前に興味が無いからきっかけとならないのだろう。また恐ろしいことに美術の専門家であるはずだが「目が悪く」美術品の宝庫である現地で、わずかな時間でも調査研究するなどの行動が見られないということだろう。人が書いた文献資料を読むより、まず先にその元となる「美術作品」を見るべきだろう。西洋美術に関する「交際論文」もなく、これが西洋文化を取り込めない一つの原因になっていると思う。語学力が貧しくとも「見方、感じ方」こそ才能でなければならないが、気が付かないのか???

むかし「和魂洋才」と言って、西洋文化を取り入れるとき「和魂」つまり「日本人魂」を忘れるなとでも言ってきたことが・・・まさか影響し続けているなんて・・・思いたくもないが、なにやらあながち否定も出来ない「日本の文化」があるようだ。

それは、先に日本の「魂」の方を基準にするから訳が分からなくなるのだ。「洋才」の方は合理的な習得の理由があるわけでもなく、気分的に入るから「現実に基づく」ものではなく「架空」の状態で近づく・・・が途中で放置もするから・・・身に付かないのだろう。まあ取り合えず「文系」はこれだ。

他に別の種族もいる。「体育会系」と呼ばれる種族がこの国には生き残っている。私の子供時代から、小学生の一部、中学生、高校生と制服を着せるのはどうしてだろう?中学時代は男子は「丸刈り」で「陸軍の兵隊」みたいだった。体育の時間に「ウサギ飛び」をやらされた。これは拷問の一種で、「体育とは何か」を体で身に着けさせる手段だった。これは今日、健康に悪いと言って、行わられなくなったらしい。また最近では高校野球の生徒は「丸刈り」が決まりだったのが、そう言う訳に行かなくなったらしい。少子高齢化で「生徒数が減って」野球部員の募集にも影響が出て「丸刈りでなくても良いです」と言って募集人員を増やしているとか・・・。

つまりスポーツマンは「丸刈りが辺りまえ」というのが「合理性は無かったということ」だ。議論は避けてきた教育委員会も、ここでものを言うと「反撃」に会うだろう。要するに伝統であったとか習慣があったとかいうのか?私には「集団の価値観の押し付け」がずっと続いていたのであって、これを「伝統文化」とか言いたくない。小学生、中学生に「皆と同じようにしよう」と集団化してしまうことで、個人性や多様性を無視してきた親、教師、政治家に至るまで、この国を国民をだめにしてきたのだ。

しかし、社会に出てからも「体育会系」と区別される者達がいる。「根性」とか「年功序列」とかが生き残って、「忖度」とかも社会構造に繋ぎ止めている。実にバカ臭い!!これは他者に対する「優越感」で、心の奥にある自分の「劣等感」を隠すことが出来ると思い込む手段だ。

人は生きるために「自分」を知り、「自分の価値観」を持たねばならないが、他者と違うと親にも怒られたものだ。教師は教壇に立って教科書を読んで聞かせるだけであったから、中学、高校と英語も話せない教育だった。子供に「見方、感じ方の自由」を与えよ!!そして自分を感じるのだ。

自分が自分でないとどう生きるのか自信が無い。若者になって自分が無く、生きる自信が無いと「頼れるもの」を捜す・・・そこに付け込むのが「カルト」だ。「こんなに素晴らしい世界がある」などと言われて、自分が無いとそちらに引き込まれる。

だが宗教だがカルトとは違う仏教に、阿弥陀が生まれて直ぐ「唯我独尊」と言ったというのを聞いて、私も「自分が最も尊い存在で、自分を大切にしよう」と気が付いたのは、「芸術とは何か?」に答えられなかった24歳の時だった。「芸術は自分の外にあるのではなく、自分の中にある」というのに気が付いたのは「唯我独尊」の一言の御蔭だった。

日本人が優れた日本文化を築いたのは「集団の価値観」を押し付けた時代ではなく、個人が多様な才能を持てる時代であった。室町時代、安土桃山時代、江戸時代と優れた者に文化が花開いた時代だ。有り難い先人の遺言だと受け止める。多様な個人の存在こそ「文化的」だろう。

 


日本の文化2

2024-07-14 20:24:34 | 絵画

日本の文化で言いたいことは、こちらに!!

最近の日本は「文化」と言えるだけの「内容のある文化」を持ち得ているだろうか?テレビ番組を見てください!!実に情けないと思うが、「食い物」の番組で占められている。かつて80年代終わりころだったか、東京放送が性的な番組と食い物の番組で占められていて「粘膜の欲望で売っている」と批判したラ、皆「うーん」と納得したものだ。恥ずかしくて12チャンネルは回せなかった。

しかし、また性的ではないが、「食い気」の塊の番組構成を、NHKでさえやっている。「今日の料理」は昔は作って見せ、食べることはしなかったが、アナウンサーが食べて番組を閉めるような状態だ。いつからこんなことが起きたか?それは、全ての始まりは「永谷園の茶漬けを食べる」相撲取り「遠藤」が茶碗にかぶりつき、音を立ててすすり込み終わると、品もなく「ぷふぁー!!」と満足げにするコマーシャルだろう。このコマーシャルで、私は一気に遠藤のファンは止めた。関わりたくないと思ったのだ。

それから、食い物屋を紹介する番組、激辛の食い物に挑戦する、あるいはもうあり得ないほど大食いする番組。度は越しても、その境を知らない。元アイドル、美人女優、芸人ももう売れなくなって、どさ周りの代わりに「大口を開けてパクリ」のコマーシャル。極めつけはギャル曽根の大食い。とにかく食べまくって、食べる。そしてある番組が、彼女の食後(?)のお腹全体のX線写真を紹介!!それを見て「ひぇーひぇー」だ。胃袋がお腹全体に膨らんでいて、境目が分からない。そして「一日に15回トイレに行く」とのたまう!!やりすぎてやることがなくなったのだ。もっと品の良い生き様を見つけられないだろうか?プロデューサーのレベルが落ちまくって、視聴率を稼ぐのに「欲望」に走るのは品が無いぞ。これが今の日本の文化になっているのか??日本食が海外でも人気で、優れた日本文化として認めていられるのに、それを壊すな!!

 

我が家に猫の「しょうゆ君」がいた。彼の妹に「ミソとミリン」がいたが短命で、彼が頑張って残った。そして彼は「徹底的に私のストーカーだった」のだ。そして大食い。「ぎゃるそねしょうゆ」と呼んでいたが、食べれば食べるほどに「大」をしたのである。しかも「私の目の前」「廊下」で・・・・「こらーしょうゆ!!」と怒られるのが、嬉しかったのだろう・・・・一日、5~6回は当たり前の「ウン子」だった。おならも凄かった。私の膝の上に来て、音なしで人間顔負けの「鼻毛が枯れる強烈なおなら」だった。

しかし、それらはすべて私の気を引くためだった。怒られると喜んでいて・・・・悲しかった。彼は体調が悪そうだった時にクリニックに連れて行って、診察台の上に載せると、もうすごく喜んで,医院の先生にも喜ぶのは彼くらい・・・変わった子だと思ったら。翌々日に「どうしてこんなところに寝ているの?」とゆすったら返事が無かった。まだ硬直はしていなかった。先生には腎臓が腫れ上がって、長く持ちませんと言われていた。かわいそうで涙が止まらなかった。我が家で無くなった子は50は超えるだろうが、毎度涙が出てしまうが「しょうゆ」は家中汚すので大変だったが・・・世話が焼ける子ほどかわいい・・・と言う言葉は其の通り。

もう埋めてやる場所が無くなっていたけど、勝手口の真ん前に穴を掘って埋めた。あの世で食いすぎるなよ!!


日本の文化に

2024-07-11 09:56:56 | 絵画

日本の文化に「もの申す」と。言いたくてしょうがないから・・・。

日本文化は古来より「伝承した文化」と「伝統した文化」をちょっと分けておきたくて「日本の文化」とした。

この国で古来より積み上げてきた特異な「仏教」から、生活の端々に感じ取れる習慣は拒否するほどのこともなく身についているだろう。「神道」というのもあるが、仏教ほど身近ではなく、御前で同じく手を合わせても「祈る内容」も異なる。せこいのは私だけかもしれないが、神社でお賽銭を挙げても「何かいいことがありますように」とお願い(?)するていど・・・相手の神様が良く見えないので、ちゃっかりした付き合いになる。それに対してお寺にいくと「佛」という「不可侵」に祭られた存在を感じさせる環境が作られているせいか、どんな糞坊主が居る寺でも、一応敬を払ってきた。

こうした精神的な思い込みは理屈ではない情緒に固定されている。しかしこんなことは知らん!!という人もいる。子供のころから関係しなかったからだろう。私の嗜好は美術だから「仏教美術」様々な生活様式にも関係してきたことに興味を感じるが、子供の頃には「まったく煙たいもの」の一つであった。だが絵を描く立場には無視できない存在として、自分に覆いかぶさってきた。そこに精神性を「伝承する文化」を受け入れてきた。しかし生きる上で、生活に取り込んでいるということとは違う。

 

では「文化の伝統」となるとちょっと違う。物や形式としてそこにあるが、変化していくものであり、維持させるために誰かが頑張らないと消えるものである。はかなく流行して過去のものとなる。だから少しでも姿を変えながらでも「受け継ぐ」のが「伝統」だと思う。かつてこの国には木造建築の伝統があった。その最盛期は大正時代と言われる。短いが「大正ロマン」とか「自由」が花開いた時代と言われた。心にゆとりがあったのだろう。お金持ちは「最高の邸宅」を求めて、金を惜しまず大工の能力を最大限に出させたのだ。この木造家屋は各地にあったのだが、多くはその後継者や馬鹿な成金の手に渡って壊され、鉄筋の住宅に化けたのだ。もう失われたものは戻らない。先日NHKで木造の教会を壊す番組をやっていた。情けなくてすぐチャンネルを変えた。

またNHKだが「大工が不足している」というテーマでクローズアップ現代という番組をやっていて、現代の木造建築の実際を取り上げて、かつての「伝統」が失われて「会社形式」の中で、家を作る「工法」さえ変化して、工場でつくる組み立てパーツ式産業になっていることで「個人の才能で成り立つ大工の棟梁」が居なくなってきた。つまり「伝統」が変わって失われてきたのである。

この国は「個人の能力」を無視する国だ。だから、どんなに優れていても「伝統」は失われる。