言葉は他者との繋がりに大切なツールであるが、言葉の意味がどの様に伝わっているかは自分の表現力と相手の理解力による。もし政治的な意味を持った会話では、いつの間にか自分のイデオロギーと相手のイデオロギーがぶつかり合って、意見として発した言葉の一つ一つもかみ合わず、論理的議論から遠ざかることもある。日本人が相手なら感情的な表現で「繋がり」はぶち壊しになることもあろう。
そこで、若い頃には自分が何か「思想、信条」を持っているのか気になるが、高齢者と呼ばれる年になって、己の性向も知らずに生きていたらちょっと恥ずかしい(照れ臭いではない)。何時の時も本音で生きてきたつもりだから、その性向の質とレベルが他者の意見とどの様にぶっつかっているのか、時々知る機会に恵まれることがある。それはある時、他人から一冊の本を勧められて読んだりすると、いつの間にか著者に対立する自分を感じている。
むかし「国家の品格」とかいう文庫本が出て、発刊後数か月で〇〇万部の売り上げとか宣伝されTVにも取り上げられたりして、宣伝効果は絶大で・・・・私も乗せられて買ってしまった。家で読み始めて、いきなり立腹した。なんじゃこれ!!何が国家だ!!国家の品格ではなく、書いた奴の品の無さ!!一つ一つの意見に元となる根拠がなく、含蓄もなく、糞のような表現だった。書いた当人は、後記に「女房には、貴方の独りよがりな言いたい放題でしかない!!とご意見をいただいてます」とか書いて言い訳をしているが、金を払って買った・・・・いや新潮社に買わされた自分が恥ずかしく、腹立たしかった。
で、また新潮(新書)社が「国家の尊厳」とか言う本を出して、知人の勧めで買って読んだ。まあ「国家」と名の着く本は「右寄り体制主義者」の気取ったテーマであることに違いない。さらに「尊厳」と付けば「おおお!!」と「国家に尊厳があったのか!!??」と「品格」とは違った大問題があるのだろうかと不思議な気持ちにかられた。
今回は騙されないようにと思ったが、著者は日本大学の教授で先崎彰容(さきざきあきなか)氏、専門は日本思想史だそうだ。だいたい歴史を専攻する人は文献資料を中心に学術研究を行う人か、あるいは歴史中の出来事を解釈する人なのかによって個人の意見は形成されるが、その上、思想史となると個人の眼鏡の色によって解釈や主張が異なってくる。
まあ今回の著者は色々と社会の出来事を例に挙げながら、「自分の言いたいことに引き込む」手法を用いて・・・(いや。そういう性格の人なのかもしれない)・・・長々とした例や引用に胡麻化されながら読んでみた。
この本の帯封には「誇りある国として生きるために、令和日本の道筋を示す、堂々たる国家論、誕生!」とか書いてある。これは宣伝だが「誇りある国」とか言うと「美しい国,日本!!」と言った総理大臣がいたけど「尊厳」という言葉とほとんど同じ「情緒」でくくられている様な気がする。
著者は序章に於いて、コロナ禍によって人々の間に「否定と感動による繋がりが蔓延している。極めて情緒的で、これが緊急事態宣言当時、筆者が感じていた危機感でした」と述べて・・・。なぜこうした事態が生じているのか、過剰な関係の中に地図からを没入させてしまうのか・・・予め結論を述べると、筆者(著者)はこうした時代状況の背後に深刻な自己同一性の危機があると考えています。
自己同一性とは、アイデンティティーの日本語訳ですが、自分らしさとも呼び変えることも出来ると思います。そして戦後日本のアイデンティティーとは、政治では自由と民主主義、経済では成長主義であり、私的レベルでは個人主義に他なりません。つまり今日、私たちは個人のレベルでもまた国家としても深刻な戦後的価値観の解体の危機に直面している。自己同一性の解体と混乱が一気に顕在化し、分かり易い行動となってあらわになったのがコロナ禍ではないか。・・・と著者は前置きした。
さて、今回はこの著者の前提から話を進めましょう。恐らく著者の論法の全体像を考えるのに最も大事な観点が含まれているので。
まずコロナ禍については、コロナは災害であり「人が作ったウイルスである人為災害」であるか、それとも「自然災害」の範疇に入るかどうかの問題は避けて、、漠然と「災害」としても我々の生活を脅かす「暴力」であることに違いなく、他人の力で立ち向かえる能力には限度があって「感染症」という病理が理解できるのは感染医療の専門家であり、政治家や一般市民ではない。しかし政治家は国民の生活を守るために様々な手段で対処しなければならず、感染が広がった何処の国も同じ条件で理解しなければならなかったはずだ。政治家が無能であるが故に彼らのやることに反発したりして市民のレベルでの対処活動があって当たり前のように思えるが、著者は「否定と感動による繋がりが蔓延している」とし「危機感を感じた」と言っているのです。この時、日本の戦後を作ってきたアイデンティティーが解体の危機の直面している・・・と言っているのです。
私は「まあ、大げさなことを言う!!」と思い、戦後日本のアイデンティティーなるものを不審に感じたのです。戦後日本の政治が自由と民主主義を求めてきただろうか?この自由とは誰の自由だろうか?民主主義の議論をだれがやって来た?多数決で決めることが民主主義であろうか?私の記憶する限り60年代から70年代にかけて民主主義はなかった。議論もなかった。確かに経済は物質主義と拝金主義が成長したと言えるだろう。しかしこれは戦後に限ったことでもなく、戦後という時期を認識する特別な条件ではない。また私的なレベルで個人主義がアイデンティティーとなっていたなどと思えない。個人主義が語られることがあったであろうか?私が個人主義の洗礼を受けたのはドイツに留学してからである、その前のベルギーでは「自己中心主義」は嫌というほど味わったが、私に「個人としての自覚」を教えたのはドイツ人の論理的合理主義であった。ドイツでは議論するときは、お互い相手の身分とか関係なく、議題に沿って私的意見を述べることが出来る。そして、お互いの意見の違いを尊重して議論は進む。つまり他者を個人という独立した存在として認めることである。だから多様性が認められるのは当然のことであり、ここに民主主義の原点もある。こんな認識がこの国にあったであろうか?著者はフランスに留学して個人主義的と思われたのは「自己中心主義」ではなかったか?安倍内閣が打ち出した憲法改正のあるべき理由として「個人主義が蔓延してこの国がおかしくなった」とか書かれていたが、物が良く分かっていない人がいるものだと失望させられた。恐らく自己中のことだろうが。
広辞苑によるとアイデンティティーとはこう書かれている。①人格における存在証明または同一性。ある人が一個の人格として時間的空間的に一貫して存在している認識を持ち、それが他者や共同体も認められていること。自己同一性、同一性。 ②ある人や組織が持っている他者から区別される独自の性質や特徴。企業のーーーを明確にする。とある。
私は日本人の自己同一性(アイデンティティー)の認識を疑っている。広辞苑の意味だと自己が自分を理解して確認していることではなく、他者や共同体つまり社会が認めることでアイデンティティーは成立していることになる。自分がどう思おうが社会が認めないとアイデンティティーはないということになる。このところ、性同一性障害という言葉もあるが、これは社会が認めていない「性別」があって、個人の感じる「障害」としか認められていない。他にもアイデンティティーの問題では「夫婦別姓」も個人の嗜好程度の扱いで、最高裁も認めなかった。しかし現実の社会生活では結婚して同じ名前になることを強制される不利益について個人の問題より、行政や社会の都合を押し付けられている。これはアイデンティティーを失わせているとしか思えない。
アイデンティティーは何故社会が認めなければならないのか?まさに集団の価値観を押し付けるこの国の国民性の伝統でしかない。社会が認めて初めてアイデンティティーだというなら、そんなアイデンティティーはいらない。私は自己のアイデンティティーは保持している。誰が何と言おうと、自分は自分であり社会が認めなくても良い。
しかし多くの人たちは政治についても思考停止し、70年も続く自民党支配も疑わず思考停止以前に思考しない人達によって曖昧な存在の国になっていることこそアイデンティティーを失った危機的状況だと考える。
もし、国家に尊厳があるならば情緒的で論理的な議論も出来ない国民性がこれからも続くことに危機を感じるべきだ。小手先の筋も通らない政治にコロナ禍よりも危機を感じる。
そもそも著者の言う「戦後日本のアイデンティティー」はあったのかというと少なくとも経済以外の自由と民主主義、個人主義はなかっただろう。そうすると著者の描こうとする「国家の尊厳」が揺らいでしまうが・・・・。
次は、著者の示す「国家の尊厳」について書くことにする。
今日は大雨で、この田舎町も線状降雨帯につかまって、家の玄関先に水があふれているのに猫たちが帰って来ないのが気になる。