河口公男の絵画:元国立西洋美術館保存修復研究員の絵画への理解はどの様なものだったか?

油彩画の修復家として、専門は北方ルネッサンス絵画、特に初期フランドル絵画を学んできた経験の集大成を試みる

人はバイアスで自力救済するが

2025-01-29 00:02:56 | 絵画

前にも書いたことがあるが、「自分が自分であると自信を持てるまで他力本願である」と。

若い内には、自分が何をしたいのかよくわからないとか、何が信じられるのか分からないとかで迷う。皆と同じにやっていれば、とりあえず良いか・・・と思って過ごす。そして気が付いたら「神や仏」に身をゆだねることで安心し「自信」を持ってしまう。「神仏」を信じられない人は、自分のエゴと対面しなくてはいけない。

一体自分とはなんだ、何がやりたいのか?何のために生まれてきたのか? 疑問が大きすぎて簡単に答えられない。

特に親や教育に縛られて「ああしろ!!こうしろ!!」と言われてきた人ほど、自分が何をやりたいのか感じることを疎外されてきた人はいない。これは日本だけの話ではなくて、多くの国で家族や身近な人に自分と同じ価値観を持つように、あるいは自分の言うことを聞けと強要する習慣が根付いていただろう。

やっと最近になって民主主義や個人の多様性について語ることが出来るようになってきたが・・・・・しかしまだ不十分だ。まだ個人と集団の対立で自分を守らねばなならない社会がある。

大人が子供に対して、「何をどう感じて、何がしたいのか」自分のことだと感じ取れるようにしてやらねば、社会と言う名の集団は人としての責任を果たさないだろう。

一方でこの国には「相手のことをおもんばかって、自己主張しない」と言う奇妙な習慣が見つかる。つまり「いうべきことを言わない、あるいは言えない」と言う空気を大事に思っている。

違うだろう! 自分が何をどう考えるか相手に伝えることこそ、相手を大事にすることでもある。ただ対立を勧めるのではなく、「オピニオン:意見」がいろいろと存在することを、お互いに持ち合うことこそ「相手を大事にする」ことだと。この国で目指すべきは論理的合理主義によって、理解が深められれば無駄な感情の対立は避けられる。

だが、思い込み(バイアス)で自分を守ろうとすることで「自己確立している」と思う人もでてくる。これは過渡期的プロセスだと言うほかない。人の精神的成長の障害にコンプレックスと言うのがある。このコンプレックスの意味は日本語では「劣等感」の意味でつあくぁれることが多いが、この言葉は「優越感と劣等感」の両方の意味である。なぜなら優越感が生じるのは劣等感があるからであり、一体のものである。ここに差別主義が生まれる。移民によって形成されたアメリカは人種が多く、階級主義で自分の欲望を達成しようとする人が出てくる。白人至上主義というのが、他者とより自分をよく見せるための「能力、財産」以外に持てる者がない人たちは「白人」であるだけで「他社より優れている」と言い聞かせるのである。実に幼稚だが、同時に精神性のもっともすぐれたレベルで生活できる人たちもいる。

そのアメリカの歴史学者のハラリ氏は「人は物語を作って戦争をする」と述べている。これはバイアスによって正当性を作り「人を殺す言い訳」を作っているということだが。ロシアのプーチンは大ソ連主義の復活の物語、習近平は中華帝国主義で「かつてここは中国だった」とチベットも新疆ウイグル地区、内モンゴルも支配し。イスラエルは過去にロシアでユダヤ人が虐殺されたときに、その場にいた詩人が読んだ詩に書かれた悲惨な情景を民族の悲願として守るように訴え、イスラエルをパレスチナの人々を武力で排除して建国した歴史の正当性を訴えて、PLOやハマスの抵抗をテロだと言って殺戮の言い訳を作っていることをハラり氏は述べている。

言葉で「人殺しを正当化する」のは権力者の常である。しかし人類が言葉を使うようになってずるくなるのは精神性の幼稚さが元だろう。

 

 


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