河口公男の絵画:元国立西洋美術館保存修復研究員の絵画への理解はどの様なものだったか?

油彩画の修復家として、専門は北方ルネッサンス絵画、特に初期フランドル絵画を学んできた経験の集大成を試みる

一度だけの解脱(げだつ)、加筆のおまけ在り

2020-12-21 22:26:29 | 絵画

1976年、ブリュッセルで悩める画学生であった。思うように何もできない、何をどの様にやりたいのかも分からない自分が居て、情けなく苦しかった。余計なこと、他者をうらやむことを考えて生きた心地がしなかった。朝起きると枕が濡れているのに辛かった。

そこに一冊の「禅」の本に救いを求めた。毎日、苦しくなったら座禅を組んだ。それが本が指示する座禅なのか知る由もなかったが、ある時苦しく感じていた自分の気持ちが一瞬にして消えた瞬間を経験した。

身体全体が温かく、硬く凝り固まった感覚から解放されて、何もない時分を感じた。そして起き上がって庭に出て、石畳の間に蟻んこを見つけて「こんにちは、アリさん」と呟いた。

この感覚を「解脱」ということを後で知った。解脱は悟りを開くための入り口だそうで、何度も解脱を繰り返してやっと悟りが開けるらしい。

私は「悟り」は求めなかった。

なぜなら「枕を濡らす自我の大きさを知りたかった」から。悩みから解き放たれて自由になった自分が居て、新たな出発だった。

若い人たちに・・・

・・・・今の自分がどうしてもやりきれない気持ち、苦しみを感じている時、それは自分の自我が苦しんでいる。その自我を知りなさいよ。どうすれば自分が満足するのか。

だから独りで「やりたいように生きるイメージ」が大事です。そこには自分しかいません。そして出てきたイメージの世界に尊敬を与えなさい。なぜなら、それが他人から見て汚くても、気持ちが悪くても大事なのは自分なのです。そこにクリエイティヴ自分の世界の出発点があり、そこから発展するからです。

と、中学生や高校生に既に「自我」を感じて欲しい。そして生き方の選択を納得できる自分になってエクスキューズのない人生を送ってほしい。

おまけ:

この年になって「煩悩」多き若かりし頃から、「煩悩」は愛おしいものになった。たった一度の「解脱」が教えてくれた。

煩悩というものは絶えず大なり小なり身につくもの。生きている限り欲がある。この欲を捨てるには坊主になるしかないが、出家したくない。なぜなら欲があるから人生が面白くて、退屈せずに命が尽きるまで生き続けるのである。

ときに、煩悩が大きくて独りで解決できなくなるほど苦しむことがある。その時は座禅を組んで苦しみぬくほど誠意を込めて苦しめば光が見える。そして何故悩んでいたのか、全てが消し飛んでいく。


いらないもの

2020-12-18 23:57:32 | 絵画

一年前に「おせちの季節だい」とかいう記事を書いたようだ。だんだんとおせちを作る意味がなくなって来て、今年はおせちとしては作らないだろう。父が亡くなって3年半たって、もう誰かに作るということもなく、自分にさえいらなく思う。

いや実は歯が痛くて何でも食べられるわけではないからだ。雑炊ばかり食べて野菜不足、栄養の偏りか・・・免疫力もなくなってきたみたい。来年の頭にインプラント手術を用意している。やっとこの田舎の浜田でもインプラントをやってくれる医師と巡り会えたのだ。まあここ一年は手術の為にどこかに引っ越すこともなかろう。これまで自分が学んだ西洋美術についてとか、修復についてと開花すことが出来たらと思ったが、あまり役に立てなかった。Kちゃんが芸大目指すと言ってくれて少し何かできたかもしれないが、不十分だ。

そうこうしている内に高齢者になって、自分に満足していないのが悔しい。だからこの先はもっと自分に明快な思考と実行を強制したい。と言ってもそう大したことではない。本質はアナーキーだから、個的な実行力を持たせたいだけだ。

ネットでネパールの犬事情をやっていて、二度人を噛んでも殺処分にならなかったどころか、獣医が来てタダで去勢手術をしてくれて、皆でその犬が穏やかな性格になるように見守ってやっているという話だった。ネパールではあまり野良犬が居ないそうで、みな狂犬病などの予防注射をしているそうな。何故、野良犬が居ないのかというと、犬の売買が禁止されてブリーダーが居なくて、有り余るほど犬が世の中に居ないからだ。日本では犬猫ブームだが、毎年60万匹以上の犬猫の売買がされて、何万匹という犬猫が殺処分されている。こんなことで良いのだろうか。野良猫にはエサをやるなという自治体もある。何度傲慢な態度であろうか。猫は人間が作ったペットであって、野良猫は「野生の猫」ではないのに、エサをやるなというのだから、愛玩動物の遺棄、虐待は犯罪だと法律まであるのに、捨てられるとエサをやるなと言うから私には許せない。

だから、金の為に殺すほど余る犬猫を作り出すブリーダーを法律で禁止すればよいのだ。これは世界にいらないものの一つだ。

それから大学受験もいらない。「競争によって人は磨かれる」と思っている人が居るが、何のための、誰のための競争だ??

小中学校から自分の意思で考える教育を与えず、集団の価値観で個人の多様性を否定し、制服を着せて一羽一からげにする。労働力を要求する経済界から政治献金、口利き料をもらって、主体的思考力の無い労働者を育てるように教育システムを整える自民党の長い歴史に反抗もしない日本の大方のものが嫌いだ。

学問は自分の為にするのであって、会社のため社会のためにやるのではない。まず自分のために学んで、それを生かして社会に役立てられればということだ。

またいつも愚痴が出た。ハンコもいらない。元号制もいらない。

今日はなんだか機嫌が悪い。ニュースで犬と散歩していたら、その犬を蹴り殺した男が居て逮捕されたという。こんな男には犬の糞を顔に塗りつけてやりたい。

酒でも飲みたい気分だが、歯が痛いのです。では。


日本学術会議の法人化 (加筆あり)

2020-12-18 12:27:03 | 絵画

最近、自民党の「日本学術会議の在り方の検討会」とかで会議の主体を独立行政法人にしたらという案が出されて研究者や会員から批判が噴出している。独理行政法人を作ったのは小泉純一郎と竹中平蔵であるが、郵政民営化とか行政改革という言葉で出したアイデアで特に文部省傘下の機関の多くを国の支配権限を残して、運営予算を減らして、少しは自分たちで稼げと放り出して「行政改革」だと自慢した制度である。名目上の公務員減らしということだったが、法人職員とは言っても準公務員である。法律上、給与は減らすことはできなかった。大学も運営予算を減額されて、民間と共同研究を行えとか、金になることをやれとか言われて、特に金のかかる理系の学者は、それこそ今回問題にもなった防衛省からの安全保障にかかわる研究に与えられる研究交付金に飛びついた教授も出る始末だ。

国公立の大学や研究機関が交付金を減らされた一方で、私学交付金を増やした。その結果、出来たのが理系なのに分数の掛け算、割り算が出来ないぼんくら学生が行く、昔でいう「駅弁大学」を増やした。

私の勤めた国立西洋美術館は独立行政法人国立美術館となって減額された予算に、自分たちで運営費は稼いで暮らせと言われて、お金になるつまり入場者の多い「大衆向け展覧会」をやり始める。それこそ学芸員は西洋美術を専門とする研究職にありながら国際論文も書けなかった訳だから、展覧会ばかりやって来たので言い訳にもならないだろうが。京都国立博物館においては目も当てられない「展覧会」・・・全く専門でも何でもない、ただ入場者で利益を得ようとして、それとも当てつけか、なんと「スターウォーズ展」をやったのだ。最近でこそ日本文化に陽が当たり仏教彫刻の展覧会で大入りもあったが、常に何か新しく「大衆に媚びるテーマ」が可能なわけでもないのに皆研究心を失ってしまう。当時の西洋美術館の仲間たちは、集客の多い名ばかりの展覧会を企画するのを恐れた。

小泉と竹中の頭の程度が行政改革の嘘を作り出したが、今の自民党の作業部会も反省はない。彼らは専門家の意見を聞き、現場を見る意識は持ち合わせない。よく見れば何一つ良くなったことはない。郵政が民営化されて、東芝を左前にした社長が優勢の新しい社長になって、5兆円の損失をオーストラリアで出したことを忘れてはいけない。国民が長い年月掛けて育てた郵便局を亡き者にしたのである。その後の郵政の活躍ぶりの不徳はご存知の通りである。

「角を矯めて牛を殺す」という言葉あるが、今は日本学術会議を殺そうとしている。

昔、経済は一流、政治は三流といったが、今は経済は三流、政治は五流だね。

菅は学術会議の任命権者として「総合的、俯瞰的活動を・・・」とか言って権力を誇示したが、「任命」は法律上の形式であって、実際の権限ではない。当の総理大臣は誰によって任命されるか?天皇が任命するが、天皇が任命拒否できるか!!??これは法律上の形式なのだ。馬鹿じゃないか。菅がものを知らない政治家でああることがバレバレではないか!!

何故、こんな日本になったのか??悲しい。


住む場所を間違ったか?

2020-12-14 12:51:43 | 絵画

9年前、Iターンでこの島根県浜田市にやって来たが、住んでみて今更に嫌になる冬が来た。ここは日本海に面していて、冬場の天候は日本海沿岸の北陸や東北、北海道の西側の沿岸の町に当然のようにある冬の西風で気持ちも萎えてしまう。

家に閉じこもって絵を描けばよいと思われるだろうが、家の前は直接日本海の海。昼夜の区別なく西風が吹く冬には海鳴りと波が岩場に砕け散るたびに起きる震度一ぐらいの振動が絶え間なく、家も揺れる。家の後ろの徐目に当たる風は風きり音で気持ちを悪くさせる。

今日も波が6mはあり、家の地所が直接海に接しているという状況から、もし大波の浸入を防いでくれる波止がなければ、家の庭に立っていて波しぶきを直接被るだろう。庭に駐車していた以前乗っていたハイエースは塩害の錆で真っ赤になってしまって、別に新しく購入した二代目の為にイナバの駐車屋も5年にして真っ赤の状態。(72万円払った車庫)

今日の風は強く、帽子をかぶっても飛ばされる。庭の木もしばしば風で折れる。隣の水産高校に設置されたカーブミラーが風で曲がってよそを向く。この風の中帰って来ない猫が何匹かいる。家の中は24時間石油ストーブで暖房されているが、隙間風で16~17度がせいぜいだ。外はもっと寒いから、子猫がストーブの前を占拠して寝ている。外で寝るようになった我が家の家猫のために夕方にはカリカリをやりに出かけるが、冬場はきつい。カリカリも飛ばされるのだから・・・・その場でしばらく番をして見てやる。座るとコンクリとが冷たいから座布団も持参して、スマホを見ながら付き合う。また明日もみぞれか雪かふるらしい。

先ほど車のタイヤをスタッドレスに交換してもらった・・・このところ朝から晩までタイヤ交換らしい。

私の家には冷蔵庫が3台ある。今時、冷蔵庫が2台有る家は珍しくもあるまいが、我が家は独身だからなぜそんなに食料が必要かと言われると・・・一部は魚釣りの餌が入っていますって。まあいずれにせよ、もう入れるところがないほどパンパンに食料が入っていて・・・中にはここ何年も入れっぱなしのものがあって、腐ったものも入っているが・・・正月まで十分に食べ物はあるから、買い物に出かけることもなかろう。そうなると猫の世話と自分の世話、そしてお絵かきと・・・きりが良くなるのでは。

しかし寒いのは暑いより苦手だ。体を丸めて閉じこもるような姿勢は全てがネガティブに思える。寒さをテーマに絵が描けるかも・・・寒いは暑いより死に近いかも。

1970年代の後半をドイツで過ごして、当時の寒さは、近年の温暖化の時期と比べられないほど寒かった。ニュールンベルグでは下宿から研修先のゲルマン民族博物館までのほんの1kmに満たない距離でマイナス20℃で歩くのに死ぬかと思った・・・なんせ防寒具はベルギーで買った安物のアーミーコートだけだったから・・・その後の西ベルリンでの生活もマイナス25度を経験した。その日は朝からポーランドの連帯がデモを仕掛けたというのでワルシャワに戒厳令が敷かれて、ベルリンがかつてあったように封鎖(ベルリン封鎖=陸の孤島にされ、空輸のみで食料を連合軍が調達してくれた事件)があり得るというので、アメリカ軍の戦車が町の要所要所に配置された。私の下宿は東ドイツとの国境の壁からほんの200mくらいのところだったので、戦車を真直に見た。家ほどもある鉄の塊が動くさまを無言で目をおっぴろげて見送る・・・コンクリートの道路から体に伝わる振動は恐怖心に変わった。戦車は交差点の要所に国境側に大砲を向けて斜めに停車。中から戦車兵が体半分・・・暖房もない戦車から周囲をにらんでいた。あれを思い出すと「寒さなんて!!」と・・・いやいや寒いものは寒い。

その日の午後三時に国立図書館での研修を終わって帰宅するに、バス停の外気はマイナス15度であった。これ以上気温が上がることはなかった。ベルリン市民が着ている様な温かい服は持っていなかったから、今考えると画学生の延長は貧めしと貧服であった。

そうそう、ベルリンには下宿の暖房は17度以下にしてはいけないという法律があって、下宿人は守られていた。このドイツでも生活に慣れて帰国した時には日本の暖房が熱くて仕方なかった。

いずれにせよ今の住まいは寒すぎる。西風、北東風が嫌だ。南風は海波も穏やかにし、温かく感じる。瀬戸内側に住めばよかった。今思っても山陽新幹線の新山口駅の近くが良かった。近くにイオンがあってちょいと車で行けばビックにトライアルもあり宇部空港も20ばかりで行けて、駐車場もタダだ。

まあ、今はコロナでどこにも行けないけどね。

また、愚痴を書いてしまった。

 


ガラパゴスの中で唯我独尊

2020-12-12 11:24:26 | 絵画

今のこの国の問題は「保守的なメンタリティ」にあると思う。その一因は、この国が島国で「井の中の蛙」になり易く、他国からの刺激が少なく、あるいは「どう思われているか」気にする一方で、その批判的な部分は無視し、特に欧米先進国からの良い評判を喜ぶ。これは劣等感ゆえであり、その相反する裏側の優越感はアジアの国などの発展途上国に向けられ、それとなく安心している。これに差別感があると言われれば、気が付かなかった振りをする。

この島国で生きるためには「集団の価値観」を受け入れ、異論は避けて曖昧にやり過ごす。他人と自分の違いを、子供頃からの教育で教わっていない。皆同じように考え、制服を着せられ、号令をかけられ、規律に従うことを良しと教わる。与えられた教育が人間を教え育てることであったためしがない。学校に入学試験があり競争を強いられる。その競争は次の入学試験の為であり、つぎにまた社会に出るとき優位に立つための競争のための教育である。このやり方は発展途上国のやり方として隣の国でも激烈な現象を引き起こしている。彼らはこの国の姿を真似してきたのだろう。

欧米の先進国では入学試験は「大学入学資格試験」としてあるが、入りたい大学は主体的に選べる・・・いや、当人が選択する、つまり決定する自覚をもっている・・・から、生きたい大学に登録する。そして多くは初年で学ぶ能力を求められ、それに付いていけなければ落第、あるいは退学となる。要するに個人の意思を尊重する代わりに、自己責任が伴うのである。個人主義の国では当たり前であるが、我が国のように大学卒業を「労働力」としてしか認めていない、あるいは認められない国では、個人は「仕事に就く」ことは、人生の喜びとしていあるのではなく、ただ生活を立てるためであることが多くなる。しかも就職先を自由に変えにくいために、個人に適さない仕事でも「我慢して」定年まで耐えてしまうことも多くなる。もし耐えられなくなれば「自死」する人も出て来る。

このコロナの中で自殺者が増えていることは、とても苦しく感じられる。健全な自意識を与えられなかったために、異常に自死が多い国になっていると思う。だから私は「はみ出し者で良いではないか」と訴え、自分を大切に思う気持ちから、ひとっ違う考え方があれば積極的に発言し、信じる所があれば自分の意思を貫き通した。

西馬込の友人はある時、あたしの生き方を指して「唯我独尊だね、悪い意味じゃないよ」と言ったのを憶えている。そう、自分は尊い人間なのだ・・・と改めて思ったものだ。その尊さは、「他者に対してではなく、自分に対して思うこと」である。

このことは小中学生の時に基本として教え育んで欲しい。以前にも書いたが、子供が「自発的に疑問に答える」、つまり考え方を押し付けるのではなく、多様な答えがあることを引き出してやって欲しい。

昔書いたかもしれないが、ベルリンで生活していた時、元カノのマリリンが前を歩く老婆のお尻を蹴っ飛ばしてやりたいというから「そんなことしてはいけないでしょうが!!」と言ったら「貴方は私のことは一生分からない」と言って怒った・・・つまり「どうして蹴っ飛ばしたいの?」と質問しないで、教条主義的な日本人の価値観で批判だけしたからだ。

ドイツでは質問の多い子供に「どうしてバナナは曲がっているの?」と聞き返すが・・・ゲルマン民族博物館の修復アトリエで質問しまくった私は皆に「どうしてバナナは曲がっているの?」と言われたものだが・・・面白いことに、ドイツ人は問われた問いには、何が何でも答えようとする国民性を持っている。これは彼らの論理的整合性が美徳のように信じているからである。

こどもには「理屈や屁理屈」が大事なのだ。自分のことは自分で考え、自己責任で生きる人になるべきだ。唯我独尊を単にお釈迦様の言葉として聞き流さず、自分のものにすべきだろう。

また、理屈をこねた?