河口公男の絵画:元国立西洋美術館保存修復研究員の絵画への理解はどの様なものだったか?

油彩画の修復家として、専門は北方ルネッサンス絵画、特に初期フランドル絵画を学んできた経験の集大成を試みる

Iターンの幸福度2(加筆しました)

2019-07-20 12:39:37 | 絵画

やはり何を捨てて、何をひらったのか?

東京での生活は固定資産税や地震災害の心配を抜きにすれば、現役時代から形作った生活にさほど不満があったわけではなく、年を取った父親の生活の心配を埋め合わせる事などをどうするかと、結局明確な計画があったわけでもないのに、独身の気軽さで決心したのが、どこかに落ち度があったように思う。勿論欲望に100%の満足があるはずもないが・・・。

つまり、私は旅行者ではなく、ここに住んでいるので、もう少し積極的に「生きている」活動を示さねばいけないのだろう。Iターンで見知らぬ街にやって来た者にとって、この町の何かにコミットしていくというのは難しいものがある。

前にも書いたと思うが、人口4万人ちょっとの小さな町で、元は漁業の町だがふるわず、非課税(つまり、税金を払わない者)が4割以上いて、あと十数年したら行政区として成り立たなくなるという。それは夕張市が破綻したように、この町もなるということだ。この町に若者が引っ越して来たら、いきなり生活保護を受けなければならなくなる。仕事であるのは「介護」の仕事しかない。市長も市議会議員も何もこの問題に触れず、やれ北回り船の港の文化遺産登録だの、跡形もないお城の資料館だの、箱モノに近い町興ししかない。能天気でしかないが、これが地方の資質だろう。地方創生は現地から発信できる自治体は本気でやる気を持った市長とブレーンが必要だ。この町で最も高い給与をもらっているのは「公務員」であるから・・・・。いや、公務員の数が多すぎるように思うが・・・。

なんでこんな町に来たのか、最初の年、郵便局の受付のお姉さんに「年でこんなにン兄もないところに来たの?」と言われ、「何もない」の意味が物ではなく、精神性が無いことに気が付くまで時差があって、いろんな市民の声から知ることになろうとは。

で、お前はどうする?何がしたいのか?といわれると、やりたいことは絵を描いていることと、ちょっとした菜園、猫と魚釣り。それ以上望んでいなかったから「気」が抜けた。いや「魂」が抜けていると思う。

最初からこの町に骨を埋めるつもりは無かった。父親が97歳と10か月まで生きて、なるべく傍にいてやりたかっただけだ(それでも120kmある)。父が亡くなって、一つのピリオドを迎えた。さあどうすると・・・・。

この町にいたくないと、それなりに思っていたが、まだ父の家(私が生まれた家)に戻ろうと思えない。岩国の家は岩国も町まで25km、徳山まで25km、同様に柳井、光市にも」25km離れていて、車が運転できなくなってきたらどこにも行けない、お終いだ。

実はこれまで26回引っ越しているから、根がない性格とも言える(在外研修は含まない)。夏目漱石の「情に竿させば流される、知に働けば角が立つ・・・とかくこの世は住みにくい・・・ある時ふっと、何処に住んでも同じだと思ったとき、詩が生まれる・・・という言葉が・・・でも、「詩」は生まれないのだ。この「詩」は世の中の諦めから生まれるとお思いか?

やはり違うと思いたい。

今日は一つ良いことを思い出した。西の空がバーミリオン色に染まって、雲が燃えている様な景色。この我が家から見える日没は美しい。海は静かにパステル調のセルリアンブルーに遠くにたなびく雲はもう少し優しいセルリアン。目の前の岩磯に隠れて、海に沈む陽は見えないが岩の向こうにハイコントラストな世界が私の趣味の幻想だ。留まることもなく陽はかげり、暗くなっていく。これは現実なのに、私は虚構のように思い込む。絵を描かなくても、絵の中にいる気分だ。

どうやら自己と外界との窓口は開いているようだが、不条理の状況に陥ってそこから抜け出せないでいる。

 


Iターンの幸福度1

2019-07-14 12:04:46 | 絵画

Iターンは見知らぬ土地に住居を構えてそこで生活をすることですが、若い人や退職後の人たちに流行っているようですが、はたして幸福かどうか?

かつて「Iターンの美術」と題して書きましたが、今日はそれと違って「良かったかどうか」について書きたいと思います。

見知らぬ土地というのは「海外生活をする」のとどう違うかと言えば、そこで生きようとする意欲が違うことが揚げられます。外国の町に引っ越したらまず何をします?もう先に経済的に見合う住居を見つけて、少しの家具と荷物もそろったとして、まず何をしますか?私は地図を買って、家の近くの状況を地図で俯瞰(ふかん:上から眺めること)しました。そして近所に顔見世のため、言語が出来なくても一番近い「八百屋」に行き、食料を買いました。ブリュッセルの場合、まずフランスパンと豚のもも肉の湯でハム(これは一枚がやたら大きく、日本のハムなどと比べ物にならないほど美味しかったです)これにサラダ菜を買えばサンドイッチですが、塩と砂糖、それにカリタ珈琲のセット一式、フランス語は八百屋に行く前に、どういう風にしゃべるか内容をあらかじめメモ紙にかいて持参。おばさんは微笑んで「何でもいいっから言ってごらん」と言ってくれました。それからフランス語の練習の為にこの八百屋に通いました。こうした始まりから、とにかく毎日歩き回って町の様子を知りました。もちろん美術アカデミーの場所もいつ開校されるのかを確かめて、市役所の滞在許可の受付で、ビザ取得の登録の手順を尋ねました。こうして恐る恐るブリュッセルの街に溶け込んでいきました。という過去が、知らない土地に入り込む若さゆえのエネルギーがあったけど。

西洋美術館を定年退職後、浜田に引っ越しましたが、理由は東京にいれば住民税、固定資産税で生活費が持たないことと、いずれにせよ首都直下大地震が来ると思い込んでいたから、東京を離れることは定年前からの計画に入っていて、島根紺浜田市の松江地方裁判所競売物件情報をあさって、現在の家を競り落とした。字書面積は大きく00坪、腐った工場と築26年の住居(今は30年を超えて、床も抜けかけている)を購入。まあ全くこの町を知らなかった訳ではなく、父親が生きている間 は東京から岩国に通うのに途中下車して「ヒラマサ釣」に熱中していた。その時は車に寝泊まりしていて、漁協の銭湯に行き、位置の駅の食堂で肉うどんをよく食べた。肉うどんは故郷のご馳走で、子供のころの記憶がよみがえる。山口県と島根県との方言というと、おおざっぱすぎる。方言はやはり文化圏で区切ることになるだろう。ここ浜田は島年県では石見と呼ばれる地方で、その比較にされるのは出雲地方で松江、出雲がひとくくりだ。出雲地方の者は石見地方を田舎者とさげすむ。浜田トヨペットでハイエースを買おうとしたら、出雲出身の店長が「あんたは一見さんだから手付金50万円を前払いしてくれ」といったので、私は激怒!!してわざわざ山口のいとこに頼んで、山口ネッツでハイエースと同じ型のレジアスエースという車を購入した。車をトラックに積んで途中の益田市で車検登録して配達してくれた。つまらぬことで出雲と石見の対立を学ばされて、県庁のある松江が120kmあると思うと、嫌な県だなあと思うようになった。ちなみに山口まで120kmで、広島まで100kmだから、本当は広島県に併合して欲しい。昔から津和野や益田は萩文化圏で雪舟が益田に庭造りや水墨画を残していることを考えると、山口が直ぐそこにあると皆感じていたに違いない。

徳川が外様の毛利を監視するためにを松江からこの浜田にまで松平を置いたのは、この浜田をへき地にしてしまったに違いない。この浜田には松平の殿様の城があったが、長州征伐で最前線になって、大村益次郎の軍隊に攻められ、城や町に火をつけて美作(岡山県の中国山地に位置する)の親戚を頼って逃げた。この浜田が如何にも文化圏として中途半端な気がするのは、古いものが残っていなくて、この国の木造建築の最盛期の大正期の旅館とかを崩して、つまらない鉄筋コンクリートの建物に変わってしまっているは、この土地に愛着を感じさせない。地方自治体では10年位前に市町村統合が行われて、土地面積がやたら大きくなっても、人口が浜田市は4万人少々とさえないが、市議会銀の数は28人になり、選挙で改選が行われるたびに3人づつ減らしているが、未だに23人いる。市の公報で議会報告がされても、彼らの資質を疑うような失業率応答がされているのにあきれる。現市長は前の市長の参事を務めていた私と同じ年の者で、元東大出の銀行員で、疲弊する地方に何か生き残りのビジネスでも提案するかと思いきや、町に火をつけて逃げた松平の城を記念する資料館を作ろうとするとか、石見神楽の記念館を作ろうと提案したり、無茶苦茶と思える。しかも彼は横浜から通うサラリーマンなのだ。やるに事欠いて市内にある県立大学の講座に地方を活性化させる科目を置くように県知事に頼みに行った。なんと厚顔無恥か。「てめえの仕事だろうが!!学生にやらせるのか!!」と叫んでみた。

私がこの町に溶け込めなくて、いつも外国人だと感じるのは、ブリュセルからニュールンベルグ、ベルリンと移り住んで生活したころと全く変わりなく感じる。その問いの状況、町の歴史など知っても何もならない。そこに滞在する目的があれば、それさえ満たせばよい。うむ・・・真鯛を釣りに来たのじゃなかったかい?・・・と言われそうだが、それがなかなか上手くいかないから、こういう文章を書いているんだ。

きっと私と違って最近Iターンで島根に来る人達は農業を生活の一部として考えてくる人が多い。彼らが意外と定着しているのは、周辺の人間関係でも、共感できるかどうかを考えなくても済むように、家族と一緒に来るからだろう。こうした外国と同じ環境に近いものがある場合、情緒をいやしてくれる、心の支えとなる家族は必要だ。まあ私には猫が沢山いるから・・・・。話し相手にはならないが・・・てめら、学校行って勉強して来い!!授業料出してやる!!・・・と。毎回同じことを言っている。とりあえずの家族だ。

Iターンには精神的な支えが必要なことは確かでしょう。

精神的満足を求める前には、田舎の町だからきっと物価が安いとか、自然がいっぱいあって気持ちよく過ごせるだろうとか思うのは無理があった。スーパーの品物の値段は同じか、むしろ高い。安売りの量販店で食料、衣料品などを買うと、要するに質が悪いのに気が付く。ここは漁業の町でも魚が高い。東京の方が、種類も豊富で値段も安いことに気が付いたころには手遅れ。ただ住宅費は安い。当然なことに周辺環境が都会と田舎町ではいろんなものが手に入らぬから不便で、そのため安いのであって、住宅費が安いと喜んではいけない。年寄りで年金暮らしが厳しいから都会を後にすると言ったとき、「世捨て人」として、物の多くは望まないということが条件だ。ちょっと修復の仕事や絵を描くのにもエティルアルコール99%が欲しくても簡単に手に入らない。だからもう仕事はしないと決心しなければならない。だと、不満が残ってしまう。

この田舎町で東京の常識を求めてはいけない。ここにある国立の医療センターはやぶ医者ばかりで、特に外科は救急で「死にかけていないのだったら、連れてくるな!!」というから・・・。で、むかし沖の波止に釣りに出かけて、大けがで医療センターの前身である「国立浜田病院」に行ったら、4日入院、しかし骨折していないし、内出血も大丈夫だと、帰って良し・・・と言うことで東京に帰った(当時、父親の住む岩国と東京の往復の間に、浜田でヒラマサ釣りをやっていて事故に遭った)がやはり痛くて歩けないから、近所の整形外科に行ったら「骨が折れてますよ」と言われて、ショックだった。実際に浜田の人たちは「大病」したら、広島の病院に行くのだそうだ。それでないと「早死にする」という。まあ言い方を変えると「殺される」に近いかも。Iターンで来るものは覚悟せえ!!ない物ねだりは意見茶!!

そうそう、いつも夏目漱石の小説の一節を・・・・・知に働けば角が立つ、情にさおさせば流される、とかくこの世は住みにくい。ふと、何処へ行っても同じだと思ったとき「詩」が生まれる・・・。で、この詩だよね。それは絵の中に求めているけど・・・。

若いころは何も怖くなくて、リュック一つでヨーロッパに出かけたんだがね。年を取ってから、財布に現金やカードを一杯入れておかないと行けない。だからシャルルドゴール空港で財布をすられてしまったな。なんじゃ!!

では。


 


美術品の防災対応2

2019-07-01 23:37:21 | 絵画

今回は水害について

今日も九州から四国の太平洋側にかけて大雨で被害が出ている。何とかならないものかと思う。どうしてこの国では同じ災害に苦しむのか?それは災害に慣れ親しんでいるからだろう。のど元過ぎれば熱さ忘れるともいうけど。これは情緒的なものの考え方が繰り返されて、思考停止する様を言い当てたもの。実は、去年の夏の西日本豪雨では、私の生まれた郷里の家も大雨に見舞われて、同じ町から3人の死者がでた。一人は車ごと増水した川にのまれた。我が家は家こそ大事に至らなかったが、二級河川に沿ってある我が家の田んぼや畑の土手を破った大水が田んぼに砂を持ち込んで被害を与えた。10年に一度起きている。何とかすべきだが、被害が出るまでは県の土木は動かない。全面的な対策工事が必要だが、費用が掛かり過ぎるのだ。結局、被害が大きすぎて国土交通省の予算で行うことになったが、これはこれで官僚的な対応で、納得のいく具体的な工事の考え方が欠如。また10年したら同じことが起きる工法でやることになった。いや、異常気象の今日、もっと早く、問題が露呈するかもしれない。

自然災害に対抗するにはなすすべがないとあきらめる者が多いだろう。それほど突発的で、その時には人の力では何ともならない。だから被害のパターンを知って、対応策を練ることにしよう。

美術館・博物館の中にはわざわざ水の事故に遭いそうな場所に建物を建てている例がみられる。それは見た目の良さからで、知事、市長おまけに教育委員会の勉強不足で災害に遭いやすい環境を選んでいることが原因だ。高知県美は川のそばに低い土地に建てて、大水で美術館の一階の半分まで水没したことがある。折から開催していた展覧会の展示作品はカンヴァス画、彫刻に至るまで水にぬれたことで、被害に遭った。阪神淡路大震災の後、兵庫県立近代美術館は山の手から、運河のある下町に移動した。運河が建築家安藤には魅力的だったのだろうか?建物も四角の連続で展示が面白くないデザインだが、周辺環境は気に入っていたのかも知れない。しかし、地震や豪雨に気を付けるべきだったろう。島根県美も宍道湖に面して、見た目の受けを狙っている。活断層が近くにあるから、宍道湖の津波も考えられないわけではなかろう。ほかに直接水に関係しないであろうと思われるようで、崖の上で豪雨災害で地滑りでも起きそうな場所の美術館がある。

水害から美術品を守るためには、まず展示室や収蔵庫が二階以上にあるということだろう。それだけでも美術館職員にとって、安心の条件だ。

これが民間で自宅の美術品管理となれば、管理庫を持たない普通の家庭では、まず壁や棚の上にに美術品が置かれているのが普通。いざ豪雨で家が床上浸水したり、もっと不幸にして津波で家ごと押し流される目に合うと、美術品どころではなく、命からがら逃げだすのが精一杯であろう。こういう事例はでは災害予防対策は別の次元で考えねばならない。

ここまでひどい水による災害の例ではなく、一般的な例では飲み物を絵画の画面にかけてしまったとか(ある大使館のパーティーでコーラをアクリル絵画の画面にかけてしまった例、私の見積もりが高いと言って仕事にならなかったが、コーラは液体であるうちに炭酸によって顔料やアクリルメディウムが酸化している可能性があり、また糖分が浸み込んで色調が変化して回復できなくなっているがあった)、裏面からコーヒーをかけてしまって、長い間、恐らく半世紀ぐらい放置して表の絵具層に亀裂が生じて、その上から素人の加筆でごまかしてあった例、国立西洋美術館のルノアールの《帽子の女》がそれだった。これは在職中に私が修復し直した)の事故災害例を回避するには、対策として額そうして、表にはアクリル板、裏面にはベニヤ板やポリカーボネイトの板でふさぐことが出来る。でも湿気の多い民間の家屋では、これがあだとなって画面にカビが生えるなどもあり得るから、一度飾ったら放置しっぱなしではいけない。時々鑑賞するのと同じほど、観察して画面の保存状態に気を使おう。

水気や湿気による被害には物理的、化学的、生物的被害が想定される。物理的被害では水分が物に吸収、含浸されて膨張や収縮を起こし変形する。例えばカンヴァスの裏面からコーヒーがかかったような例を挙げたが、その部分の麻の繊維の細胞膜の中に水分が取り込まれて、細胞が膨張し繊維が膨らんで、糸として撚りがかかっていたものが膨らむと、その部分が縮んでしまうことで、部分的でも収縮が起きて、水分で弛んで伸びた地塗りとほとんど動かない絵具層の間で、それぞれ別の力が働いて分離する。要するにカンヴァスが水分を含むと、布繊維の衣類を洗ったときゴワゴワになるように、縮む力がカンヴァスを構成する材料の中で最も強いことが問題だろう。では湿気た時にはカンヴァスは縮むのではなく、だらりと伸びることが知られているが、これはカンヴァス繊維が縮むより前にカンヴァスと地塗りを着けている膠や地塗りの中の膠が膨張するのが先に起こるから、カンヴァスはだらりとするのである(大きなカンヴァスでは湿気は下部に溜まるので、下の部分が膨らんで見える)。いずれにせよ良いことではないので、こうした変化をいかに起こさないようにするのかが保存環境の基準になる。つまり温度や湿度を一定に保つことで、物理変化や化学変化を起こさせないようにするのである。

水による害で化学的といえるのは、水に素材の成分が溶けだして原型を維持できなくなることである。素材の中の塩類が溶けだしてアルカリや酸性を示す反応で分解する。直ぐにおける反応ではないが時間が経つと起きるので、長い間放置すると被害に気が付かないことが多い。画家の遺族が長い間、日当たりの良いアトリエに放置した絵画の油絵の具がまるで粘土のように柔らかくなっていたのを見たことがある。これらをもう一度、普通の油絵に戻すのは不可能です。

生物被害では湿気でカビが生えるのをご存じだろう。油絵であっても艶を失って埃でもかかれば、その内カビが生える。特に生えやすいのは黒色、つぎは茜色であろう。温度が美術館のように低く設定されていても、湿度が65%を超えると発生することがある。それは温度に上下の変化があって、カビの静物反応を刺激したりすると発生する。虫の害も同様である。相手が紙であれば、水にぬれた場合は、そこに用いられている素材によって悲劇的なことが起きる。よくある水彩画はアラビアゴムが使われていれば、書かれて00年経っていても、絵具が溶けて流れる、あるいはにじむ場合もあって、処置なし。日本画のように膠で描かれていれば、まだ打つ手はない訳ではないが、濡れて直ぐというのが、処置の原則で、表具師が処置の際に使う程度の酢分量であればなんとかなるだろう。しかし汚れなどがあることが多いので、同時に除去するのは難しいこともある。よく紙の上に黄色っぽい斑点が出ることがあるが、フォクシング foxing(きつねいろの黄色いシミのこと)と呼ばれる。この原因はカビであったり、紙に含まれる鉄分であったりする。この画像が突然入ってしまたのは、何か私が作業中に不始末をしでかしたようで、申し訳ありません。正直言って、私はPCの操作には向いていませんから。しかしこの作品も湿気で波打ちと黄色いシミが出来て処置が必要だけど、パネルに貼られた状態を外して処置し、また同じパネルに戻すわけにはいかず、額装にするにも金銭的余裕がなく、現状維持でした。

フォクシングは長年の保存中に湿気が着いて、その程度で黄ばみが起きるので、要注意です。恒温恒湿で防黴剤が周囲における環境が望ましい。

そう言えば、東北大震災の時の津波で濡れた多くの行政書類は、海水に濡れても、塩分(およそ3~3.5%濃度)のおかげですぐカビは着かなかったと聞いた。勿論その後はこの塩分を除去しなければならないが・・・・。

濡れたものを乾かす際に、即乾かしたほうが良いようで、そうでもないものもあることを知っていて欲しい。近現代に描かれたカンヴァス画が全面濡れた場合にはカンヴァス布が引きつって、収縮して張り枠が壊れる場合も考えられるが、慌てず、ゆっくりと乾かしてほしい。そしてよく観察しながら、修復家を呼んで欲しい。濡れた絵画の処置をしたことがない修復家には頼まないことです・・・・より危険です。ata ata.

この国では災害はつきものだとあきらめている様な気がする。広大な地域で竜巻が起きて家さへ失うアメリカの人たちも、どうもあきらめているようで、毎年同じような被害が報告される。しかし街づくり、家づくりに災害に強い様式が考案できないのだろうか?当然、生活様式が変わり文化も変わっていくような、大きな変化が起きる事に成るだろうが、防災は人命を第一に考える事であろうから、少々生活のスタイルが変わっても構わないのではないだろうか。

例えば土砂災害が予想される場所では、木造家屋は禁止し、鉄筋コンクリートで形状を土砂が流れるような形にして、上に延びる三四階に建てるとか、竜巻に苦しむアメリカの人たちも木造家屋は禁止し、鉄筋コンクリートで家の形は地下を生活空間にして上は三角錐にするとかで、風の力から逃げられるようにするとか・・・。どうだろう。

心配性は器用貧乏を産む。あれこれ考えるうちにいろんなことに手を出す。そして人生大したことにならないのに、やっと60を過ぎて気が付く。残念!!

やるなら「今でしょう!!」。


また、つまらないことを書いてしまった

最近私のブログは評判が悪いようです。