防災は「災害が起きる前にやること」という前置きは前回述べたが、災害を情緒的に捉えていると、この防災が骨抜きにされることを注意しなければならない。これは現実に起きることを想定して具体的な対処法を準備しなければならないことを、ただ机の上で「想定する」という役人的なメンタリティが往々にして起きるからそこにかかる費用も労力も無駄にする恐れがあることを前もって注意すべきである。
EU各国から遅れて動き始めた安倍政権だが、彼らは専門家の意見を聞くことは後まわしにして、「政治的判断」を優先させてしまった。この国の政治のレベルが低いことは昔から変わらないが、世紀に稀な災害の最中に判断を誤っても「様子を見て判断する」と言い続けた政治家のメンタリティはこの国を滅ぼす。
この国の人たちは物事を情緒的に捉えるのは大得意で、世界でもこの能力は長けている。しかし合理的に、現実的に無駄なく議論を発展させることは不得手である。今回の安倍政権のやっていることは後手に回って、小池都知事の方が現実的であったことは明らかだった。この事態になっても政権はのんびり「様子を見て判断する」と言っていたのだから・・・。
さて、コロナはさておき、美術館博物館の防災についての考察を始めよう。
私が28年前に国立西洋美術館の学芸課保存担当として採用された時には、国立美術館・博物館を通して、初めての採用であった。その時の西洋美術館の館長は当時文部事務次官を退職されてこられた三角哲夫氏で、「河口君、国立にとって初めてだから、次の世代に線路を引くことを3年位目標にやってくれ」と言われて・・・・それで済みますか?・・・と思ったものだ。
学芸課の同僚からして私の仕事の内容を良く知らなかったのだから。その後の3年は周囲の私の仕事に対する理解で苦労させられた。未知の出来事に対しては既得権者は官僚的な対応をするのがジェネラリストの常だ。(今回のコロナについても、先に政治的な対応を優先して専門家の意見を無視してきた。感染者の人数が少なく見えるように、検査数を少なくし、見せた感染者数を少なく見せる裏工作をした。それも習近平を国賓として招くために、どうしても問題が少なく見えるようにしたのだが・・・。現実を知らなさ過ぎた官僚の言うとおりに従った安倍の後手後手はまだ続いている。医療崩壊が起きるといいながら、医療の充実に手をこまねいていたのだ。それで国は各家庭にに2枚の布製ますくだと・・。いまだに来ないけど。)
現場のことは専門家の判断に任せるのがドイツ流だが、(メルケル首相は流石に理系の学者上がりだ。現場を想定して早い手を打った。)そのドイツから帰国して唖然とした学芸課であった。
美術館の保存担当者の仕事だが「お前は修復室で壊れた絵を直していればよい」と言った先輩がいた。情けない話だが、修復家とは壊れたものを直すのが仕事だと思われていて、他に展覧会の借用作品の保存状態点検程度が仕事だと・・・同僚の学芸員は皆そう思っていたのだ。私がベルギー、ドイツから帰国してから40年近いが、いまだに保存修復担当者の仕事を理解にしない学芸員がいる。
まず美術館にいる保存修復担当者と修復師とでは仕事内容が違う。修復師は確かに保存状態が良くない作品の処置を行うが、美術品の汚れを除去したり、欠損しているところを補填することが中心で、構造的に欠陥がある場合にはカンヴァス画であれば木枠を取り換えたり、カンヴァス地そのものを新しいもので補強するなどする。修復師に求められる職能は作品の欠損部の絵具層の補填に絵具などの画材を用いるので、技法材料に習熟していることや、絵画としても描写が再現できる能力が求められる。(絵も描けない人もいる。おリンゴがおリンゴらしくそっくりに描ければよいのだ。一方で芸術家では困る。)
しかし誤解がないようにしてほしいのは「失われたところを元の原作と同じ材料を用いると思っている人」、そこは原作と同じ材料は用いてはいけないということで、何年も後になってどこが新しく補填されてた箇所か、一目瞭然に分かることが求められ、同時に後日それを必ず除去が可能であることが求められる。これは保存倫理(conservation ethics)という。つまりドイツではやって良いことといけないことがあることを真っ先に教えられるが、そうでない国で勉強だけして現場で働いて帰って来ないものもいるから、要注意。
まず修復師になるための見習いに入ると、表面的な知識で基本的な技術を3年ぐらい学び、さらに研究生としてレベルの高い現場仕事を行う。私の場合ベルリン国立絵画館でのギャラリー業務はその後西洋美術館での仕事に参考になったが、いざ東京で仕事をしようとすると、既得権者が障害となった。美術品の保存では環境が十分に整っていることが重要だが、ここで防災上の環境条件が整うために基本から周囲に理解してもらう必要があった。
まず、環境と言えば建造物の防災として、この国の災害である地震、台風、火災、水害などの自然災害に十分な条件がそろっているか点検。美術品を収蔵する収蔵庫、展示室の環境は温度湿度の適正化、照明などからUV(紫外線)や赤外線による劣化を防止し、道路などからのNOX(窒素酸化物)、酸性雨のエアロゾルによる浸食防止に換気フィルターを付けるなどの指示を行うのも保存担当者の仕事・・・だが、既得権者が嫌がって放置される。美術史の文献資料(実際には他人が書いた本)を読んでいるばかりの学芸員には冷や水をかけられるのが日常であった。こういうところに官僚的な習慣が根付いていたのだ。時間が経っても、若い美術史系学芸員が「自分たちが美術館業務を主導している」といって保存担当や図書資料、美術館教育の専門家に対して、上から目線でものを言う。(美術館業務と言っても、彼らの業務は年に3回行う展覧会を担当することで。美術品のあるいは歴史の調査研究が出来るわけではない。よほど地方の美術館の学芸員に、地道な研究を行っている者が多い。)
この国では組織内の業務の専業化は民間会社では可能でも、国公立の組織の中では専門性よりジェネラリスト(総合一般業務習熟者)が求められれる。これは組織の中で業務のマンネリ化を防ぐとか総合的に何でもこなせるだろうという推量で習慣化しているためだ。そこで専門家が判断すればより効率的であっても、無能な課長であっても、その者が決める権限と責任があれば、そいつが決める・・・・不合理。だから安倍が言うことは、周りの質の悪いジェネラリスト補佐官が「国民一人一人にマスクを2枚配ればきっと皆驚きますよ・・・」とか言うがまま、安倍は不合理を連発。今になってコロナ感染の検査を一日1万人を実現する…とか言っているが、現場では検査技術のある者が足りません・・・と悲鳴を上げているのに・・・あの補佐官と厚生省の女審議官アベックで京都に出張して、山中伸弥先生に補助金を出さないとか「悪態」を突いた馬鹿官僚は遊んでいたのだ。(官僚が腐るのは政治家がバカだからだ。むかし大蔵省の官僚がノーパン喫茶で接待を受けていたのを憶えているだろうか?昔から総理大臣を手玉に取った補佐官が、その時の政権を解散に追い込んでいる・・・目的があってではなく、失策をさせてしまうからだ。)
専業化は欧米では業務の合理的な効率を求める以上、当たり前で、これなしに組織は成り立っていない。そして組織のトップはこの国良くあるような天下りはいない。専門家として組織を率いた実績が認められて成りあがるのだ。形だけの椅子に座る無能ななりたがりでは困るのだ。ドイツには制度としてのドクター制度(知識の専門家として)、マイスター制度(技術の専門家として)がある。工事などの現場を束ねるのはドクターだが、もしドクターが現場に則さないことを指示したら、マイスターたちに吊し上げられるだろう。言い訳にも論理性が求められ、この国ように「済みませんでした」では済まない。こうしてドイツは日本の半分の人口で日本に次ぐGNPを稼ぎ出している。(ドクター制度も馬鹿な奴はドクターでなければ「人間ではない」と思っているから・・・良し悪しはその人の人格による。)
しかし、本当にこの国では業務の専業化は簡単ではない。もし一部を専業化してもその上には専門性を理解しないものが上司として業務を邪魔するのだ。自分が統括する立場にあると、勘違いしてしまうからだ。
いつだか、西洋美術館紀要に「美術館の専業化」について書いたら、ブリヂストン美術館の館長をやっていた者に「こいつは修復原理主義者だ」とか言われたが、「この男は美術史研究者としても三流だったのだ」と思った。要するに研究者としても自負があれば、学芸員であった頃、専業化でもっと高みを目指して仕事ができたはずと思っただろうに。つまり今も学芸員とは「雑芸員」と揶揄されるように、調査研究の本業以外の雑務と言えることが多すぎるのに、それが当たり前だと思っている。
美術館博物館が文化財の収蔵保存、調査研究、教育普及の場であることは、皆知っていることだろうが、中の学芸員はその子との意識が希薄なものが多い。災害が多い国で文化財を守るためには、一度受けた災害は次に同じような被害が起きないように努力するのが責務である。しかし「のど元過ぎれば熱さ忘れる」のは自分が現場で厳しい現実を経験しておらず、観念的に頭で想定しているからである。だからこそ組織には職責が固定された専門家が必要で、防災を担当する者が常に対策を実践していなければ、何時来るとも分からない災害から逃れられない。
そして災害を経験して「教訓」を得るのはこの専門家だ。この専門家こそ、次に備える「防災マニアル」を作るのだ。
コロナで人が死んでいる、こんな時こそ感染症の専門家を集めた厚生省の「感染症対策チーム」の先生たちの教訓が生かされることを祈りたい。