このところ備忘録に書いてきた「美術館職員時代の記憶」を読んでくれた読者から、前庭の防水工事で《カレーの市民》《考える人》の地震対策を行った事業をまったく別物に変えられてしまったことに失望と怒りを禁じえなかったことを訴えた。
その時に、「そうなる前に当時の館長馬淵明子氏宛に書いた手紙」を公開してもよいと書いていたので、今回長文の手紙をここに書き写しておこうと思います。全文はA4で5ページですが、その半分が《カレーの市民》を地べたに下ろそうとする計画に対する批判意見です。残りは私の業務が学芸課内で「疎んじられていること」に関する感想を述べています。
一気に書き写すのに気力が必要です。次第に加筆します。
そうこうしている間にネットの接続が途切れて続きが書けなくなった。で、日が経ったけれど、今からここに書きます。
国立西洋美術館
馬淵明子 館長殿
ご無沙汰しております
最近、前庭の彫刻の件で不穏な動きがあると伝わってきているので、一筆申し上げたく手紙します。
まず、企画館の屋根に当たる前庭がそろそろ防水工事の話が出るのは当然のこととしても、ついでに植栽や照明などを撤去するとか、《カレーの市民》の台座を撤去するとか、当時の前庭の取り扱いを議論を重ねて現状を作り出した者としては、驚くような話になっているように思います。
植栽の扱いについては、前庭を掘ってコンクリートの庭になることで緑地が失われることを危惧した公園事務所の要望に応えて、フェンスを植栽西、彫刻を設置する場合にも、地震対策と同時に殺風景な鑑賞経路に配慮したデザインに苦労して行った経緯があります。植栽や経路のデザインは高橋明也が、地震対策や彫刻の保存は私が行いましたが、それらを当時の担当者の意見も聞かずに植栽を撤去するとか、台座を取り除いて低く展示するとかの話が聞こえると、黙って見ているわけには行きません。
今現在の学芸課のメンバーは当時の経緯を全く知らない人たちであるけれど、何をすべきか良識をもっていただきたいと思います。
企画館の工事の後、前庭はコンクリートのたたき状態で、何も置かれていない状態でしばらく置かれていた時がありましたが、庭は依然と違って無料開放しても、殺風景であるだけでなく、冬は寒く、夏は熱くて庭に留まっている人はありませんでした。また水はけのテーパーもついていなかったので、様々な条件をクリアしながら、入館者に影響することが配慮されて植栽デザインがされたのです。それでも無料開放した庭では、夏に庭先で警備するガードマンにとって、コンクリート部分の照り返し大きく、熱中症対策に頻繁に交代することを余儀なくされています。植栽はメンテナンスが必要で手間がかかり、夏の水遣りはガードマンにお願いするほかありませんが。
同様に地震対策の免震装置が各彫刻に取り付けられていますが、東邦大震災の前に本館レトロフィットと共に地震対策予算を要求して実現したものです。
《カレーの市民》の台座が高すぎるという考えのようですが、ロダンが遺言でカレー市に設置した彫刻を「市民の身近なところに展示してほしい、と言葉を残したということが根拠としてあるようですが、「ついでに西洋美術館の彫刻も・・・」と言ったのでしょうか?それならば免震装置を付ける時点で配慮すべきでしたが、ロダンは様々な高さに置くことを試していると聞いています。ロンドンの議事堂前には5m位のやぐらを置いて見たりしていますが、カレー市の彫刻は2.5mくらいのコリント様式の台座の上に在ったと聞いています。それは元より芸術作品というより、モニュメントとして下から眺めることが制作の基本にあったからでしょう。実際の彫刻を見ていただきたい(美術史系学芸員の人たちは実際の物より、資料文献に拘る習慣があるようですが《カレーの市民》の彫刻たちは多くは下を向き、苦悩した表情を見せているのでは?
西洋美術館の現在の高さはブリュッセルの公園に置かれているものと同じ高さで1.5mです。この高さで私も彫刻の保存処置を下にもぐって行い、毎日眺めることで免震装置を付ける高さに適切であると判断しました。台座には免震装置のメンテナンスと彫刻の内側の保存処置ケアが必要です。
学芸の人たちは、免震装置は要らないと思っているようですが、東京直下地震の起きる確率は居間から10年前に「この30年間に起きる確率は70%である」と言われ、現在ではもっとも配慮すべき状況にあるでしょう。
東北大震災の時に免震装置の着いた《カレーの市民》や《地獄の門》が大きく揺れ動くのを観ましたが、それでも震度5の弱でした。5の強であれば、立っている人はひっくり返り、墓の様に置いただけのものはひっくり返る250ガルです。東京直下であれば震度6や7が想定されていて、免震装置がどの様に機能するかは私にも判りません。
学芸の人たちは免震装置は無くても良いと言っているようですが、合理的(科学的)根拠は何でしょうか?教えてください。
そもそもブロンズ彫刻は塑性が大きく、力が働くと簡単に曲がり、元に戻りません。かつて《カレーの市民》を移動するとき、一度持ち上げたものが2cmずれ落ちた時があり、その時大きな音とともに地山に立っている彫刻たちがそれ緒ぞれ大きく揺れ動いたのを見ました。幸い変形しませんんでしたが、地震力に対する対策は不可欠です。
関東大震災の時、鎌倉の大仏が台座から3mばかり後ろにずり落ちて損傷したのをご存知ですか?ビルであろうが重たい彫刻であろうが1000ガル(1G)を超えれば、宙に浮きます。1000ガルの地震でなくても、ましてや、コンクリートの屋根に設置した国立西洋美術館の彫刻たちは増幅する可能性があり、免震装置と共に固定されいることが重要になります。もし彫刻を取り外して、平らな台座に載せただけであれば地震力は直撃し、台座から滑り落ちます。また固定しただけであっても、同様に大きな力が直接伝わり変形することが考えられます。
これらに反論する合理的根拠を教えてください。
他に前庭彫刻は前庭が無料開放されること、夜間開館されることで警備に大きな負担を与え、夜間は彫刻の照明を与えないという訳には行かず、それぞれ個別の照明を付けました。地獄の門は下からだけでは上に届かず、高い照明塔が必要でした。これも目障りだと言われているようですが、風力計やGPSが付いていおり、地震発生時に風による影響(地獄の門は毎秒10mの風で簡単に動くのが見れます)を差し引き、免震機能を確定し、時間の校正を行うために必要です。これらの機能ももっと適切な場所があればと思いますが、現状は妥協して照明塔に付いているのです。《カレーの市民》の照明は高橋明也氏が業者を読んで苦労して決めたものです。
それらを取り外さなくてはならない理由とは何でしょうか?
学芸課の構成が変われば色々と業務のやり方が変わるのは自然な事と考えられますが、前庭のデザインや防災対策を変えるのであれば、それ相応の合理性は説明されないと、先人が苦労して予算化し、実現してきたものを気分で変更されたのでは納得できません。何かまた新しくすれば、国民の税金を無駄遣いすることになります。
公報できる内容でしょうか?
私の在職中に、私は全館長に「大人しくして居れ」と言われて、修復室のカギを取られて研究室に蟄居させられましたが、何故このようなことをされたのか、いまだに理由が分かりません。ただ村上課長が「河口は2009年度はほとんど仕事をしていない」とか「精神を病んでいる」とか陰で言っていたこ、当時の甲野副館長が教えてくれて陰で私を排除しようとしていることを知りました。
2009年度は地震対策の国際シンポジュウムをゲッティ美術館と共催で行っており、その準備と後日のバイリンガル報告書をを作るのに忙しかった時期で、年度末の予算での一か月の短期研修がぎりぎりになっていたのに、私の研修費用が使い込まれていて、村上課長曰く「修復費がまだあるだろう、それで行けよ」と言われて、年度末の修復計画を断念して出かけました。この年、新館空調工事後の6月のリニューワル展示で展示すると計画されていたブスコ(?)作品の少女像の洗浄を「時間があるときで良いから」と言っておきながら、後日「すぐやらなかった」と批判しました。私は「処置は完了した」ので採りm¥に来てくれるように伝えてから、土地に来たのは二週間後でした。他にも屋内彫刻の展示の為に免震対策の処置を研修に出かける前の3月末に完了してあった(当時の業者への支払いはこの時点で完了させたのに間に合わせなかったと・・・実際に展示しているのに・・・やらなかったように学芸課内で周囲に言っていたのです。
私のやることなすこと全て「中傷でっち上げ」しなければ気が済まない性格は、愛知に居た時から変わらないと聞き及んでいましたが自分の思い通りにならない者は排除するという、前時代的な官僚主義が受け継がれているのにあきれたものです。
国際シンポジュウムのゲッテイの要望は6月中でした。会計年度の締めが6月末だったためで、アメリカ、トルコ、ギリシャ、イタリアから来たスピーカーの旅費、宿泊費をゲッティが出してくれたためですが、「6月はリニューワルで皆忙しいから、誰も手伝えないから駄目だ、そこまでする義理はないだろう」と言って、仕方なくゲッティには8月で了承してもらいましたが、学芸課の誰も手伝ってくれなかったし、単に嫌がらせをされたとしか思えない結果でした。
国際シンポジウムを開催することは、西洋美術館にとって国際的評価を得られたはずです。
作品貸し出しについて、私の基準は村上氏とはより厳しく、相手館のファシリティリポートの内容のみならず、国内の貸し出しには「貸し出し作品を貸し出す意義があるかどうか」の一定の基準を設けるべき言ってきました。さもなくば西洋美術館が存在をかけて貸し出し要請している海外の美術館の要請を優先できなくなるからです。こうした西美ならでわの事情は人が入れ替わろうと変わらないでしょう。そのため私は海外仕様の輸送箱に工夫を凝らしたり、保存担当者として様々な手配をしてきましたが、こうした伝統が嫌いだったようです。スペインへの貸し出しに村上課長が添乗することを自分で決めて、輸送ルートまで決めてしまいましたが、パリからマドリッドまで陸上輸送を選んだのです。JALの直行便はありませんでしたが、エアフランスならあったでしょうし、フランクフルト経由でルフトハンザなら確実にありました。彼はわざわざビルバオで一泊するコースを選んだのです。「ビルバオのグーゲンハイム美術館に立ち寄りたかったのか?」と尋ねたのも彼の機嫌を損なったようです。彼が愛知県美に居た頃は、海外出張はそう簡単ではなかったでしょうから課長の業務を休んでも海外に出かけたいのは分からないでもないですが・・・。
他にも、私が修復室出入り禁止にされてから、私の私物を取りに修復室に入った時「ロセッティの作品もどき」がイーゼルの上に載っていましたが、そこに居合わせた外注の修復家に尋ねたところ「村上さんが言うには旧松方コレクションの寄託品で購入予定らしい」というものだから、驚いて村上氏に尋ねたのですが、「まさかこれをロセッティとして寄託受け入れをしたのでは?」ときくと「この作品は旧松方でロセッティの死後アトリエから出たという資料がある」ということだった。以前は「まず学芸会議で寄託預かりの議論と了承を得るのが通例」だと、それに「この作品はロセッティのレベルではなく、出来の悪いコピーだ」と伝えたのです。彼曰く「これは晩年の作で輪郭も不明瞭な描き方だ」と言っていましたが、私は東京新聞のロセッティ展の作品管理を経験してことから、「晩年の作は描き方が違う」と「この作品は初期の輪郭をはっきりさせる描法で顔部分が描かれ、首から下の衣服は出鱈目な描き方で放置されている」と、それは「素人の模写だ」だと断じたのでした。彼は購入するつもりが吹っ切れなかったのか「リバプールのロセッティの専門家に意見を聞く」と言っていましたが・・・・。ロセッティとして預かった件は、寄託者に返答できなかったようで,作品は今も企画館収蔵庫のスクリーンに掛っていると思います。
兎に角、幸福課長時代から私は学芸課の中で「村八分」状態でしたが、さすがに購入に関して自信が持てないとき、かれ(幸福元課長)はそっと裏から訪ねてきて、意見を聞きに来たものです。しかし村上課長になって、その後は作品購入から完全に排除されて様々な問題が起きました。まだ私が在職中に文科省にあてがわれた防災対策予算で、ティッツアーノ作とされtる女性像を5億円かけて購入してしまいました。この作品い添付された資料を後日拝見したところ、顔の半分は損傷、欠損して顔全体の半分以上が補彩です。しかも向かって左の胸元部分は描き直しで描写した手技が顔半分とは異なります。
絵具もメディウムが多く含まれ、顔を描いた画家とは違う作法です。変色も異なり、もし一人の者が後日手を入れたらこれほどの変化は起きないでしょう。これと同じ作がメトロポリタン美術館にあるとのことで、何故比較検討して工房作の可能性を調査しなかったのか疑問です。担当した渡辺氏は画商に「腕などに後日の描き直しがあるのがティッツアーノの作品の証拠」だと言われて、そのことを得意満面にゼフィロスに述べていたのを読んで、当時の青柳館長に問題点を指摘しましたが、はっきり申し上げて、あの作品はティッツアーノの品位もなく、描写レベルで程度が低く、確実に「工房作」です。彼の在任中にスキャンダルになる話でした。
後日その作品の購入委員を担当した越川氏は「館長の首に係わる事か?」「5億ではロンドンナショナルギャラリーのティッツアーノは買えないだろう」と言い訳していましたが、新作出なく損傷が激しく補彩された作品は比較になりません。その後であった青柳氏は「またいろいろ教えてください」で終わりでした。
とにかく、私を排除した事で、私の専門性は失われました。それぞれ美術館という組織の中で、専門的な知識や経験は分担して補っているのが欧米の美術館ですが、独善的なやり方で「学芸会議は月に一回、面倒な議論の場ではなく、ただ報告する場である」としてしまって、西洋美術館の先人たちが積み重ねた相互理解の伝統は、定例会議も学芸会議も外部から来た者で一気に失われたのです。
学芸員の仕事は reading and writing だrと言ったのはメトロポリタンのリューベンスの専門家のリートケ氏でしたが、それを幸福氏は「羨ましい、シニアになったらそうでなくては」と言っていましたが、それは美術館組織が専業化され、互いの専門性が尊重されての話でしょう。各自の部屋で他人が書いた書籍を読んでいるだけで、国際論文は全くない状態では、西洋美術館の役割は果たせないように思います。
それと最も危惧するのは「作品を見ないで」資料文献に拘る習慣です。館所蔵の展示作品を見に巡回している学芸員は月平均何人いるでしょうか? どのような表現様式で、技法で、誰の影響があるとか似て歩いているのは、先ごろ亡くなった中村俊春氏だけです。彼のこうした考えはマックス・フリートレンダーによるものでしょう。物にそばに居たいからと大学の研究者にならず、美術館で学芸員を続けた氏の志を大事に思っていました。
者を大事にすることと、最近の欧米の研究者の傾向を知っていれば、保存科学や保存修復が果たしていいる役割を「足蹴にする」ことは決してないでしょう。美術史は科学的、合理的根拠に基づいて思考するようになっています。
馬淵館長には西洋美術館の未来を見据えて、国内で西洋美術のリーダーであるような高い専門性を作り上げていただきたく思います。かつて馬淵館長が指揮されたジャポニズムの展覧会で600点からの作品の点検管理を担当させていただいたとき、展覧会のコンセプトがこれほど重要な役割を果たすのか身をもって感じ入ったのを憶えています。美術館業務においても同様に理念が、コンセプトが大事だと思います。欧米の美術館に負けない西洋美術館になるため、専業化を進めていただきたく思います。
最後に、前庭の件は私の方からの疑問にお答えいただけたらと思います。
河口公男
以上が馬淵館長宛の手紙でした。
案の定、返事はなく「前庭は一旦綺麗に除去され、《カレーの市民》は1・5mの石の架台から引きずり降ろされ、地べたに置かれ、《考える人》まで位置が変えられました。何故、私と高橋明也が防災や観覧者の鑑賞に良い方向に作り上げたものを、何の相談もなく踏みつぶしたのでしょう?。
私の辞職中のすべての経歴を消すことが出来るならやればいい。しかし私には「《地獄の門》の免震化工事と彫刻の保存」の執筆と「美術館博物館の地震対策:東京シンポジウム報告書」が国会図書館に残っている。他に屋内彫刻の免震プレートと石台座の工事を取り外すことは出来まい。
馬淵明子の頭の中にあったのは「ロダンの遺言」と「コルビジエのスケッチ」でしょうが、ロダンはカレー市の高い台座にあった《カレーの市民》を「市民の身近なところに設置してほしい」と言い残したのであって、世界中のこの彫刻を地べたに引きずりおろせとは言っていないにもかかわらず・・・「解釈」がいつの間にか「思い込み(バイアス)」になって、実際を論理的に良くも考えない資料文献主義たちによって・・・馬淵明子は保存担当者の説得で、免震装置を残したらしいが・・・・装置と彫刻は固定されていたが、これを外したら全く免震の意味がないことが「無知で理科がうとい」学芸員たちによって、そのご学芸課長になった渡辺慎介が「《カレーの市民》は地山が大きく安定しているから、免震装置は要らないのでは」と言っていたと。もう退職した私にはなすすべもない。日本の学芸員には何も期待できません。大学の美学・美術史を教える教授たちが国際論文を書いていない・・・つまり美術界の現状にレベルが合っていないということです。残念ですが。
皆さんは《カレーの市民》《考える人》がコンクリートの上に置かれ、今後、温暖化で異常気象が起きている日本で照り返しの熱い夏、コンクリートの上で寒い冬を感じることになるでしょう。《考える人》が南に置かれて、昔の様に逆光で見えにくくなったでしょう。これもコルビジエのスケッチに従って、そのままが西洋美術館の在り方だと思い込んでいるので、作品と鑑賞者のことはまるで無視。実際コルビジエは東京に来たことがありません。建築プランを描いて、日本の建築家と手紙でやり取りして今の形にしたので・・・・おそらく庭はこんな感じ・・とサービスのスケッチを送ってきたのでしょうが、彼がロダンの彫刻を大切に扱ったでしょうか?西洋美術館の学芸員と変わらないレベルでしょうね。
長い文章でした。読んで下さった読者に感謝します
さあて、私のやる事は一杯あって・・・。特に山口市嘉川の椹野川が見渡せる農地を購入し、転用許可を取り、宅地にすべく新しい土砂を入れて田んぼが平地になったところです。建築費は6000万円弱で・・・重い負担です。近いうちに3分の1の支払いがあります。完成は来年5月末までを予定しています。
二階に修復室や収蔵庫、ギャラリー(自分の作品を展示して置くため)、絵画教室(人に教えるつもり)、書庫と寝室、台所。一階には資材倉庫が2つ、木工作業室と打ち合わせ室に客室、猫の部屋まであります。庭には軽自動車なら10台以上置ける駐車場、現状100坪の農地があるので、そこにビニールハウスか温室でハーブ類、野菜を。周辺空き地にはオリーブ、柿、レモン、スモモ、ゆず、プルーン、ぶどう、他を植えます。
修復は仕事が来るかどうか問題ですが、私はドイツ流が基本ですから手術用顕微鏡を買うつもりです。
ここが私の最期の場所になります。