商売は儲けるために筋の違いは目をつむるのか?仕方がないと考えるのが日本的だと言えるのかも・・・。
ネットをめくるとまたかと思う記事が出品されていた。一週間ほど前のデイリー新潮の記事だが、皆も聞いたことのあるタイトル「国家の品格」藤原正彦著 新潮新書刊なのだが「論理の限界」の重要性を説く。「論理的に得られた結論は盤石ではないのです」「人間にとって最も重要なことの多くが論理的に説明できないということです」とかいう見出しで再度売り込もうとしている。
この著書は「国家」の何とかと大げさなタイトルで人目を引いて、「発売から三か月で35万部!!」とか・・・本当かどうか知らないけど・・・・私も興味で買ってしまった一冊。ところが読んで・・・なんじゃこりゃ・・・ムカつく!!
そんな本だったのがまた出てきた。売り言葉によると・・・・・。
日本は世界で唯一の『情緒と形の文明』である。(ちょっと、日本語がおかしいが・・・)日本人は、この誇るべき国柄を忘れてきた。「論理」と「合理性」頼みの改革では社会の荒廃を食い止めることはできない。今日本に必要なのは論理よりも情緒、英語より国語、民主主義より武士道で精神であり「国家の品格を取り戻すことである。すべての日本人に誇りと自信を与える画期的提言。
だって!!笑える!!
ある時、日教組の教研修会で傍聴していた高校生が会の最期の方になって「先生、なんで人を殺しちゃいけないんですか?」と質問した。しかしそこにいた先生はだれひとり「論理的」に説明できなかった。論理を弄べば「殺しても良いという裏湯」も「殺してはいけない理由」も挙げることは難くない。しかし論理で絶対の正解を導くことは極めて難しい。
「貴方が殺されるのは嫌でしょう」と言われても「今言っているのは他人を殺すことです」と理屈を返すことも可能だ。だから先生たちも言葉に詰まった。
これに対して藤原氏はこう言い切る。「人を殺していけないのは『ダメだからダメだ』と言うことにつきます。「以上終わりです」論理ではありません。この様に最も明らかのように見えることですら論理的に説明できないのです。
こうした価値観の押し付けに対する反発に対して藤原氏はこう説く。「本当に重要なことは、親や先生が幼いうちから押し付けないといけません。たいていの場合、説明などなど不要です。頭ごなしに押し付けて良い。勿論子供は反発したり、後になって別の新しい価値観を見出すかもしれません。それはそれでよい。初めに何らかの基準を与えないと子供としては動きが取れないのです。・・・だと。
ここいらで私の意見を述べることにする。いくら自分が論理的に説明できないから・・・とか日教組の先生たちが説明できなかったからと言って、「駄目だから駄目だ」と言って、以上終わり!と言うだろうか?「人を殺すことはいけない」という論理に答えられないのは論理的説明が出来ない命題であるとしてしまうのは、その人の思考の限界だろう。「もし人を殺しても構わない」のであれば、お互いに殺し合い、人がいなくなる。みんな居なくなって最後の一人は、独りだけでは生きていけない。食い物も作れないとなると餓死するしかない。つまり人間は絶滅するから・・・とか言えなかったのだろうか?
「駄目だから駄目だ」と言って、受け入れる子供は、疑問も持てなくなる。「思考停止」させ、自分で考える主体性もなくなり、親に支配され、更には社会に支配される。藤原氏が言う「初めに何かの基準を与えないと子供としては動きが取れないのです」と、まるっきり子供の人間性を認めない大人の価値観だが、これは権威主義であって、精神的奴隷であることを勧めていることだ。
人間は成長の過程で、自己の存在に目覚めるが、それを阻止して権威を与えることは恐ろしいことだ。若者が未来を考えるときに、先に与えられた価値観で進路を決めているのが受験や就職に現れている。自民党が作ってきたこの国の社会は拝金と拝物の欲望を満たせば成り立つと思わせるように仕向けられて現代の日本はある。大学まで労働力を提供する目的で価値観は同調するように仕向けられている。個人の考え、意思を持てないようにされると、未来の人生に不安を感じたものは政治的イデオロギーや宗教などの権威に身を寄せ「安心」しようとする。そこに論理主義も自由もなかった。にもかかわらずどうして「国際化という名のアメリカ化に踊らされてきた」とか論理と合理性頼みの改革で社会の荒廃を食い止められないとか、言い出すのか全く理解できない。この藤原氏はどの様な人生を歩んできたのだろうか。
日本に必要なのは論理より情緒、英語より国語、民主主義より武士道精神であり・・・となるのだろうか?かなり笑えるのは日本人は論理的思考は殆どできなくて情緒で集団的価値基準を押し付け合っている国民であることは、一寸考えれば分かることだろうに・・・。英語より国語だそうだが、藤原氏は英語に劣等感を抱いているのでは?ほとんどの日本人は中学、高校と英語を学ばされても英語が喋れないのは国際的に知られているが、国語の何を学べばよいのだろうか?しまいには民主主義より武士道精神だと・・・こんなことを書いて良くも売ったね。
私はドイツに留学して初めて「論理的合理主義」の洗礼を受けた。自分の意見を言わないでいると「気取っている」と言われて驚いた。しかしなるほどと思させる理由がそこにあった。個人主義で個人を尊重する社会が根付いていて会議や普段の集まりでも「貴方の意見は?」と聞かれる日常に自分を感じざるを得なかった。それは他者を尊重する文化である。我々が英語を話せないのは教育方法が悪いからである。教える教師が「英語とは文化である」ということを理解していないからで、英語の「センス」が生徒に伝わらなかったからである。英語のみだけでなくドイツ語、フランス語、イタリア語と学んでみれば、その国の文化が単語や表現に反映されていて、それを感じ取らねば身につかないのである。さらにこの藤原氏は「民主主義より武士道精神だ」と言い出すと、もう何も言いようがない。現代に「武士」がいないのに「武士道精神」も分からないのでは?論理性を否定するとここまで脱線するのだろうか。
さらに「野に咲くスミレが美しいことは論理では説明できない、モーツアルトが美しいことも論理ではせつめいできない。しかしそれは現実に美しい」「卑怯がいけない事ですら論理では説明できない」「戦後の我が国の学校では論理的に説明できることだけ教えるようになりました。戦前『天皇は現人神』とか鬼畜米英とか非論理的なことを教えすぎた反省からです。しかし反省しすぎた結果、もっと大切なことが欠落してしまったのです」とつづく。
一応私は美術に関係してきたので言わせてもらうと、「美しいことは論理では説明できない」と言われ、論理で説明できないこともあるのだと「引き合い」に出されても困るのだ。美しいと感じることは個人的な感性のことであり、個々人で異なる。論理的整合性は無きに等しい。ちなみにギリシャ時代から「黄金率」という比率があって、「美しい比率」とされている。1対1.6つまり5対8の比率に分けられたものが、感覚的安定性を感じさせるのか、ビーナスでも体の比率として分割されたりする。だからこれが論理的だとは言わない。「戦後の学校では論理的に説明できることだけ教えるようになりました」と・・・藤原氏はお茶の水女子大で数学を教えているはずだが、こんな無茶苦茶を言ってしまうのはちょっと問題でしょう。
このことは「国家の品格」という本の末尾に「女房から独りよがりの言いたい放題だと言われている」と述べているから・・・・この本は「虚構」の話を書いてみただけなのか。デイリー新潮も片棒を担いでいるだけなのか?
とにかく、今の日本人に必要なのは「情緒」で判断することではなく「論理的思考」で自分の意見を言えるようになることが大事でしょう。もう田舎のじいさんばあさんは思考停止状態だから無理にとは言えないけど。