河口公男の絵画:元国立西洋美術館保存修復研究員の絵画への理解はどの様なものだったか?

油彩画の修復家として、専門は北方ルネッサンス絵画、特に初期フランドル絵画を学んできた経験の集大成を試みる

保守か革新か

2018-01-23 16:26:47 | 絵画

評論家、西部邁(にしべすすむ)氏が1月21日に入水自殺された。「自裁死」というのだそうだ。

氏は若き東大生時代から学生運動に関わられて、政治や社会についての批評を数多く著作され、多かれ少なかれ時代に爪痕を残された。近年、「自裁死がいい」と話されていたそうだが、彼が絶望してきた対米追従や大衆社会状況は変わらず、「絶望に立つ希望」を唱えていた。

2000年には「私の死亡記事」(文芸春秋編)にも精神的な衰えが見通されたら自殺すると予期した文章を寄せていたそうだ。自らの体調や年齢を考え、長年検討してきた死を選んだのだと思う。鈴木英生(毎日新聞)

そこで、ダイヤモンド・オンライン)(17年10月3日)の記事が再掲載され、「安倍晋三は真の保守ではない」という話の中で、西部氏が貫いた「保守」について述べてみたい。私も思うに、「安倍晋三は祖父岸信介、叔父佐藤栄作から学んだことは米国ベッタリの属州的な従属意識で、トランプに対しても危機をあおって憲法改正しようとする姑息な政治しかしていない」と、彼は真の保守ではないと述べ、「保守は現状を維持することではない」と言っている。

本来の保守とは、その国のトラディション(伝統)を守ることで、近代保守思想の始祖とされるルマンド・バーグは「保守するため改革(reform)せよ」と説いて、現状が伝統から逸脱していれば、改革を断行するのが保守であると述べて、「伝統」とはその国が残した慣習ではなく、その内包する平衡感覚を意味すると言っている。(難しくなったが・・・・)

19世紀末のフランスではバルザックが、現代に息を止めてやりたいと思うことがあれば、古き良き時代を見つめ直し、取り戻そうとすることは自然主義である・・・と述べているが同じ意味と思える。

また西部氏はrevolutionの真意は「革命」と訳されているが「再び(re)] と「巡りくる(volute)が組み合わされる言葉で「古き良き知恵を再び巡らせて現代に活用する」というのが本来の意味だと。愚かなことに現代人は「未だかつてない新しいこと」をやるのがレボリューションだと解釈してしまった・・・と。他にreform(改革)も然りで「本来の形式を取り戻すというのが真意である・・・と述べている。

保守に対するリベラル(革新)について述べると、左翼が揚げる「革新主義(progressivism)は変化を起こせば何か良きものが生まれるとの考えに基づいているが・・・・「変化によって得るものは不確実だが、失うものは確実である」(英)政治哲学者マイケル・オークショットの言葉を引用し「変化が確実によくなるとは限らない」と述べている。

つまりは先に述べた「平衡感覚」がやはり必要だということだろう。

私はこれまでブログを介して同じようなことを言ってきた。

伝統を顧みず「新しいものがある」と信じ切った者たちによって観念アートは生まれてきた。当初は硬直化した表現様式に対する批判であるものが正当性を主張するために「新しいもの」信仰を始めたのだ。全く新しいものであるなら美術と混同せずにガンばれば良いものを、美術の流れに甘えて美術館に展示したがるなどして「連続する次世代」として社会に存在を主張してきた。しかし彼らには伝統も継承もない方法論ばかりであって、美術ではないのだから、これに対し私は自分の立ち位置を理解し、誠実に目的意識に従うべきだと言ってきた。

そして現代アート(観念アート)と現代美術を混同させないようにすべきだと。つまり視覚芸術と観念アートを一緒にすると、これまで先人が積み上げた賜物を軽視し、全く理解できなくしてしまうと述べてきた。私にとって観念アートはどうでも良くて、私の趣味ではないので好きにやってくれればよいのであるが、美術評論家や美術史家でさえ、中には描写表現をただ「物を描きたかった」と解釈する者や全く逆に表現されたものから「精神性による意識」をより強調して考えるものまで現れて、作り手の感性が無視される状況に至っていると思っている。描写においても、写真のように対象そっくりに写す行為は作り手の側から感性を無視した行為だ。

評論家は言葉で創り手を扇動してきた。「新しいもの」があるように錯誤させて、抽象表現にイメージがあるような誤解を与え、解説する。「変化によって得るものは不確実で、失うものは確実である」ことを見落としてきた。つまり美術表現は失ってきたものが大きくて、もう取り返しがつかないほどである。再び取り戻すことはもう出来ないのである。

西部氏は突然疲れて、これ以上何かを論じる気力が失せられたのであろう。トランプや安倍、習近平、プーチンと金正恩までくたびれるような状況を作り出す。西部氏は足元の自分の生き方に「平衡感覚」による線を引かれたのであろう。

西部氏の決別に心から哀悼の意を捧げたい

 

 

 


描き手の現代美術の理解

2018-01-18 16:30:18 | 絵画

現代の絵を描く者に「どんな絵を描いているのか」尋ねれば、風景画、静物画などの「モチーフ」を描写しているか、あるいは「非現実的なテーマ」「観念的テーマ」を題材にして制作する。前者は最終的に「いかに描写した」が帰結であり、後者は時として誰にも完成は分からないし、もとより基準がないので、終わりはない。

最近の美術系大学の入試傾向から、この二つが試験官の視点であるところもあれば、端から後者の観念的とも言える表現性を評価の基準にするところ多くなっている。要は過去の傾向が「描写力」に傾いていて、表現力が弱い世代を作り出してきたと考えられるからであろう。具象作家と言えば「究極のリアリズム」と称して、本物そっくりに描くことと勘違いするレベルであるし、人類の歴史の中で何がリアリズムであったか考える人は少ないからであろう。それは決して難しい「哲学」ではない。先人たちの感性の豊かさに見ることが出来る具体的なものである。要するに見なくなった、考えなくなったと言えるだろう。

 

美術に対するイメージが歴史の中で大きく変わってきていることも影響して、美術が視覚表現という枠から外れて、言葉を用いて価値を補充するような傾向が常に存在するようになったのは、作家の置かれた環境による。今は個人で生活の糧として絵を描いて暮らすなど、資本主義、物質主義、拝金主義、名誉欲などを受け入れないと得られない。それが表現の目的にかなったものであるかどうか、作家が考えることであるが、作家としての倫理観や志が問われる。経済発展した国であれば、美術品は投機の対象になっているし、アフリカの民族美術品と言えるような、楽器や祭礼器など、すでに商品化されて欧米に出回っているし、オーストラリアのアボリジニの民族楽器から、アニミズムの象徴のようなオブジェも美術館に展示収蔵され、価値が付いている。そしてそれらはコピー商品として売られ、資本主義の流通に組み込まれている。

一方で、「非現実や観念」をモチーフにすると作り手は自分に対して甘くなる。視覚表現である意味は見る側に投げられ、分からない方が「おかしい」程度に扱ってしまう。「これが分からないか?!!」といって、言葉で説明を始めてしまう。美術館学芸員や画商はこうして分からないものに価値を授ける。

この項で何が言いたいかというと、現代の美術は本当に「美術表現の目的」があって作られているのか、それとも商品になっているのか、それらに接する人たちに問いたい。商品であることは、交換価値がなければならないが、たまたま作ったものが売れたというのと、売るために作ったというのでは、物の出来が違う。誠意もこもらない。素人はこの誠意のない作風、レベルが判断できるだけの目利きではない。美術館の学芸員でさえ目利きでない者は多いことだ。

巧みな技術について言えば、素人は作り手に騙されるのはある意味仕方がないとも言えるが、騙そうとして作られたものかどうかぐらい判断できる目は持ってほしい。わざとらしい表現、素直に生まれた表現、誰かが教えた表現とか・・・。

日馬富士の事件以後の春場所だ。張り手、かちあげを禁じられて白鳳は二敗した。立ち合いで自分が主導権を握られなくなったからか・・・・。もし学芸員が鑑賞者が分からないからといって、言葉によって視覚表現を説明することを禁じられたら困るだろうね。作家においても同様だ。甘えがあるね。二敗じゃ済まないよ。・・・と言っているうちに「休場」だとさ。土俵の上で死ねよ・・・そしたら記憶にのころだろうに。相撲をスポーツにするな!!神事たれ!!!理屈じゃねえんだ、相撲は!!・・・と結局、皆で解説しちゃってるね。

目で見てわからないものは、意図が伝わらないものは美術ではない。他人は手出し(解説)無用。だから私は描写表現に拘りたい。しかしあるものを在るがごときには描くのは愚だと再三述べてきた。ないものを在るがごときに出来て一人前の絵描「絵描き」だとおもう。しかし描けないものの方が多い。こうして言葉を使って描き表せない世界こそビジュアルな手法を使って表すだけの価値があるのだから、その手法を身に着けるために頑張るべきだ。具象絵画は写真的に「見えるままに描く」ことが究極(最後に残されたテーマ)ではなく、まだやるべきことはある。

現代に生きていいることは、運が良ければ、生きているうちに大金持ちになっているものも現れる。しかし絵を描く意味があるのかないのか自分に問わずに一生を終わるのは悲しいではないか。いつの間にか年金生活者になって、十分な収入がなく、しかも猫を食わしている。猫を処分しろという者もいるが、冗談じゃない・・・もし家の子が海に落ちたら、泳げないけど飛び込んで助ける・・・・それほど、彼らは家族として私と共にあるのだから、貧乏で食い物に困るほどなっても、私の食費を削れば今のところ、彼らを空腹に放置しなくて済んでいる。

正月には和牛ステーキを食べた、おいしくなかった。牛脂臭い。値引きされたウナギも食べた。本物の味ではなかったが、まあいいか。まだ本物の貧乏ではない。お金が自由に使えないだけだ。今年は一月から良いことがあった。防災無線のスピーカーが近くにあって、80デシベルを超えて正午に「浜田市民の歌」、夕刻5時にドボルザークの「家路」をかける。防災と時報とを一緒にしないで欲しいというのがこちらの訴えで、訴訟も辞さないと市役所に言ってきた。私はきっと「モンスター市民」だろう。市役所の担当者はこれまで何度か対応したが、ほとんどいい加減だったが、今回は許さないと厳しい態度で接した。やっと対応がされた。音楽そのものを無くしたりしないで、解決するためにはスピーカーの方向をずらすと言ってきた。そして実現した。どえらい違いが出てきた。家の中に居れば決して不快とは言えないまでになった。文句は言うものである!!しかしこの町の市民は市役所の役人に、まだ洗脳されているのには違いない。

しかし未だに山口市に住みたいのだ。新山口駅(新幹線)の近くに住んで、宇部空港も近いところなら、東京にも海外にも近くなったと思える。猫シッターを頼めば少し留守をしても良いだろう。またオランダ、ベルギーを訪ねて、フランドル絵画の影響を受けたいな。彼らの絵具の処理の仕方が魅力的だ。観る者の感性に素直に響くだろう。ここ浜田で死にたくないな。冬は西風が暴風のように荒れて、寝るときも海鳴りが、地鳴りが恐ろしい。宝くじでもあたらないかな?でも買わないと当たらないね・・・。

またつまらないことを書いてしまった。

 

 


パターンの絵画1

2018-01-10 23:53:47 | 絵画

テーマを思いつくのに、頻繁にTVの番組の中からヒントを得ることが多くて、俗っぽいと思われるだろうが、最近思考力が停滞しているので、それもありかと思っている。許されたい。

そこで、TVのニュースの一部であったか・・・中国の近代・現代美術を集めた大きな美術館らしいが、潘天寿(何と読むか忘れてしまった)という19世紀後半から20世紀の半ばの中国を生きた伝統の中国絵画を描き続けた作家であるが、現代の伝統的中国絵画や韓国の伝統的絵画によく似た表現が見られるのに、これ画家が偉大な画家として扱われているのを少し考え込んでしまった。どの作品も同じ表現の繰り返しなのであるが、売り絵画家とまったく同じパターンなのである。

何がと言えば、どこの国の近現代美術には表現様式の低迷というものが観られ、作者の個人的な感性の鋭さより、大衆的な受けを狙った表現が主流になっているのに残念な思いがある。例えば日本画でも明治期の日本画には伝統のすごみがあったのに、現代には全く感じられない。どれも似たり寄ったりでしかない。

実はこのブログの昨年のテーマの「近現代美術」について書こうとしたところ、中途半端に筆を置いているところがあって・・・正直、個人的な思いを、相当ぶしつけに書いた原稿があって、それを書き続けるところで中断している・・・根本的な理由というか、気になって書こうか書くまいかと思う内容に、今回のテーマが展開しなければいけなくなったと思っている。それは攻撃で、批判であり、人を否にさせるかもしれない。しかし私が常に思い描く「絵画」があまりに滅びかけていると、現代を嘆くより、誰かにぶっつけて共感を得たいと思う気持ちは、恐らく「貴乃花が描く相撲道」みたいなもののように「はみだし」であって、一方で興行的になって疑いもしない相撲協会の在り方に、あって現代の美術界に同じ体質を感じるが、そんな時代なのか。拝金主義や物質主義を感じてしまう。

そんな時代の流れとは、作家が職業的に自己の存在をアピールするための方法が個人に委ねられ、個人の小さな頭脳で発案される手法は様々な伝統的な積み重ねから出た知恵や技術や最も重要な感性まで失わせてきたと、これまでも私は何回も述べてきたが、「過去の様式に対して、現代の様式が対立するだけの対等な価値がある」と皆思い込んでいるのではないかと・・・・危惧する。

私が22歳でベルギーに上陸し、「西洋美術」を学び始めた時、アカデミーの教授は「あんたのやっていることはデジャ パッセよ」つまり終わったことだと言ったのであるが、この言葉が強烈な反抗心を私に植え付けた。・・・で「新しいものを作り出すのが芸術だ」と宣い(のたまい)、この馬鹿教授が!!と思って今日まで生きてきた。「陽の元に新しきはなし」という聖書の言葉が私には大切だ。

近代が個人に表現の自由をもたらしたが、個人の頭脳は「イズム」で存在感を主張し、観念的な表現様式は感性を失っていったのだ。新しいものがあると思い込んだ後続の者たちにあったのは観念アートだ。もはや美術ではない。

結果として、もっとも忌むべきものはパターン化した表現である。文頭で述べた潘天寿氏の絵画にみられる、風景の樹木、、草や松の描き方、樹上の鷹の描き方など、繰り返しがそれぞれの作品のなかで登場し、魅力がない。ハンコでも作って押したらどうだろうかと思った。

作品の中で表現様式が統一されるのは、作者の感性で画面全体が支配されるからであるが、何度でも似たような作品が描かれるのは売り絵制作の流れでしかない。同じ内容を繰り返し描いてはいけないということではなく、同じ表現を繰り返すのは、すでに創作では無くなっていると言えるから、売り絵だというのである。典型的な工場生産的な手法であり、商業主義に毒されているとしか思えない。

同じテーマをいろいろな表現で突き詰めてみたいと思うのは、自画像を描き続けたレンブラントの意が正当化しているだろう。彼はどれ一つとして同じ繰り返しはしていない。彼は勿論工房を運営するためにコピーを弟子に描かせているが、制作内容のパターン化ではなく、営業方法のパターン化であった。しかし彼の描写方法では弟子たちにパターンを教え込んで再現させることは不可能であった。デッサン力が着いていかなかったのである。もう一人、リューベンスの制作は弟子と共に制作することが、リューベンス絵画の一つの様式となっているとも言える。彼に多くの注文が集まり始めた時、彼は工房での制作をシステマティックに運営するしかなかった。彼が構想を練り、下絵となるオイルスケッチやデッサンを作り、カンヴァスに下絵を描かせる。良ければ制作に入るのであるが、この時点で下絵が許されたのは、リューベンス印のデッサンに合格した者だけで、リューベンスほどのデッサン力の鋭さはなくとも、誰もがリューベンスだと分る彼のデッサンの癖や表現性を再現できたものだけだ。つまり「工房様式」と呼ばれるパターンがあったのだ。このパターンは同じ下絵やモチーフが繰り返されたとかということとは違う。要するに外観は決して同じものではないが、リューベンス印の「味付け」が統一されているのである。(皆が求めるラーメンのスープの変わりない味と同じかも・・・・ちょっと品性が違うけど)

パターン化すると誰の作品か直ぐに分かるが、面白くなく、どうでも良い作品にされてしまうだろう。値打ちが下がるわけだが、商売人や評論家はまた別のことしか考えていないから、とんでもない解説をする。

 前項で述べた「生きがい」のところで、天野さんが絵を描くような「自然に湧き出るテーマ」で制作すればパターン化は防げる。やはり絵を描くということは、「職業的」であるか、それとも個人の「表現的」であるかどうかの問題で違いが出る。そこが現代だ。

パターン化の要素

パターン化になってしまう要因は具象から抽象へのプロセスにあると思う。制作上、最初から抽象絵画を狙うと、自然な成り行きで、出発点の形象の繰り返しで発展する、いや展開すると言えるだろう。目的性があるならば最初からそれに近づいているはずだから、展開ではなく「追求」になるが。カンジンスキーがこの方法で展開した。「追求した」と言うほどのことはないが。当然ながら、具象絵画にも抽象性は存在し、形の強調や省略はその一つで、細かな細部は必要か否かによって強調や省略がされることで、観る者にまとまりのある視点を与え、重すぎた表現を軽くし、空間を広げたりする。モチーフに至ってはより重要な存在感を与えることも可能になる。古典の時代から一つの手法として行われてきた。一方、その古典の初期であるイコンの時代に、表現の対象のパターン化は行われ、宗教的な意味合いが濃い象徴としての役割を果たしていた。それは技法表現の可能性も左右したとも言える。神や聖人を描く場合に礼拝の対象としての「世俗性を排し、威厳を高める」ための形にされたのではないか?表現の対象が一目瞭然に判別できる形象でなければならなかったのである。こうした要求にはパターン化が付きものだと言えるだろう。

象徴は具体の抽象化であり、パターン化である。象徴主義絵画が一部を除いてパターン化されたわけではない。象徴主義絵画はモチーフを象徴的に扱うことで雰囲気を作り出し、単純に意味合いを持たそうとしたのである。ここで抽象化とされるものは形であり、現代抽象絵画にみられる「意味不明」の抽象化に、作者は象徴的な役割を感じているのであろうと思う。作品に題名を着ける行為が、それそのものである。

イタリアの画家モランディの作品をご存じだろうか?多くはビンをテーブルに並べて描く静物画であるが、何百とある作品に多くの変化はなく、区別が殆どつかなくて作者の意図が良く分からない。彼はセザンヌの後継者だと言われているが・・・。批評家の大事な研究対象かも知れないが、観る者には同じパターンの繰り返しに、セザンヌが始めた抽象画の一つだと誰が思う。

 

 


生きがい

2018-01-05 14:00:56 | 絵画

去年の何時だったか?NHKのTV番組で「チコちゃんのなんとか、かんとか・・・」をちらっと見ていたら、「なぜ男と女がいる?」と言うような話をしていて、「男は女の保険」と言う話になった。面白い話だなあっとおもって・・・。

昔、太古の数十億年間メスしか居なかったと。つまり必要なかったらしい。そのうち災害や環境の変化に対応できなくなって、「多様性」が求められ、「オスの機能」が必要となり、オスが現れたという。で、オスは生物が生き残るために必要な「保険」ということになる話。

ペットショップで売られる動物の値段は、たいていメスの方が高いように、メスの方が生命の存続を担っているという現実は「オス(男)」にとって、厳しい話かもしれない。人の性染色体ではXYが男、XXが女を構成するということで、女が女を産むのに、自分の体内で自家受精できれば、男の力を借りなくとも、生物的には存続が可能と言うことか?同性同士の結婚も認める国もあるわけで、男同士では子供を授かることはできないが、女同士では出来るのだろう。アマゾネスという話があるように、「男を排除・・・」して、国家まで構想できると思うことも思想的に可能だろう。ときたま男と交わって、多様性を形作ったような話でもあった気がする。で、男が生まれたら殺された・・・と。

そのせいか、男は存在価値を主張するために、やたら「生きがい」というものを強調するらしい。(こういう話は好きだ。よく覚えている。たとえ先ほど何を食べたかを忘れても。)

一方、一夫多妻制を認めるイスラム教の国もあるのは、この男の「生きがい」が女性を差別して支配し、「男の存在感」を強調した歴史の表れだと思える。

女性は一人子を産んで育てると、男が大事業を成したと同じほどの満足感があるそうだ。うらやましいね。私は未だに、この満足感とやらを得ていない。私はこのブログで、やたら「生きがい」のようなことを、「吠え、読者を扇動する」ことを書いているが、自分では満足できていない。だから書いているのだとも言えるが。

祖父が60年日米安全保障条約を締結し、叔父が沖縄返還を実現して(どういう訳かノーべル平和賞を受賞)、自分は在籍期間だけ長く、醜聞だらけで、「憲法改正」に日本の政治史に名前を刻みたい男がいるが、日本国国民の為に政治をしている様なふりをする。彼の「生きがい」は自衛隊を国防の軍隊として位置付けたいのだろうが、共産党も立憲民主党もリベラルな考えも持っていても、別に国防が不要だと思ってはいない。だから自衛隊をいらないとは言わない。しかし安倍のように多くの議論や国民の同意なしに、安保法制を決定し解釈をエスカレートするような権力者の「生きがい」には要注意だ。

問題はこのような権力者の考えが良く分からない、理解もしようとしないで、支持する人が地方に多いことだ。団塊の世代の人の中には70年安保闘争を真直に見てきた人もいるが、田舎にいた人たちは殆ど記憶にない。彼等には何が「生きがい」なのか、曖昧で説明がつかない次元にある。昨今の「日馬富士の暴力問題」についても象徴的で、日馬富士ファンは引退は仕方がないねぇ・・・と言う程度だ。相撲協会がどんな組織であるのか、どうあるべきなのかを考える者はいない。加害者が名誉ある引退で済んで、一方の暴力を受けた被害者の貴ノ岩と貴乃花に対する処分には非情とも思えるのだが、相撲協会の組織の問題に踏み込むメディアの相撲解説者はいない。恐らく相撲の世界から排除されることを恐れてのことだと思うが、もっと客観的かつ合理的な議論がされない状況だ。こうした煮え切らない状況を眺めていることは、流石に私には潔く感じられない。日本人の情緒的国民性にイライラする。もっと理屈に合った、筋の通った考えでもって、物事を考えるべきだが、日本中からこの曖昧な性格を無くすることは不可能と思うようになって、「ああ、まただ・・・」と思う。貴乃花は「はみ出し者」になっているが、覚悟してのことだろう。貴乃花の母親の藤田氏曰く「協会は興行を選んで、一方の貴乃花は相撲道を選んだ」と言っている。だから白鳳がやりたい放題するのだ。

日本人がもし合理的な考えで行動するような国民であれば、安倍のような政治家は出て来はしない。ドイツのように200ユーロ以上の接待、政治資金の寄付を受けると「賄賂」とみなし逮捕、政治家失格の理屈は、筋が通っており、「口利き」「賄賂」が横行することもない。つまり金銭で「民主主義」が売り買いされることはないのだ。ドイツで曖昧さは敵だ。曖昧な返事をすれば、職場で、社会で信用を失い、職さえ失うこともある。どこかピリッとした規律(ドイツではディッツプリンと頻繁に、この言葉が使われる)が日本人には必要で、、財務局の責任者が8億円の不当な値引きをしておいて、その後「国税庁長官」に抜擢されるなどすれば、ドイツではスキャンダルとして、首相は弾劾されるだろう。しかしこの世界の三等国でしかない日本では、もみ消されて、皆忘れていく。地方では最初から「安倍さんがそんなことをするはずがない」でお終い。地方でも、思考停止し、情緒的に生きるだけでもストレスがあるから、忖度して、分かりもしない他人の気持ちに無駄なエネルギーを奪われる。周りは皆それをやっている。これに反すれば「はみ出し者」扱いされる。

昔、ドイツでお世話になった友人の母親に尋ねた「ドイツでインテリゲント(インテリジェント)というとどういう意味な成りますか?」と。すぐ「情報を分析する能力のある人」と答えが返ってきた。流石ドイツ人だ、「頭の良い人」とは言わなかった。で、見習って、情報を集めて、理屈を建てるようになったが、この国では「天を衝く勢い」とか言われた。直接、回答を述べてはいけない国なのだ。その回答にいたるプロセスが大事だと・・・しかし、論理的に考えるという意味ではなく、「相手の気持ちを忖度して述べる」と言う意味であった。ドイツで誠実に即答しないと、気取っていると言われるが、この国では個人的な気持ちは隠していないと、後でひどい目に合う。自分の大事な「生きがい」などそう簡単に言えないのだ。

 

誰しも自分の生きがいは持つべきで、その質や品性のレベルを高く持つべきだ。

去年の暮れに、江の川(島根県江津市を流れる大きな川)の川漁師をしている天野さんと言う人を訪ねた。若いころ自衛隊員で、その後生まれ故郷に戻り、漁師と猟師をしている。今は川漁師で生計を立てておられる70過ぎの方。彼は絵も描き、去年の県展にも出品している。前にも述べたが、この県の県展は大変なもので、団体展の県の幹部が審査員を務め20人以上の審査で、自分の会に属するものを多く当選させようとする習いがある。天野さんは出品した作品の批評会で「ボロクソ」に言われて、私の友人の額屋さんに持ち込んで、意見を聞いた。私の友人は、批評を行った者のあまりの無礼さ、無知さに怒り、その話を私にもした。批評した者は「これもいらない、あれもいらない」と言って、彼が描いた絵からモチーフを取って、水の中を泳ぐ鮎(アユ)だけ描くように言ったのである。普通は作者が何を描きたかったのか尋ねるであろうが、「こんなのは絵じゃない」と切って捨てるのである。天野さんは相当失望して、自信を失いかけていた。

そんな時、友人と私は天野さんを訪ねて、その作品を見せてもらった。その作品には水の中の岩の間を泳ぐ多くの鮎、それを捕ろうとする自分、そして上の方に神々しく光るお地蔵さんが描かれていた。江の川では昨今鮎が不漁で、鮎が再び戻って来て大漁になるよう願って描いた作品だった。実に素朴なファンタジーだが、以前大水が出て、近所のお地蔵さんが流され行方不明になったとき、川の中に沈むお地蔵さんを見つけ出し、抱えて帰って道端に祠を作って拝むようになったら、次の年鮎が大漁であったと話してくれた。彼の素朴な願いが絵に描かれたのだが、批評した者はまるで気にもかけなかった。絵を描くモチベーションというものは、絵の完成まで大事であって、これを途中で変更したら絵で無くなる。

彼の他の作品の写真を友人が見せてくれた。昔は夜の漁をする自分や鮎を狙う夜のキツネなど彼が漁師として、あるいはまた猟師として経験してきたことが、月明かりに照らされた川面が幻想的に描かれていて、素人ではない域に達していたことを見せつけられた。幻想的な絵画であっても、絶えず自分の経験から描かれており、テーマは尽きない。私が迷い続けるのとは大違いだ。迷い続けて適当なものを、その気もないのに描く人は素人だが、天野さんは違う。団体展に所属する人でも、毎年展覧会のたびごとに何を描くかがいい加減な人もたくさんいるのに、彼のモチベーションに気が付かないとは、批評した者こそ素人だろう。他にも幼い時に仲の良かった弟が亡くなったとき、母が「弟は死に際に手を伸ばして空をかいていた」と言ったことを思い出して、弟と釣りに行って、手招きをしている様なしぐさを描いてみたと言われた作品には、彼の優しがあふれていた。彼には自然に湧き出るテーマが、彼の世界観そのものとしてある。私は絵画の技法や知識については学んだが、天野さんの純真なモチベーションに、改めて表現の重みを学ぶことになった。

彼の失望は取り戻せた。「絵画は虚構」なのだからという私の話に気が楽になったと言われて、迷いの中にあった制作に続きが出てきたようだ。彼は正直さ故に、表現の限界に行き詰っていたのだ。人物をもっとうまく表現するためにデッサンを繰り返して、新しい感覚を身に着けることを勧めた。絵を描くことは、川漁師であることの次に大切な「生きがいに」なっているから。

追記:

彼は漁師としてすべてをだれからも教わることなく、見様見真似で身に着けたそうだ。研究に研究を重ねるうちにいろんなことが分かったそうだ。そして鮎を取るのは夜も深まってからだそうだ。昼間食べた苔が消化され、内臓がきれいになってからだと丸ごと食べてもおいしいそうだ。それに昼間の漁は鮎がすばしこくて、網を打つのにも逃げてしまうのだそうだ。内臓を塩辛(うるか)にするときも、胃や腸は取り除くそうだ。僅かしか取れない貴重な卵と白子のうるかもご馳走になった。漁に関しても」いろんな話を聞いた。鮎以外にもモクズガニ(上海ガニの親戚)も4~5mある深い河でどうするかとかいろいろと知恵があった。去年は鮎があまりとれなかったのだが、「来年はきっとよくなるだろうから、夏に鮎を食べに来てください」と言われた。それより彼が漁をするところ見てみたい。

 

 

 

 

 


ネコとお正月(絵の話ではありません)

2018-01-01 15:30:08 | 絵画

新年あけまして、おめでとうございます

ここ島根県浜田市の元旦は、朝から冬の日本海の荒波のしぶきと、雲の合間に時々見せる青い空で始まりました。寒くても朝から出かけた猫もいて、居間は空っぽでした。申し訳ないことに、石油ストーブに灯油が切れていて、寒かったようです。風の強い日はネコドアから強い風が吹き込んで、ストーブも役に立ちません。新しいネコドアに換えたのですが、目論見違い。換気扇のフードに当たるステンレスのカバーを買ってきて出入り口を隠すようにしたのですが、余計に風が入ります。やはりパッタンドアにしないといけませんか?

私は朝は布団から出たり、入ったりでお雑煮は昼過ぎに食べました。一人前ですが、昨夜の年越しそばが、ちゃんと昆布と鰹節でだしを取って「つけ鴨そば」だったので、そのだしを使いました。誰もがおいしいと思うことをきちんとすると良いものが出来て満足です。東京にいる頃から独り者であっても、おせちは15種類以上作るのが例年のことでしたが、今回はさぼりました。作ったのは酒の肴、「干しだらの甘露煮」「数の子松前漬け」「かぶらの三杯酢」「煮しめ」「黒豆煮」の五品で、最も好きなおせちです。ほかに「卵焼き」「伊達巻」「ごぼう巻き」「真鯛の西京焼き」「有頭エビの煮つけ」など材料だけ買ってきて何もしていません。誰か代わりに作ってくれないかなあーと思います。

お膳を作って、テレビでも見ながら一杯やろうかと思って座り込んだとたん、子猫のタマ二世(推定6か月)が干しだらの甘露煮を加えて逃げました。子猫に口には大きすぎる塊を加えて逃げるところ、他の猫たちが殺気立っていて、そこを私が首根っこを摑まえました。「みゃおー」といって抵抗する口から、塊の半分を取り戻しました。この子はアメリカンショートヘアでペットショップで買えば、最近3か月の子であれば15~20万円しているのを誰かが港に捨てたのです。捨てられた分、たくましく生きていると言えるでしょう。しかし、かわいい顔して何とやら!!生後一年ぐらいすると、分別が付くようになりますが、子猫に念仏!!「幼稚園行って勉強して来い!!」。

もう一匹の新顔、毛の長いメガちゃん。「ぎゃあ、ぎゃあ」と言いながら、畳の上に「お漏らし」。少しづつ下痢を漏らしながら歩くのがパターン1、パターン2はゲロ。やはり「ぎゃあ」と一声。また一声で、せっかくの新しい青畳は黄色に変色。他に家人が居なくて良かった。

この子も生後6か月程度だが、毛の長さは家で一番、長いのは6cmはあって、頭からモップのようになってきた。一年後にはどうなるのだろうか?家中のゴミをつけて歩いているかも知れないが?そう言えば「ルンバ」とかいう電気式のものがあったが、この子は「生ルンバ」だけど、自分が漏らしたものは始末しないから、私が掃除夫か?

とにかく掃除が嫌いな男が多くの猫といるのが間違い。雨の日、寒い日は猫たちは殆ど家の外に出ないで、家の中で寝ている。「寝子」というのは本当に半日以上寝て過ごすこと。家にいてトイレも家で済ます。晴れていれば、隣の水産高校の中庭か、家の前の砂場(家の庭は海に面していて、波をかぶることもある)で済ます。海の砂を取りに行ったら、すでにウン子が混じっていることもある。小さな砂場は猫たちの足跡だらけ。そこで家のトイレは雨の日は一日で満杯になり、毎日掃除が必要。トイレはセメントを練るためのプラ船で80x50cmだから結構の大きさだが・・・。最近、メガちゃんの下痢が多い。時にりっぱなウン子をする子もいて、私も負けそうだ・・・??ウン子は健康のバロメーターで、数少ない情報だから、どの子がどういううんこをしているか気になる。ああ、そうそう何故メスの子猫がおならを頻繁にするのか誰かご存知か?ひょいと抱いたりすると、よくやられる。その匂いは人間顔負けで、腹具合が悪いに違いない。口のにおいも気になる。それから白い毛の猫は分かり易いのだが、白い毛が黄色になっていると、歯槽膿漏か虫歯になっていて、毛をなめた時に唾液で黄色になる。普段毛づくろいではならないから。医者に連れて行って、抗生剤の注射をしてもらうと、治る。毛色が濃いと良く分からないから、かわいそうだ。

、掃き掃除、拭き掃除、ワックスがけまでして、3日も持たない。やはり絵を描いている方が楽しい。

今年が皆さまにとって良い年でありますように!!

追申、

黒豆を煮るときは、まず豆を洗って、大きめのボールに入れ、いっぱい水を入れて豆をふやかす。一日以上ふやかすと、かなり豆が柔らかくなる。ボールの水が豆に吸われて、減ってきた分足してもう一日置こう。そして火を入れるときは、弱火で、決して煮立たせてはいけない。(ラーメンでとりガラスープを作るときと同じ)豆は形を保って、しかも柔らかく、料亭の黒豆のように煮る。口に含んで豆が軽く砕けて潰れるまで柔らかくなったら、お砂糖と味醂を入れまた煮る。味醂の癖が消えたら、お醤油を足す。まだ煮て汁が減るほどに煮揚げて味をなじませる。味醂でうまみと艶がでる。黒くしたければ錆びたくぎをガーゼに包んで入れるが、醤油でも黒くなるし、煮揚げていくとまた黒くなるので、好みで。汁が多すぎると思ったら、豆をボールによけて,汁だけ煮上げて濃くする。それを豆と合わせて、冷めたところで食べる。

伊達巻ははんぺん、卵の黄身、砂糖、味醂をミキサーでドロドロにして、卵焼き用の細長いフライパンにサラダ油を少々塗って、軽く焦がし、一度冷まして、そこにまたサラダ油を薄く塗って、温める弱火にして先のドロドロを7~8mm程度に薄く流し込む。熱が入ると膨らんで厚くなるが、冷めるとかなりペッちゃんこになるので、気にしない。火が通ったらラップの上に降ろして巻く。巻いたものをラップでくるんだ状態で、巻きす(巻きずしを巻くのと同じ竹の簀の子)でしっかりと巻いてから冷ます。作業は厚いうちにすれば、きれいなギザギザが付く。

しかし、二回以上同じものを食べたくないな。今日はノドグロの煮つけを食べよう。明日はA5のフィレステーキだ。次は松葉ガニだ…なんてね。猫と戦いになる。