スランプは続いている。
何年も、何年もスランプが続く人のことをNEAT ニートと呼んでいるようだが、学校も行かない「登校拒否」や、働かない「引きこもり」のことらしいが、おおよそ20代前後から40代の男性を対象としているようだ。女性の場合「家事手伝い」という扱いがあるため、分類しにくいようだ。女性への差別ではないらしい。
ニートのスランプは社会への参加の機会を失うことで、理由が外的もしくは内的要因でスランプに落ちてしまい、精神的弱者となっているだろう。私の場合、これまで長期にわたるスランプはなく、皆短い間に解消してきた。だから弱者になったことはないが、定年後、社会との関係性は相当失われ、それまで生業としていた「油彩画修復家」の看板は下ろしたも同然で、仕事も来ない。工芸職人などには「人間国宝」とかの技の年齢を重ねて与えられる称号があるような職能世界ではない。むしろ年を取ると技にカビが生えると思われる節がある。というのも保存修復の世界は1970年~80年代にかけて技術材料に対する考え方が大きく変わる流れがあって、職人的技術者と科学者的技術者の分類に当てはまる修復家に分かれてきたからである。科学調査の結果から処置方法が変わったり、作品に対する倫理的対応の方向性が進化したりして、職人気質で「自分が会得した知識や技術」の範囲内から出られない職人的な修復家はまさに「カビが生える」と言われるのである。
その一方でアカデミックに最新の技術や知識を学べると、学校で修復保存を学んだ者は「一通りの学科」だけを学びながら、世界観が文献資料に偏る性格を教育で身に着けてしまう。本来、学校を出た後に博物館、美術館、図書館などで「研修生や研究生」を数年繰り返しながら、技術や知識の未熟さを学んでいくのが本来の姿である。(しかし一人前になるというのは「一人で全責任を負うことが出来るようになる」ということである)
この国では油彩画の修復を70年代に学んだ者は職業的に成功することを狙って、若い後続を雇いながら事業を拡大していた。そして「xx修復工房」とか、中には大げさに「絵画修復研究所」と名乗って、商売っ気が優先したところも多い。こうした社会的地位を確立しようとする動きに呼応したかのように、90年代には洋紙、彫刻、織物、金属などの個人性が感じられる分野に若い人が学び始めて、この国の保存修復は少し形を持ち始めたのである。
私の職場であった国立西洋美術館にも若者が学びにやって来たが、まったく私の志を理解せず、中途半端な連中になった。きっと私の教え方が悪かったのであろう。しかしその内、美術館で発生する業務に一端を任せることが出来る、海外でアカデミックな教育を受けただけでなく、研修研究生を修了した者が帰国し始めて、私の西洋美術館での役割の完成が見えてきたのである。そして極めつけは「博物館・美術館の地震対策」と名撃った国際シンポジュウムが西洋美術館で開催できたことである。
私はこの後、燃え尽きたわけではない。しかし西洋美術館での役割が終わったのである。
定年後も修復稼業が続けられなかったわけではなかったが、積極的に事業者に成ろうとしなかったのである。こうした自分の立ち位置を確認しながら、今のスランプを考えている。
そうこうしているうち、実は5月26日、およそ10日前に父があの世に旅発った。まだ97歳8か月であと少しで100歳だからと、のんびりしていたところ、朝方やって来たヘルパーさんが硬くなった父を見つけたらしい。慌てて猫のエサを器に18kg、ダークスーツ、ワイシャツ・・・・黒いネクタイがない・・・160km離れた岩国市に行く準備は不完全であった。車に飛び乗って、履いているのがゴム草履であるのに気が付いた。ついて驚くことばかり。スーツのズボンが無かった・・・上着だけを持参しのだ。ワイシャツは出かける前に置いた場所に置いてあった。
スランプだからの結果ではないだろう。まさかの出来事に対応できなかっただけだろう。
とりあえず、おつやと葬儀を終わらせたが、父の忘れ形見の「まめちゃん」(父が欲しがった猫)を私が引き取ることになり、浜田の家まで泣きわめくまめちゃんを連れて帰って、その晩は私の寝室に閉じ込めて、他の25匹とケンカしないようにしたのだが、翌日、顔見世で瞬間的に脱走・・・・。裏山に入ってしまった。
その後、父の家の整理に出かけなければならないが、まめちゃんのことが心配で出かけられない。折から梅雨入りした。雨に濡れているまめちゃんを思うと焦る。
で、ずぶぬれで庭で発見したまめちゃんを寝室に連れて行って、他の猫たちと隔絶。私のベットはめめちゃんの泥だらけの足で、足跡がいくつも付いた。お腹がすいていたのだろうに、カリカリをむしゃむしゃ・・・・。今日は外に出さない。
スランプはいつ去るのであろうか?
工事中で・・・・