このタイトルで書くことは、まずないと思っていたが、やはり分かっていない人に伝えて置かねばと思う。
子供の頃、誰しも「お絵かき」をしただろう。紙と鉛筆があれば・・・・いや襖にクレヨンで思いっきりやった人もいるだろう。しかし大人になるに連れて「絵心」は失われて、描けと言われても「めちゃくちゃ下手」にしか描けないだろう。それは「感性」を失ったということだ。その感性は大人になっても大変大事な「才能」だったのだが・・・・。
心の中にあるものを視覚的にする「お絵かき」は年を取ってからまた始めると意外と難しいものだ。なぜなら描き始めるまでに、つい考えてしまうからだ。そこには描かねばと考える意思を強制することの一方、つい描いてしまう感覚的な衝動があるのとの違いが結果として明確に出るだろう。つまり「描く欲がないとある」との差だ。
やはり行動は「欲」によって左右されて結果が大きく異なる。欲の無い人が描くと、赤いトマトとリンゴと柿の差が描き分けられない。随分レベルの低い話のようだが、これが現実である。
世の中に「描く人」とそれを「評論する人」がいる。評論する人は「自分は当たり前に評論できる」と考えているから、描く人は評論家の言葉に、時に立腹するあるいは遠慮して言い直すと「違和感を感じる」ということがある。なぜかというと評論する人が描かないために「描く心」が分からないからである。
画家が描くことは、もはや評論家や美術史家は理解できないのである。しかし世の中には職業として成立し権威まで持って美術界を支配しているのが現実である。美術館の学芸員は絵が描けない・・・描くことを経験したことがない。東京芸大の美術史専攻の受験では石膏デッサンというのが課せられていたが・・・・石膏デッサンが絵画制作と比較できないことぐらい素人でもわかるだろうが・・・・どういう訳か国立西洋美術館の学芸員となると、この国では最も優れた西洋美術の専門家と思われているようだ。これは大きく間違いだと言わざるを得ない。少なくとも私がドイツから帰国した1982年から2012年3月までで、西洋美術館の学芸員で絵が描けた(画学生並みの絵が描けた)者は居なかった。しかし周りが皆、絵が描けないのであれば、それが特段問題だとは思わない。
これは役人が行政の「現場」から遠く机の上で処理し、結果が現実から離れた理解しか持ちえないのと同じである。近年の社会の傾向はこの役人レベルの「ジョーク」のような現実がほとんどを占めているから将来に期待が持てないことが多い。
ここでもう少し「絵を描くこと」とはどんなことか書いておこう。昔イタリアでジョットの弟子だと述べていたチェンニーノ・チェンニーニの Ile Libro del Alte(芸術の書:中村彝訳)の中で「我々画工の仕事は無いものを在るが如きに描く仕事」だと述べている。まだ中世の話である。当時まだ「芸術家」などとちやほやされることのない時代で、むしろ職人的な「実直さ」が感じられる発言だが、「無いもの」とは我々の生きている現実には存在しないものという意味であり、視覚的にまるで目の前にあるような世界(画像)を描くことという意味である。目の前に物を置いてそっくりに描く、まるで写真の様に描くこととは違う・・・つまり写生ではない。その後のルネッサンス以降の画家たちは画面の中に、この世に無いものを描くことに専念した。だから当時はギリシャ神話やキリスト教の聖書に書かれているような物語を描くことが基本で「優れている」とされた。バロック時代に現れた「静物画」は「写生」であって「創造性に乏しく」左程価値のあるものとされなかった。
画家は「力」が要求された。表現力は物事を構想する能力であり、それを絵具で最も観る者を錯覚させる力(技能)である。例えばピーター・ポール・リューベンスは馬上の勇者がライオンやカバを相手に戦うシーンを描いた。この時のライオンやカバは実物を見てデッサンに描いておいたに違いない。当時からカバがライオンと同様に獰猛で危険な動物であることを理解していたのを絵具で描いて見せたのだ。もし実際に人がカバと戦ったら、恐らく人が負けるであろう・・・。またある時は二番目の妻(家にいた使用人の娘だった)は画家である夫に命がけの協力をしている。ある日嵐の中、海岸に打たれた杭に縛られて悲鳴を上げるシーンのモデルを務めた。それをスケッチする画家の異常な欲望はそう簡単に生じないであろう。こういう記述は美術史家にとって特段の物語であるから、実際はどうであったかどうか疑うこともなかっただろう。美術史に限らず「歴史」は想像上の物語に走りやすい。
当の画家に求められた力は伝統によって受け継がれて画家個人に表現の実力を与えた。画家は先輩の画家の工房に弟子入りし、技法材料の基本を学ぶ。それらはどこかの書物に書かれているようなものを学ぶことは出来なかった。目の前で経験によって学び、初めて身に着いた。優れた画家は最初に教えをこいた先生の所で学んだ量より、独りになってからイタリアなどに留学して学んだ事の方が多かった。そしてただ人まねをするのではなく個人の中で熟成される優れた感性を持っていたのだ。
その典型が技法や技巧に現れる。まるで何もない処から「油彩画の創始者」として祭り上げられたファン・アイク兄弟が成し遂げた技法や技巧は他の者に多大な影響を与えていたが、どうしても真似の出来ない絵画世界を作り上げた。今日、技法に於いて科学分析が行われても、彼らが成し遂げた美しい絵の具の効果は透明性にまた不透明性において「謎」が解けない。多くの者が絵具の艶の美しさには、下描きにテンペラ画の技法が用いられたとか、ラピスラズリ青の美しさは油彩画の上にテンペラで上描きがされたとか・・・・証明がされない言説があふれた。確かに当時の画家の中で、抜きに出た油彩絵画の金字塔を打ち建て、今なお多くの秘密が解けないでいる。
絵を描く者なら一言、何かを解説できる内容を持ちたいところだが、私が解説できることの幾つかを挙げてみると、まず下描きにテンペラ絵具で下塗りあるいは下描きする必要がないということ・・・・ブリュージュの美術館にある聖母子の表現は、実は下塗りの下の荒描き(当たり付け)デッサンが透けて見えている。彼らの時代に当たり付けの黒い墨の線が上にくる絵具に透けるので、一度鉛白絵具で薄く消して線が強く見えないようにしていることはロンドン・ナショナルギャラリーのアショック・ロイ氏の絵の具の分析でフラマン絵画で習慣的に行われていたことが明らかになっている。しかしこの鉛白絵具層は時間と共に乳化しかなり透明になってきており、その当時以上に可視化されている。この鉛白層の役割にはもう一つ上にくる絵具層の油分が吸い込まれるのを先に吸い込ませて「吸い込み止め」を行っている。こうした事実からたとえ赤いマリアの衣でも下にテンペラで描くより、直接赤い油絵の具で衣の襞(ひだ)を描く方が素早く必要な形、色彩を決めることが出来た。古典の画家はよほどのことが無ければ、無駄な絵の具を重ねたりしなかった。(絵具は高価だったのだ)技法は技巧を決定した。また技巧は表現様式を決定した。このことが分からなければ美術史家であれるわけがない。テンペラ絵具の下塗りがあっただろうという発想を科学分析が行われるようになっても言う人はよほどファンタジーが好きで、何か極秘事項があるほうが歴史にふさわしいと思う人だ。その者の「現場」は机の上だろう。
ちなみにロンドンナショナルギャラリーにある《アノルフィニ夫妻像》の足元にいる毛の長い子犬の「毛」に注目すれば「如何すればあの細い線が引けるのか」という疑問に、私は何度も挑戦したが・・・・絵具を摺り煉るところから始め、パリの画材屋でリスの毛の面相筆を入手して試みるが・・・無能でしかなかった。犬の毛が余りに細く10cmから長くて、十分な色の濃さ長さを実現できなかった。他にブリュージュの聖母子の横の教皇のマントのラピスラズリの文様が、青が輝くほど美しいが・・・これも秘密がある。この世の青の絵具は「それ自体では青味を美しく発色しない」ということ、だから昔から画家たちは下に白を施して置くか、青の顔料に白を少し混ぜておくと「輝くような青」になることを実践していた。だが、またこれが難しい技法である。いや技巧でもある。技能でもある。それだけで描かれる絵は「この世にないと感じさせる世界」を作り出した。
私は22歳のときベルギーを目指して留学した。ヨーロッパで最初に目に触れた絵画はサン・バーボン教会のファン・アイクく兄弟の《神秘の仔羊》であった。その時私をこの絵画の前に案内したのは造形大学時代の先輩の青木敏郎氏であった。彼は「技法がすべて分かっていても描けないだろう」とプツリ。その後、私はブリュッセルの王立美術アカデミーで年間千枚デッサンを始めたのだ。彼は良い競争相手になってくれた。感謝している。
「実技の現場」が無い者に絵画が分かるものか。
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