河口公男の絵画:元国立西洋美術館保存修復研究員の絵画への理解はどの様なものだったか?

油彩画の修復家として、専門は北方ルネッサンス絵画、特に初期フランドル絵画を学んできた経験の集大成を試みる

創作は偏りの一歩か?

2018-09-24 08:57:21 | 絵画

これまで私は自律する表現の確立を勧める記事を書いてきた。個人の表現欲を阻害しない程度に批判的な内容も書いてきたが、ある心理学者の記事に、この先の私の主張の参考となる内容があって、ちょっと紹介がてら自分にとっても書き留めておきたかったので、引用しながら考えてみたい。

それは最近「LGBTには生産性がない」と新潮45という雑誌に投稿した、安倍晋三お気に入りの自民党議員、杉田水脈氏の記事が批判の的となっていることに関する現代ビジネスに投稿された原田隆之氏の評論文が、今回のテーマのベースにある。

氏の評の主内容は杉田議員の少数者に対する心無い攻撃に対する批判に加え、更に新潮45に追加の杉田擁護の特集が組まれたことに対する批判であるが、主題にあるように「新潮45はなぜ杉田水脈を擁護するのか?差別と偏見に満ちた心理 議論によって正すのは難しいが・・・」という展開は「差別や偏見」について心理学の専門家らしい切り口に、今回の記事の流れを借りたいと思う。

そのそも美術表現に「差別や偏見」を持ち込んだら、もはや美術ではなく、作者の主張が政治的であったり社会的なプロパガンダが目的の公告に過ぎなくなる。しかしそうした主題を扱った絵画作品など歴史的に存在する。例えば虐殺を扱ったものであれば「加害者側の主張か、あるいは被害者側の主張か」描いて表さねばならなくなると、絵画作品が持つ虚構性は、現実を超えて強調される。そしてわざとらしい表現で芸術性は半減する。それが神話や宗教であっても同じだ。実際には「偶像破壊」といってイスラムの教義から偶像を、またキリスト教の新教の暴徒によって宗教的絵画、彫刻、シンボルやミニアチュールまで燃やされる「拒否反応」が起きた。教義を押し付け崇拝することだけを強要した偶像はともかく、中には優れた中世、ルネッサンスの美術作品が被害にあった。破壊が起きた地域では、世上の受け止め方が落ち着くまで宗教的主題は避けられた。

差別や偏見によって、作者のまたその作品を愛した者たちの心情を踏みにじり、排除することで「自分たちの優位」を主張することは権力者の性格だが、一般論として共通しているだろう。原田氏の記事から「偏見の心理」心理学者オルポート(1)の「偏見とは基本的にパーソナリティの問題である」という言葉を引用している。

権威主義的パーソナリティとは、伝統主義、権威主義、弱者への攻撃性、強者への服従特徴とするパーソナリティである。ダキット(2)による「偏見の二重プロセスモデル」を紹介し、これはパーソナリティだけでなく、社会的態度(集団的優越感、集団的凝集性、集団的安心感)を介して偏見が作り上げられるプロセスを述べている。つまり大多数集団に属している自分に優越感を抱きその集団にすがって安心感を得ているため、マイノリティや革新的な人々は、自分の安心、安全を脅かすものととらえて、偏見を抱くだけでなく、攻撃的になる。これが偏見のプロセスだそうだ。集団にしか拠り所の無い彼らは、個としての自律性がなく、個人的なアイデンティティが未熟である・・・と。「個人では何もできないし、何も自分を定義できるものがない」
ここにコンプレックスが生じる・・・他者に対する優越感も劣等感も同質のものであることが分かるだろう。前にも書いたが「他者に対する優越感は人殺しの次に罪が重い」と聖書に書かれているそうな。
 
ここで、記事元である原田氏の記事がネット上で行方不明になって、最も書いておきたかったパーソナリティ(性格、人格という意味で)について心理学者の取り上げた要素について、書けなくなってしまった。申し訳有りません。
いずれにせよ、「集団的価値観」を第一義に考え、そこに身を置く日本人の多いことに失望してきたが、上記「社会的態度」に挙げられた「集団的優越感、集団的凝集性、集団的安心感」はこの国の国民性であり、顕著にみられることは確かである。「差別や偏見」を産む土台が伝統的にあるということだ。そして「個人の確立」妨げられ、自民党の憲法改正論者の言う、昨今の「個人主義が蔓延して・・・」という無知な「個人主義と利己主義の混同」に見られるように、更に「人権」を制限して、戦前に近い「国家主義、集団主義」を復権しようとする右傾化していく社会を作ろうとする者たちが増殖してしまっている。(自民党の改憲論者が理解していない個人主義とは「己の意志決定に自己責任をもって自律して生きるという考え方、生き方」のことで、残念ながらこの国で「蔓延」したことなど一度もない。)
 
こうした「個人の確立」を阻害する国民性は美術の世界でも堅調である。
多くの者が会員として組織「団体展」に属したがり、「会員」となって安心感を得ようとし、また「権威」を得たと勘違いする傾向は全国的で、地方都市の小さな「美術団体」まで及ぶ。そのことで派生する問題は「一部の者による「権力支配」であり、「価値観の押し付け」であるため、教育的かつ相互扶助的目的は見つからない。愚か者が「日展」に三回入選しただけで、田舎町では「天下」を取ったような優越感を示す者もいる。ここにはやはり「差別と偏見」が存在する。
 
個としての自律がないため、制作する作品に「表現の個性」などあるわけがない。この国で「個性的」といわれるものに、どこかに「ネタ元」があり、アイデアで少々色付けした集団的価値観がある。独自であることに恐れがあって、自律できないのである。良くても悪くても「破天荒な性格」だと、抜け出ていると勘違いされるから始末に悪い。
兎に角、創作に喜びを感じるためには自律した自分がないと「面白くない」だろうに。以前にも書いたように「はみ出し者」である事、そう言われて世間から排除されても、自分は自分であると主張できなくてどうする。
 
いずれにせよ「心理学者の言うパーソナリティの問題」をもっと掘り下げたかったが、突然、新潮社の決断で「新潮45」が休刊となったニュースが優先されて、原田氏の記事が消滅した。彼の記事は「差別と偏見」が生まれる要素について心理学者的見地を述べた、誰にも読んで欲しい記事だった。

 今回は不発で‥‥申し訳ありません。

 

 

 


観察と洞察

2018-09-18 15:11:57 | 絵画

観察は「ことの状態をしっかりと見ること」、洞察は「ことの本質を見極めること」。

私はブログの中で「美術は視覚表現」であるから、「言葉で語らず、観ること」を強調してきた。私の考えに異論のある人は「美術は視覚表現ではない」あるいは「視覚表現のみとは限らない」のであれば、それを突き詰めて欲しい。それはそれで聞く耳を持たないわけではない。むしろ教わることも多いであろう。それから論理的合理性や感覚的必然(どうしても、皆がそう感じる根拠)を示してほしい。

まあ、人のことは置いておいて。

昔から「百聞は一見に如かず」という言葉があるように、「言葉より見ることの方が確かである」ということは、多くの者が認めるところである。しかしなぜ今日、人は言葉の情報をまず第一に得たがるのであろうか?

作業中にマウスが動いて、上の画像がアプロードされてしまった。現在の記事文章には関係ないので、不始末をお許しください。

以前も述べたことがあるが、美術館在職中に多くの展覧会が催されたが、常に残念に思ったのは、鑑賞者が会場に入るなり「まず解説パネルを読むこと」である。それを読まないと「展覧会の趣旨が分からない」「美術作品が分からない」と観客から言われる。多くの客の場内の動きは、解説パネルを読むことに5分、作品を見ることに良くて1分が相場であった(十秒くらいの人もいる)。作品にいたっては「斜め見」であって、全体を鑑賞しているとは思えない。ポスターやチラシに掲載された作品には「かぶりつき」で見る(鑑賞しているのかも知れない)。

一つ一つの作品にはどれほどの時間を与えれば、鑑賞したことになるだろうか?

人はそんなに視覚経験による記憶にそれほど優れているとは思えない。人それぞれの好みもあるが、気に入った作品であっても、じっくり見るのは職業人であって、趣味の愛好家にとって、どれほど「観察」しなければならないという基準は持っていないであろう。じっくり見る者にとって、作品の作者、年代、主題、表現様式、技法、品質など資料的な情報とそれ以上に「全体から感じる虚構性、作者の主題に対する扱いとその表現力・・・つまり力、技能、才能」などが大事だろう。

私は美術史家ではないので、文献資料より原作(オリジナル)が重要である。修復家である自分にとっては、作者の作品の創り方から技法や保存状態がどの様に歴史的に変化してきているとか、一人の作家が何を行ってきたのか「頭に入れる」ことが仕事であった。作者の制作技術が保存上の問題を作り出す。美術館が展覧会で借用した美術品は到着時と返送時には保存状態を点検して調書に記録し確認していた。これは輸送時や展覧会開催中に保存状態に支障が起きていないかどうかを観察するのであるが、私はこの作品ごとの点検の短い間に、技法について記憶するようにしていた。「目利き」であるためには、繰り返し「確認」する必要がある。多くの作家、多くの作品に触れて「表現様式、方法、技法」を頭に入れる。(美術館に偽物を買わないために・・・・)

この観察の蓄積が「修復家としての財産」であることに違いない。展覧会期間中は巡回して問題のあった作品に変化がないかどうか観察することは勿論だが、時には他の人たちと同じように「作品鑑賞」もする。体全体で「感覚的に感じ取る」ことが、修復家としてではなく「絵を描く自分」としての在り方だ。

こうして鑑賞している時にこそ「洞察」が行なわれなくてはいけない。文献資料や解説では「洞察」は起きない。見る側の感性で・・・実感することだ。先のブログの記事で近代美術の問題を取り上げたが、観念的な接し方が近代人の日常生活に食い込んでいて、「主観や実感」が軽んじられていると述べたように、「頭で考えて言葉に置き換えようとせず」にまず感じるために視覚を使ってほしい。

見て感じるところに「洞察」はある。情報過多、フェイクニュースの時代に自分を守れるだろうか?

 

 


近代美術についてⅡ(2017年4月5日の記事に続く・近代美術をボロクソに言う)

2018-09-13 00:42:12 | 絵画

もう一度、近代美術をボロクソに言う記事で、ブログを書く。

何故なら、自分も近代美術が始まりであり、観念的な主題の扱い方に疑念を持たなかったし、「表現すること」を真剣に考えるキッカケが見つからなかったから、近代美術から現代美術の流れが当然なことと、そのまま思考停止した自分であっただろうと「恥」ているからだ。

近代の歴史的転換期(フランス革命や産業革命など)に起きた社会現象の影響で、美術家たちの生き方が当然のように変わり、制作の目的やモチベーションにいたるまで、それ以前の在り方と大きな変化があっても当たり前であるが、19世紀と20世紀の社会と価値観、思想などから良いことばかり取り上げ、不毛の時代でもあることを考えなければ、今の我々を知るきっかけを失うであろう。

まず美術の創作行為は結果を伴う。その結果は言葉で補って良いものではない。ものの実際はそれ自体で、それ以上でも以下でもないところにある。創作されたものには「他者より優れた洞察力と感性によって得られたもの」があるとされた長い歴史が近代以前まである。それは実力主義の時代であり、「無いものを在るがごときにする」能力を争った時代であり、その点では健全な時代であった。

ところが近代に入ると「イズム」が必要になってくる。そうなる要因にはいくつかある。人々は革命による自由、民主主義、平等、を得るが、産業革命によって、多くの者が労働者(労働力)つまりプロリタリアートになって、自分であることを制限されるようになった。「個であることの自覚」を得たにもかかわらず、経済格差や最終的な身分格差がのこった。(特にフランスは今日なお階級主義が残っているように)

画家も一プロレタリアートである時代になり、特権階級や富裕層から注文が生活を支える時代ではなくなっていた。画家自身もサロンで権勢を誇った者も社会基盤を失って没落する。

親の遺産を食いつぶし、好きな主題を描き続けることが出来た裕福な作家もいれば、売り絵に埋没する貧乏を絵にかいたような者も多く登場する。美術学校を首席で卒業しようが、社会の民衆が要求する作品の「画題」にこたえることで生きようとする画家は注目されなかった。この時代には誰もが「個人」を意識し、自律しなければならなくなっていた。

ここで必要になったのが「イズム」であり、制作のためのコンセプトとして鑑賞者に訴える「キャッチ」が必要になった。アカデミーでデッサン力を評価されるほどの描写力の持ち主ではなく、機転を利かして「アイデア」を得ることが、作品の流れを変える事に成ったのだ。

創作する者にとって、はたしてそれでよかったのだろうか? 歴史の流れを見ると、描写(デッサン)の上手かった者と下手であった者との二つに分かれ、描写が上手かった者は「左程面白くないテーマ」を描き続けたが、へたくそは「イズム」で乗り切ろうとし「自然主義」「写実主義」「印象主義」など立ち上げる。何をどう表現するかという実技者にとって最も大きな命題は、個人的に探す時代になってしまって、誰もがそれらの一つに加わるか、新しくイズムを「発見」するほかなかった。

見渡せばいつの間にか「素人」に近いデッサン力の画家たちが主役となって、大衆受けする主題にイズムを重ねていた。大衆にとって気取ったサロンの画家たちの実力主義的な作風より、身近な風景や日常生活を「軽く」描いたものに共感を覚えるのは、近代の社会から影響を受けている現代の個人の意識を見れば、それとなく理解できる。ルーブル宮殿が解放され、美術館として誰もが巨匠の作品を見ることが出来る時代になっても、もはや巨匠の影響を受けようとは思わなかったのである。

現代人がルネッサンスや近世の作家たちの「力のすごさ」について分からないのは、社会生活の中に「彼らが表現したもの」が無いからである。無論いずれの絵画も虚構であり、現実を表したものではないが、近代の画家たちが主題にした風景や日常生活は一般人の素人感覚に近く違和感がないから、それが絵画だと思う安易さがあるのと、美術評論家や美術史家は歴史の流れから「否定的な要素」を紹介しないから、現代の作家までもが、時流に反するような異議は持たないのである。(冒頭で述べたように、私も駆け出しのころには異議がある立場ではなかった)

しかし制作する立場を持続するさせるために様々な疑問に自ら答えを出しながら生きようとすれば、己にとって必要と不必要に分け、消去によって合理的な回答を得ようとするのは避けられなかったはずだ。そうした者が己の生き方を「イズム」によって支える事に成ったのだ。(私も同様な生き方しかないように思うから、こうして精神浄化を試みようとしているのだろう)

要するに結果として、美術における創作行為は結果を伴うが、「イズム」であることが明確な結果をもたらしていないことは、数々の近代を代表する画家たちの作品を見れば分かる。それが近代現代に引き継がれて、流れが断ち切られることはない。

何故、中途半端だと思うかと言えば、「イズム」には観念的と言える主題性や「これまでにない新しい表現性」を発明しようとする「人の能力の限界」があるからである。こうした流れで必然的に、現代では美術の流れの主流だと思われている「美術ではない観念アート」が生まれたのである。

観念アートについては、美術と異なる表現方法として、試みを続けるエネルギーがあって面白いと思うが、小中学校の図画工作の時間の延長としか思えず、例えば「戯れ」としてPortour Chevale(フランスの片田舎に住み、郵便配達の職業ながら、配達の傍ら、道端の石を拾い集め、家の庭に石でできた宮殿を作った)のような遊びをしたいと思うが・・・・観念アートより具体的過ぎて「観念性」が失われてしまう。そういう意味では、表現の具体性に欠ける観念アートは「格好つけ」が目的であろう。誰も見ない場所では自尊心が働いてやらないだろう。

近代現代美術の末路について考えると近代の巨匠とされる画家たちの成果について語るべきだろう。近代絵画に最も大きな影響を残したと言われているセザンヌから始めよう。彼に感じたのは個人としての「頑固さ」であり、信念に従って一生を自分の信じる絵画に向かっていった。アカデミーで絵を学んだ時には、あまりにもデッサンがへたくそで、印象派の絵画も身に着かなかったし、やはり何かを発明しなければならなかった。その画法は粗野でモチーフはリンゴや玉ねぎなどを静物画として、また故郷のプロバンスの風景が題材であったが、描写は対象が何かわかる程度に描き、何かを見出そうとするために繰り返し描いたのだが、その目的が理解できるほどの仕上がりではない。抽象絵画の基礎をなしたと言われるが、その内、彼は対象物が三角だの図形に置き換えられると考え始め、水浴の女たちを画面いっぱいの樹木の三角に並べて描いた。どういう訳か、この作品は彼の絵画を代表する偉業として扱われている。「扱う」のは評論家であり美術史家であるが、絵を描かない人たちであることが最も大きな要点である。

たしかにセザンヌは抽象絵画を興したと言える。近代絵画にそれまでなかった「独立した抽象画」(具象絵画の抽象性を描いた人はいた。例えばスルバランが皿のオレンジや鉢を並べた無機的な表現をして見せたように。またアドリアン・コールテ(オランダ17世紀の静物画家)は貝殻をこじんまり描くことで、抽象性を実現した。)として、それまであった「描写の絵画」からはなれて、抽象的存在感の要素を表現しようとした。がしかし、理念は理念である・・・・創作には結果が求められる。私がいつも言うように「無いものを在るがごときに」「芸術表現はこの現実から離れ、自律した虚構としての空間」を作り出さねばならない。この視点から私が彼の業績として感じ取れるのは、現在オルセ美術館が所蔵している「青い花瓶にケシの花」が描かれた作品のみである。

かつて私の上司であった高階秀爾元館長はフランス近代美術の専門家であるが、彼が著書の中で「セザンヌ、ゴッホ、ゴーガンは天才」であると書かれている。私にはこの発言に異論がある。高階先生に反論するのは申し訳ないが「天才というのは誰にも真似できない偉業を成した者」を意味すると私は長年そう理解してきた。つまり天才というのはレオナルドやミケランジェロのような力がなければならないと思っている。そしてその影響は追随者が手本として(実際は不可能であっても)崇めるだけの結果をもたらすことが条件だろう。

セザンヌ、ゴッホ、ゴーガンは天才ではない証拠に多くの者が真似をして制作できるからである。何故なら彼らの作品は感性より観念的な作法でこなせるからだ。レオナルド、ミケランジェロの作品はどれをとっても、感覚的に優れた描写によって作られている。セザンヌの感覚的に優れた作品は、先に述べた「青い花瓶のケシの花」だけだ。だがこの手法も現代ではそこいら中にあり、真似は簡単である。

ある東京の私立美術館のコレクションに初期のゴッホ作とされる「風車」を描いた作品があり、ゴッホとサインまで入っているが、とびっきり上手く描かれてはいないが、ゴッホにしては上手に描かれてい過ぎなので、多くの研究者も新作であることを疑っている・・・・日本の研究者は明確に言わない・・・・能力的に目利きでなくて言えない人も多いのだから・・・。いずれにせよゴッホがどの程度へたくそな画家であるか判断が出来ない人が多いために贋作が作られるほどの画家でしかない。彼の真似できない晩年の感性の作品は「彼の精神を病んだ時と薬の効いている時に描かれたものだと言える。誰も彼の異常な精神状態まで真似はできない。近代美術評論家にとってゴッホの買いがの評価は彼の人生の悲惨によって価値が倍増している。「評論は詩のように扱え」と言ったボードレールの言葉のように「文学的」でないと気が済まないのだ。70年頃、迷う画学生は「画家は悲劇的な人生を送らねば良い絵が描けない」と思って、故意に荒れた生活を送る者もいた。モジリアニ、ユトリロなどのようにアル中や梅毒患者であることが「美徳」だと・・・・。

ゴーガンは他者に先んじて、画面を平面的に扱う表現を行ったが、どこが天才なのかさっぱりわからない。

モネは印象派の語源となった人だが、モチーフの形を曖昧にし、形を色彩に置き換えた。「光の画家」と評論家は言うが、光の画家はカラヴァッジョから、レンブラント、ジョルジュ・ドゥ・ラトゥールなどバロックの画家のような功績はないし、取り立てて彼の生涯の目標でもなかった。むしろ彼が形を色彩に置き換えて表現した近代絵具の豊かさのバリエーションを生かした功績を取り上げるべきだ。しかし天才とは言えない。

天才でなくてはいけないのは、自分の専門分野を巨大に見せようとする美術史家の欲であって、歴史は事実のみ認められれば良いのでは。

そこで結局「何が近代美術なのか?」と。

我々が近代美術を語るとき、最も大きな要素は社会変化の大きさであり、その速さである。精神的に落ち着いてじっくり美術について考える間もなく、飛び交う情報に自律を失わせられる。主観より客観の方が比重が大きいとされ、個人の実感が無視された時代であり、己の感性に自信を失って迷い続けている。「イズム」にすがって生きるのも「人」の逃げ道だろうが。

過大な結果を求めて「すべては試しの行為」と現実離れしている人の弱さは、「無いものを在るがごとき」に勘違いしてしまうこともあるだろう。

命に限りがあって、生きているうちに「自己満足」したいなら、目に見える結果を求めるべきだろう。それがどの時代にも美術なのだから。

 

 


描写の絵画

2018-09-02 00:17:42 | 絵画

わざわざ「描写の絵画」と言わなければならないほど、絵画制作で第一義となるものが「コンセプト」に変わってきているために「描写」のことが忘れられ、絵画のおまけであるはずの「題名」に左右され、コンセプトに左右されている。ここでいうコンセプトはアイデアであり、観念的な制作理念のことである。美術であるはずの絵画が視覚的表現の要素から離れて、描かれているモチーフやその描かれ方に価値が第一に認められるようになれば、現代アートのところで批判を加えた「他の者がやっていない新しい表現や、モチーフ」が作り手の価値になってしまうが、いまこれが流行なのだ。

絵画の主題に言葉でさらに付加価値を与える職業の美術評論家や学芸員、美術研究者という「実際には作品を作らない人たち」が現代アートと同じ感覚で「現代美術」に要求しているのが「作品のコンセプト」である。画家が制作するうえでのモチベーションに感覚的な表現欲より、理念や観念的な展開が大事だと思い込んでいるのである。

私は現代アートと現代美術は別物で、現代アートは「美術」ではないと言ってきたが、美大芸大の教師には「混同」し、学生に区別を教えられない者が大勢いるから、この区別のない「混同」は蔓延しているのである。美大芸大の入学試験に課す試験課題は、すでに「モチーフを自由に描け」から「000を考えながら組み合わせて描け・・」とか、受験生のアイデアや説明的な意図を問うような出題が一般化している。

確かに石膏デッサンが上手いだけの者より、個人の特技が感じられる方が才能が見込まれるようにも思えるが・・・。問題の受験する側は「

興味を引いて、なんとなく良いと思ってもらえる方向」の対策をするようになるだけであり、「美術で求めあれる能力」から離れてしまうと思う。

そこで出るものがあれば失われるものがある。それが「描写の絵画」である。「モチーフを自由に描け」と求めるうちは、作者の才能に様々な要素を見いだせる。しかし見る側(試験をする側)が既に「描くことの才能」を見なくなっているように思う。それが「描写」である。そのせいだと思うが、一方で「写真的に描く」気味の悪い若い画家が登場している。モチーフを自由に描くことの究極が「写真そっくり」そして、実物そっくりだと誤解しているのかも知れないが、描写が持つ芸術性が問われない絵画が登場している。

「描写」とはモチーフの存在感を描くことである。そっくりとかとは関係ない。「本物そっくり」というのは、いかにも「素人的」であり、描く行為に「疑い」がない状態である。目の前のモチーフを「見えるままに描く」ことを写生と呼んでいる。写生は初歩的な描写の訓練であり、創作とは言えないレベルであり、「描写」はその先の行為である。これから受験しようとする者たちにどこまで要求するかは試験する側の意識の問題であるが、石膏デッサンを基準とした時代の「負の遺産」から抜け出るためとはいえ、「変わったモチーフ」を与えながら、言葉の解釈で観念的にバリエーションを求める方法は、あまりに負担が大きいと思う。

美大芸大を目指す若者には、まず第一には「紙と鉛筆」さえあれば、「虚構を作り出す面白さ」を味わうことが出来ることを教えて欲しい。画面の中に、この世にない世界を存在させる面白さは、表現を観念的に捉えている人たちには分からない。教える側がまるで評論家のような気取った立場で若者を混乱させないで欲しい。必要なのは「無いものを在るがごときにする描写力」だ。

大学へ進学した後のことを考えると、、はたして自分の進んだ道に納得できるのであろうか?もし自分の作品に対して、試験官が「貴方は何を表現しようとしたのか?」と聞いてきたら、大いに失望する。視覚的にしたつもりのものを言葉で説明することは「詐欺行為」でしかないからだ。そこに見えるもの「以下でも以上でもない」ことが自分のすべてを語っている。

美術は視覚芸術として、表現性に視覚に訴えて共感を求める錯覚を作品中に存在させなければならない。そのためには「紙一枚と鉛筆」で世界を作り出す能力が必要だ。ただそれだけだが、これを身に着けるために、60の半ばを超えて描き続けているのだから、誰かが私の作品を観た時、無言で見入ってくれることを願う。