河口公男の絵画:元国立西洋美術館保存修復研究員の絵画への理解はどの様なものだったか?

油彩画の修復家として、専門は北方ルネッサンス絵画、特に初期フランドル絵画を学んできた経験の集大成を試みる

気持ちを変える

2019-08-12 09:18:18 | 絵画

先日、かすみちゃんが亡くなった。10日ばかり調子が悪かった。食事が進まず、あっという間に痩せて、おいしい物だけ食べさせて欲しいと、わがままを言っていたが、日頃から食べ物にうるさかっただけで、周りに何一つ迷惑をかけるでもなく、喧嘩もしない、いじめもしない。だからいじめられることもなく、存在感は薄かった。誰にも気づかれず、隣との下水の溝のふたの上にそっと横になっていて、私が「どうした、大丈夫か?」となぜてやると、なんと溝の中の使われていない土管の中に頭を突っ込んで、横たわっていた。私はアッと思ってよく見たら、まだ息がある。彼女は死ぬことを悟って、死に場所を探していたのだ。だからそっとしておくのが彼等には一番なのだ。

猫たちは死期が近づくと、死に場所をあらかじめ探す。そして最期の挨拶をすると、いなくなる。死ぬところは他の者には見せないのだ。静かに最期の時を過ごすためだ。そしてゆっくりと一日二日時間をかけて息を引き取る。これが私が見てきた猫たちの死に方だ。道路を横断中に車に引き殺されない限り。

翌日、かすみちゃんが息を引き取ったのを確認して埋葬した。庭は猫の墓だらけだ。お線香を立てて拝んでおいた。

これまでなんと多くの猫たちと別れただろうか。去年からのこの一年間に9匹生まれて、7匹死んだ。行政が言うように「野良猫にえさをやると爆発的に増えます・・・」なんて、大嘘だ。食べ物に寝るところがあっても、生まれてすぐ死ぬものから、病気や事故で死ぬものを考えない人間は、動物愛護法で禁止している「愛護動物にエサを与えないのは虐待です」という法律を理解していないだけでなく、現実はどうなっているのか知る気もない。

私の絵画のテーマは「生きること、死ぬこと」だ。現代アートとは違う。観念的に言葉でテーマを補うことが出来ないから、絵の中に表現しようとしている。微妙な情感を伝えたいから、試行錯誤して描く。見て伝わる範囲内でしか表現できない。だから「表現の自由」とかぶつくさ言う者には分からないだろう。なにせ私の表現は「能力があるなし」なのだから、自分に厳しくするしかない。

以前、北斎が70歳にして《富岳三十六景》を完成させたから、自分も70歳までに自分の世界を完成させたいと思っていることを述べたが、こんなにのんびりしていては、そこに至ることはできない。他の人たちが現代アートであろうが、どうであろうが本当はどうでもいいのだ。このブログが唯一私が社会と繋がり続けている糸であるがために、ちょいと書いてみたまで。だから気持ちを変えることにする。

今日が良い日でありますように!!

 


表現の問題

2019-08-10 10:50:51 | 絵画

あいちトリエンナーレ問題で少し自分の「表現の問題」を考えてみる。

中止となったトリエンナーレ出品者の中には、実行委員会無視で中止となって、や展示作品の中身や出品者の名前なども判らないまま、たち切れになって怒っている出品者がネットに意見を載せていた。「なぜ慰安婦像とされる作品と一緒に展示されるのかも知らされいなかった」と、「知らされていたら、出品を考えたかも」と言っている。その出品者は現代アートではなく、視覚表現の「美術作品」を目指して、政治的でも思想的でもない表現で、「一緒にされたくなかった」という意向では、彼の制作意図は私の制作理念の基礎的な考えと同様であり、現代アートの「主題は何でもあり、表現方法も何でもあり」と一緒にされたくなかった気持ちは理解できる。

今回のトリエンナーレの問題は津田大介氏の個人的な思想信条から思い付きで、組織運営も常識、良識が配慮されていなかったというところだろう。だから「表現の自由」に議論が集中するのは、企画展の質のレベルを飛び越えた「高尚」な議論だから「芸術表現」と「そうでないもの」の議論をせず、「表現の自由」を観念的に論じる現代人の悪い傾向は決して「建設的」ではない。

現代アートでも現代美術でも専門でもない津田氏に、今回の企画を任せたのは、テレビでの露出が多かった彼の知名度で、格好を着けようとした愛知県の担当者が未熟だったということ。要はお祭り感覚で「話題性」を狙って、「誠実な議論」の余裕がなかった。

自分はこのような場面には無縁であるが、やるとすれば個展を場末の画廊で出来れば良しとする。私は「制作のコンセプト」を狙って「物を言う」でもなければ「伝わらなければ言葉で表現する」ようなことはしない。「美術作品」だから「視覚的に充足した状態で完成」しているはずの、「それ以下でもそれ以上でもない」作品を見て欲しい訳だが。昨今の企画をする学芸員に観念アート志向の者が多いのは残念である。彼らは作者の「多様な制作意図」を分別しないで展示しようとするからこうした表現の問題が起きる。

自分のことを言えば、ここ数年制作から遠ざかっていて、気分が載らなかったが、自分の生きざまに「覚悟」が足りなかった。反省する。

これまで二十数回も引っ越しをして気分は落ち着く暇もなかった。しかし自分の気持ちの落ち着くまで「安住の地」を求める自分には「心情」を明らかにしておきたい自分が絶えずいて、満たされなければ訴訟でも起こしかねない反抗心があって、絵画表現から遠ざかってしまう。しかしこれを表現するのが「アーティスト」だと言わないし、「自分は芸術家」とも思わない。ただ自分の絵の中に具体化したいイメージがあって、それを実現できるように自分の技量を磨いている最中だ。


芸術と政治的プロパガンダ(追記あり)

2019-08-03 00:23:59 | 絵画

今、ネットで炎上して紹介されている企画展に「あいちトリエンナーレ」というのがある。愛知文化センターで8月1日より10月14日まで開催される「表現の不自由展・その後」と題して、様々な理由で表現の場を奪われたという作品を20数点の中身が物議をかもしている。若手ジャーナリストの津田大介氏が「芸術監督」を務め、「情の時代」をテーマとしているというが、どうも狙ったテーマとは別の日本人の「情」に火をつけてしまったようだ。

津田氏が朝日新聞に対して語ったことによると「感情を揺さぶるのが芸術なのに『誰かの感情を害する』という理由で自由な表現が制限されるケースが増えている。政治主張をする企画展ではない。実物を見てそれぞれが判断する場を提供したい」と話したらしいが、取り上げた作品が問題となっている。

企画は「慰安婦」問題、天皇と戦争、植民地支配、憲法9条、政権批判など、近年公共の文化施設で「タブー」とされがちなテーマの作品が、当時如何に「排除」されたのか、実際に展示不許可になった理由とともに展示した。2015年以降に公立美術館などで展示不許可になった作品を、同様に不許可になった理由とともに展示するというもの。

ここに今日の日に一番敏感な問題となる「慰安婦像」が展示されているという。別名「平和の少女像」というらしいが、制作者によれば「像は反日の象徴ではなく、少女の握りしめた手は平和な社会を共に作ろうという決心を表している」と強調したと・・・しているが、誰が始めたのか、この像は朝日新聞が取り上げて暴走した「性奴隷」とされる慰安婦像になっているのであるから、歴史的事実と違うと主張する人たちとの間で起きる議論の複雑さを解消できない状態で、日本人の観衆の目の前に晒したのは反発を招いた。

俗にいう「慰安婦」はお金が支払われた「売春婦」であるという歴史を認めない韓国人に、大ぴらに「あれは売春婦だ」とは誰も言わないようにしている。双方の感情のもつれが争いの基になることは、日本人が最も嫌うことだ。だがそこに津田氏は切り込んだことになる。

この「慰安婦像」は韓国人にとって反日のシンボルである。韓国内に60体、海外に6体あるそうだ。「数十万の性奴隷にされた女性の人権を訴える」シンボルとして理解されており、「日本人は韓国女性を性奴隷にして卑しめた」と理解されている。この像が政治プロパガンダの道具や手段として利用されていることは誰にも理解出来るであろう。

津田氏の企画の問題は愛知文化センターという公共の美術館で「芸術作品」という捉え方で「慰安婦像」を扱っているのだが「感情を揺さぶるのが芸術」とか述べて慰安婦像を「芸術」扱いしていることに、私は最も問題を感じた。いくら表現の自由が「公共の福祉に反しない限り保証される」とはいえ表現の自由は大事だから、津田氏が芸術だというのは自由だが、「彫刻として」どうおもうだろう?「実物を見てそれぞれが判断する場を提供したい」と個人に見方を振っているが、すでに固定観念が与えられた彫刻だ。芸術作品ではなく「慰安婦」であり、最初から先入観がハッキリしているものに、何か芸術性を感じ取れるであろうか?いや、私に言わせれば「彫刻のレベルが学生作品レベル」で、慰安婦騒ぎを知らなくて、初めてこの作品を見て「平和を願う少女」としても何かを感じ取れないであろう。

以前、現代アートと現代美術と題して述べたが、現代のこの傾向に「観念的意味付け」がどうしても行われるのが許せないと書いた。つまり作品は視覚的な美術作品であれば宿命的に「解説文」なしに、自律して「無言の世界(虚構)」を伝えねばならない。全て芸術と呼ばれる分野は純粋に作品だけで表現しなければならないのだが、どうもみな現代美術・アートは違うらしい。解説という先入観で「感情を揺さぶる」なんてできはしない。だから芸術作品のように勘違いしないで欲しい。

詰まる話、「人によって考えることは違うから、いろんな問題提起ができるであろう」と安易に「固定観念で縛られた少女の像」を美術館に持ち込めば、中には「反日プロパガンダ」と受け取る人も出てくる。現代アートの先駆者マルセル・デュシャンの「泉(小便器をひっくり返したもの)」という題の作品を思い出してみれば、観衆の「基本的反応」が理解されるはず。美術館のような「公的空間」では「作品に無いはずの権威」がおまけで着いてくる。現代アートではこれを最初から狙う作家が多くて、私は邪道だと、この表現手法を嫌うが、今や多くの人が現代アートとはそういうものだと理解させられているから、この問題は起きたと思っている。

特に津田大介氏が「左寄り」の思想を持っていることで、当然のこととして、この企画を思いついたのであろう。しかし「表現の不自由展・その後」と題して、純粋に「表現の自由」とそれを抑圧する現政権(安倍政権のこと)に恣意的に働かせようとした「展示作品」の選択であったろうが、この「慰安婦像」は芸術作品でも何でもなく、韓国の反日運動のアイテムととして生まれ、今日に至っているわけで、昨今の韓国大統領とその支持母体与党「共に民主党」が「共に北朝鮮」になっており、政治経済の無策を反日にすり替えて、支持率が下がった現状を回復しようと反日に走る手法が「慰安婦像」であり、多くの日本人の受忍限度を超えていることが、津田大介氏の配慮になかったことが残念である。

左寄りの人は、今回の安倍政権が放つ輸出規制やホワイト国指定の廃止に対し、表立って批判はできないことは理解しているであろうが、絶えず変わらないポジションは反阿部であるが故、「表現の不自由」として、すこしでも政権批判の意思表示をしたいと思ってしまう悲しい性格は感情的としか言いようがなく、批判(表現)がの合理性を欠くことになったと思う。私も反権力主義者だが、安倍一派も韓国「共に民主党」一派も同じようにしか思えない。

表現を抑圧する者は絶えずいる私にとって現代美術・現代アートをごちゃまぜにして、視覚芸術として「描写」によって表現しようとするものを「骨董品」扱いし排除する学芸員、批評家が抑圧者だ。私の「表現の不自由」はこれだが、もし彼らを納得させようとしたら、すぐれた作品を作って見返すのが本筋だろう。

まあそれにしても、韓国人も日本人も情緒的な国民で、価値観の変化は感情の変化とも言える。一方の韓国人の「火病」と呼ばれる、気に入らないと激高して、そこいらじゅう当たり散らす国民性と、同じ感情でも自分の中に押し殺して、外に出さないで溜めて処理しようとする国民性の違いは対極的とも思えるが、交わりにくいことは確かだ。いずれにせよ奥ゆかしいはずの日本人は、あからさまな反韓行動は慎んでほしい。日本人には日本人としての表現があるからね。

追記:

8月3日になって「あいちトリエンナーレ」が突然中止となり、企画展実行委員会のメンバーにより抗議が発表され「主催者自ら弾圧する・・・歴史的暴挙・・・戦後最大の検閲事件」と「一方的な中止に対し、法的対抗手段も検討する・・・」などと鼻息も荒い。

実行委員会メンバーからすると、恐らく「表現の自由を侵害された」と思い込んでいるのであろうが、自由だと思い込んでいることに対し、「違うであろう」と抗議する自由もあり、愛知文化センターで公金を使って企画開催していることに「反対」する権利は一般市民にある。現代アートであるからというのは理由にならない。しかし、他の私立の施設であったり、自分たちの費用で開催するのにだれも反対できないし、それこそ「表現の自由」は「公共の福祉に反しない限り」保証されなければならない。現代アーティストは場末の会場ではなく、公的な権威のある場所で展示したがる。自分たちの都合では「権威」に甘えたがるのだ。

「慰安婦像」は反日プロパガンダの為に存在しているもので、表現の自由から逸脱しているのは、自分たちの「芸術」の範疇だと思い込んでいるからではないか。現代アートの在り方に「何を主題としてもかまわない」また「どの様な手段を用いても構わない」という考え方があるが、いつのまにかかつて中国で流行った「愛国無罪」に倣って「芸術無罪」だと思っているのではないか。

どの様な理念であろうと、表現する側の一方的な発信を、受け止める側の者がどう感じ取るか考慮せずに「これが芸術だ、アートだ」と主張するのが昨今のアーティストだ。企画の中に勘違いがあったことを認めようとしないのは、「自らの落ち度を認めようとしないで、他人のせいにする」どこかの国の国民性と同じだ。しかし「法的手段も検討する」だって。どこまで自己中なのか。

追記:8月6日

まだ、芸術に対するテロだ、検閲だ・・・と騒ぐ人が居る。

さらに言えば、表現の自由は絶対ではなく、見る側との相対的なものだ。「物議を醸しだす」のが目的であるならば、見る側の反応が「想定」されていて当然であり、議論、反発を招くことが予想されればどの様な議論にも対応できるように資料文献までそろえて準備しておくのが当たり前と思う。最初から受け取る側の反応に誠意をもって答えるなど、最初からない態度が「これはアートだから」という現代アートを表現手段にしている人たちに感じられる。結局、彼らの言う「表現の自由」とは無責任な「放言」のレベルではないか。

だから公的機関を利用して、「権威付け」をして、「芸術作品だ」、「アートだ」という前に、私費で場所を借りて、「表現の主張」を理解してもらえるような企画をやればいい。しかし、そこに甘えがあれば、誰も相手にしなくなるだろう。

追記:8月7日

いつの間にか、右と左の言いたい放題、批判の応酬だ。中身は「表現の自由」がああだのこうだの。今回の問題は違うだろう。現代アートの表現手法の中身が問題であって、「芸術表現だと思い込んでいる者たちが、芸術は何をやっても表現は自由だ」と思っているから起きた問題であって、「表現の自由」だけを取り出して議論することではない。何度も言うようだが「表現の自由は絶対的存在ではなく、見る側との相対的な問題だ」と。誰かを傷つけたり、批判したりする内容が自由であるはずがない。誰かのことを考えろ!!

ごめん!もうやめます!!

と、言いつつまた一言。

やっと現代アートの手法に「芸術であるかどうか」の疑問を言う人が出てきた。要するに作家自身から、彼らの表現の芸術性について「芸術とは何か」という命題に答えようとせずに放置してきたことを、ギャラリーから「違うのではないか」といわれると、居直るか、それとも素直に認めるか・・・の問題に素直に向き合う正直者に成れるかどうか。私は無理だと思うが、現代アーティストだと自分を思いこんでいる者につけるクスリがあるのか・・・無いだろうね。