美術館の保存担当者であれば、美術館業務の中で一番心配の種は美術作品の貸し借りであり、世に多くの展覧会が開催されるには、出品作品の貸し借りなしでは展覧会は成り立たない。特にこの国の美術館博物館は展覧会事業に力を入れている。実際は美術館が・・・というより、むしろ新聞社やテレビ局などの文化事業部がミロのビーナス展、ツタンカーメン展、モナリザ展と多くの入場者を見込んだ催事を目論む伝統が、いつの間にか出来上がってしまったことにもよる。それと国内には80年代に「一県一博」という流行があって、90年代には都道府県から市町村で美術館博物館を持ちたがる傾向で、最近では「おらが村の大先生」の美術館、資料館などが「箱モノ政治」のデスティネーションになったが、問題はここだ。どこも自前の美術品や資料だけで展示を満たすことが出来ないことが、「貸し借り」の頻繁なあり様を決めている。
かくして、美術品は動き回ることになった。
美術館の展覧会の年間予定を見れば、自主展(規模の小さな、自前のコレクションから自費で企画する展覧会)、企画展(新聞社やテレビ局などの資金を出す共催者と企画する、入場者を見込む展覧会)と二種類あるが、後者は西洋美術であれば海外から借りることなく成立しない。従って、美術品の輸送はトラックや飛行機の輸送に耐えなければならないが、輸送会社との輸送契約では保険をかけなければならないし、保険をかけられる条件として、輸送上の障害に配慮した方法が求められている。しかしこの方法や条件にはピンキリの現状がある。
輸送には美術品は箱詰めになるが、箱の作りや箱の中が問題だ。ぺらぺらんのベニヤに、密閉度の悪い工作、中の断熱材がない物、衝撃を吸収するスポンジがない物、硬い物などいろいろと美術品にとって受難の環境なのだ。
美術館の環境は温度湿度が管理され、汚れも衝撃もない状態であるものが、いきなり貸し出しとなれば扱いが素人並みになるのは、貸し出しを管理するレジストラーが不在で、適当な輸送会社も見当たらないというときには、危険な状態も生まれる。一つの展覧会に輸送費用に2000万円払っても、業者が現地のコーディネーターに袖の下を払っていれば(いや、要求されていることもある)、当然輸送箱は質が悪くなる。別のケースではその国独特の輸送技術を考えて、その新しいものを採用して、問題を生じさせることもある。例えばイギリスでは保守的な伝統で輸送箱のデザインを変えないテイトの輸送箱は内箱のある二重だが緩衝材、断熱材と合わせると片面20cmを超える。つまり両面で40cmが、中身とは別の詰め物であり、頑強な周囲の木材を含めると一点がおよそ60cmの厚さになる。これは一点でも独立して立っていることが出来る形状を具体化したものだ。つまり飛行場のエプロンで積み込みを待つ間に、誰も手を添えてくれない時間が必ずあるから、自立できないものは運べない。箱の外側には目立つ色の黄色のペイントを塗る。(箱にペイントを塗ってはいけないことになっている国もある。箱ごと床の上を引きずり回して、床を汚すから・・・。)ほかにイギリスの古い業者にピット・アンド・スコットという会社があり、ここに輸送箱と梱包を頼む美術館も多くあって、質の悪い輸送になるケースが多々あった。密閉度が悪いし、中の梱包も硬いハトロン紙を使うなど良くなかったが、最近はビニールに変わったようだ。何時だか軍隊で使う機材を運ぶジュラルミン製の箱に入ってきたものがあったが、リースの箱は大きさが作品に合っていないので、詰め物がよほど多いが、密閉度は美術品には不十分である。
悪い輸送とは、輸送中どのような環境に置かれるかを想定しない取扱いをしていることである。
美術館の壁から降ろす時、台車に載せる。額をむんずとつかんで、クッションの上に載せるとすると、すでに金箔のある額は擦り切れが生じている。人が持つところはすぐに箔が薄くなって黒んずんで見えるようになる。だから白い綿の手袋をするが、これが滑る。落とさないために額の下を持つ者と最低三人が必要だ。トラックに運ぶまで,部屋の仕切りなどでガタンと衝撃が生じることは避けられない。中の美術品には緩衝材があって初めて、この衝撃をかわせる。しかしこの緩衝材が柔らかくなく、硬ければ衝撃は直接伝わる。その度合いはこの緩衝材の硬さと、梱包の際の作品への締め付け具合による。中の作品がカンヴァス画であれば、画面は揺れている。板絵であればごつんと衝撃があったはずだ。だから、多くの所有者は板絵を貸したがらない。
しかし、中で何が起きていいるのか良く分からないせいで、多くの梱包業者は、中の美術品をきつく梱包してしまう。しかしトラック輸送の際に、車の走行中の振動でカンヴァスが50kヘルツで画面中央を境に波打ち、60kヘルツで中央を中心に左右に振動することが実験で分かっている。この輸送中の振動は何百万回だろうか?だから走行振動も伝わりにくいエアサスペンション仕様にするとか、また輸送箱(クレート)を進行方向に縦に積み、下にクッション材を入れるのは常識でなければならない。クレートを重ねて詰むなどはもってのほかである。
美術品が展覧会で輸送されるたびに痛むのは避けられないが、多くの美術館で配慮が足りていない。美術品の被害は長い時間をかけて、目に見えないところで進行している。目に見えないというのは正確ではなく、「気が付かないところで」というべきだろう。注意している者だけが、これに気が付くのだから。
とにかく、考え方の問題だが、知識が不足し、実行力も不足している。その一番の責任者は学芸員だが、彼らが美術館運営の方向性を決める責任者であることから、彼らの意志が全てを決めてしまうが、文科系で科学的思考が出来ない者が多い。美術史は社会科学と呼ばれるが、決して科学的でない人もいて、現実から離れた観念世界で生きている人の方が多いのだ。だから欧米では美術史系学芸員のほか、最低でも作品の収蔵展示管理、事務的管理を行うレジストラー、保存管理を行う修復家などで構成され、それぞれの権限の専業化によって、この欠点を補っているのだが、この国は違う。この国の学芸員は自分たちの能力や性格が合理的思考に向いていないということに気が付いていない。(このことは近現代美術をテーマに別項で述べたい)彼らの中には多くの美術館が不十分なクレートで美術品を輸送してくるのを見て、「これでも良いのではないか」と言ってしまう。保存担当者が不十分だと言っても、「現に輸送されてきているではないか」という。自分がコミットするのではないと思う者は無責任である。また自分たちの都合の良いようにしたいのが、輸送業者である。どんなに柔らかいスポンジを使うように言っても、硬い物を使ってくる。
柔らかいスポンジを使うと、美術品の重さでスポンジは潰れて薄くなる。きつく入れてあった美術品はクレートの中で少し上が開いている状態で収まっている。これをヤマト美術梱包の担当者は「中で美術品が飛び跳ねる」という。中で見術品が飛び跳ねると、本気で信じ込んでいて、会社内でそういい伝えてきた。そして保存担当の指示に従わずに他の美術史系学芸員を言い含めようとする。学芸員は「ヤマトがそう言っている」と言いに来る。よく考えろと言っても分からない。その気がないから。
クレートの中で何が起きているのか?飛び跳ねたら、それは何を意味するのか?それは重力(G、gravity)を超える力が下方向から働いたということで、中で緩衝材のスポンジが入っていても、また緩衝能力のあるスチロールがあっても、力が吸収されずに重力以上の力が働いたということだ。ということはクレートはどうなっているのだろうか?中の美術品を飛び跳ねさせる力が働いた時、クレートは宙に浮いているだろうが、それだけではない。瞬間的に緩衝材の力をそいでしまうほどの力(例えば空手の正拳で硬いビール瓶の首を一瞬にして切ってしまう技があるが、これに等しい)が働かねばならない。そんなことがあるだろうか?
新潟中越地震で、小地谷の加速度G(1000ガル)を超える1080ガルが記録された。では家が地上から浮き上がったかというと、同時に振動する三成分(X,Y,Z方向)に左右されて、もし縦方向がGを超えても、横の成分が吸収するので、飛び跳ねることはない。これと同じことで、クレート中では上下のみならず側面もスポンジが入っているので衝撃力はこれらに吸収される。
柔らかいスポンジを用いて、この隙間ができることで、中で飛び跳ねる余裕が出来たと思って、自動的に飛び跳ねていると思い込んでいるにすぎないのだが、思い込みの伝統は彼らの頭の中では覆らない。
もし実際に柔らかすぎるスポンジのせいで、硬い箱の下に額縁が当たっていたら、それは改良処置しなければならない。イタリアから来たクレートで過去にそのような事例があったが、まれである。しかし重さでスポンジが潰れてて当たり前であって、「緩衝が効いている」という意味で、これを取り違えて、隙間をすぐ埋めてしまう。しかも開いた上を硬い物で詰めてしまう。もし必要性があれば、つめるのは下の面であって、しかも緩衝力を殺してはいけない。
さて、国内の展覧会ではいまだにクレートもなく、まさに裸でトラックに載せられて、他の絵画との仕切りに段ボール板が差し込まれてただけの状態をよく見かける。これが地方美術館で開催される展覧会で、どこからか集められる美術品に対する仕打ちである。金をかけたくないのは分かるが、だったら展覧会など止めてしまえと言いたい。西洋美術館の作品だけクレート仕様の費用を要求して貸し出し、他はただ同然である。これでは保険をかけても、事故の際に十分な配慮がされていなかったとして、損害補償はされないように思う。
この他、輸送中の問題には温湿度変化があって、エアコンのないトラックでは夏は蒸し風呂、冬は冷蔵庫並みであることは想像に難くない。緩衝材の発泡スチロールは保温材でもあるが、現実に耐えるためにはクレートは二重箱で内外に100mmの発泡スチロールを入れないと外気の温度の影響を受け、湿度は密閉度が高く、完ぺきに近くないと輸送中の気圧の変化で、クレート内の空気は出入りする。つまりスタートするときトラックのコンテナ内の空気は外に引き出され減圧し、ブレーキをかけると再び外から外気が入ってくる。クレート内も同じである。こうしたメカニズムでクレート内の雰囲気は、徐々に外気に近づくのである。飛行機による輸送はもっと激しい変化が起きる。離陸によって異なる高度の気圧の変化で、温湿度の変化が生じることがデータロガー(温湿度記録計)に記録される。興味深いことに水平飛行に移るまで、特に湿度は変化する。そして温度であるが、貨物室は約摂氏13度ぐらいで、クレート内部も8時間の飛行でほぼ同一化する。牛や馬を運ぶカーゴではもっと温度は高い設定のようだ。
こうして冷え切ったクレートが地上に降りてどうなるか、想像がつくだろう。真冬にヨーロッパに着陸した場合は別として、その反対に帰国便で成田に着いたら、そのクレートは結露でビショビショになっている。だからクレートの表面にはペイントが必要なのだ。
こうしたクレートは必ず24時間環境にならすためのシーズニングというのが必要だ。陸上輸送でも、外気と美術館内の環境が違うことは当然考えられる。「掟破り」をすればカンヴァスが湿ってたるむか、逆に濡れすぎるとビンビンに張ってしまって、木枠が壊れるようなことも生じているし守るべきは守ることが必要だ。
そのためにも、これを読まれる方には次の最低条件を守られることを勧める。(国内陸上輸送限定)
①クレートは最低5mmのベニヤで、構造部分には9mm合板を幅100mmに切ったもので囲い、大きな作品にはベニヤ部分の振動を防止する桟を入れること。また歪みを防止するブレース(斜めのつっかい)を入れて固定する。蓋の部分はビス止めにするため、固定する周囲はビス止めの幅が必要。釘は中に美術品がる状態では打たない。5mmのベニヤを使うところを段ボールにしたら、物が突き刺さったとき、救われない。
②内部は発泡スチロール50mmで作品を受け、横面は30mmでも構わない。すべての面に回して貼るのが理想だが、密閉度が確保できなければ保温効果はない。さらに理想を言えば、柔らかいスポンジを加えて、そこに搭載できるようにする。そうするとクレートの大きさは作品の大きさに対してどれほどの厚さに、高さになるか考えねばならない。発泡スチロールは衝撃吸収も兼ねるので、スポンジを略すことも、軽い作品では考えられる。
③美術作品は薄様紙で表面を覆い、厚手にビニールで梱包する。ビニールの継ぎ目は必ず目張りをして、密閉する。
④保険は十分掛けるべき。事故は結構、頻繁に起きている。
意外とずさんなこの国の現状はおわかりいただけだろうか?
先日、「国の幸福度」というのが発表されて、この国は50何位だったか? 「他者に対する思いやり」が点数が低かったのだそうだが、相手は美術品ではなく「人」であるのに、思いやりがない社会が出来上がっているのは残念だ。一位のノルウェー、二位のフィンランド、三位のデンマーク、そしてスウェーデンと続く、それぞれ北欧で相互扶助の精神を第二次大戦に参加せず守った国々だ。高い税金ではあるが社会福祉に回して社会の安定化を図ってきた。今時、皆が働いた賃金を国民すべてに均等に配る「共産主義の理念」を持つことを提案している議員がいることが、決して浮いた話ではないとも思える。
思いやりがもっとあれば、この国は・・・・・。