河口公男の絵画:元国立西洋美術館保存修復研究員の絵画への理解はどの様なものだったか?

油彩画の修復家として、専門は北方ルネッサンス絵画、特に初期フランドル絵画を学んできた経験の集大成を試みる

近現代美術について

2017-03-28 13:11:36 | 絵画

私は近現代美術が好きではない。嫌いと言った方が良いかもしれない。メディアで取り上げられる作品たちは、どれもこれも、皆アイデアで勝負しているとしか感じない。観念的というべきで、他のものがやっていないことが、独自の表現だと思っているように感じる。

特に若い時は誰も、自分の在り方に基準がないから、何も分からないうちに飛びつく。いろんな経験をすればよいと言えるが、将来性のない方向を選択していることも多々ある。私も反戦活動、宗教、哲学などふらふらと歩んでいた。とにかく生き方に疑問を持っていたのは救いだったと思う。

その後の、当の私は具象絵画の宿命を感じてしまって、偏執的に縛られているのかもしれないが。

〇坂崎乙郎氏の著書「イメージの変革(当初、幻想芸術と誤認した。許してください)」を久しぶりに読んだ。彼は私が東京造形大学に在籍していた時(1972年頃)の講師で、自著の幻想芸術について講義し、学生達にこの本を買わせた。彼は既に亡くなっていて、個人を批判するようで、少し気が引けるのではあるが、読んでいて頭の痛くなるような文章で、わつぃの青春時代はこんなものだったかと、今更ながらだが・・・・当時分からなことだらけだったのだ。この頃、流行った幻想絵画に魅了されていた学生時代には坂崎先生の話すことは「天の声」のようなものだった。

今になって読み返すと、彼は文章を自分の文学のような評論にして、様々な作家の表現について述べていた。一方で最後の「編集後記」ではごく普通の分かり易い表現の「普通の文体」で感想を述べているのに驚いた。本文では、彼が自分の評論を「彼の芸術作品」のように扱う、当世流行の知的表現法というか、気取った表し方が、当時の若者たちに、また後続の近現代美術関係者に受け継がれているのは罪だなと思う。

しかし事の発端は、フランスの詩人ボードレールの言葉に始まる「私は最良の批評とは、読んで面白く、しかも詩的なものだと深く信じています・・・・良き批評とは知的で感受性豊かな精神によって捉えられた作品であるべき・・・・」(高階秀爾著《世紀末美術》より)であろう。

 当時のサロンの批評は退屈で、存在意義が無かったのだろうけれど、ボードレールの意見は個人的なものとしてあるべきだったが、これに刺激された者が多かったために、おかしなことになったと思う。そもそも批評というものは、作者の表現意図に注目させるために、解説や紹介を行うためのものだろう。しかしボードレールは、それではつまらないと思ったのか、「詩的であり、自分の作品のように扱うべき」と言っている。これを文芸批評としてであれば、言葉で表したものを「言葉で汚されたくない」と文学者は起こるであろう。しかし美術のように視覚表現を言葉に置き換えても、作者は「注目されているからイイカ」程度のことであっただろう。

元来美術作品は視覚表現で世界を作ろうとしているのであって、言葉の威力を借りなくても、いや借りてはならないものだ。美術館の会場でよく見かける「解説」でさえ、鑑賞の邪魔をしている。

ボードレールは美術史研究者ではなかったので、少しは言い訳の余地ががあるが、「批評は詩的で・・・作品であるべき・・・」と言えば、芸術作品そのものは、元より虚構であって、更に虚構を重ねるという意味だ。他人の作品を出汁に使って、自分のものにしようという訳だ。

近現代美術史の批評は文学的とよく言われるが、そういうところに起因する。我々の歴史が今に近ければ近いほど、評価は明確に出来ないものだ。そのせいか、これらの美術史では学術的であるより、非科学的な「虚構」に陥る。古典美術を研究する者と、近現代美術を研究する者ではメンタリティも異なる。某国立近代美術館の学芸員が担当した美術展のカタログは意味不明の表現が大半で、これを英訳するのは不可能だろう。他の者がよく言わなくても、仲間の学芸員どうしで、「今回は良くできたのではないか」とか褒めあっていると聞いた。彼らはガラパゴス化しているのだ。

話を坂崎先生の本の話に戻すと、「幻想芸術」という言葉を使う以上、その意味を明確に示す必要がある。「何が幻想なのか?」。芸術そのものが虚構であり、非現実であるという理解は基本でなければならない。しかし先生は「幻想は空想や夢とは違う」と書かれている。その先の説明はない。近現代美術には、これまでと違う基準があると詐欺師みたいなことは言わないで、広く人類が試みてきた創造の歴史を鑑みて述べてほしかった。そうすれば自身が学んできた図像学的美術史ではない範疇の美術史があったかもしれない。

幻想の意味を絵画作品に求めれば、写真が正確に現状を写すのと違って、写実に描いても、すべて架空の状態に描いているのであるから、写実を否定して「内面の表出」を目指した画家や、その方向性を焚きつけた評論家たちの、観念的で実際がどうであるかの評価が出来ない、あるいは認識できない集団心理の方が問題であり、若い者に影響させて、今日に至るまでの絵画性を円熟させる労力や時間を失わせていることは不幸である。

美術評論家は物を創らないにもかかわらず、言葉で創ること誘導する。物を創らないものが、どうして作り手の心が分かるであろうか。

このことは過去にいつも問われたことであろうが、作り手でない彼らが、常に存在する理由は、彼らの方が「主観的な作り手より客観的で知的で理解にたけている」と信じ込んでいるからに他ならない。そして現代美術を見れば、実際から離れ、観念的な思いを扇動暴走させて、自分の思いを作ってしまうのである。

最近、ミニマルアート(最小限の要素で表現するという主張)について評論している者が居て、評論される画家の作品は「横長のカンヴァスを白黒で半分に区切ったもの」だったが、評論家曰く、「芸術表現として認められなくてもよい・・・」とか。私には詐欺を働いているとしか感じなかった。これは「画面を半分にするアイデア」でしかない。

自分を否定されることを拒む者はコンプレックスを持つことになる。そして最後にはコンプレックスを優越感に換えようとする。そして自分を支えようとするのだ。観念的な世界では、これが起きるのだ。視覚芸術の行く先は表現のアイデアではない。発明品ではないのだ。

現代においてもっとも軽んじられた「感性」こそ、いま必要な実体を感じ取る手段だと思う。

 

 


ポンペイ展から

2017-03-26 18:00:56 | 絵画

山口県美で開催されていたポンペイ展を会期末ぎりぎりで見ることが出来た。土日は混雑して見難いと聞いていたので、かろうじて週日に行くことが出来た。山口県美では山口市の人口が10万人の時、大英博物館展で25万人動員した実績があるので、集客能力が高い美術館の一つだ。浜田市のみゆき画材でポスターを見て、「ひょっとして一生見ることが出来ないかも・・・」と思って、出かけた。片道120kmの距離である。

今から27年前に3か月間かけて、イタリア中の美術館博物館と保存修復機関を訪ねた。今回、出品作品を所蔵していたナポリ国立考古学博物館も訪ね、もちろんポンペイの遺構を見に行った。ヴェスビオ火山の噴火によって、ほんの一日で火砕流に埋まってしまった、瞬間保存された町で、まさに火山灰の中から日常生活が掘り出された町であった。古代ローマ時代の街並みに、パン屋や葡萄酒を売る酒屋の店の形がそのまま見れるのはここしかない。

考古遺物は掘り出したら、そのままにしておけないので博物館に収容されるが、建物は収容できるものではない。(ベルリンにギリシャのペルガモンの建物をそっくり再現したものがあるが)ポンペイの建物に付随する壁画はストラッポと呼ばれる技法で、建物からはぎ取って博物館に収蔵する。2000年近い年月を外気にさらされて壁画が保存されることはないが、これらが火山灰に埋もれていたということでは、ほとんどその当時に近い状態で我々は見ることが出来ている。(このポンペイの遺構が無ければ、我々はこれほど多くの古代ローマの絵画を見ることはできなかっただろう)

今回の展覧会では、その建物からはぎ取ったフレスコ画をイタリアから持ち込んだのだ。この展覧会では時代区分が様式でなされており、装飾との兼ね合いで、4つの様式に分けられていた。フレスコ画が住居の壁の装飾であったことは生活スタイルと深い関係があったと考えられるが、これらの様式を概略的にまとめると、第一様式(紀元前2世紀~紀元前80年の間、サムニウム時代)では壁には大理石に似せた装飾としてフレスコ画が用いられた。第二様式(紀元前80年~紀元前20年ごろ、建築的様式と呼ばれる)は、壁面に新たな建築が存在するように感じさせるような、だまし絵的な奥行きを感じさせる柱や部屋、そしてその装飾が描かれた。三次元の壁の中に新たな空間を感じさせる錯覚(イリュージョン)を確立させている。それこそが次の第三様式に反映されている。第三様式(紀元前15年~紀元後50年、アウグストゥス、ティベリウス、カリグラの時代)には絵画的な田園風景やギリシャ神話に出てくるいけにえの羊などの主題が多かったと言われている。そして第四様式(紀元後1世紀半ば~79年、ネロの時代)には再びイリュージョンの表現が空想的な動物や規則に従わない表現が増えたとされている。

美術史家は「何が描かれているか」、テーマの変化、表現の変化に注目する。それに対して私は生涯の興味から「何をどう描いたか」に注目していた。それは画工たちの技巧としての感性がどの様に発展していったかが、最も大事な視点だった。描かれるテーマは注文主の好みで、時代の流行が主で、もちろん画工たちが生きた時代の一般的な表現方法は、職業的能力として周囲を見ながら成長したと想えるからだ。

フレスコ画は私の専門分野ではないが、概略的に技法を述べると、ポンペイでは煉瓦の壁に、火山灰のようなグレーの土に白い石灰を混ぜたモルタルを塗って、壁画の基本画面を作る。その上に下描きとなるデッサンをシノピア(酸化鉄を主成分とする赤色土)あるいはひっかき線で当たりづけデッサンを行う。そして一日分の仕事(ジョルナータ)の区分に従て、白い漆喰を1~2mm程度の厚さに塗り、それが乾かないうちに顔料を水に溶いた水性絵の具で描いた。この水性絵の具は漆喰が乾くにしたがって、固着し、叩いても落ちることのない強固な画面になった。今日イタリアでボンフレスコと呼ばれるのは上記の手法で描かれたもので、メッツオフレスコと呼ばれる方法は乾いてしまった画面に再び漆喰の上澄み液に顔料を溶いて加筆したもの、あるいは卵黄テンペラで加筆したものも含むらしい。今回展示されている時代のフレスコは仕上げに油脂(?)が塗られ、磨かれたそうだ。この油脂はワックスかもしれない。

今回の出品作品には背景が一色で赤あるいは黒で塗られ、その上に人物や風景を描いたものが多くあり、これはメッツオフレスコ技法が当時多用されていたことが分かる。これらは経年で、上の層が剥落しやすく保存上問題になっている。中にはこのような剥落部に、後世の者がテンペラか何かで加筆したところがあって、汚く感じた。

普通フレスコ画は画面が不動で、堅固であるため油彩画のように亀裂は入らない。今回の展示品に多くの欠損や大きな亀裂があるものは、1739年に初めてポンペイが発掘されたとき、国王の絵画コレクションを作るため、壁からはぎ取られ、それぞれ木枠に入れることがされた。この時、多くがそれまで良好な保存状態であったものが、当時の姿を失うことになった。(その経緯については本展カタログの、ロザーリア・チャルディエッロ女史の論考を参照されたい)

多くの壁画が展示のために、小さくはぎ取られ額装された。そのため何処からはぎ取られたのか不明のものも多い。はぎ取り方も、よく思いついたというべき技法で、このストラッポと呼ばれる技法は壁画に膠で布を貼り付けてから、その上を石膏で固め、補強の木材を入れてから、ナイフのように鋭いヘラで、画面後ろの層に当たるモルタル下地(厚さ3~5cm)からはぎ取った。はぎ取られた壁画は裏面から格子状の木枠と周囲を固定する枠で固められてから(現在もこの状態の壁画が残っている)、そして第二様式表の石膏が取られ、膠で固まった布はゆっくり水でふやかして除去される。今日さらにこうして保存されてきたフレスコ画に膠と乾燥時に強く収縮する麻布を貼り付け、漆喰の層だけ剥がれる技法もある。そこではイントナコと呼ばれる赤色土で描いた下絵の層が現れ、これも表を養生してはぎ取られるようになった。つまりこれら二つにされた絵画は制作プロセスを明らかに出来るようになった。

本展では、漆喰の層だけをはぎ取ったものは出品されていなかったが、出品された大きな壁画は下地の層が薄く削られて、軽い紙のハニカム板(厚さ4cm程度)に移し替えられていた。こうして輸送中のリスクを軽減している。

この展覧会で最も私が見たかったのは、ポンペイから出土した壁画ではなく、同じくヴェスビオ火山の噴火によって火山灰に埋もれたエルコラーノという町のアウグステウムで発掘された人物画四部作の一つ《赤ん坊のデレフォスを発見するヘラクレス》を描いた壁画である。紀元後一世紀半(第四様式)ごろ描かれた。

何が凄いかと言えば、立体感、空間感、光の投映そして色彩の扱いである。これらの要素は1300年近く、ルネッサンスが来るまで失われた画家の感性である。ローマ帝国がキリスト教を国教として保護するまで、キリスト教はカタコンベのような地下に潜って布教、信仰を繋いだ。その頃描かれた神の像は、以前の項に書いたことがあると思うが、まさに信者であり坊主である者が描いた、全く技術的にも絵画に成る前のナイーブな絵であった。ポンペイの壁画と共通する様式の装飾や絵画はローマにもあったと思うが、そのときには今回の作品にみられるような、立体感、空間感はマサッチョまで待つほかなかった。古代ローマの絵画にはより早い時期からこれらのフレスコ画に装飾的ではあるが遠近法によって建築内部が表現されている。しかし人物を描く上で立体的に肉体を表現し、明確な地面が描かれ、そこに立つ人物の足元には投映による影(キャスティングシャドウ)が描かれている。しかもわざとらしくなく、空間を作り出す調和をもっている。218x182cmと画面は大きく、短時間には仕上がらない大きさで、ジョルナータで区切って制作されたことは想定できるが、近寄って見ても、どこに線があるのか分からなかった。私の個人的な感想であるが、先に茶褐色の肉体のヘルメスが描かれ、その横に、位置的には後ろに王女アウゲが描かれているが、座っているポーズながら、やたらアウゲの胴体がヘラクレスやその他の登場人物と比べて大きいのは、先にアウゲを描いたからだろうと思う。また、画面左下の赤ん坊のテレフォスが鹿の乳を飲んでいるところを大きく体を曲げた鹿の表現は見事であり。顔をこちらに向けた鹿の体に、背景の明るい壁からの反射光が当たっているところまで表現されている。この画工の観察力のすごさはルネッサンスまで封印された。

当時の絵画力の習得はどの様になされていたのか不明である。

現代のように紙が無かった時代に、どのように二次元の中に立体感や空間感を持ち込めたであろうか?前出のチャルディエッロ女史の論考にそれらしき記述がある。第二様式の時代に既に図案に共通点があり、画工たちは図案帖を作っていたのではないかと推論している。この図案帖がパピルス紙あるいは板に描かれたものか今日残っていないが、画工が注文主の希望を叶えるために、予め見せることが出来た図案があったはずで、選択できるだけの数の図案の存在は不思議ではない。つまり描く練習はこうした媒体でなされたであろうし、他人が描いたものを得て、学ぶことも出来たであろう。とにかく画工自身が立体を感じ、空間を感じ取って描く練習をしなければ、能力として感覚的に身に着かない。

当時の人物表現はエンカオスティック(板に蜜蝋、樹脂と色顔料を混ぜた絵具で描く方法)で描かれた「ミイラの肖像」(棺桶の蓋部分に死者の肖像を描いた板絵)が存在し、板絵としても風景なども入れた絵画が存在している。描き方が全く同じで、こうしたところにも技術の習得が考えられる。古代文献《大プリニウス博物誌35巻》にも板絵やピナクス(画面表に扉が付いた絵)などが壁画の中央にかけられるなどの表現があったと言われている。これらに描かれた主題は繰り返しコピーされたようで、それらを参考にする板絵やパピルスの巻物があったと推論されている。

さて、画工の立体感と空間感、光の扱い方は卓越している。これまで立体感は光の投映による影を入れなくても、表現できることは述べたが、つまり立体として回り込む線をとらえれば、線描だけで立体的に描けるわけだが、周りの背景に及んで、空気遠近法に近い明暗の調整が行われているのは、注目に値する。フレスコ画は描いている最中は水彩絵の具と共通で、濡れ色をしている。この濡れ色の度合いはちょっとした白色の混合で、あるいは濃い色を明るい色に混ぜるとき、極端に乾燥時の明度が変化する。つまり今見ている画面の明るさは、画工が描いている最中はもっと彩度も明暗も強かった。かなりこの技法の特徴に熟練しないと、思い通りの完成にはならない。

この展覧会は、カタログでは4月から6月に福岡開催の予定となっていた。興味のある人は西日本新聞社か東京新聞文化事業部へ問い合わせされると良いかも・・・。

 


美術品の輸送について

2017-03-22 02:10:55 | 絵画

美術館の保存担当者であれば、美術館業務の中で一番心配の種は美術作品の貸し借りであり、世に多くの展覧会が開催されるには、出品作品の貸し借りなしでは展覧会は成り立たない。特にこの国の美術館博物館は展覧会事業に力を入れている。実際は美術館が・・・というより、むしろ新聞社やテレビ局などの文化事業部がミロのビーナス展、ツタンカーメン展、モナリザ展と多くの入場者を見込んだ催事を目論む伝統が、いつの間にか出来上がってしまったことにもよる。それと国内には80年代に「一県一博」という流行があって、90年代には都道府県から市町村で美術館博物館を持ちたがる傾向で、最近では「おらが村の大先生」の美術館、資料館などが「箱モノ政治」のデスティネーションになったが、問題はここだ。どこも自前の美術品や資料だけで展示を満たすことが出来ないことが、「貸し借り」の頻繁なあり様を決めている。

かくして、美術品は動き回ることになった。

美術館の展覧会の年間予定を見れば、自主展(規模の小さな、自前のコレクションから自費で企画する展覧会)、企画展(新聞社やテレビ局などの資金を出す共催者と企画する、入場者を見込む展覧会)と二種類あるが、後者は西洋美術であれば海外から借りることなく成立しない。従って、美術品の輸送はトラックや飛行機の輸送に耐えなければならないが、輸送会社との輸送契約では保険をかけなければならないし、保険をかけられる条件として、輸送上の障害に配慮した方法が求められている。しかしこの方法や条件にはピンキリの現状がある。

輸送には美術品は箱詰めになるが、箱の作りや箱の中が問題だ。ぺらぺらんのベニヤに、密閉度の悪い工作、中の断熱材がない物、衝撃を吸収するスポンジがない物、硬い物などいろいろと美術品にとって受難の環境なのだ。

美術館の環境は温度湿度が管理され、汚れも衝撃もない状態であるものが、いきなり貸し出しとなれば扱いが素人並みになるのは、貸し出しを管理するレジストラーが不在で、適当な輸送会社も見当たらないというときには、危険な状態も生まれる。一つの展覧会に輸送費用に2000万円払っても、業者が現地のコーディネーターに袖の下を払っていれば(いや、要求されていることもある)、当然輸送箱は質が悪くなる。別のケースではその国独特の輸送技術を考えて、その新しいものを採用して、問題を生じさせることもある。例えばイギリスでは保守的な伝統で輸送箱のデザインを変えないテイトの輸送箱は内箱のある二重だが緩衝材、断熱材と合わせると片面20cmを超える。つまり両面で40cmが、中身とは別の詰め物であり、頑強な周囲の木材を含めると一点がおよそ60cmの厚さになる。これは一点でも独立して立っていることが出来る形状を具体化したものだ。つまり飛行場のエプロンで積み込みを待つ間に、誰も手を添えてくれない時間が必ずあるから、自立できないものは運べない。箱の外側には目立つ色の黄色のペイントを塗る。(箱にペイントを塗ってはいけないことになっている国もある。箱ごと床の上を引きずり回して、床を汚すから・・・。)ほかにイギリスの古い業者にピット・アンド・スコットという会社があり、ここに輸送箱と梱包を頼む美術館も多くあって、質の悪い輸送になるケースが多々あった。密閉度が悪いし、中の梱包も硬いハトロン紙を使うなど良くなかったが、最近はビニールに変わったようだ。何時だか軍隊で使う機材を運ぶジュラルミン製の箱に入ってきたものがあったが、リースの箱は大きさが作品に合っていないので、詰め物がよほど多いが、密閉度は美術品には不十分である。

悪い輸送とは、輸送中どのような環境に置かれるかを想定しない取扱いをしていることである。

美術館の壁から降ろす時、台車に載せる。額をむんずとつかんで、クッションの上に載せるとすると、すでに金箔のある額は擦り切れが生じている。人が持つところはすぐに箔が薄くなって黒んずんで見えるようになる。だから白い綿の手袋をするが、これが滑る。落とさないために額の下を持つ者と最低三人が必要だ。トラックに運ぶまで,部屋の仕切りなどでガタンと衝撃が生じることは避けられない。中の美術品には緩衝材があって初めて、この衝撃をかわせる。しかしこの緩衝材が柔らかくなく、硬ければ衝撃は直接伝わる。その度合いはこの緩衝材の硬さと、梱包の際の作品への締め付け具合による。中の作品がカンヴァス画であれば、画面は揺れている。板絵であればごつんと衝撃があったはずだ。だから、多くの所有者は板絵を貸したがらない。

しかし、中で何が起きていいるのか良く分からないせいで、多くの梱包業者は、中の美術品をきつく梱包してしまう。しかしトラック輸送の際に、車の走行中の振動でカンヴァスが50kヘルツで画面中央を境に波打ち、60kヘルツで中央を中心に左右に振動することが実験で分かっている。この輸送中の振動は何百万回だろうか?だから走行振動も伝わりにくいエアサスペンション仕様にするとか、また輸送箱(クレート)を進行方向に縦に積み、下にクッション材を入れるのは常識でなければならない。クレートを重ねて詰むなどはもってのほかである。

美術品が展覧会で輸送されるたびに痛むのは避けられないが、多くの美術館で配慮が足りていない。美術品の被害は長い時間をかけて、目に見えないところで進行している。目に見えないというのは正確ではなく、「気が付かないところで」というべきだろう。注意している者だけが、これに気が付くのだから。

 とにかく、考え方の問題だが、知識が不足し、実行力も不足している。その一番の責任者は学芸員だが、彼らが美術館運営の方向性を決める責任者であることから、彼らの意志が全てを決めてしまうが、文科系で科学的思考が出来ない者が多い。美術史は社会科学と呼ばれるが、決して科学的でない人もいて、現実から離れた観念世界で生きている人の方が多いのだ。だから欧米では美術史系学芸員のほか、最低でも作品の収蔵展示管理、事務的管理を行うレジストラー、保存管理を行う修復家などで構成され、それぞれの権限の専業化によって、この欠点を補っているのだが、この国は違う。この国の学芸員は自分たちの能力や性格が合理的思考に向いていないということに気が付いていない。(このことは近現代美術をテーマに別項で述べたい)彼らの中には多くの美術館が不十分なクレートで美術品を輸送してくるのを見て、「これでも良いのではないか」と言ってしまう。保存担当者が不十分だと言っても、「現に輸送されてきているではないか」という。自分がコミットするのではないと思う者は無責任である。また自分たちの都合の良いようにしたいのが、輸送業者である。どんなに柔らかいスポンジを使うように言っても、硬い物を使ってくる。

柔らかいスポンジを使うと、美術品の重さでスポンジは潰れて薄くなる。きつく入れてあった美術品はクレートの中で少し上が開いている状態で収まっている。これをヤマト美術梱包の担当者は「中で美術品が飛び跳ねる」という。中で見術品が飛び跳ねると、本気で信じ込んでいて、会社内でそういい伝えてきた。そして保存担当の指示に従わずに他の美術史系学芸員を言い含めようとする。学芸員は「ヤマトがそう言っている」と言いに来る。よく考えろと言っても分からない。その気がないから。

クレートの中で何が起きているのか?飛び跳ねたら、それは何を意味するのか?それは重力(G、gravity)を超える力が下方向から働いたということで、中で緩衝材のスポンジが入っていても、また緩衝能力のあるスチロールがあっても、力が吸収されずに重力以上の力が働いたということだ。ということはクレートはどうなっているのだろうか?中の美術品を飛び跳ねさせる力が働いた時、クレートは宙に浮いているだろうが、それだけではない。瞬間的に緩衝材の力をそいでしまうほどの力(例えば空手の正拳で硬いビール瓶の首を一瞬にして切ってしまう技があるが、これに等しい)が働かねばならない。そんなことがあるだろうか?

新潟中越地震で、小地谷の加速度G(1000ガル)を超える1080ガルが記録された。では家が地上から浮き上がったかというと、同時に振動する三成分(X,Y,Z方向)に左右されて、もし縦方向がGを超えても、横の成分が吸収するので、飛び跳ねることはない。これと同じことで、クレート中では上下のみならず側面もスポンジが入っているので衝撃力はこれらに吸収される。

柔らかいスポンジを用いて、この隙間ができることで、中で飛び跳ねる余裕が出来たと思って、自動的に飛び跳ねていると思い込んでいるにすぎないのだが、思い込みの伝統は彼らの頭の中では覆らない。

もし実際に柔らかすぎるスポンジのせいで、硬い箱の下に額縁が当たっていたら、それは改良処置しなければならない。イタリアから来たクレートで過去にそのような事例があったが、まれである。しかし重さでスポンジが潰れてて当たり前であって、「緩衝が効いている」という意味で、これを取り違えて、隙間をすぐ埋めてしまう。しかも開いた上を硬い物で詰めてしまう。もし必要性があれば、つめるのは下の面であって、しかも緩衝力を殺してはいけない。

 さて、国内の展覧会ではいまだにクレートもなく、まさに裸でトラックに載せられて、他の絵画との仕切りに段ボール板が差し込まれてただけの状態をよく見かける。これが地方美術館で開催される展覧会で、どこからか集められる美術品に対する仕打ちである。金をかけたくないのは分かるが、だったら展覧会など止めてしまえと言いたい。西洋美術館の作品だけクレート仕様の費用を要求して貸し出し、他はただ同然である。これでは保険をかけても、事故の際に十分な配慮がされていなかったとして、損害補償はされないように思う。

この他、輸送中の問題には温湿度変化があって、エアコンのないトラックでは夏は蒸し風呂、冬は冷蔵庫並みであることは想像に難くない。緩衝材の発泡スチロールは保温材でもあるが、現実に耐えるためにはクレートは二重箱で内外に100mmの発泡スチロールを入れないと外気の温度の影響を受け、湿度は密閉度が高く、完ぺきに近くないと輸送中の気圧の変化で、クレート内の空気は出入りする。つまりスタートするときトラックのコンテナ内の空気は外に引き出され減圧し、ブレーキをかけると再び外から外気が入ってくる。クレート内も同じである。こうしたメカニズムでクレート内の雰囲気は、徐々に外気に近づくのである。飛行機による輸送はもっと激しい変化が起きる。離陸によって異なる高度の気圧の変化で、温湿度の変化が生じることがデータロガー(温湿度記録計)に記録される。興味深いことに水平飛行に移るまで、特に湿度は変化する。そして温度であるが、貨物室は約摂氏13度ぐらいで、クレート内部も8時間の飛行でほぼ同一化する。牛や馬を運ぶカーゴではもっと温度は高い設定のようだ。

こうして冷え切ったクレートが地上に降りてどうなるか、想像がつくだろう。真冬にヨーロッパに着陸した場合は別として、その反対に帰国便で成田に着いたら、そのクレートは結露でビショビショになっている。だからクレートの表面にはペイントが必要なのだ。

こうしたクレートは必ず24時間環境にならすためのシーズニングというのが必要だ。陸上輸送でも、外気と美術館内の環境が違うことは当然考えられる。「掟破り」をすればカンヴァスが湿ってたるむか、逆に濡れすぎるとビンビンに張ってしまって、木枠が壊れるようなことも生じているし守るべきは守ることが必要だ。

そのためにも、これを読まれる方には次の最低条件を守られることを勧める。(国内陸上輸送限定)

①クレートは最低5mmのベニヤで、構造部分には9mm合板を幅100mmに切ったもので囲い、大きな作品にはベニヤ部分の振動を防止する桟を入れること。また歪みを防止するブレース(斜めのつっかい)を入れて固定する。蓋の部分はビス止めにするため、固定する周囲はビス止めの幅が必要。釘は中に美術品がる状態では打たない。5mmのベニヤを使うところを段ボールにしたら、物が突き刺さったとき、救われない。

②内部は発泡スチロール50mmで作品を受け、横面は30mmでも構わない。すべての面に回して貼るのが理想だが、密閉度が確保できなければ保温効果はない。さらに理想を言えば、柔らかいスポンジを加えて、そこに搭載できるようにする。そうするとクレートの大きさは作品の大きさに対してどれほどの厚さに、高さになるか考えねばならない。発泡スチロールは衝撃吸収も兼ねるので、スポンジを略すことも、軽い作品では考えられる。

③美術作品は薄様紙で表面を覆い、厚手にビニールで梱包する。ビニールの継ぎ目は必ず目張りをして、密閉する。

④保険は十分掛けるべき。事故は結構、頻繁に起きている。

意外とずさんなこの国の現状はおわかりいただけだろうか?

先日、「国の幸福度」というのが発表されて、この国は50何位だったか? 「他者に対する思いやり」が点数が低かったのだそうだが、相手は美術品ではなく「人」であるのに、思いやりがない社会が出来上がっているのは残念だ。一位のノルウェー、二位のフィンランド、三位のデンマーク、そしてスウェーデンと続く、それぞれ北欧で相互扶助の精神を第二次大戦に参加せず守った国々だ。高い税金ではあるが社会福祉に回して社会の安定化を図ってきた。今時、皆が働いた賃金を国民すべてに均等に配る「共産主義の理念」を持つことを提案している議員がいることが、決して浮いた話ではないとも思える。

思いやりがもっとあれば、この国は・・・・・。

 


好き、嫌い

2017-03-06 01:20:02 | 絵画

好きか嫌いかで大方の物事は選択される。多くの日本人は論理的帰結より以前に、二者択一の好き嫌いにはまる。合理主義は国民性にあっていないし、楽だからだ。いくら情報があっても、フェイクであること、不十分な情報であることが、大方を占めているのだから、優柔不断に陥るより、時間の無駄はない。Aにするか、Bにするか選ばなければならない時、どちらでも良いから、どちらか選んでから、始める。始めてから考えれば良いではないか?

絵を描き始めたとき、好きで描いていて、素直だった。アマチュアだったので、楽しかった。モティーフは物だったが、そのうち物でないことに気が付く。ややこしく、これは具象絵画ではないと思ったが、具象絵画というものは、目に見えていないものを感じさせるように描くのだと分った。

優れた作品に魅力を感じるとき、絵具という素材の美しさと、絵具が包み込む形の美しさに心を惑わされる。その典型がレンブラントの描く自画像に様々な変容が見られる。彼の絵具の厚いところ、薄いところは数十倍の変化がある。絵具のマチュエールを味わいながら料理したに違いない。こうした彼の表現の深さは「好き」の追求で生まれたに違いない。

もうお分かりかと思うが。正直言うと私は近現代美術が嫌いであり、古典の巨匠の絵画が好きである。

事の始まりは単純だった。高校生だったとき、美術クラブで受験を準備して、石膏デッサンに打ち込んでいるときに、同じ三年生のS君が石膏デッサンはほどほどに、彼は自分の感じるところに従って、抽象のオブジェを作っていた。私は何か無理があるのではないかと思っていたが、浪人になっても美術研究所と呼ばれる、美術予備校の浪人生の中に「美術手帖」を小脇に抱えて、ひと際、人と違うことをしようとする者がいた。

人それぞれで、好き嫌いは勝手であるが、何かが違うと思っていた。美術大学に入れば、否が応でも考えさせられるであろうことだが、物事には順序があると、保守的に考えていた。

誰もどうすれば良いのか教えてくれなかった。四畳半で風呂なし、トイレは共同。陽は入らず「闇の間」と呼んでいた自分の占有空間。70年安保で腰が浮いていた。頭もどうかしていたが、民主主義が無視された時代だ。多くの若者が気分で左翼運動に感化され、自分もアナーキーであると思っていた。ただどんな権力が許されるのか理想も現実も感じなかったから、やたら本を読んで影響された。

時流に流される自分は、世の中の在り方を少し考え始めた頃であった。

しかし東京造形大学に入学してから、流されてたまるかと意地を張るようになった。造形大学はそれこそ私の嫌いな現代美術の美大だったのだから。入学してしばらく大学は「学園封鎖状態」だった。

しかしこの大学はカリキュラムは強制ではなく、自分に感じるところがあれば、教授に自分のやりたいことを宣言できた、奇妙な大学だった。いや、それ以外にお金も設備もなかったし、教授も「教えること」が無かったのだ。まあ、後で気が付いたのだが・・・・。そこでは永居はできなかった。

当時の自分が知りたかったことを誰も教えてくれなかったが、先輩の青木敏郎氏が刺激を与えてくれた。彼はそれこそ、時流には無縁、我が道を行くスタイルだった。これは当時、一番大事なことだったのだ。

好き嫌いは表現の第一歩であると言えるだろう。

しかし、これに対立する考え方を述べないと、議論の余地が残る。ドイツ的に言うと「オピニオンは個人的主観のみでは成立しない」ということ。

美術大学は美術を教える教育は行っていないということで、教授たちの個人的レベルに左右され、教育内容は偏っているのが、この国では普通だった。要するに、古典から現代美術まで、西洋や東洋美術と体系だった知識は教えないし、その存在さえ無視して、ビギナーでしかない学生は選択の余地も与えられていない。つまり情報も考え方も教わらず、好き嫌いも言えない状態だったというべきだろう。

偏った考え方、表面的な知識、未熟な技能で何が生まれるのか・・・・? 結局、自己の正当化だと思う。自分の存在を正当化した時点で、人生の行く先は目の前にあり、終点であろう。

好き嫌いも選択の一つではあるが、これだけで過ごすことはできない。好き嫌いから脱出するのに、知識に依存しすぎると「観念的」になってしまう。実際から離れるからだ。

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