これまで明らかになった科学分析や調査の結果からプリミティヴフラマン絵画の構造について述べる。今回は絵画素地(基底材とか支持体とか呼ぶ人も居るが、基底材というと化学用語のようで、支持体と言うと建築用語であり、どうも感覚的に合わない。恐らく基底材や支持体が好きな人は日本古来の職人技の手工芸に興味が無かったのであろう。特に絵画的な構造は漆工芸で共通の技法、プロセスが認められる。)について述べる。
絵画素地は中世後期にはイタリアでは建造物の一部であるフレスコ画のような壁に固定されたものから、イコンのように手に持てる板のようなものまであるが、共通項の大きい木の板について述べると、イタリアでは白ポプラが多く用いられたが水辺に生えるポプラは成長は早いが木の質は水の通る導管が大きく木目も荒く、時に柾目は取りにくく、木目がねじれることも多い。しかしイタリアではローマ時代から建築に使う煉瓦を焼くために多くの森が消えたと言われているように、時間をかけて成長する広葉樹の多くは失われていた。一方の北ヨーロッパではローマ軍が侵攻しても原生林が行く手を塞ぎ、人口が増えるまで多くの森の木は守られた。その中で最も真っすぐ太く均一な板材が取れる樫の木が用いられた。子の樫の木は日本の樫のように大きくならず鍬や工具の柄に向いているが板材は取れないものと違い、樹形は根元から真っすぐで中には直径が1メートルにもなるものあり、中には年輪が1ミリメートルに二本あるような緻密な正目板がとれたものもある。またドイツではその堅牢性から大戦中の金属不足から樫の板を航空鋼板の代わりに用いたほどである。
その樫の木には多くの種類があるが、日本の樫が工具の柄にしかならない程度だが、ドイツやベルギー近辺に生える樫はやたら大きく成長する。その種類が絵画に限って用いられたのか研究資料が無いので語れないが、当時から板になるまで材木はギルドが厳格に管理しており、アントワープの画板の裏面にタワーと両手の刻印が押されたものは有名である。正目板は中心部に向かって割るあるいはノコできることで得られた。その時点ではくさび材の心材と辺材(外側の材)は切り捨てて中の柾目部分だけを用いた。たまには辺材が含まれて虫食いが生じているものもあったが、今日まで多くの板絵が残っているのは、その素地の扱い方の優秀さである。
まず伐採された樫の材木は現場の土地の高低を利用し、根元を低い方にしてしばらく寝かされたという。川や運河の多いネーデルランドでは運び出された材木は運河の水に浸かったまま樹液が抜けるほど放置され、陸に揚げられると丸太のまま10年は雨ざらしにされ乾燥された。さらに製材されて使用するために板状にして10年乾燥されたという。樫はブナと違い乾燥収縮が小さく板状でもたわみ収縮することはなかった。
大方の板絵作品は2~3cmは厚みがあり、小さな作品では1cm程度のものもあった。例外的に1cm程度で1.5m×4m程の大きな板絵があっても両面に描かれることで反りや変形などの問題は生じなかった。板が継がれるときはダボ釘が用いられ継板の双方の同じ位置に穴があけられ(丸い穴ではなく四角であったりする)膠やカゼイン糊で接着された。(日本は古来から木の継にはご飯を練ったものが塗られて、圧力をかけて接着されたが、同じようなもので丸いダボ釘も使われた)継は縦長の作品は板を縦継で、横長の作品は横継で接着された。両面は地塗りがされる前に、丸のみで極力平らに削り、カンナがけされた。当時のカンナは刃が直立していたとされ、硬い樫の木を削るというより「平らにならす」と言うべきものであったようだ。
一方のイタリア中世期からルネッサンス期に描かれた板絵は分厚く大きな板絵では5cm位の厚さは常識であった。しかも縦長の画面を横に板を継いでいて、厚くても反りが生じ、また重力の影響で当然の如く変形した挙句に離れ、横亀裂の原因になった。ポプラ材の欠点は画板を加工用意する上で知られていたようで、板に地塗りを施す前に布が貼りつけられていた(日本の漆工芸でも板の継ぎ目に保護の為に布が張られた。これを「布着せ」と呼んでいる)中には絵が描かれるところだけに一面に貼られている物もあった。その理由は板表面を平らに加工するのは画家ではなく大工の仕事だが、初期的には加工が雑で表面を平らに地塗りがしにくかったことも原因とされている。従って地塗りの厚さも5~6mmあるのは普通であった。ドルミーテ地方を除いて、多くはポプラ材であったので板のそりや亀裂の悲劇は頻繁に起きた。特にテンペラ画が主流であったルネッサンス初期の板画には布着せが原因の特有な亀裂が観られる。幸いにしてレオナルド・ダビンチの《モナリザ》はクルミ材に描かれていて、正目板でなくても問題が生じていない。
少なくてもフランドルの樫の板の継ぎ目に布着せされているものの報告はないが、ロンドンナショナルギャラリーにある北フランスから北方とされる二連画(名前を忘れた・・申し訳ない)には樫の板に地塗りを施す時に板に麻の繊維が貼りつけられてから地塗りがされているという報告があった。絵画の表現様式はどうみても当時の南フランスで活躍したシモーネ・マルティーニ派の表現と思えるが、その下の板の上に麻くずや動物の毛、布などを板に貼り付けて地塗りのせちゃくをよくする方法はドナウ川より北のドイツやボヘミア地方に見られる。このことが例外的でアトリビューションが出来なくなっている。
いずれにせよフランドルで用いられた樫の素地は板としての乾燥による収縮、経年による劣化が少なく、ファン・アイク兄弟の絵画でも絵具表面に亀裂が生じるなど認められず、その美しさを保っている。
ファンアイク作品に突如キャンヴァス画が登場するが、これは原作ではなく後世の愚かな修復家によって己の技術を誇るために、板からキャンヴァスに移し替えることが行われたもので、ロンドン・ナショナルギャラリーでさえ第二次大戦後に行った例がある。ワシントン・ナショナルギャラリーのファン・アイク作品にはキャンヴァス目がハッキリと現れ、細密に描かれた原作を台無しにしている。フランドルでキャンヴァスが絵画素地として用いられるようになるのは大ブリューゲルやリューベンスがイタリア旅行から帰国したころからである。それより半世紀前のファン・アイク兄弟にはあり得ない。キャンヴァス画が登場するのには大画面が安価に制作できるようになるからで、イタリアではそれが板から置き換わるに時間を要さなかった。いずれにせよ初期のキャンヴァス画は地塗りが無く直接テンペラ絵具で描写された。
もし現代に絵を描こうとすればカンヴァス目が邪魔になる細密な画法には向かないので板のような平滑で亀裂の入りにくい素地が理想である。
もし現代に似たような画板を用意しようとすれば、コアの芯と表面に楢材を用いたランバコア20mmがあるが、さらに裏表の乾燥張力などのバランスの為に少なくとも裏面に表と同じような膠層と地塗り層を2回施すことが良い。しかしこうして用意した画板も上に来る絵具層の構造に注意を払わなければ意味がない。
次の地塗りと絵具層について読まれたい。