河口公男の絵画:元国立西洋美術館保存修復研究員の絵画への理解はどの様なものだったか?

油彩画の修復家として、専門は北方ルネッサンス絵画、特に初期フランドル絵画を学んできた経験の集大成を試みる

プリミティヴフラマン絵画(フランドル絵画)技法再考4

2021-04-29 12:00:00 | 絵画

これまで明らかになった科学分析や調査の結果からプリミティヴフラマン絵画の構造について述べる。今回は絵画素地(基底材とか支持体とか呼ぶ人も居るが、基底材というと化学用語のようで、支持体と言うと建築用語であり、どうも感覚的に合わない。恐らく基底材や支持体が好きな人は日本古来の職人技の手工芸に興味が無かったのであろう。特に絵画的な構造は漆工芸で共通の技法、プロセスが認められる。)について述べる。

絵画素地は中世後期にはイタリアでは建造物の一部であるフレスコ画のような壁に固定されたものから、イコンのように手に持てる板のようなものまであるが、共通項の大きい木の板について述べると、イタリアでは白ポプラが多く用いられたが水辺に生えるポプラは成長は早いが木の質は水の通る導管が大きく木目も荒く、時に柾目は取りにくく、木目がねじれることも多い。しかしイタリアではローマ時代から建築に使う煉瓦を焼くために多くの森が消えたと言われているように、時間をかけて成長する広葉樹の多くは失われていた。一方の北ヨーロッパではローマ軍が侵攻しても原生林が行く手を塞ぎ、人口が増えるまで多くの森の木は守られた。その中で最も真っすぐ太く均一な板材が取れる樫の木が用いられた。子の樫の木は日本の樫のように大きくならず鍬や工具の柄に向いているが板材は取れないものと違い、樹形は根元から真っすぐで中には直径が1メートルにもなるものあり、中には年輪が1ミリメートルに二本あるような緻密な正目板がとれたものもある。またドイツではその堅牢性から大戦中の金属不足から樫の板を航空鋼板の代わりに用いたほどである。

その樫の木には多くの種類があるが、日本の樫が工具の柄にしかならない程度だが、ドイツやベルギー近辺に生える樫はやたら大きく成長する。その種類が絵画に限って用いられたのか研究資料が無いので語れないが、当時から板になるまで材木はギルドが厳格に管理しており、アントワープの画板の裏面にタワーと両手の刻印が押されたものは有名である。正目板は中心部に向かって割るあるいはノコできることで得られた。その時点ではくさび材の心材と辺材(外側の材)は切り捨てて中の柾目部分だけを用いた。たまには辺材が含まれて虫食いが生じているものもあったが、今日まで多くの板絵が残っているのは、その素地の扱い方の優秀さである。

まず伐採された樫の材木は現場の土地の高低を利用し、根元を低い方にしてしばらく寝かされたという。川や運河の多いネーデルランドでは運び出された材木は運河の水に浸かったまま樹液が抜けるほど放置され、陸に揚げられると丸太のまま10年は雨ざらしにされ乾燥された。さらに製材されて使用するために板状にして10年乾燥されたという。樫はブナと違い乾燥収縮が小さく板状でもたわみ収縮することはなかった。

大方の板絵作品は2~3cmは厚みがあり、小さな作品では1cm程度のものもあった。例外的に1cm程度で1.5m×4m程の大きな板絵があっても両面に描かれることで反りや変形などの問題は生じなかった。板が継がれるときはダボ釘が用いられ継板の双方の同じ位置に穴があけられ(丸い穴ではなく四角であったりする)膠やカゼイン糊で接着された。(日本は古来から木の継にはご飯を練ったものが塗られて、圧力をかけて接着されたが、同じようなもので丸いダボ釘も使われた)継は縦長の作品は板を縦継で、横長の作品は横継で接着された。両面は地塗りがされる前に、丸のみで極力平らに削り、カンナがけされた。当時のカンナは刃が直立していたとされ、硬い樫の木を削るというより「平らにならす」と言うべきものであったようだ。

一方のイタリア中世期からルネッサンス期に描かれた板絵は分厚く大きな板絵では5cm位の厚さは常識であった。しかも縦長の画面を横に板を継いでいて、厚くても反りが生じ、また重力の影響で当然の如く変形した挙句に離れ、横亀裂の原因になった。ポプラ材の欠点は画板を加工用意する上で知られていたようで、板に地塗りを施す前に布が貼りつけられていた(日本の漆工芸でも板の継ぎ目に保護の為に布が張られた。これを「布着せ」と呼んでいる)中には絵が描かれるところだけに一面に貼られている物もあった。その理由は板表面を平らに加工するのは画家ではなく大工の仕事だが、初期的には加工が雑で表面を平らに地塗りがしにくかったことも原因とされている。従って地塗りの厚さも5~6mmあるのは普通であった。ドルミーテ地方を除いて、多くはポプラ材であったので板のそりや亀裂の悲劇は頻繁に起きた。特にテンペラ画が主流であったルネッサンス初期の板画には布着せが原因の特有な亀裂が観られる。幸いにしてレオナルド・ダビンチの《モナリザ》はクルミ材に描かれていて、正目板でなくても問題が生じていない。

少なくてもフランドルの樫の板の継ぎ目に布着せされているものの報告はないが、ロンドンナショナルギャラリーにある北フランスから北方とされる二連画(名前を忘れた・・申し訳ない)には樫の板に地塗りを施す時に板に麻の繊維が貼りつけられてから地塗りがされているという報告があった。絵画の表現様式はどうみても当時の南フランスで活躍したシモーネ・マルティーニ派の表現と思えるが、その下の板の上に麻くずや動物の毛、布などを板に貼り付けて地塗りのせちゃくをよくする方法はドナウ川より北のドイツやボヘミア地方に見られる。このことが例外的でアトリビューションが出来なくなっている。

いずれにせよフランドルで用いられた樫の素地は板としての乾燥による収縮、経年による劣化が少なく、ファン・アイク兄弟の絵画でも絵具表面に亀裂が生じるなど認められず、その美しさを保っている。

ファンアイク作品に突如キャンヴァス画が登場するが、これは原作ではなく後世の愚かな修復家によって己の技術を誇るために、板からキャンヴァスに移し替えることが行われたもので、ロンドン・ナショナルギャラリーでさえ第二次大戦後に行った例がある。ワシントン・ナショナルギャラリーのファン・アイク作品にはキャンヴァス目がハッキリと現れ、細密に描かれた原作を台無しにしている。フランドルでキャンヴァスが絵画素地として用いられるようになるのは大ブリューゲルやリューベンスがイタリア旅行から帰国したころからである。それより半世紀前のファン・アイク兄弟にはあり得ない。キャンヴァス画が登場するのには大画面が安価に制作できるようになるからで、イタリアではそれが板から置き換わるに時間を要さなかった。いずれにせよ初期のキャンヴァス画は地塗りが無く直接テンペラ絵具で描写された。

もし現代に絵を描こうとすればカンヴァス目が邪魔になる細密な画法には向かないので板のような平滑で亀裂の入りにくい素地が理想である。

もし現代に似たような画板を用意しようとすれば、コアの芯と表面に楢材を用いたランバコア20mmがあるが、さらに裏表の乾燥張力などのバランスの為に少なくとも裏面に表と同じような膠層と地塗り層を2回施すことが良い。しかしこうして用意した画板も上に来る絵具層の構造に注意を払わなければ意味がない。

次の地塗りと絵具層について読まれたい。

 

 

 


プリミティヴフラマン絵画(フランドル絵画)技法再考3 訂正追記あり

2021-04-29 12:00:00 | 絵画

ドルナー本にはファン・アイク兄弟の技法について科学的根拠の乏しい時代に、実技派の目で視覚的認識方法によってファン・アイク兄弟や当時のフランドル絵画の技法についてその構造を想定で述べている。しかしそれはかなりの断定的な考察の結果であったと思われる。

彼の原説をまとめると、ファン・アイク兄弟の兄フーベルトの名前が第一に登場し、弟ヤンの話にならないが、フーベルトは《神秘の仔羊》を制作している途中で亡くなったと聞いている。従って多くのファン・アイク作品の制作者はヤンの名前でサインが入った質の高い作品を代表していると考える。

まあ、ドルナーの考えだと、兄弟の作品の地塗りは石膏あるいはパイプ・クレイあ(磁土、カオリンだと思う)が使われ、その上にテンペラによる有色の下塗りがグレーあるいはオーカーで行われ、テンペラ絵具で下描きは行われて、その上にリンシードオイル(亜麻仁油)と樹脂を混ぜた絵具で描かれたと考えている。さらにある種のテンペラと油彩の混合技法であるというのだ。

下描きをテンペラで行うというのは、乾きが早く制作に有効で、乾きの遅い油絵の具で下描きから始めるのは非効率と考えたようだ。

ドルナーが知っていたかどうか分からないが、ファン・アイク兄弟は若い頃は写本画家であったようで、テンペラ絵具を用い細密に描く写本は彼らに優れた技能を授けたに違いないが、兄弟がどこで何をどう学んだかの記録は作品が限定されないと良く分からない。しかし時代としてアヴィニオンにローマ教皇が1309年~77年に教皇庁を置き、そこにシエナ派のシモネ・マルティーニが弟子を引き連れて移住し絵画技法を伝えたことで、フランスにシエナ派の絵画様式が伝わったことは良く知られ、北フランスまでテンペラ画で描かれた板絵や写本があったことは容易に想像できる。まさに北フランスや隣接するフランドルはプリミティヴフラマンの生活域である。

ワシントン・ナショナルギャラリーにあるファン・アイク作品で現在はカンヴァス上に移されている油彩作品はまるで細密なテンペラ画のような外観をしている。こうしたことからもファン・アイク兄弟の絵画がテンペラ画と切り離せないように考えるのも無理はない。

しかし第二次大戦後、科学分析が行われて様々な事実が明らかになってくると、ドルナーの成果も一通り確認されることになる。ファン・アイク兄弟の技法を解明するには絵具のサンプルを摘出するなどして、つまり破壊検査方法に頼らねばならに点が多くあり、それらは決して安易に許されることではなかった。従ってそう頻繁にはあり得ない修復作業の中で壊れた個所の傍に見つかる許される箇所のみのほんの僅かな長さ250ミクロン幅50ミクロン程度の絵具サンプルを採取するなどの・・・世間から決して批判を受けない程度に・・・配慮する必要があり、決して検査方法やその結果が十分かどうか言い切れない状況を認めるほかない。

戦時中には《神秘の子羊》も他の多くの美術作品と同様にナチスの手から逃れるために疎開したが、戦後にそれらの保存調査が行われるなか、修復処置も必要となったときに大きな調査が行われた。それ以外に《神秘の仔羊》三連祭壇画の左下部の板絵が盗まれる事件があって(この事件の内容は私がベルギー留学中に古本屋で見つけた古い週刊誌の記事に書かれていた)板絵は裏表があり、たまたま二枚盗まれて裏側の寄進者の肖像画はブリュッセル北駅の通路に布に包まれて放置されていたのを発見され、表側の美しい彩色のファン・アイク兄弟のどちらかの自画像ではないかとされる騎乗の人物が描かれた方が行方不明のままである。(どうも巷のうわさではベルギーのある実力者の家にその作品はあり、その者があまりに有名な人物であるために公に出来ないらしい)したがって現在祭壇画に付けられているのは「たまたま?」戦後直ぐ技法研究者が模写した作品があり、その模写がはめ込まれているということだ。よく見ればその技量はデッサン的に繊細さが欠け、彩色にも鈍さが認められるから判別できると思うが・・・。何故たまたまそうした模写があったのか理解できないが・・・不思議だろう。

そうした中で、ブリュッセル・サンカントネールにあるベルギー王立文化財研究所(IRPA)で行われた《神秘の仔羊》に関する修復調査報告書(1952年~53年)が出された。残念ながら私はこの報告書を手に入れることはできなかったが・・・と書いて(いや待てよと調べたら・・・書庫に見つかった、訂正する)、1970年頃にIRPAに留学した森田恒之氏がみずゑか何かに紹介した内容からすると、「メディウムは亜麻仁油と軟質系樹脂であり、全くの油彩絵具で描かれ、テンペラ絵具の使用については不明である。当時この報告書が公になってもベルギーやドイツの修復関係者でさえテンペラ絵具が何らかの形で用いられたのではないかと考える人も居たのである。

ここに記したIRPAの報告書 LES PRIMITIFS FRANANS 2, L'AGNEAU MISTIQUE AU LAVORATOIRE, EXAMANET TRAITEMENTの詳細な内容については後日要点をまとめて報告する。

しかし、この日本で未だにテンペラとの混合技法である言説が残っているのは、どうも混合技法信奉者が居るせいではないかと思わせるいくつかの文献がある。絵画技法に興味のある人ならばどこかで目にしたことだろう。あえて名前まで出すことはしないが、テンペラ技法を解説することを職業としていたためにその信仰はゆるぎない。

いずれにせよファン・アイク兄弟がテンペラ絵具を用いたという科学的な証明はなされていない。その後のプリミティヴフラマンの画家たちの絵具から混合技法の片りんは見つかっていないのである。むしろ絵具のサンプリングから明らかになったのは実に薄い絵具層が重なった絵画の構造である。IRPAの報告書の顕微鏡絵具断片調査に書かれた表記でAQAUつまり水性絵の具を意味する表記が絵具層の中間部の層に見られるが・・・・表記の信憑性に問題がある。何故なら電子顕微鏡も蛍光X線分析器、X線回折分析器もない戦後間もない時期の調査としては科学的根拠のない表記だと言える。

目視で数十ミクロン単位の薄い絵具層をテンペラ絵具であると推測するのは、おそらくラピスラズリ青のように油性メディウムと混ぜると透明性が増して青味が失われる傾向にあることからの推測ではないか。確かにテンペラメディウムの水分が失なわれると油性の層より薄くなる。電子顕微鏡でもなければその状況は確認できないし、そうであったとしてもそれをテンペラ絵具の層だとは言えない。

いずれにせよ元よりラピスラズリやアズライトのような青色はそれ自体で単独で用いると発色が悪く、少量の鉛白と混ぜて用いるときに、その青味を発揮する絵具である。(これは現代のウルトラマリンやコバルト青でも同様な性格が認められる)また当時は白い地塗りや下塗りを用いてその上に青色の層として用いることでこれらの青色絵具の効果を得ている。バロック時代に流行った赤いボルース地に用いる場合、その個所を一度白くしてから用いた例もある。しかし、また全く油性メディウムと用いられなかった訳ではない。

つづく

 


プリミティヴフラマン絵画(フランドル絵画)再考2 加筆あり

2021-04-12 13:14:41 | 絵画

フランドル絵画について初めて知識を得たのはドイツの技法研究者マックス・ドルナー本の試訳が1970年頃世に出回った時である。この試訳は熊本大学ドイツ文学部教授による試訳によって、5冊のフォトコピー状態で東京造形大学学生であった時に先輩の青木敏郎氏が古典ゼミのメンバーに一冊500円で写すために貸し出したことで、A4コピー一枚が大学の図書館で40円の時代で、それこそ貧乏学生は手書きで写したものである。思い出すと笑える。がめつい青木氏の結局飲み代に消えたのであるから。

その試訳であるが、その後に日本の出版社から翻訳本が出てみて、試訳が優れものであったことが良く分かった。

現在、私の手元にはドルナー本、MAL  MATERIAL 第15版 1980年(HANS GERT MULLERによる改定)ならびに英語版 THE MATERIALS OF THE ARTIST, EUGINE NEUHOUS 訳 1984年、邦訳 絵画技術体系 佐藤一郎訳(第14版)があり、これらを参照しながら解説する。 

当時は黒江光彦氏が訳したグザヴィエ・ド・ラングレの書いた技法案内書が最新な技法について手に入る唯一の文献で、これらの中身を信じるほかなかった。しかしそれらは実技者にとって決して満足のいくものではないことが次第に分かっていく。それでもドルナー本はラングレよりより深く具体的に考察したところが信頼に値したが、実は彼は1870年~1939年に活躍した人で第二次大戦前の人で、ドルナー本は1934年に著作権が設定されているから、それこそナチスが台頭し、ユダヤ人の迫害が始まった頃である。彼に大きな影響を与えたと思える技法材料に関する著作はエルンスト・ベルガーという多言語学者がラテン語、ギリシャ語にまで及んで文献を網羅してドイツ語で出版した大著がある。しかし彼が若かりし頃のドイツでもアカデミックな教育が残っていて、ドルナー本も実技者が最も興味を抱き学びたい内容を明らかにしたいという視点で書かれていた。彼を記念する現在のミュンヘンのドルナー研究所はその継承である。そして後続がいる、ドルナーの弟子クルト・ヴェールテまたその弟子トーマス・ブラハートそしてその弟子が私である。(なに!!少し生意気だって?まあ良いではないか)

私がニュールンベルグのゲルマン民族博物館の修復アトリエで学び始めて、勧められたのはドルナー本よりヴェールテ本であった。それぞれ世代を超えて視点を合理的、科学的にして絵画技法について実技者に明確な指示を与えたのだ。

ブラハート氏の研究室には材料研究室があって、様々な絵画材料の原材料となるものが集められていた。私は一時帰国した際に集めたガンボージ黄や日本漆を寄贈した。

ドルナー本から脱却するには簡単ではなかったが、ベルギー王立文化財研究所がゲントの祭壇画《神秘の仔羊》を修復する際に絵具層の科学分析を行って報告した内容から、ドルナーが考察した描画手順や材料がどうも的外れであったことで、簡単には解決できなかったラピスラズリ青の使い方についての問題を除いて、どうも想定が間違った方向に理解されてきたということだ。

ヴェールテはドルナーのファン・アイクの技法についてはドルナー先生の意見に真っ向から異論は唱えていなかったから、その後も多くの人はドルナーの意見が世の流れに残っていた。

そしてこの国でも誤解があるままであるから、次回から私の意見を入れてフランドル絵画の技法について語りたい。