今度の衆議院選挙の結果には大変残念に思う。
得体のまだ判らない希望の党が出て来て、どうなるのか分からないうちに、野党が惨敗した。今回の安倍解散選挙はもちろんもり・かけ隠しで、安全保障の危機を北朝鮮のせいにして「戦争」が起きるような気分に国民をさせ、情緒を創り出した。踊らされる国民。だいたい戦争がそう簡単に起きるはずもなく、もし北朝鮮が一発ミサイルをアメリカに向けて撃ったら、彼らはお終いだということは、いくら何でもよく知っているだろう。何しろ彼らの目的はアメリカと対等に交渉が出来る立場がデスティネーションなのだから、最初から安倍の扇動なのだ。彼が言うような国難であれば、悠長に解散総選挙は出来るはずもない。だが投票率で言ったら50%程度が与党に投票したことだが、選挙のシステムのせいで70%近い議員数を確保した。自民党の幹部はもり・かけ問題も国民の信任を得たなどとうそぶく者もいた。
安全保障は安心のための様に思う者もいるだろうが、武装すればするほど、相手も同じように武装を行い、危険性は高まるのが常識だろう。やられたらやり返すというのは、子供の喧嘩だ。やられた時にはお終いだと思わないから・・・・自衛隊を憲法に明記する・・なんて
いやなことはこれだけに終わらなかった。民進党の前原が言い出した希望の党への合流問題だ。彼らも野党として、国民の信任を得ていると思い込んでいるようだが、勝手に解党して、政党交付金を持って合流したのだ。そこで希望の党の代表の小池百合子氏はちゃっかりと「誰でも受け入れるわけではありません」と言って、自分の考えと合わない者を「排除する」と言い出して、選挙結果に思いもよらない道筋をつけたのだ。希望の党という名前だけで勝てると思ったのか200名を超える候補者を擁立し、たった50人程度しか当選させられなかった。
都知事選では彼女は独り自民党と戦う戦士のような印象があったが、結局は独善的判断で、国民に良く分からない都民ファーストの会の方針に、議会運営も良く分からない、築地・豊洲問題もほったらかしで国政選挙に動いて、安倍政権を倒すどころか、安倍によく似た傲慢さを感じさせて国民の期待を裏切った。希望の党とは皮肉な存在となった。
その一方で国民の失望の受け皿となったのは立憲民主党と、これまた出来たばかりの党であるが民進党の排除されたリベラル議員によるグループだ。そこで、これまでの民進党の内部の対立のような形が分化されて、分かり易くなったという人もいるが、片方で野党として希望の党が出来たと考えるには、あまりに楽観的に思える。要するに小池百合子氏の「新保守党」が出来たにすぎず、何を期待できようか。
ここからが本文で・・・。
政治は独りでやるものではない。独りでやって世界をとんでもない方向にもって行ったヒトラーのような奴がいた。金正恩やプーチン、シリヤのアサド、トルコのエルドアン、そして多くのアメリカ人が危惧するトランプと、自分が全てを支配したがる者が幅を利かせる時代なのか。とても危険な状態が世界にある。意見の違うものを排除することから始まって、対立する者は殺すことまでやる。
この排除の論理は、この国にも伝統的にある。集団の価値観に従わないものを排除することは、子供時から「いじめ」として形作られる。つまり個人であることが許されない国民性がある。学校では集団行動が義務付けられ、学生服も強制された。ちょっとでも違うことをしようとすると「皆と同じになぜ出来ない?」と言われて、先生から、同じクラスメイトからも攻められる。だから「いじめ」る側は当たり前だと、自分は正しいと思うことになる。社会に出ても個人は決して自由ではなく、会社や組織の中で必ず、集団性を強要されるのだ。ここではみ出すと大人社会でも差別や排除をされる。(現に私も美術館で排除されて、購入作品調査で、作品の科学調査資料貰っても誰も見ずに、結局、美術史系の資料文献しか見ないので、工房作を真作として購入するようになった。視覚的経験を積んだ修復家の目を信じないから。)
アメリカでトランプが大統領に当選し、性差別、民族差別、宗教差別を公然とするようになって、路上でいきなりマイノリティが殴られたり、侮蔑の言葉を投げられたりするようになったという。それまで口には出さず、行動にも出さなかったものが差別をするようになったのだ。「やってはいけないこと」が「やっても良いこと」に変わってしまう主体性がない者がたくさんいたのだ。アメリカの場合は日本のいじめや差別とは形態が違う。個人がベースで、個人の主体性が身に着いていないから起きているのだ。アメリカが個人主義の国だと思うのは止めたが良い。個人主義はヨーロッパの国では定着しているが、アメリカでは9.11事件の時、あちこちの家の庭先や車に星条旗を揚げる者がいきなり増えた。個人主義は他者との相互関係で成立しているが、アメリカでは憲法で銃を持つことが認められ、これを誇りにしている国民であって、自分という個人は武器によって成立させているのだ。
武器は相手を排除するための道具であって、個人が自由や自分の意見、感性を大切にするためのものではない。ここに創造性のあるなしの原点が感じられる。共通認識に達する前に議論さえしなかった小池由百合氏は都民ファーストからも離脱者を出した。先に武器をちらつかせて、意見封じをし、会の運営を暗いものにした。同様に排除を行えば、この国の国民が日常的に感じている危惧が見えたのだ。政治は集団で行うものだ。
同じく集団で行うのに「ものづくり」がある。自動車産業はその典型である。コンセプト、設計、生産現場と多くの者が一人一人の能力を出し合って、形になる。ある者が突出しても仕方のない世界である。もし一匹オオカミで生き残りたければ、何かよほど優れた才能で、ある程度形にしてから訴えなければならないだろう。それを受け入れる土壌にこの国はまだないと思う。
個人で行う「ものづくり」は芸術のような分野であるが、ここにも社会の影響は必ずある。社会のの要求にこたえなければ生計は経たないだろう。社会が目論んで、個人を天才のように扱って資本主義のシステムに引き込んでお金に換えてしまう傾向もない訳ではないが、誰もがこの運命にあるわけではない。しかもこの流れに乗ると個人の才能は個人でなくなる恐れがある。
しかし宗教的社会観があふれていた時代に宗教絵画や宗教音楽で優れた功績を残した作家がたくさんいる。個人の才能と時代の要求が合致していたのだろうと思う。
この国の個人の在り方を認めず、集団の価値観を押し付ける社会では、個人はどうあるべきか。個人であることを感じた者は「はみ出し者」になるだろう。私はこのはみ出し者だ。だから職場でもパワハラを受けた。自分は自分であって自分の人生は自分で決定しなければならない。だからと言って集団からハラスメントを受けるいわれはない。ドイツで4年を過ごし、個人主義の合理的な社会を感じさせられて、考えの違うものは意見を戦わせて、お互いを理解するシステムに共感して、今の自分がある。オピニオンは感情的に言い合うのではなく、考えとしてお互いが持ち寄って議論する。これはこの国では根付いていないし、根付くことはあるまい。個人主義では個人責任はハッキリしている。罪を犯しても個人の責任であって、上司や家族が連座制のように責任を追及されるこの国の習慣はまるで江戸時代だ。しかも権力を持っていれば、個人責任も何もない。福島第一原発の責任はいまだに誰もとらない。
この国で自分が自分でありたい「はみ出し者」は独りで生きる環境を作らなければならない。自営業でも、会社員でもなく、その他に分類される職業でも探してふらふらと生きる。ある者は200万円の原資で株や金融取引で200億円の資産を手に入れて、ベイエリヤのマンションのペントハウス住まいである。(お昼はコンビニで弁当を買って食べていたが、これも自由さを感じさせる)
私にはこのような強者の運はなかったが、ぎりぎり切り詰めれば何とか生きていられる年金で、貯金を食いつぶしながら、自分を追求できる。そうしていつの間にか自分が描く絵が認められようがられまいが、どうでも良くなってきた。これが「はみ出し者」の最適な環境だ。自分そのものが環境になる、つまり心境が大切なのだ。自分の才能のあるなしも「そんなの関係ない!!おぱっぴー」だ。もし私と同じような「はみ出し者」がいたら、元気を出して自分の信念を貫いてほしい。継続は力なり。きっと何かが出来るに違いない。
今、家の中を掃除中だ。二十数年前に別れた元カノがアメリカから来るので、家の中を掃除しなければならない。もう二か月以上掃除しているのだが、猫23匹が汚す。この浜田に引っ越してきて5年たったが、そのままだったので5年分の大掃除だ。このままだとホテルに泊まると言い出しかねない。引っ越しでそのまま放置された荷物は捨てるか洗うか、片づけて仕舞い込むか、最期には間に合わねば、箱に入れて隠してしまうのが良いだろう。昔から直前の試験対策で頑張ったことを思い出す。今年拾った子猫が布団の上で下痢をした。可哀そうに間に合わなかったのだろう。布団はお風呂で洗って、その後洗濯機に入れて・・・・無茶苦茶になった。これで修復家として生きていた証は消え失せた。
その内、家の中が片付いたら作品の写真を撮って掲載することにする。(期待はしない方が良いと思う)