河口公男の絵画:元国立西洋美術館保存修復研究員の絵画への理解はどの様なものだったか?

油彩画の修復家として、専門は北方ルネッサンス絵画、特に初期フランドル絵画を学んできた経験の集大成を試みる

また能登で同じ繰り返しが起きている

2024-01-30 00:02:16 | 絵画

悲しいかな!世界で起きる地震の40%がこの国で起きているというのに、日本中どこでも地震が起きる可能性がある。地震や津波が起きるたびに多くの人が亡くなり、家が壊れて・・・しかも同じ壊れ方をしている・・・のに教訓が生かされてこない。立派な黒い瓦の屋根がそのままの形で下の階を押しつぶして住人が亡くなっている。昭和53年に建築基準法が改正され耐震化が実行され始め、更に神戸の震災の後にもさらに改正されたはずだが・・・。一階でお店を営んでいる家は支えの柱が両脇に置かれて・・・地震動の揺れに耐えない形状をそのまま放置して、今回も家がつぶれている。また下の階に駐車場にしてしまって耐震壁が無くなっている家もたくさんあるだろう。年寄りが多くなったこの国では、年よりは下の階に住みたがるから・・・壁が無くて命の危険にさらされている。神戸で6700人から亡くなった大半がお年寄りだった。公共機関が用意する避難所で同じ繰り返しが起きている。板の間に段ボール板を敷いただけ、仕切りもなくプライバシーに配慮もなく、みんな同じ境遇だから??それで仕方がないのだろうか?

命を大切に思えば、どう生きるべきか知ろうとするのではないかと思うが・・・この国人々は楽観的だ・・・行動が伴わない。調べればあちこちに見つかる地震対策、津波対策が書かれてあるから、ちょっと実行に移せばと思うのだが・・・なにかのバイアス(思い込み)が働いている。

西洋美術館の前庭の彫刻《カレーの市民》に免震装置を付けたが、私が退職すると「《カレーの市民は》地山が大きくて安定しているから免震装置は要らないのではないか」と言った学芸課長になった者が言ったと聞いた。「この彫刻が倒れるほどの地震が来たら美術館も壊れているだろう」と清水建設の技術者が言ったとか・・・・おバカな話が伝わってきて・・・「防災」という理念が根本的に理解されない・・・いや毛嫌いされている、あるいは故意に無視される状態だと言える何かがあるのだ。

そこに科学的根拠はない。論理的思考の展開が欠如しているから、毎度同じ結果が生まれる。理系の者なら業務上、思考に論理的整合性は不可欠であるから、見た目彫刻が安定して見えるから「免震装置は要らないのでは」と論理的思考はあり得ないだろう。文系と理系の性格的方向性は行動にも顕著に表れる。

小学校時代から、誰もが同じ考え方、行動を強制される教育で育っている。教えているのは理系ではなく、教育学部を出た小学校教育法に学んだ先生であって「規律!礼!着席!」で「1+1=2」と教えられる。主体的に自分で考えて行動することは教えない。「自分が何者か」を教えられないのは、先生が「自分自身」の意識がないからであり・・・そうなると自分に気が付かないということになるから、教えられない。

その教育を受けて育っても、自分の主体性が分からない者でも東大は入れるから・・・・役人の世界の様に、そういう者が上司になると組織の機能が失われる。文科省で一時「ゆとり教育」という言葉がもてはやされ「円周率:3.14で計算するところを、3で計算するよう」に通達を出した者がいる。その者が独立行政法人・国立美術館の理事長となったことがあって、全く口先だけでいい加減な男だた。この者は文系だ・・・理系であれば「3.14を3にする」など考えもつかなかっただろう。

あわれな《カレーの市民》は免震装置なしにされなかったようだが、装置の上に載せただけでは全く目的を達成できない。私が1.5mの高さにしたのは石造りの土台の中に入ってメンテナンスが出来るようにしたのだ。装置のメンテ、彫刻の内側の酸化などの確認、装置と土台の骨組みとの固定、彫刻との固定などによって免震機能が満たされるようにしてあったが、低くしたらこのメンテナンスが出来ない。それから彫刻を装置の上に載せただけなら、地震が来た時に滑って装置から落ちる可能性が大である。金属の上にに金属で・・・良くすべるだろう。それ以外に設置場所を変えている。本当に考えないで馬鹿だと思うが、それまで地下の企画館の円状の上に設置するわけで、装置に働くZ方向の縦揺れに対して減衰が見込まれる「地下の展示室の柱の上」に設置してあったのだが・・・どこでも良いと考えたのか、柱のない場所に移した。これらの指示を行ったのは文系の馬淵明子館長だ。コルビジエのスケッチが残っているから・・・これを参考にして・・・・とは?現場の現実、実際問題を考えないで、机の上で資料文献を読んで判断する・・・ことは職業病だ。そんなにコルビジエの美術館だというなら、基本設計に戻って「耐震強度のないピロティの一階に細い柱、温度湿度を維持する空調もなく、照明も僅かな天井光だけで屋内はお化け屋敷だった。南側にデザイン性を高めるためか大きな天井まである紫外線がさんさんと降る窓もみなコルビジエの原作に従ったらどうだ!!今の館員の誰も昔のことは知らないから・・・。東京に来たことがないコルビジエの思い付きに、当時でも美術館建築をよく考えずに作った建築家だ。学芸員もフランス風に影響されて階級主義を取り入れて、分業化が成功しないフランスの美術館そっくりになって気が付かない・・・・いや問題意識や関心がない。

東京直下地震が30年以内起きる可能性は70%になった。必ず東京大地震は来る。私の責任は私が何を目的として実現させていたかを述べるだけ。友よ!!無事で生きていてほしいから・・・。

地震対策の話に戻そう;

今自分の家を建設中だ。アトリエ、絵画教室、修復室などと住まいが一緒になっているが、最初は重量鉄骨ALC(軽量発泡コンクリート貼り)の倉庫のような家を目指していたが、最初に相談した相手が悪かった・・・その彼は軽量鉄骨は担当したことがあると言っていたが、担当できる建築様式が軽量か木造だったから・・・予算の範囲で建坪も決まり、何もかも尺貫法で在来工法的で小さな単位でも、地震災害が起きるたびに建築材料が高騰していること、消費税10%と取られるとつまらん家の方向に来てしまった。材料工法で安価な状態を模索したが・・・あまり極端にすると木造家屋で,今回の能登地震の破壊された家の様になるから、耐震化のポイントだけは押さえることにした。今回は建築士と相談して注文を付けてきたので、屋内の壁の板張りは「構造合板(ちょっと値が張る)でくぎが打てることに加え、木の芯に木工ボンドで貼り付けてから釘止めするよう指示を出した。この木工ボンドは聞いたことがないやり方だったようだ。しかしこれが両面から貼り付けられると、間違いなく耐震壁になるだろう。

余計な事に大阪の万博とか、建築材料が高騰して問題が起きていると。悪い時期に家を建てています。なー!!

ああ、そうそう浜田の我が家は目の前に瀬戸が島、水路があって我が地所は目の前の海に直接している。そして家は海抜3.4mの高さに立っている。東大地震研究所の資料によると、過去に浜田沖地震というのが1867年頃にあって、2500人からの住民が亡くなったと聞いている。多くは家屋の倒壊によると聞いているが、我が家の立っている個所は1.2m沈降し、ここから3kmの岩山を中心として反対側の国分海岸の先は3.6m隆起して、今は天然記念物(?)扱いされ観光地になっている。今の住まいにくる前に西洋美術館の図書として東大刊行の「日本地震地図」を購入させ、調べて置いた。そろそろ繰り返しの大地震が起きても不思議ではない。まず猫のことを考えると、津波が来るだろうから皆を裏山に避難させて、カリカリと缶詰を車に保存して置くべきだろう。自分のために食料と水、寝袋2つ、毛布とまくら(?)、スコップやツルハシ、LEDランプを車に置いてある。とうぜん簡易トイレ(3900円のものを2700円で買った)と猫のトイレの砂も載せてある。地震が来たら直ぐに隣の水産高校の駐車場に移動し、猫たちの安否確認をする・・・と手順は決めた。


子猫 VS カメムシ

2024-01-27 23:28:05 | 絵画

カメムシの話は聞きたくもない!!・・・まあ、だろうね!

去年から緑カメムシの食害(植物の液を吸う)が盛んに問題となって、農家のご仁がビンに一杯のカメムシを集めているのを見て・・・私も毎年ビンに集めていたのを得意に思ったけれど・・・我が家ではプランターの赤唐辛子の茎に5mmに満たない茶色いカメムシが団子になって食いついているのを見て、酢をスプレーしてやったが、一時的にいなくなってもすぐにやってくるのに閉口していたら、プランターのトマトやトウガラシが枯れたころ、家の中に登場し始めた。

以前、トマトに着いたカメムシの話をしただろう。プチトマトが熟して食べごろになったころ、プランターの横を通りざまに一つつまんで口に放り込んだら・・・カメムシが口に入った。この話をしたら皆「ああー、あっちへ行け!!」と言い出す。みんな同じ経験をしているのではなくて、臭い匂いに閉口したことから・・・想像したくないということ・・・私は想像ではなく、口の中で経験したのだから・・・。

この時期、洗濯物は外に干さないこと・・・どうしても干さなければならない場合は一つ一つチェックして取り込むこと。家中の戸を閉めていても、入って来る。就寝直前の枕もとに・・・ぶーーん、ぶーーん、と来ればもう寝られない。殺虫スプレーをもって追い掛け回す・・・・そして殺すまでは寝られない。

で、今日のタイトルは「子猫VSカメムシ」だから・・・私がスプレーを探している間、子猫がぶーーんを追いかけまわしている。「こらあー!!触るんじゃない!!」と言っても、日本語が通じない。臭い匂いがプンプンし始めて、気持ちが悪い。消臭スプレーを探してみるが・・・吐き気がする。私は過去の経験からPTSDを発症する・・・もういけんちゃ!!

先の寒波で、10年に一度の雪が降り積もってカメムシの姿は今日は見ないが、いやまた来るに違いないっちゃ!!

子猫も大人の猫も「動くもの」を追いかけるのは同じ。今現在15匹が・・・。


歴史修正主義の是非(追記しました)

2024-01-13 11:00:57 | 絵画

新年に書くブログとしてはやたらに硬いテーマだが、ネットの記事を読んでいたら自分の境地にも通じる内容であったので引用させてもらう。

現代ビジネス「世界の本音に気づき、そろそろ米国の思想統制から抜け出す時なのでは」川口マーン恵美氏の記事より:

我々の過去の事実を「知ることの難しさ」は現行の事実を正確に把握し理解する能力からして不十分で、不適格な情報を集めてしまう傾向にある事を否定しないことから始まるだろう。

なんとも自分の過去さえも正直に記録した日記でも残さない限り不明となっている。私はベルギーで画学生をやっていた頃に三日おきに母宛に手紙を書いていた・・・・その手紙の束の中から一部を読んでみたら・・・・やたら難しい思考の世界に入り込んでいて・・・絵画制作の在り方を素人の母に理解を求めていた。当人としても「ひぇーーこんなこと、母親に言うなよ!!」と、思うことだった。もしこれを他人が内容を分析して、私の思考回路を解説したら、ほとんど虚構に近い内容になるであろう。

川口マーン恵美氏は東洋史家の宮脇淳子氏の一文を引用して;歴史家が拠る(よる)史料で扱いに注意しなければならない点として、

1)史料は作者や作者が属している社会の好みの物語の筋書きに従って整理されている。

2)史料は作者や作者が属している社会が記録する価値があると思ったことが書かれている。

3)史料はすべて何かの目的があって記録された。

「歴史家が本当に歴史的事実を求めるなら、修正に次ぐ修正を繰り返すことが学問の王道なのです」と書いている(最新刊「ロシアとは何か」より)

氏は科学的なことは修正が利くが、歴史となると修正は悪いこととされている。また宮脇氏の言葉借りて「修正主義が悪だとしたら、善に当たるのは原理主義となる・・・と。

戦後日本人が摺り込まれてきたのは米国が書いた正史だ・・・確かに戦争を終わらせるために原爆は必要であった・・・真珠湾攻撃をいきなり始めたのだから原爆や東京空襲で民間人が殺されても当然だと・・・・言ってはばからない。パレスチナのガザで民間人が殺されようが、テロリストであるハマスをは排除するのに仕方がないとバイデンは停戦に反対する・・・しかしパレスチナに戦後ユダヤ人を送り込んで土地を安く買い、ユダヤ人の国家を作るために最後はパレスチナ人を武力で追い出させたのは米国と英国であるが、これらが彼らには「善」であり、事実関係を明らかにしていくと「修正主義者」とされる。

今の世界の基準は米国の利益のために在り、基準に従わないムスリムの人たちは「悪」とされている。かたやプーチンは「西側の基準」に対抗して、かつてのソビエト連邦を再生しようとしている・・・と米国と全く同じ原理主義者だ。

ここで断りを入れるが、「安倍晋三の修正主義」と一緒にしないでほしい。

歴史を知るためには事実関係を私欲無しに論理的合理主義で再構築する他ない。そのための修正主義であり・・・安倍晋三の様に自身のコンプレックス(優越感と劣等感)を満たそうとしては、反米主義にしかならない。

歴史を「史実」のレベルに上げるのは難しい。川口マーン恵美氏はドイツ在住か・・・ドイツ語で歴史をGeshichteと言うが、同様に物語のことをGeshichteというのは、ドイツ人がれk氏とは何かをよく理解しているから・・・と理解が深い。つまり歴史はほとんど「虚構」であるということだ。

だが本当のことを知りたい・・・・今の自分の成り立ちを知るうえで必要な学問だと思う。

しかし、この国で西洋美術史に関わる人たちのほとんどは美術史を学問だと思っていない。調査研究もしない。だって絵も描けない、作品を見ない、作者が何を意図して、どういう表現を求めたのか知る由もない。彼らが現状を修正できなければ「AI」に頼むしかない。本場の西洋人の研究者が積み重ねたものを基準にしていれば良い。となると西洋美術史の学芸員は不要で、必要なのは「雑芸員」である。今の学芸員は原理主義者そのもので、変化を求めない・・・いや、私が西洋美術館紀要に書いた「美術館業務の分業から専業へ」と言う内容の一文を読んだブリヂストン美術館館長が私のことを「修復原理主義者」と呼んだらしい。美術史系学芸員が何でもできるから、修復家が余計な事を言うな・・・ということらしい。欧米の美術館は美術史、レジストラー、保存修復。保存科学と別れてプロフェショナルな仕事を形造っているのに・・・・原理主義者は自分のことだろうに・・・「修正」とは見直すことの意味だ。

欧米では保存修復と保存科学によって美術史を書き換える作業がされている。技法や制作材料によって、時代、地域 作者が調査されてきた。日本ではこれらの作業は学芸員が興味を持たないから遅々としている。欧米で何が起きているか知らないとは・・・無能ということと不適格ということだろう。西洋美術館は専業から分業に代わったはずだが、後から来た者が分業の目的機能を理解せず、自分たちの方が「偉い」と思っているから救いようがない。欧米で科学的観点から「修正」が行われることを、日本の原理主義者たちはどう思っているのか?

 

 


そろそろ絵を描くことにする

2024-01-02 22:24:26 | 絵画

そろそろ絵を描こうという気が起きる・・・ちょっと変だけど、これは長いスランプだったのだ。

フランドル絵画に拘っていろいろやってみて、完成しない状況にいつも陥る原因がある・・・それは技法へのこだわり・・・いや、私の解釈ではフランドルの伝統の中に「2種類の描き方」がある。ひとつは初期フランドルつまりフラマン絵画と呼ばれるファン・アイクからメムリンクぐらいの短い間には、先に構想があってデッサンが決まっていて途中の変更が利かない技法。もう一つはヒエロニムス・ボッシュのように構想は下描きデッサンが残っているような作品では伝統的な描き方から、次第に巧みに筆痕が残るような素早い描き方(ブラッシュストローク)で、作者の感性の自由さが心地よく感じられる技巧の作風だ。

じつは私としてはボッシュの技巧の方が「身に着けたい技巧」なので、自由に思い付きを描いてみたいと常々思ってきたが、その方向に進んでいなかった。それは先にペン画としてモノクロでイマージ画を描いてしまっているから、ついそれに追随してしまって、自由どころか下描きに正確に描くように拘束されてきたのだ。無駄な時間を過ごしてきたと思う。

つまり元となる構想があると、それに拘り過ぎて、毎日の時間が変化し、気分も一定ではない自分のエゴを拘束してきたのだ。自分には向いていない手段を身に着けようとしたとも言える。

今年は絵画教室も開設しようと思うのに、生徒にどこまで「描き方」を教えるのか・・・自分で選択させる方法を自ら実践しなくてはいけないのに。

迷うのは止めよう。頭が画学生のままで・・・年を取り過ぎた。私自身のことについては、もう迷う時間はない。

年の初めに決めたこと・・・食事は少しでも野菜を食べる・・・家の中や外の掃除をする・・・体を動かすのに、効率よく足踏み、フェンスにぶら下がる・・・すこし見てくれに気を遣う(加齢臭がしているかも)・・・なにか一枚思い付きのイメージを描く・・・。カワグチ!!嘘を付くなよ!!


猫とお正月

2024-01-01 21:00:35 | 絵画

0時を回って、うちの家族に「新年おめでとう!!」と言ったら、あくびをされた。猫のあくびは「何を言っているのか分からんニャー」と言う意味だ。年越しそばを食べ終わったら・・・次は中村先生にもらった「おせちのお重」だ。猫数14匹のうち11匹が私の周りにいる・・・狙いは定か・・・鳥の天ぷらから。

クロちゃんは私の膝の上から降りない。この子猫はカリカリとミルク以外は食べないから、おせちが狙いではなく、皆が騒がしい時には、私の膝の上から皆を観察するのが楽しいようだ。で、この子は最近になって男の子だと判明したが、ちょっとお尻の所をつまんでみるに、どうもはっきりしない。袋は出来あがってきたから男の子だと思うのはちょっと早かったようだ。さわると中身が行くへ不明で、一つは極小さな丸い物があるように思うが、他の同じ年の子と比べてみると、全くないに等しい。

クロちゃんは前にも書いたけど、親が育児放棄して、誰も乳をやらないから私が幼猫用ミルクを買ってきて、最初は2,3時間おきにむりやり飲ませ、その内日中に3回、膝の上で腹一杯に飲ませるようにした。その時から私はこの子の母親で、乳親になった。その気持ちが抜けないのだろう。私を一日中ストーキングする。階段を降りるときが一番怖い。まっ黒で、暗闇で下りようとすると踏んでしまう。何回か尻尾を踏んだら「ミュー!!」とか啼いている。将来、この子は去勢手術も出来ないであろう。この子の食事量は少なく大きくなれない。「がんばれやー」と声をかけると「あくび」をした。

今日昼過ぎに能登半島で大地震が起きた。これまで予兆は数多くあったようだが、今回震度7というから多くの建物が倒壊して、道路もインフラも破壊されているだろう。震度5強で墓石がなぎ倒されるから、どんなに恐ろしい衝撃か想像もつかない。また多くの人が亡くなっただろう。これからが大変だ。

ふと、西洋美術館の庭で身ぐるみはがされたようなロダンの彫刻たちの始末が気になった。低く地面に付かんばかりに下ろされた《カレーの市民》は例え免震装置が付いていても、もし装置に彫刻が固定されていなければ「全く用をなさない」だろう。金属の免震装置の上に彫刻をじかに載せると、わずかな地震力ですべってしまうだろう。そしたら最悪の場合、彫刻はコンクリートの上に落下し、つぶれるだろう。まるで無知で無神経な連中の行いが未来を暗くする。

この国の美術館の学芸員の職務のレベルは欧米の1970年代の初頭のレベル以下。調査研究能力がないから、「自分で考える」ことをしない・・・・小学校からそうだったのだろう。だから東大を出てもだめなのだ。東京直下大地震が起きたら悲しいことだらけになる。