「実家」とは自分が生まれた家。もうそこには誰も住んでいない。父が2年前まで住んでいたが、亡くなって私が相続した。私のようなアナーキーな人間には、物が必要以上にあるというのは苦痛である。建坪70坪を超える母屋、20坪の離(はなれ)と蔵。畑、水田、山林とあるが、法務局で課税台帳となる登記簿と登記地図を見て「おおよそ」を知る。
私はその家で生まれたが4歳の時父が山口の裁判所に転勤となって、引っ越してから、父母に連れられて帰省した時以外に思い出を積み重ねることはなかったが、どういう訳かいろいろと覚えがある。4歳で引っ越す前には、それこそ山奥のへき地とでも言うような場所にあって、今ある国道2号線が家の近くを通るなどの交通の便は無かった。実家は段々畑が積みあがっていく途中にあって、北東に向かって下り開けていて、冬は北東の風で寒い場所だった。稲刈りが終わった田んぼには5センチほどの霜柱が立っていた。4歳児の私は一年間は4歳児保育に行かされて、1kmはあるところにある幼稚園に2歳年上の姉と二人で通った。今時幼児二人を1kmも歩かせる親はいないだろうが、戦後の農家は忙しく働き、子供の面倒は二の次だったであろう。冬は幼稚園では薪ストーブを焚くが、その薪は各自持参であった。4歳の私は身長が80cmあったであろうか・・・いやもっと低かったように思うが、当時の薪の長さ60cmはあるものを持たされて1km歩かされた。勿論姉も持たされて、二人して薪を土びいて(土の上を引きづって)歩いたのを思い出す。よほど嫌だったのと反面面白かったのは3キロ先の駅の方からトラックが来ると、未知の真ん中に並べて、トラックが上を通るのが面白くて、何度も繰り返して、運転手が笑いながら怒るのが楽しかった。
今は子供はそんな遊びはしない。村にこどもの姿を見ないのだ。
誰もいない実家に浜田から車で戻るが、前回鍵を忘れたと思い込んで、家に入るために壊した扉を修理するための材料を忘れて、またおバカをした。それから太陽熱温水器が壊れて湯が出てこないのを修理しなければいけなかったのだが、想定通りの箇所が壊れているのではなく、また今回も風呂なしで数日過ごすことになったが、運よく30cmばかり湯船にお湯がでたので、まあ子供の水浴びみたいにピチャピチャと取り合えず一回は入浴した気分。他にプロパンガスの設備がったが、契約で設置しているので、不在の時に毎月基本料金を2000円から徴収されるのは合理性が無く、契約解除している。そうすると他に食事やお茶でも飲むときに必要だろうと思われるが、これは卓上コンロで十分間に合う。
今回は既に気温が低く夜は摂氏4度ぐらいに下がってしまい、石油ストーブの世話になったから、お湯は十分に沸かせた。
この様に実家に帰って不便をすると、余り帰りたくなくなるが、今回は先月に続いて「柚子もぎ」の日程があって、4泊5日で滞在した。(浜田の猫をどうしたかって?またカリカリはてんこ盛りにしてきた。)隣の家に私と同じ年の幼馴染が居てくれるので、その夫婦がいなければ、ほとんど実家に帰ることはストレスでしかないだろう。
今年の農家は大変だったようだ。気候不順で梅雨の長雨、その後の日照りで生り物は小さく、不ぞろいで商売にならなかったようだ。小作に出している畑で大豆の種を来年の為に植えていた人が「実が付くときに水が足りなかった」と言っていた。
今年の栗は小さかったが、幸い柚子は毎年の大きさだろう。だがもう霜が降り腐り始めるので急いで取れるだけ・・・・ものには限度がある・・・が、質の良い柚子は高い所に固まっていて、梯子で登っても危なくて採れない。しかもとげがあって、延ばす手に突き刺さる。防寒着に作業用革の手袋は必須。とげは剪定ばさみで切り捲り、ロープで体を縛って遠くに手を伸ばす・・・が。
やっと収穫かご一杯とバケツに一杯ほど取った。近所に配るのだから・・・柚子は汁を絞って、百円ショップで買った最小のタッパに詰めて冷凍する。それを鍋物にゆずぽんにして用いる。冷凍すれば香りも変質せずに一年でも持つ。
こうして結構楽しく実家を満喫しているように思われるが・・・・実はまだ山口の方に土地を捜している。生まれた家には思い出があるが、死に場所ではあってはいけないと思っている。
父はこの不便な実家に固執し「この家は自分が守る」とか言って、母親もこの家に縛り付け、最後は姉まで介護に呼びつけて、自己中に朽ち果てた。ああ、これだけは嫌だ。同じ轍は踏まない。
人生でやり残したことがあると思うと、死にきれない。
やり残したこと・・・・それは自分の実感で選択したと言える「自分の芸術世界の完成」・・・それは自分のイメージの世界が映り出された家を建て、そこで自分の感性が生き生きと形に認められること。まあつまり形として視覚的に描写された生活空間で死にたいのだ。