すごろく遊びでは、丁度面白くなってきたところに「振出しに戻る」という場所が作ってあって、このトラップに良くかかるものだが、スランプはこのトラップのようなものだ。私のスランプは、絵を描いていて技法上の困難さに負けてている状態とか、世界観がふらついていて骨なしになっているとかではない。制作途中の作品が何点もあり、やるべきことは山ほどある。在り過ぎて日常生活の忙しさと混乱している状態のように思う。
ああ、むかしイザヤ・ベンダサン(山本七平氏のことと言われているが)の「日本教について」という本に、日本人の思考方法について述べたところがあって、「日本人は古来より特殊な天秤を持ち、片方に問題、もう片方に解決策をのせて思考するという書かれてあった。で、問題が解決策では片付かなくなるとこの天秤をひっくり返すそうだ。現実が大きな問題に直面した時には「命」がかかるような結果も導かれるはずだが、1945年の敗戦時には、それまで「一億総玉砕」と言っていたのが、いつの間にか「一億総懺悔」に変わった身の代わりの速さが「天秤をひっくり返す」行為に当てはまり、自分はしっかり生き残るのはなぜかと言うと、この天秤の支点は人間(日本人)であるからだという。ここに日本教と呼ぶ「日本人にとっての人間のイメージ」がある。つまり我々がよく使う「人間だから」「人間らしく」と言いつつ「人はこうしなければならない」という集団的に強制までされる「(宗教に当たる)教義」があると考えられるからだ。
昔、民主党政権の時代の党首討論で末期の野田首相に対し、安倍晋三が「貴方は人間ではない・・・・」と言っていた。勿論野田氏は人間だが、安倍の「人間のイメージ」つまり「曖昧な日本教」で批判していいたが、つい笑ってしまった。
我々はいつの間にかこの教義に縛られ「道」を塞がれることがあるように思う。つまり自分を優先したいのにできなかったときに、すこしづつスランプの道に落ちているのではないだろうか?
アメリカ人の元カノから誕生日を祝うメールをもらったのに「スランプで何もできない」と書いて「スランプを脱出するにはスタートラインに戻るしかないのだろう」と書いたら、返事は一言「YES」とだけ返ってきた。彼女はカルフォルニア州のサイコセラピスト(日本語で心理療法士というらしい)で、無駄な説明はしなかった。
そういう訳で「振出しに戻る」。ここからが本文です。
人生に上がりがあれば、それは死ぬことだろうが、そう簡単に死ねないから上がらない方が良い。生きて何度も繰り返すスランプも、いつの間にか終わりがある。若い時には終わりには、過去からの変化があって、何らかの「成長」というものがあったが、この年になって、どうも成長らしきものはない・・・・で、終わっていないのか?・・・・ん!!??尊敬する葛飾北斎の様に70歳になって「富岳三十六景」を完成させ、自らの画境の表現世界の高さを示した生き様を見習っていたかったが・・・・。
私にとっての「振出し」は「描写の絵画」をもう一度見直すことだ。やはり美術は「黙って物言わす」表現こそデスティネーションであって、観念的に世界を受け止めるのではなく、実感で目の前にあるものを作り出して「無いものを在るがごときにする」ことしかない。
・・・・と、結局同じ繰り返しを言う。自分に言い聞かせる。言い聞かせなくても分かっていることだが。
私は多作者ではなく、寡作者であるから、作品のイメージが先行して、多く湧きすぎると手が付いていかなくなる。寡作の原因は、一枚一枚納得のいくまで描き、描き加えたいために、新たなイメージが湧いても、次に取り掛かっても良いのかどうか悩む。その時はペン画にしてプロットとして置ければ、ひと段落したとき、あるいは気晴らしが欲しいときにいじれば良いだろう。それらが何もできない状態になると、プッツンと切れる。
一枚の作品に専念している時、状況がほとんど描き込みの状態、つまり仕上げに近い状態であるときは決してスランプは起きない。気持ちは「完成度」を高めるために、気を集中させて食事さえ忘れる。震度4の地震が来ても気が付かなかった・・・・この時が一番「幸せ」なときだ。酒もオピウムもいらなくて、酔いしれている。自己満足の絶頂で、独りよがりな瞬間だ。
私がもし観念アートか何かやっていたら、スランプはどういうものになっただろう?気持ちが悪い!!私の実感は何処にあるだろうか?まあ観念世界に実感などあるわけない・・・・あるとすれば「錯誤」だろう。私がやりたいのは美術であって、ヴィジュアルアートに自分の感性を求めているのであって、コンセプトを表現して楽しい訳がない。
少し元気が出てきた。「錯誤」は求めてするものではなく、「錯覚」は求めるものだ。
自分の「真実」を求めて見出す行為の繰り返しが、スランプによって中絶しただけのことだ。いつも本当に表したいのは何か悩む。作品のタイトルは制作の導入のきっかけに過ぎない。仮のものだ。結果を見て、表現出来たかどうか、いや表現できたものがあるかどうか・・・・悩むのだから。
またこれまでブログに掲載しなかった作品を撮影してみる。これまでどうも照明の明るさが不十分であったように思う。LED照明だがこれで色調も不正確で、暗く映っていた。電気屋で100Wを4つ購入した。一つ4000円で散財である。これで前より良く映らなければどうしよう?
これまで作品の掲載は時系列に行っていないので、作品を見た人は内容のアカデミックさと制作年に戸惑うに違いない。そして結局私は何をしたいのか理解不能になるかもしれないが、最初の「最近作」というところに現在があるので・・・。