河口公男の絵画:元国立西洋美術館保存修復研究員の絵画への理解はどの様なものだったか?

油彩画の修復家として、専門は北方ルネッサンス絵画、特に初期フランドル絵画を学んできた経験の集大成を試みる

そろそろ御終いにしたい(備忘録8)

2023-11-05 09:51:06 | 絵画

個の備忘録を書き始める原因になったのは、私に対する仕打ちが「退職後」にも続いていたと知ったことだ。今年に送ってきたもっとも最近の美術館広報誌の記事の写真を見て「驚愕」した・・・・そういうしかないほどの驚き。

なんとあれほど企画館建設とその後の前庭の彫刻の地震対策で免震化に心血注いできたのに・・・・《カレーの市民》が地べたに引きずり降ろされ、彫刻周辺はコンクリートのたたき状態で放置されている。前庭の南側に位置する、その手前に《考える人》が写真に写っている。私が多額の予算を取って実践してきた行為は何だったのか・・・・実際に美術館を訪ねて現場を見てみないと詳細は分からないが・・・写真はフェイクではあるまい。

免震装置はどうしただろう。1.5mの台座に載っているときは、台座の下にステンレスのプールがあって、侵入した水を受けるようになっており、装置は台座横に点検ハッチがあり、中に入って養生作業が出来るようにしてある。大事なのは装置の固定、装置と彫刻との固定であって、直下型大地震が関東地方に起きる可能性40年70%と言う確率を想定して装置と彫刻との固定は大事であるが、装置を取り外したり、あるいは地べたまで下せば固定が出来なくなるからどうしたのだろう??免震装置などいらないと言い出す連中だから、何も考えず、何もしていないだろう。

《カレーの市民》は頑丈な「かたまり」に見えて彫刻一つ一つが分離している。制作工程上、一体ずつ作って最後の集合させた方法であるので、地震力が働いたら応答加速度は一体ずつそれぞれが別の動きをする。馬淵明子への手紙にも書いておいたが、昔彫刻内部の錆びの進行を確認するための作業するときに持ち上げるのにバールに鉛を着せて、隙間に差し込んで持ち上げた時、下の石が固くて彫刻が滑った。その時持ち上げた2cmの高さから彫刻が石の台の上に落下した。ゴーンという音とともに、彫刻はそれぞれの異なる大きな揺れを生じた。これが応答加速度である。たった2cmと思うなかれ、これが恐ろしい破壊力となる。この時幸い以上は無かったが、直下地震では、中越地震のように1G(1000ガル=地球の引力を打ち消し、戦車でも浮く力。)が生じたら東京はどの様な被害が起きているか分からない。ましてや企画館の屋根に当たる部分のコンクリートの上である。

保存科学担当の高嶋美穂からメールで、企画館の屋根に当たる前庭の防水工事が計画されている話は聞いていたが、「ついでだから同時に《カレーの市民》を免震装置を取り除いて、地べたに置くべきだ」と言う者がいて、「《カレーの市民》には免震装置は必要ないと言う専門家もいる」・・とか。何とレベルの低い話になっていて、まさかと危惧した私は当時の馬淵明子館長宛に手紙を書いた。この手紙は後日ブログに掲載しても良い。

ちなみに彫刻を設置した箇所の企画館との設置点には15年後の防水処理など不要になるように、ステンレス板を溶接した「金属防水」がされているので、その周囲だけ表面のコンクリートだけ除去しアスファルトを再処理すればよいようにしてある。こういうことは担当者に聞けば不要な工事である。しかし「こじつけ論者」にとっては楽しい口実だったのかもしれない。

広報紙の写真からすると、実際にやってしまったことが窺われる。

私には何一つ伝えられずに、私が苦労して前庭の企画館建設に始まり、彫刻の保存対策、庭の景観と鑑賞者への配慮など、さんざん考慮してきたことを「無」にされて、驚き、怒り、失望と・・・繰り返し苦痛を感じる日々が始まった。

私が在館中である時から、さんざん嫌がらせ、誹謗中傷、もはや刑事犯罪行為を繰り返した者達の「総仕上げ」なのか・・・。在職中に刊行した「《地獄の門》免震化工事と彫刻の保存」と題する報告書、国際シンポジュウムを開催した「美術館・博物館における地震対策」の報告書はどんなに嫌がらせをしても、あちこちの美術館・博物館の図書室に残るだろう。

それにしても汚いやり方で、馬淵明子もどう言い訳するのか!!??

前にも書いたがロダンが遺言書に「カレー市にある《地獄の門》は市民の身近なところに設置してほしい」と言い残しているため・・・などを根拠に随分あちこちにある《カレーの市民》が地べた(ほとんど地面や床面に近い状態)に置かれているのが・・・・「同調する」根拠なのか?しかし当のカレー市に展示されている《カレーの市民》は高さ70cmの台座の上に設置されている。

カレー市から注文を受けて制作された当時は3.4mの高さのコリント様式の石の台座に設置されていた。台座の下から女性が見上げる写真をどこかで見たことがある。こうした彫刻は当時は「記念碑」というモニュメントであり、テーマに沿った象徴的な表現がされてきた。ギリシャ彫刻から発展してきた表現は大前提である。だからロダンも高い台座を想定して、見上げられる彫刻表現を行っている。「苦痛を感じさせる人物の下を向く顔、遠くを見る顔、カギを持つ武骨な手、すべて観る者が下から見上げて迫ってくるように作られている」と馬淵明子は感じることもしなかったのか!!彼女はフランス近代美術が専門であったが「館長」になって「権威や権力」が大事になったようだ。私はモニュメントとしてロダンが制作時の表現を行ったとして、それを鑑賞者にみて欲しいから1.5mの高さに石の台座をデザインし、中国の石屋に特注して作らせたものを撤去してしまった。

しかしロダンの遺言にある「カレー市の《カレーの市民》は市民の身近なところに展示してほしい」と述べたことが「低い処」であったのかどうか私は知らないが、「カレー市にある彫刻について述べたことが、まるですべての《カレーの市民》を「カレー市の市民の身近なところ」に展示してほしいと言ったと解釈するこ「こじつけ論法」は論理に反している。

西洋美術館の《カレーの市民》を「カレーの市民が見に来るために{身近}なところに展示することにしたのか」馬淵明子は答えてほしい。彼女も33画の出世頭だが・・・。

免震装置は撤去していないと言うが企画館の屋根の上であるから重量や地震発生時の上下振動による影響を考えて置いたが、まさか位置まで変えていないだろうか?

他に高橋明也がデザインしたホワイトガーデンもみじんもなくなってコンクリートのたたき状態になっている。本当に「考えなし」と言いたいが、西洋美術館が前庭の企画館を作って周辺環境にも配慮して、緑化を行うことは上野公園事務所からの要望でもあった。これを馬淵明子は取り去って、コンクリート地面にして・・・・工事前にはコンクリートの前庭では夏場の陽が照る熱でお客さんは誰も前庭に留まらないから、また冬は寒々しくてコンクリートの上の彫刻など見ない・・・と言われてきた。だから私は夏場は警備担当者に頼んで、散水を定期的にしてもらっていた。私自身水をまいたこともある。だから高橋明也と相談して《カレーの市民》や《考える人》の周辺を植栽で囲ってたり、「快適ではない石の椅子」など配置していたのだ。今後、温暖化による異常気象はもっと激しくなると言われているが・・・。

そればかりではない《考える人》も西側に展示したものを昔の様に南側に戻した。ここまでくると「こじつけ論」は実際を考えずに、資料文献を読む事しか考えない学芸員出身の馬淵明子は《考える人》は南に置かねばならないと・・・どうして考えたのか?よく見たことがなかっただろう。南を背にした《考える人》まっ黒で顔も見えないし。じっくり鑑賞する人を見たことが無かった。それゆえ私は西側に設置し以前より、ほんの僅か高くしたのである・・・あと15cm高くすべきだったが。

恐らくではあるが「ル・コルビジエの前庭のスケッチ」というのが残っているらしく、私も一度このスケッチとされるもの印刷を見たことがあったが、「ほとんど落書き」であり・・・まさかこれを根拠にして《考える人》を南側に戻したのでは??と疑てしまう。このこじつけ思考も恐ろしくプリミティブだ。

正直、何故コルビジエが西洋美術館の前庭の彫刻の展示に関与するのか?ジョークだろう!コルビジエがロダンの彫刻と西洋美術館のためを思って描いたから??こうなるとこじつけ論者のアイデンティティのために利用される。いや何のヴィジョンも持たない無能な人間が頼るのは何かの権威だろう。主体性の無い者が宗教に引き付けられるように。

フランスから戦時中に敵性財産として収奪されていた松方幸次郎個人の財産が「フランス政府から日本政府に寄贈」と言う形で・・・「返却ではなく(国際条約上、敵国であっても個人の財産は奪ってはならない)」日本に帰されることになる条件としてコレクションを保存展示する美術館を作る条件で「寄贈」された・・・ということ。フランス人らしい。《地獄の門》は松方幸次郎によって鋳造する資金が出されて、ロダン美術館の恩人、パトロンであった。しかし日本に「寄贈」するのに第一鋳造であるとずっと嘘を付いてきたが、松方の手紙で第一鋳造はアメリカ人が欲しがっているのでフィラデルフィアに売ってよろしいか尋ねた手紙が残っていたらしく、そのご日本に寄贈したのは第二鋳造であると言い方を変更した。

だが私も調査した。免震化工事の報告書を刊行するのに事実も知らずに人の言うままに信じたら研究者としての端くれにもならない。(どうして学芸課の連中は調べなかったのか?)調べていくとどうもロダン美術館の若い学芸員が西洋美術館の作品は第四鋳造だと公報文書に述べているのを見つけた。考えてもおかしい、まず第一鋳造はフィラデルフィアで第二鋳造はロダン美術館の《地獄の門》のメンテナンスハッチから見学させてもらったときに明白になった。見てすぐわかるほど鋳造型の作りが東京とは違う作りで、どんくさい。東京の《地獄の門》の支持体鉄骨を交換するという口実の見学でロダン美術館の作品を最近処置したというクーベルタン鋳造所を訪ねて「処置報告」があったら見せてくれと頼んだら「部外秘」であったのか見せてもらえなかったが、口頭の質問に答えるというので色々聞いた。フランス語の専門用語もあらかじめ勉強して置いてよかった・・・ははは!!しかしフランス人は頻繁に嘘を付く。これは国民性なのだ。ドイツ人と真逆だ・・・ドイツ人は怒鳴り散らしても本当のことをぶちまけるから・・・好ける!

しかしパリ郊外のクーベルタン鋳造所を訪ねてよかった。彼らの鋳造方法はルディエの方法と全く違っていて、2分割で大きく鋳造する方法で未来的であった。静岡県美が購入したのがこのクーベルタン式だった。西洋美術館の作品はルディエ鋳造所の最後の仕事だが火災ですべてを失い記録もなく廃業していたから残念だ。つぎにオルセ美術館にある《地獄の門》の石膏原型(粘度から石膏に型取りして、これから鋳造用の型を取って鋳造に回す。)があるから、とにかく見て記憶した。またムードンにあるロダン美術館にも《地獄の門》の石膏原型があり比較した。詳しくは「報告書《地獄の門》免震化工事と彫刻の保存の小論文「アトリビューションについて」ISBN4-906536-216-3」を参照。第三鋳造はナチスドイツが注文したが費用が払われているのにすぐに作らなかったが戦後になって鋳造し、現在はチューリッヒの博物館の角に置かれており、普通に見れる。よって東京作品はムードンの原型からの第四鋳造ということだ。日本から来た絵画修復家が嘘を見破ると思わなかっただろう。

 

だからなのか、フランス側の指示で、コルビジエの基本設計(形状、構造や使う材料名を指定する)で西洋美術館を作ることになって、かつてコルビジエの弟子であった(?)東京大学で学んだ前川と板倉の両名の設計事務所で実施設計(具体的な数値や使う材料などが明確にされた)を行った。

基本設計の中身は殆ど似たデザインの美術館がインドに今日なお残っているが、このデザインは東京にも送られてきた基本デザインに近い。見た目ベルリンで起こったバウハウス運動のデザインそっくりで「きゃしゃ」で地震国である日本には受け入れられ、二階を細い柱で支える現代的(?)なピロティ形式で、日本側でかなりの改善の余地があった。私に言わせれば「コルビジエは美術館・博物館を学んでいない」・・・多くの建築家が自分を芸術家だとおみこむときに起きる「慢心」が感じられる。南側に大きな縦型の窓でさんさんと直射日光が入る・・・紫外線が満杯の太陽光線が展示室に。これでは油絵の具も変色しただろう。私が任官してから紫外線70%吸収フィルムを二重に貼っている。当然のこと入る光はコルビジエの望んだ通りではない。一階がピロティ形式で真ん中に館への入り口があった(私が最初に訪問した時にはまだ売札場は南側の文化会館に面したところにあったため、展示室への入り口は直接、現在彫刻が展示されている部屋がそうだった。つまり日本の四季から来る天候の変化に適合できないので戸を開けると暑く湿気た風、冬は冷たい風が吹き込んだであろう。コルビジエが描いたとされる前庭の想定スケッチからロダンの彫刻の扱いを決めたのであるなら、本業の建築デザインから重要であったであろう南向き大窓を紫外線線防止フィルムで暗くしたのは馬淵明子は気に入らないのではないか?剥がしてみたらどうだ!!

要するに建築家が時々犯すミスは現地の環境を無視して、設計していることで、展示室への空調設備もなく、後付けで屋上の屋根周辺に這わせた。要するに空調ではなく、冬は石炭でボイラーを焚いて暖房し、冷房は別に冷却器で冷房した・・・来館者への暖冷房と空調はまた別である。コルビジエは作品保護の観点はなかった。

本館の照明は自然光が基本だったようで、建物の構造が回廊式で真ん中が吹き抜けになり、そこは屋根に北側に三角窓を付けていた。回廊式の展示室には同じように自然光を入れる窓を設けているが、ここは何とフランスから直輸入した「5cmくらいの波のある波ガラス」が使われていた。私が任官したころにまだ保存されていた。こうした昔ながらの状況はすべて開館以来50年以上施設設備係として勤務した小宮氏のお蔭で、美術館の欠点を知ることが出来た。

波ガラス窓からの採光は不十分で暗く、展示品に光が届かなかった。仕方がないから、外光が入っていいるように見せながら蛍光灯を用いて対応した。これも頻繁に交換が必要であった。ださいんだ!!

最も不快に感じたのは建築デザインで回廊式の展示室には下の一階から通しの柱が展示室に突き抜けているために、展示壁は例えばモネ作品は柱と柱の間に2点しか展示できない。そして地震対策として太くなった柱が次を見ようとすると邪魔になる。この繰り返しが展示室で、回廊内側の壁にも小品を展示できないことは無いが、採光の為に低く下したガラスの窓は異様に邪魔である。要するにコルビジエはフランスに居て、一度も東京に来ていいないから現地で何が起きているのか知りもしないし、後続の仕事にも教訓もなかろう。実に無責任だ。こういうものが作った美術館を「重要文化財」に申し込んで運動した青柳正規という33画館長が居た。お祭り男で、文化庁長官にまで登りつめて・・・あの東京オリンピックの決定場面いにも顔御出して「ときお」と発表されると踊っていた。また西洋美術館を世界遺産にまで申請して・・・・単独ではなくコルビジエ作品の一部として、とうとう「世界遺産の一部」になった・・・これは大罪である。

その前に地震対策の耐震壁の補填やレトロフィット方式で建物そのものを免震化したから、これ以上何かあってほしくないが。もう何も改善できなくなった。

とにかく来る者来る者が文系で、長い歴史と先人の苦労した現場のことを知らないで、それぞれ勝手なことをするから、博物館学でいうような機能は全く眼中にないようだ。てめえら!!研究職の学芸員が偉いなら、少なくとも世間が誤解している高い能力とやらを見せて見ろ。西洋美術をやっているなら、専門の外国語もぺらぺらで・・・・なくてどうする!!国際論文も書けよ!!誰一人書けないのだから・・・・。こんな諺がある「出来る人は自分でやる。出来ない人は他人に教える」と、つまり自分には出来ないから、他人にこんな良いことがあるよ・・・と、大学の教授になりたがる・・・。だからまともな後続が育たない。それから現物である美術作品そのものをよく見ることだ。印刷された写真を本で見て感想文を書かないことだ。目利きには絶対なれないが、仕事だからと作品購入を担当すると偽物や工房作を買ってしまう。国民の税金だぞ。

読者には分かるだろう・・・・彼らには現場がないのだ・・・机の上で文献資料を読むのが現場だと思い込んでいる。社会科学だと言うけど、みじんも科学的根拠や論理的合理性のない「展覧会カタログの巻頭論文(自分たちはそう呼ぶ)」は本当はただのエッセイで学術的論理性は欠如、むしろ情緒的な展開。欧米では保存科学や保存修復の科学調査から美術史は大きく変化しているのに気が付かない。在外研修(文科省の留学期間)をもらっても、現地の受け入れ機関と意見交換もしないで図書館で引きこもりでは研究にはならない。

ここまで書いたが面白くない。何にもならない。

終わり

 

 

 

 

 


最新の画像もっと見る

1 Comments

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (Unknown)
2023-11-20 15:21:54
以下是非手紙の内容を書いてほしい。あのシンポジウムに出席した身、地震大国の日本としては作品の安全を無視した信じられないような判断だと思う。河口さんの仕事は素晴らしいと思っています。

企画館の屋根に当たる前庭の防水工事が計画されている話は聞いていたが、「ついでだから同時に《カレーの市民》を免震装置を取り除いて、地べたに置くべきだ」と言う者がいて、「《カレーの市民》には免震装置は必要ないと言う専門家もいる」・・とか。何とレベルの低い話になっていて、まさかと危惧した私は当時の馬淵明子館長宛に手紙を書いた。この手紙は後日ブログに掲載しても良い。
返信する

post a comment