河口公男の絵画:元国立西洋美術館保存修復研究員の絵画への理解はどの様なものだったか?

油彩画の修復家として、専門は北方ルネッサンス絵画、特に初期フランドル絵画を学んできた経験の集大成を試みる

猫の多頭飼い崩壊かな?

2019-09-13 08:34:55 | 絵画


ここのところ、我が家の猫たちは26匹。皆いつも家にいるわけではなくて、半野良状態で我が家を出入りしている状態。行政は「猫は家に閉じ込めて飼え」と言うが、それは人工的な生活環境を強制して「虐待」に当たるだろう。だから我が家では彼らの「自由」を与えている。「来るもの拒まず、去るもの追わず」で、一日中いえの中にいたいものは、家でゴロゴロし、庭で寝ていたいものは、そこいらにいる。もっと遠くに遊びに行って夕方の食事(マグロの缶詰を与える)の時間に帰ってくるもの約12,3匹。いや、帰ってくるというより・・・・我が家がレストランとしてしか認められていないというのが実際に近い。季節が変わり寒くなると家に戻る気ままな猫は日ごろから食事にも必ず帰ってくるわけではなく、不定期で外泊。猫には猫の事情があると思うが、一応彼らのことは心配しているので、ときには「自由」も「公共の福祉に反しない範囲で」・・・・と言っても、あいちゃんはお腹が膨らんで帰宅。今や二児の母。自分もいい年こいて、ついこの間までトラ(♂)のオッパイを吸っていたので・・・・子供たちは生後四か月になっても、乳をチュバチュバやらせている。勿論もう乳は出ないが。今年は子猫が5匹増えている。名前もみな付けた。あいちゃんの子がみりんとしょうゆ、みそちゃんは亡くなった。ともちゃん(この子は本格的な野良だった)の子供はゆらちゃん(他の子が逃げるのに、この子は体をゆらゆらさせながら寝ていたので)、そよちゃん(そよ風の如くと言いたいけど・・・ふわーとして、ゆらちゃんに付いてくるので)そしてもうひとりおくちゃん(この子は直ぐに走って逃げるので、臆病のおくちゃん)と名前が付いた。なるべく二文字が呼びやすくて良いが、すぐに見つからず、味噌醤油味醂となったりする。

実はこの子たちが問題なのだ。この子たちが多頭飼い崩壊の原因なのだ。

このこがみりんちゃん(女の子)                     この子がしょうゆちゃん(男の子、最近玉がふくらんできた)

これまでは、みりんとしょうゆはずいぶん痩せていて、乳離れするまでは、いつでも死ぬかもしれないと思えたが、大人と同じ缶詰やカリカリを食べられるようになって、体つきが子猫らしくなってきた。どうです賢そうに見えるでしょう?フツウ、フツウ!!

悪さは一人前にこなして・・・ティッシュの箱から中身を全部出して、そこいら中に撒く。トイレットペーパーは回転させて爪の痕だらけでボロボロ。

廊下にオシッコ、うんこは毎日。私のスリッパに朝方おしっこをして・・・・私は新しい靴下がビショビショになって。暗い廊下は歩けないのでハンドランプとティッシュは必需品で。 なにせ母親があいちゃんで、彼女は私のベットで何回もおしっこをして、私はふとんをはぎとって庭のフェンスにかけて、水をかけまくって二度洗いした。これは二度あって、ベッドそのものはハイターで匂いを分解させた。ファブリーズは効かないので、男くさい私の臭い消し程度だ。ちゃんと砂のトイレは用意してあるのに、そこより廊下が良いらしい。たまにお風呂や私のトイレの中にすることもあるが、廊下をビショビショにして、その内「座」が抜けるだろう。すでにあちこちで廊下の板がボアンボアンして気味が悪い。臭いはすこぶる悪い。

夜中にトイレに行く回数が増えて・・・トイレの戸を開けてビックリ!!みりんとしょうゆが床の上で抱き合って寝ている。いやー失礼!!・・・・ではないのだ!トイレットペーパーを引き出して、それを布団代わりにして「ふたり」は寝ていた。それを見ながら私はじょじょじょっと!!次にトイレに立った時は戸の前にウン子がしてあった。仕返しだ。

そういうわけで、家の中がどれほど汚れているか想像が着くと思うが、かかりつけの医者で「痰、たん」が切れないのだが相談したのだが、血液検査で生物炎症の傾向がないので、アレルギーかもと言われたが、最も可能性があるのが「猫の毛」アレルギーだそうだ。その内検査するという話だが、怖くて忘れたふりをしている。猫アレルギーと言われても、逃げようがない。家中の織りをきれいに除去するなども、同様に無理。猫たちの食堂である居間は汚れが直ぐ溜まり。床をふき掃除するだけで一日仕事。誰かあそびに来てくれるだろうか?もうこの状況を覚悟している人は来てくれるけど。

新しい家に引っ越したい。掃除が楽なように床はタイル貼で、汚れたら水をかけてたわしでゴシゴシできるようにして、私の寝室には猫除けネット。トイレと風呂は寝室にくっつけて、ホテルの部屋のようにして、猫から解放される時間と場所を確保する。勿論アトリエや書斎には猫は立ち入り禁止だ・・・・という夢。

ともちゃんの子供ゆらちゃん、そよちゃんはやっと家の中で過ごすようになってきたが、ゆらちゃんは缶詰、カリカリが食べれるようになった。そよちゃんは目の前に缶詰めを持っていくと、走って逃げる。だからみりんやしょうゆと比べると痩せていて、骨がごつごつしていてもっと太らせないと、危ない。ゆらちゃんは特別私に付きまとい、私の姿を見るとぴったとくっついて時々踏みそうになる。「何かちょうだい」の意思表示。ともちゃんのもうひとりの子、おくちゃん(臆病のおくちゃん)はママといつも一緒。たまにお腹がすくと缶詰タイムにてくるが、私は目を合わさないようにしている。気遣いバッカ!!

正直言って、疲れてきた。

この夏は雨が少なく、実に暑い日が続いて、庭のイチジクが豊作だ。一日20個以上採らねばならず、のんびりすると、口が開いて中にスズメバチが入る。ハチに刺されたら脚立から転がり落ちるほどの痛みで、病院に駆け込むようになるだろう。先日二階の部屋でムカデに刺された。坐骨神経痛いしびれた足だが、痛いの何の!!飛び上がった。そして「孫の手」を振り回してムカデをたたき殺した。むかし下の階で寝ていて、お腹の上を20cmからのムカデが走って、恐怖を覚えた。玄関の靴の中にいることもあった。毎回履く前に中を調べる・・・。この家はすぐ裏が山だから・・・かならず出る。

我が家の中庭にはイチジクの木が4本ある。その内2本は東京から鉢植えの状態で、引っ越しの時に持参して仮植えのつもりで中庭に植えておいた。しかし最終の落ち着く先の岩国の生家の畑に植えようとして、父に拒否された。「カミキリムシにすぐやられるから持ってくるな」ということだった。そして結局、ふさわしいとは思わないが浜田の家と倉庫の間の小さな中庭から動けなくなって、早7年経った。怖ろしく大きなイチジクが生り始めて、早生(はやなり、6月ごろ一年前の古い枝に実を着ける)は大きいものはソフトボールほどになり、普通の大きさでも野球のボールほどのイチジクになる。この早生はあまり甘くなくてジャムにするには丁度いい。それでも今年は2本の木に集中して60個以上できた。掲載中の写真は「遅なり(今年伸びた新しい枝に実を着ける)」で、しかし市販のものよりかなり大きく甘い。イチジクは食べ飽きて、すぐ痛むのでジャムにするしかない。もう200個は採っただろう。これに2時間くらいとられる。イチジクは熟してくると実が下を向く。これは雨が降ってきたら、中に水が入って、すぐ腐ってしまうので、自己防衛しているのかも・・・うそ!! とにかく口が開くと熟れている証拠だが、腐り始めの印でもある。毎日ジャムを作る「おっさん」のイメージは・・・。しかし結局あちこちにジャムが散らばって、冷蔵庫の中で酸っぱくなってしまう。

イチジクは熟して甘酸っぱいにおいを発散させ、スズメバチを呼んでしまう。ひょいとイチジクに手を出したら頭の上にブーンと何匹もいる。まだ刺されてはいないけど、一度刺されれば、次はアナフィラキシーショックもあり得る。口を開いたイチジクは中に居ることもあって、採るのは諦めている。それでなくても余りあるほどだから。

他にブドウもイチジクの下に出来た。巨峰だが、早く紫になったところは食べたが、ちょっと酸っぱい。鉢植えだし、肥料も春先の最初だけやったきり。ウィキペディアでも読んでおけばよかった。それと半分は摘下して、紙の袋をかけるべきだった。でも、絵を描く者として「見た目」が楽しめて、自然の中で色づく実の変化が楽しかった。まあ食べるのはスーパーで買ってくるとする。

東京に住んでいた時は、庭が無かった。田舎から上京して里山の自然から遠ざかっていた自分は、せいぜい屋上のプランター栽培だった。運よく1Km近く離れていたがミッキーカーチスというジャズミュージシャンが南馬込で趣味で養蜂をやっていて、ミツバチが飛んで来たので、屋上からぶら下がったスイカも、私が人工授粉をしなくても済んだ。固定資産税さえ高くなければ都会も良かったが、今の田舎暮らしもまんざらでもない。

また今朝も廊下に大きなウン子があった。これは子猫ではなくて大人の猫だ。みんな「これでいいのだ!!」と思い始めている。

10月から上がる消費税の対策として、カリカリを大量に買い込んだ。置き場に困ってアトリエに入れた。4袋入り段ボール30箱。つまり120袋。一袋が3kgだから、360kgだ。スタンドピアノくらいの重さか?彼らは毎日2kgのカリカリを食べる。季節の移り変わりで異なるが、平均値が2kgだ。ということは今回のカリカリは180日分で6か月もつ計算だ。他に缶詰も買ったが、既に3個入り缶が199円だったものが269円になっていて、気が付かずに購入して、日頃より価格が上がったのでびっくりしたが、もう遅い。猫には今後毎日食べる量を減らしてね!!・・・・と頼んだが、彼らの食欲を止められない。これまで一日9缶食べさせていた。ということは年間ざっと計算しても3285缶だ。金額にすると21万7905円なり。カリカリは16万6800円だから猫の食事代は38万4705円になる。他にも贅沢なカリカリや缶詰があるから、おおよそ40万円は超える。他に避妊や去勢手術代に医療費を考えると年間50万円を超えている。今、増税前に「便乗値上げ」が横行している。だから老体鞭打って頑張ったのだが、対応が遅かった。私の年金は100万ちょっとだから、猫に半分持っていかれている。

猫たちのの食事に毎日1100円、私が600円くらいかな(時々、フラストレーションが溜まって、贅沢をして刺身やステーキ肉を買って、一度に食べてしまう)。

東京の家を売ったお金で、食いつないでいるから、無くなったら「みんなで死のうね」と言い聞かせているが、結局「てめえら、学校行って日本語勉強して来い」と怒鳴るだけ。

このところ「表現の自由」でくたびれたかなーーー。

いや、他にも実は問題があるのだが・・・・その内話すことにする

 


まだやっている表現の不自由(加筆あり)

2019-09-10 00:44:51 | 絵画

これまで表現の問題について、言いたい放題言ったから、もういいだろうと思ったけど、最近テレビのバラエティにも登場するあのモーリー・ロバートソンまで愛知トリエンナーレの表現の問題について語るので、もう一言私も言っておこうかなと思う。

彼はハーバード出のジャーナリストで日本語も卓越している。彼の今回のものの見方はNHKでさえ触れずにスルーした「芸術表現そのもの」について取り上げているから、ここに紹介し考えてみよう。(本当は今日入手できた美術手帖に国際美術家連盟だの現代アート何々などがこの展覧会が外圧によって中止になったことに対して抗議文を掲載すると聞いたから・・・それを読んでから書くことにしようと思っていたが・・・それらしきものは存在しなかったので)

これまで私も知る限りでは、「表現の不自由展、その後」については「本質的なアート論に踏み込むことなく「表現の自由」「検閲」「反日」といった短絡的な図式に収収斂(しゅうれん)されているのが気にかかります」とまた彼は今回の展示が「政治的な表現内容」が対立を生むことには、公的資金(十数億円だって!!)が使われているかぎり「予め注意すべきであった」と国際常識も述べている。

税金が使われて問題となったアメリカの彫刻家の作品について紹介しているが、マンハッタンの連邦ビルの前に「傾いた弧」という題の高さ3.7m長さ37m厚さ6cmからある傾いた鉄板が弧を描いているオブジェがマンハッタンの忙しく働く人たちが行き来する広場に置かれて「今にも倒れそうだ」「通行の邪魔」といった苦情が殺到したそうだ。裁判までになって8年後に撤去されたと。

実は、私はこの作品を見たが、ニューヨークではなく、スペインのビルバオにあるグーゲンハイム美術館に展示されていた。アルミ板を重ねて作られたうねるように曲がった強大な建築だが、上記の寸法の作品がすっぽり入ってもあまりある空間に驚くほどであったが、コンクリートの床に錆びた巨大な鉄の塊が弧を描いて曲げられて置かれてあるのに感心した。二枚の鉄板だが確かに倒れるかも知れないと思って、倒れそうな側には近づかなかった・・・・確かにビルバオのグーゲンハイムで一番記憶に残ったのはこの「鉄板」である。この作品には「自分たちが如何に巨大建築に囲まれて不自然な生き方をしているか、そのこと自体を疑え」というメッセージが込められているとモーリーは言う。また善悪の判定ではなく、あくまで問いかけである・・・と。「多くの人を不快にさせたが、作家の信念と作品自体の強さがあった」、作品そのものに強さがあるのか、これがアートを評価するうえで重要な視点であると述べている。(グーゲンハイムが買ってくれて良かったね?)

今回の「表現の不自由・その後」展は本当にアート展としての強さ、より深い内省やひらめき、あるいは時代や私情への疑いを提供していたのでしょうか?と述べている。

彼が言う「強さ」とは、私がこれまでブログで述べた芸術作品から得られる「感動」ということであろう。ドイツの社会学者のアーノルド・ハウザーからの受け売りの「現実世界から切り離され自律している世界があると感じるほどの錯覚」があることが、この「強さ」だと言える。要するに表現の「虚構性」がハッキリと感じ認められることだ。ここが最も大事だ。

「表現の不自由・その後」展の実行委員会のメンバーから聞こえてきたのは、「展示前も後もメディア規制を受けて報道が侵害された。---また会場のセキュリティも出来ないーーー言論表現を守ること、安全を確保しながらン欄階を実施するのが愛知県で出来ないのか!!」とメンバーの小倉利丸というひとは批判している。あくまで、自分体は芸術作品をン持しているのだから言わんばかりの不満をぶっつけているが、実行委員会のメンバーには作家はいないと聞いたが、実行委員会は額の公費を浪費しながら、展覧会開催にかかる会計出納の報告も出来ていない状況で、自分たちの責任も果たさず、他者に不満を漏らすとは・・・・。

モーリーの言う「強さ」を理解するどころではない、「自分たちを特別扱いした者たちによる事業の失敗」でしかない今回の「愛知トリエンナーレ」に反省が無くて許されないだろう。「表現は何か?」「芸術とは何か?」曖昧にして「のど元過ぎるのを待つ」国民性を許すまじ!!

アートって何だ?  アートは小学校、中学校の図画工作の延長でしかない。表現なら伝える相手がいて、もっと敬意を払って物を創るべし。

芸術は虚構であるから「個人の主観」の範囲内で何を主題としても許される「思想信条の自由だ」が、客観として比べられる政治や歴史的主題の個人的解釈には必ず反動があると思うべきだ。それは表現であっても、決して「芸術」ではない現実だから。歴史や政治をテーマにすると、それは虚構ではない現実に対する批判であり、全く芸術表現の領域に値しない。

しかし、現代アートを信仰する者たちには理解されないのだろう。なんせ観念アートではコンセプトだけが大事で、「何を主題としても、どんな表現方法を用いても良い」という考え方だから。

また、なんだかんだと「表現の不自由・その後」展の出品作家連中が「展覧会の中止」を批判して「仕切り直し」を県にもう一度申し込むとか言っている。しかしまたやりたいのなら、人の税金で再度甘い汁を吸おうとせず、自分の金で(クラウドファンディングという手も使うらしい?要するに他人の金だ)やって、すこし甘ったれるのを止めたらどうだろう。「言論や表現を守る」とか言っているけど、我々の権利が法律によって守られている範囲は「公共の福祉に反しない限り」というルールで、大概のことは許されている国だ。(安倍を批判すると、そうでもないようだが)それ以上は自分たちで世の中にアッピールしないと、またレベルの高い議論を準備してからにしてほしい。社会問題を提起したいのなら「もっと勉強せえ!!」芸大出た程度の頭で何ができる。研究論文で国際シンポジュウムで問題提起して見ろ。・・・私が言いたいのは、もっと自分の行為に「責任と義務」を果たす合理的なものの考え方が必要だと言いたい。

韓国では疑いもなく「慰安婦像」とされているものを、日本語では「平和の少女像」として展示作品として選び、そのキャプションには英語で《sexual slave》と表記させたのは実行委員会(作家は一人もいなくて、元NHKのプロデューサー、大学教授、ジャーナリストとか多々)だろう。何故そのようなことをしたのか?説明も聞いていないが。抗議の大半はこの「慰安婦像」だと言われている。世の中のルールを守ろうぜ。まさか十数億の税金を食い物にしてはいないだろうね。だいたいあんなもの並べて十数億円かかるかね!!!会計報告もまだか!!

ごめん、また興奮しました。

しかし、元来自分の「個」の実感に乏しい者が多いこの国では、集まって徒党を組みたがるそして安心して、自分が何を考え、何をやろうとしているか考えなくなる。そして流される。一人で「表現の自由」と言うより、集団になれば強いと思っていると、自分を奪われることに気付くべきだ。


いっそのこと、流されるより「変人」「奇人」「はみ出し者」と思われる方を選べ。自分が自分であると感じる「主観」を大切に。