河口公男の絵画:元国立西洋美術館保存修復研究員の絵画への理解はどの様なものだったか?

油彩画の修復家として、専門は北方ルネッサンス絵画、特に初期フランドル絵画を学んできた経験の集大成を試みる

「ついにその時がきた」

2020-09-28 15:07:49 | 絵画

9月26日土曜日の夕刻のご飯に勘助は居なかった。珍しく食欲の塊の勘助君がいないとは・・・。

他の皆にまぐろの缶詰を開けて食べさせている間にも帰って来ない・・・と、ちょと待てよ思って、キャットウォークの上に箱を覗き込んだら、そこに勘助はうずくまっていた。去年あたりから急に痩せ始めて、食欲も落ちてきている毛皮もボロボロになって来ていたから、大きな体調の変化があって、他の猫たちがこの一年間で12匹も死んでいったことが何かの「感染症」で痩せて行き、最後は食欲もなくなってガリガリになって死んでいくのと同じかもと思った。

しかし何もしないで放っておけない「私の一番長い付き合いの息子」を獣医の所に連れて行ったら「18歳ならこんなもんです」と言われて、何もしてもらえず帰宅したことがあった。食欲さえあれば他の子たちが死んでいった同じ症状とは違うので、人間でいえば90歳の長生きに当たるそうで・・・式なものを食べさせてやるしかないなと、自分に言い聞かせた。

勘助がうずくまる箱に水とマグロの缶詰を置いてやったが、何一つ口にしようとしていなかった。もう食べる気力がなくなったということか。顔を床に押し付けている。箱の床には何やら赤い体液があふれ出ている。余り呼びかけずにそっとしておく。

翌朝、日曜日11頃から大声で啼き始める。「とうちゃん怖いよう!!」「痛いよう!!」「ああー、ああー・・・・」と何度も今まで出したことのない大声で啼いている。少し間を開けながら繰り返し啼く。

もうあぶない・・・・私には何もやれることがないから辛い。もうすぐ死ぬのだなと・・・思う。しかし私の知る限り、この勘助のように大声で啼きながら、臨終を迎える猫は居なかった。私は母が死んでも、父が死んでも泣かなったが、今度は違う。涙があふれ息が詰まる。嗚咽を繰り返しながら「家族」の死を迎えようとしている。勘助の悲痛な声が耳から消えない。箱の中を覗き込んでは「勘助、勘助・・・辛いか?痛いか?」と呼び「もうすぐ父ちゃんも行くから、また会おうね」と。午後2時を過ぎて啼き声は小さくなって、横たわった体の呼吸は次第に小さくなった。そして午後4時ごろ、逝った。

何故だ、金曜日には元気に夕食を食べていたのに。血尿が出て、ひょっとして腎臓がんだったのだろうか?

勘助は私が大田区仲池上に住んでいた2002年夏ごろ、馬込幼稚園傍の駐車場に捨てられていたのを、捨て猫の世話をしていたしていた猫お姉さんの申し出で我が家に迎えた保護猫だった。我が家には既に1歳になる初代タマちゃんが居て、複数飼った経験の無い私は彼女の助けを得ながら、家の中で飼う事にした。

その時勘助は生後2か月ぐらいで、同じ兄弟の白黒の子猫とともに捨てられて、しばらく二人でエサを与えていたのだった。勘助は臆病でなかなか人前に出てこなくて、猫お姉さんには少し出てくるけど、私には物陰に隠れて良く姿が分からない子だった。その内勘助が「隻眼(せきがん)片目」であるのが分かったから、当時大河ドラマで風林火山というのをやっていて、武田晴信(後の信玄)と山本勘助と言う名前に決まった。晴信はしばらくして、人懐っこかったので居なくなった。誰かが連れて行ったのだろう。それに対して人嫌い、簡単に出てこない勘助は片目のせいか誰ももらってくれなかったので私の気持ちを動かしたのだ。

我が家に連れ帰って、逃げ場として押し入れを開けておいた。直ぐに逃げ込んで出てこない。猫お姉さんが体をかがめて勘助を読んでいたら、そこにタマちゃんがやって来て、猫お姉さんの頭を三回思いっきり猫パンチしたのを思い出す。しかしこの頃勘助は生後数か月の子猫でしかなかった。タマちゃんは勘助が嫌い・・・「遊んで!!」とじゃれると走って逃げた。

勘助が来るまでタマちゃんは「お姫様」扱いだったから、怒ったんだね。

仲池上に住んでいたころ、家が小ビルだったので、屋上で仲間とバーべキュウをやった。4階の2LDKと屋上しか知らないタマと勘助は大勢来客があれば、行き場がない・・・がタマは人が居ても平気。勘助は誰にも会いたくないから、ベランダの室外機と壁の間に挟まってやり過ごすのがいつものパターン。皆は室外機を上から眺めて、「もう7時間もこんな感じ?」と勘助の背中を撫でてみる。私が「勘助君!いい毛皮着ているね!死んだらくれる?」と言ったら東京新聞の女性に「ちぃ!ちぃ!ちぃ!」と舌打ちされた。それほど彼はいい毛皮を着ていたのだ。

私の定年とともに、この浜田にやって来て、勘助の生活は変わった。2LDKと屋上しかない世界ではなく、地べたがあって、山に海があり、庭で遊べる場所を得た。しかし彼はこちらに来てからの7年間、私の声が聞こえなくなるほど遠くに行かなかった。周りに絶えず20匹以上の猫がいても、喧嘩もしない、いじめもしないおじさんだった。

月曜日の朝いちばんで埋葬した。さようなら勘助君、また会おうね。

それから何日も経っても、窓を開けて勘助の埋まっている場所が見えると、つい呼んでしまう「勘助!!元気か!!」

 


ウィキペディアのスペイン風邪の稿を読むと

2020-09-26 03:34:21 | 絵画

とうとうこの人口4万足らずの小さな町も2名のコロナ感染者がでた。千葉へ行って来たそうな。まあ予想通り、Gotoトラベルで地方への感染拡大が見込まれると言われていたようになった。

確かにアメリカ、インド、イタリアとか感染者、死者の多い国と比べると、この国はどちらも人口比率は小さく、なにやら対策が成功しているように思えるが、3月4月の一つ目のピークを第一波として、7月8月のピークを第二波としているがそれで正解だろうか?

1918年から21年頃まで世界的なパンデミックを引き起こしたスペイン風邪というのがあったようで、その時の状況を詳しくウィキペディアが解説しているので、そこを読むと良い。当時は第一次世界大戦のさなかで、戦争で忙しかったことと、軍事機密となりえた感染状況と死者の数は不確かな情報しか残っていないが、死者は1500万人~5000万人といわれ、戦争の死者も重複していると言われるので良く分からないが、ヨーロッパ戦線にアメリカの軍隊まで投入されているので感染経路も戦場を駆け抜けているだろう。

この時も1917年11月に中国でインフルエンザが流行し始めていて、このスペイン風邪の発生源は中国だとされたりした。アメリカやイギリスの軍隊から流行したとも言われていたが、このインフルエンザが4年近くも世界中を駆け巡ったことは、第一波が何時で、第二波が何時だと言えるのは。完全に流行が終息してからのことだと思うべきだろう。日本にもやって来たスペイン風邪は第三波で1920年頃に上陸したらしい。この時の死者は大変な数で、時代の衛生管理対策のレベルが流行の肝であった。着物を着た若い女性がマスクをしている写真を見たであろう。イギリスでも当時は兵隊も厳しくマスク姿であったし、街頭のチンチン電車もマスクをしていない客は乗車拒否されたと・・・。現代とちっとも変わらない状況だが、トランプのようなアメリア国民の半数の支持者を誤った方向に導く者がいると、百年前の混乱期と変わらず、感染拡大が防止できることも出来なくなったと言えるだろう。

大事なのは当時よりより科学的で客観的な調査や数値に基づき判断できるようになっているのに、科学が全く分からない指導者がいる国があるという問題は100年という経年に解消できない個人の資質の問題だろう。

1997年に当時アラスカで感染死した人の遺体を遺伝子解析をして「鳥インフルエンザ」であったことが判明した。これでまた生きた動物を売買し、さばいて食べる国が発生源とされるのは同じ歴史だと言えるだろう。

で、話をコロナに戻すと、まだ東京オリンピックをするつもりらしいが、この国だけが状況が良くても、オリンピックは世界各国からの参加がなければ、小さな世界陸上大会でしかなくなるだろう。どれほど国民の税金をつぎ込んだのか、少し反省した方が良い。ついでに480億円の誰もしない安倍のマスクも。第二波は来年あたりでは?

また一部の政治家のお粗末なプライドで無理やり開催すると、それが第二波を産むだろう。コロナが完全消滅することはないと言われているのは、スペイン風邪が鳥インフルエンザで、その後も再発を繰り返しているから・・・。

我が家の感染症で2月ごろ亡くなったみりんちゃん。そこいら中にウン子するお兄ちゃんのしょうゆと比べても行儀が良くて優しい良い子だったのに可哀そうなことをした。みりんちゃんの後にも感染症と思える猫たちが虹の橋を渡って行った。何か私に責任があるに違いない。獣医さんに聞いても良く分からなかったが、他の飼い主でも7匹亡くなったというのも知って、町中に流行ったのだと思う。多くの感染症ではやはり衛生管理が大事だと言えるだろう。それは私の責任だ。

とりあえず、大人の猫が痩せていくことはなくなって、最近死んだのは母親から乳を十分にもらえなかった子猫二匹が死んだだけだ。それでももう我が家の庭には埋めるところが亡くなって・・・ちょいと間違って掘ると・・・骸骨が出る始末。「ごめんごめん、邪魔したね」と埋め戻す。いつかは骨も土に返るけど、皆早く死に過ぎるのだ。


最近作の展示2018年4月投稿以来の作品の加筆

2020-09-22 00:23:23 | 絵画

やたら長い題名だったが、もう2年以上前に手を休めて放置した作品を今頃加筆し始めたのには訳がある。実は訴訟を始めて、裁判所に提出する書類に悩まされて創作意欲が失われていたのだが、裁判も終わって判決となり、一応当方の主張が通り、相手の判決内容の履行を待っている状態になって、すこし気持ちに余裕が出て、いや焦りが出て、この3年間の人生の無駄に怒りながら・・・再び描き始めたのだ。被告からは判決後に何の連絡もなく、判決内容の履行の工程表を提出するように求めたが、訴訟の始まりと同じ「無視」を決め込んでいる・・・罰当たりが!!と思うが・・・。

まあ、それより論理的な人生に対する対応としては「感情的にならず」、理性的にふるまって、自分を大切にしたいと思う。

そこで、描きくさしの作品を完成するのが一歩。題名は「森の死」で、以前「最近作の展示」で投稿した制作途中の作品に更なる「下塗り」をくわえている状態だ。この下塗りが一応終わったところで、写真をアップロードしたい。それなりに納得できるプロセスであれば見る人も比較が出来るだろう。

そこでちょっと問題が、目が最近疲れやすく、夜遅くには焦点が定まらず絵が描けない。スマホの見過ぎとかあるけど・・・いけんね。

つまらない事言うけど、去年の方が気が楽で良かったね。下の写真は去年の中庭のイチジクと巨峰だけど、巨峰はある日全て盗まれた。そろそろ食べようとしたら・・・動物ではない・・・いや頭の毛が黒い大きな動物だ。一つ一つ粒をむしって持って行った。丁寧な仕事だ。手の届くところにあると危ないね。このブドウの木は今年は何もつけずに枯れてしまった。新しく苗を買って植えたけど、実をつけるのに3,4年またかかる。この町はコソ泥が多いのだそうだ。イチジクは去年は豊作で、食べまくってジャムにした。亡き母が言っていた「トースト一枚に4個分を載せて食べるのだよ」と。

しかし今年は何もかも全てが悪い。不作の年だ。5月から6月にかけてなるテニスボールぐらいの大きさが当たり前の「早生(はやなり)イチジク」は今年は数が少なく、しかも熟れてくる前にカラスに見な食べられてしまった。連中もコロナで食べるものが減ったのだろうか。トマトも高い苗を買って、連作防止の処置をして、肥やしも工夫して始めたら、すぐに枯れてしまった。コロナで内にこもった喜びを味わおうとしたら、これだ。プロのお百姓さんも今年は不作の年で、天候不順の被害が大きかったようだ。何処のテレビ局か忘れたが、「水耕栽培」が流行っているそうな。マネするかな。

 

下の写真は左側が3年位前に制作が止まっていたもの。右が今回加筆を始めたもの。少し骸骨のあるあたりがコントラストを得ているのが分かるでしょう。この様な「イメージ画で完成状態が見えていなくて、最初からその完成に従った下塗りを施しているわけではなくて、行き当たりばったりを楽しんでいる状態。

まだ白いところが残っているから、下塗りを終わっていないと分かるだろう。一度終わって二度目の「確認のための下塗り」が始まれば、完成のイメージが私にも定まってくる。

一点に時間がかかり過ぎると、未完成で放置しかねないので、ここいらで気を引き締めることにする。

WIFIを光ケーブルにしたのだが・・・調子が悪くて・・・メールもまとも打てない時があって、このブログも毎週描くことが出来なくなった。少し言い訳。


嵐は去ったか!

2020-09-07 22:22:00 | 絵画

台風10号はどうやら韓国、北朝鮮に向かって行って、熱帯低気圧に変わったようだ。浜田は丁度、暴風域と強風域の境目辺りで表示されていたので、気象庁が言うように風速50m/sとか60m/sとかだとえらい目にあうだろうと思って、プランターのトマトに囲いをしたり、そこいらじゅうの飛んでしまいそうな物をひもやロープで縛って、いつにない対策をした。イチジクの実が少しでも熟れたものから風で落ちるので、これも懸命に収穫して「イチジクの赤ワイン煮」を作った。このクソ忙しいのに・・・。

いよいよ月曜日の朝7時、8時ごろに大風が吹いてきて・・・・と思ったら、何時まで経っても生ぬるい風が吹いていて、ちっとも想定被害は起きなかった。被害と言えば寝ないで庭の子猫たちの様子を見に行ったため、良く寝ていないことだろうが。当の子猫たちは私が頻繁に懐中電灯で照らしてのぞき込んでいたので、寝ていても飛び起きて隠れるなど・・・もう寝れないと思ったか・・・大騒ぎを始めて子猫レスリングをする始末。「お前たち!!早く寝ろ、台風が来るぞ!!」なんてね、昔から父親が「テレビなんか見ていないで、早く寝ろ!!」と言っていたのを思い出す。彼は私が「還暦」になっても、言い続けたのだから・・・嫌な親だろうと思うが、子猫たちは日本語が分からなくて幸せだろう。ただ子猫たちがあまりにも能天気で楽しそうだったので、気疲れした。

朝方5時過ぎには明るくなって、家の前の海が気象庁の予報では波の高さ5mと言っていたが、なんのことはない1m程度だ。海面に小さなさざ波が立つ程度だ。気象庁の波予報担当は日本海の沿岸では「南の風」では結構強い風(風速15m/s程度)でも波は高くならないのを知らないのだ(この辺りでは漁をするため常識)。ついでに雨が僅かしか降らなかったため、外でぼんやりしていると蚊に食われる。8月は殆ど雨が降らなかったので虫が多く生き残った。

しかし午後には南の風が強くなり始めて、裏山の木がうなり始めて、ちょっとうるさい。台風が過ぎてからの方が風は強くなって、時に体を持って行かれる。

一体、台風9号との違いは何だったのか?9号は大風が一晩中吹いて山の木が唸りをあげて、窓を閉めていてもうるさくて寝られなかった。9号と10号は殆ど同じ進路を描いて北上し、朝鮮半島に上陸したが、10号は一気に勢力を弱めて熱帯低気圧化したのはどうしてか不思議がられたが、何が違うかと言えば、9号はこれまでで最も高い波を家の前の岩や波止にぶっつけて、丁度満月の大潮の時期に当たって高潮が同調して、前の住人が10年に一度の波と言った6mの大波が来たのだ。しかもうねりがあって、大きい時には我が家の石垣にもしぶきが来る。しかし雨は降らなかった。何がこの大きな違いを産んだのかというと、風邪の吹いてくる方向の違いだ。北東から吹いた風は大波をもたらす。

9号が開けた翌日には釣り客が押し寄せて、ヒラマサをゲットしている。ぬるま湯のような海水が混ぜ繰り返されて、水温が下がって食欲が失せた魚たちが動き始めたのだ。しかし雨が降って海面が上に水潮、下に海水となったほうが餌盗りの小魚が上に来なくて良いのだが(川から流れ込む汚れた淡水は比重が軽いので上に来る)海の水は未だに透き通って、釣りには今一だ。イカは何処へ行ってしまっただろう?

それより5匹の子猫のうち、最も独り行動が目立つ茶トラの子が調子悪そう。独りで私の足元に来たりすることもある、気になる子だが、一番痩せていて母親の乳を最ももらえなかった子だ。母乳に免疫力を与える栄養があるのは哺乳類では当たり前だが、もうすでに乳児の時から競争に負けて淘汰されてしまう。人間ではあり得なことが猫たちには厳しい。猫ミルクを買ってきて注射器で飲ませるが、嫌がる。もう無理やりやるしかない。ほっとけば三日と持たないだろうから。

こんな調子で、今絵を描いていません。時々、自分の描写の世界を想いだして、プロットのイメージだけでも固定しておかねば次がない。しかし生きるか死ぬかの子猫のことを考えてしまう。私の絵のテーマは「生と死」だった。でもそれは「虚構」であって、現実が私を叩きのめす。また墓掘りはいやだ。