河口公男の絵画:元国立西洋美術館保存修復研究員の絵画への理解はどの様なものだったか?

油彩画の修復家として、専門は北方ルネッサンス絵画、特に初期フランドル絵画を学んできた経験の集大成を試みる

閑話休題

2017-01-30 23:56:13 | 絵画

・・て、「さて」とか「ところで、話変わって」という意味らしいが、自分はあんまり習慣がない表現だが、ちょいと書いてみよう。

取る詰めとかすると・・・私は結局60代半ばにして独身、女性と人生を分かち合うだけの甲斐性がなかったと、人にも言われて・・・その通りだと思う。そこで家には猫を飼うことにした。15年前の話。最初はもちろん一匹で始まるのだが、館長秘書が紹介してあげると言うから、アメリカンショートヘアの赤ん坊が生まれた家から、女の子をもらった。頼んだ条件は「一番人懐っこい子」だった。美術館の自分の研究室に段ボールに砂を入れ、カリカリも買っておいて、連れてきてもらった。思い出すとその時の「珠(たま)ちゃん」は可愛かった。私の膝の上で寝てしまって、PCに向かっていてもずっと立てなかった。終業時間になって箱に入れて帰宅した。しかしあれだけ食べたり飲んだりしたはずだが、砂のトイレには何もなかった・・・。そう半年以上たって、年の暮れの大掃除の時に可愛い雲子を机の下で見つけた。アクリルのボックスに入れて取って置こうかと思ったが、やめた。

その珠はもういない。13年目に家出してしまった。今日は猫の話だ。

家出の原因は私にある。家から駅までの馬込幼稚園のそばの駐車場に捨てられていた猫にエサを与えている女性が居て、知り合いになって、ある日、子猫が二匹捨てられていて、人懐っこい白黒とすぐ逃げる白の入ったキジトラの子だが、キジトラの方が片目がない。白黒を「晴信(武田)」キジトラを「勘助(山本)」しばらくエサをやったが、晴信はすぐいなくなった。貰われたと思う。目の無い勘助は誰からももらわれない。一緒にエサを与えていた女性が家に引き取れないか、私に尋ねた・・・うむ・・まあいいか・・・。ということで勘助が家にやってきたとき、押し入れに隠れた勘助にエサをやろうとしている彼女の頭を、珠ちゃんがやってきて、三回!、「猫パンチ」したのだ。珠は自分ひとりでいたかったのだ。

 

それから、東京から引っ越す時には野良猫をひらって来ては増やし、あるいは自分の家のパーキングで野良猫にエサをやっていた猫と、皆を引き連れて、島根県浜田市に引っ越してきたのだ、その時13匹。毎年4,5匹不妊手術、と去勢手術代を払って・・・。今は21匹いる。

ここまで書くのに随分かかった・・・。

この町は、港に猫を捨てる人が多いのだ。中には海に投げ込んだり、カニかごに入れて海中に沈めたりする人もいるのだ。これが東京なら即警察沙汰だろうが、中には愛護動物保護法を知らない警察官もいる。去年の花火大会の後、港で顔の汚い黒い子猫をひらった。どさくさに紛れて6号ふ頭に子猫を捨てたのだ。すぐ医者に連れて行って注射をしてもらって「花」という名前にした。以前文化の日に勝手に上がり込んできた雌猫に「文子(ぶんこ)」という名前にした。21匹だろうが、くる猫拒まず、去る猫追わず、たまにはひらう神になるだ。しかしうちに来たら、皆、名前をもらい、不妊手術と去勢は当たり前だから、金がかかる。エサ代は一日千円、私のご飯代は一日7百円。彼らの医療費は年間30万円は最低かかる。私は国民健康保険と治療代でせいぜい7万円だから・・・・。まあ、独身だから、比較するのもおかしいか?野良猫が買って上がってご飯を食べていくとか、居ついてしまうとかもいて、21匹。一番多い時には30匹ぐらいいたが、その時大人2匹死亡、子猫7匹死亡であっという間に減った。

市が公報で「野良猫にエサをやらないでください」と言っている理由に「エサを与えると爆発的に増えます」というが、これは根も葉もない役人的行政の言い方で、根拠が無くてもよいと市民に押し付け、市民を管理するのが自分たちの仕事と思っている「田舎役人」が多いからこういうことで、私とケンカになる。エサを与え、住む場所を与えても、猫は死ぬ。特に子猫は親の育児放棄、早産、死産。ほかのオスがきて食い殺す場合も。私はすでに十数匹の猫を庭に埋葬した。

猫が死を感じたら、その行動は殆ど「自殺」なのだ。突然食べ物の嗜好が変わり、あまり食べなくなり、おいしい物だけ受け入れる。これが危ない兆候だ。そして突然消える。死ぬところを見せない。もし家に閉じ込めていれば、2~3日食べなくなって餓死する。医者に連れて行って点滴しても無駄だ。

次第に私の死生観も変化してきた。猫は個人主義で、個性的、自由気まま、ルールはあるけれど妥協はしない。我が家が嫌なら、たとえ食べ物や寝る場所に拘らず出ていく。自分の嗜好、本能とかテリトリーとかを大事にする子もいて、「珠」も一か月帰ってこない時もあった。死に方が良い。誰も死ぬときは独りだ。個人責任だ。人のせいにしたりしない。私も独りだ。餓死でもいい。自殺はしないが、猫的な餓死ならあり得るだろう。静かに死を迎えることは贅沢かもしれない。

ずっと独身で絵を描いてきて、Boschの作品が最も自分に優しく、最期まで影響を受けながら過ごしたいと思うのは、猫が近くにいるせいだと思うようになった。しかし猫を描いたことはないけど。

誰しも絵を描き続けるにはテーマが無くてはならない。昔の画家には聖書やギリシャ神話の物語があったけど、現代の我々には個人の自由が最初からあるために、テーマを見つけられない人が多い。自分の外に求める人は流行りに逆らわず「観念アート」。うちに求める人は迷宮に入り込むしかないだろうが、自分に素直になるのが一番でしょう。

私は差し当たって「こういうところに生きていたい、あるいは死んだらこういうところに居たい」という気持ちの表れがテーマかな。

貴方は猫に好かれますか?


修復か、修理か、復元か?オリジナリティはどこに??!!

2017-01-23 20:52:05 | 絵画

またもTVでの話だ。NHKの番組、プロフェッショナル仕事の流儀・・・から。

平成の絵師、清水寺の彩色木彫「獅子」の失われた色彩を復元するというもの。私は丁度、途中からしか見ていいないが・・・・見事に剥落した彫刻の彩色部分をほじくって絵具層を見つけようとしているところから見た。

原物は確かに剥落が激しく、現状がどうであったか、見る影もないほどに剥落しているが、部分的には絵具の断片があり、そこから原作がどのような色使いであったのか、発見している。つまり通常彫刻に見られる彩色法でなく、狩野派の絵画に登場する「獅子」の表現に用いられた彩色の作法であることが分かったという展開である。高野山にも同じ狩野派の担当した障壁画と仏像の蓮台を飾る獅子の彫刻があり、狩野派の彫刻の彩色が認められたというくくりで、その彩色法で下絵を作成して「復元」するという。

「復元」と聞いて、少しびっくりしたが、当時どのようであったか再現する方向だが、「〇〇が感じた400年前の心」とナレーションが入る。紙の上に彩色の見本を試しに作成して、京都市文化財保護課の担当者に見せて打ち合わせをしている。そして番組は終わりに近づいて、「3月には完成する」という・・・・やはり最も恐れた方向に結末が・・・なんと原作の剥落した残りの絵具をはぎ取って、上に新たに彩色しているではないか!!

「復元」と言えば、彫刻の木の部分から新しく作り直して、今回確認した彩色法を用いて、過去にどうであったか、「参考」として表示することだ。しかしこれは修復でもなければ「復元」でもない。原作の彫刻の僅かに残った絵具層を剥ぎ取って、新しく地塗りに、彩色を施している・・・これは「修理」と言わざるを得ない。文化財の鍋なら、保存が目的で、いかに永続的に保存管理できるかの議論の上、処置が施され、決して二度と煮炊きに用いられることはない。はずだ!!

この国では、しばしば議論が出来ない国民性と伝統に出くわす

これが欧米であれば、例え剥落が多くてそのほとんどが失われて、現物の元の姿が想定出来ない状態であっても、わずかな残りを全てはぎ取って、新しい地塗りと彩色を施すことは「修理」であって、決して「修復」とは言わない。もしこれを文化財に適用する者が居たら、ドイツではブラックリストに載って、公的な仕事から排除される。ドイツでも70年代までキルヒェン・マーラー(教会修理師)というのが3000人からいて、各州の文化財局は対応に苦慮していた。仕事がいい加減で乱暴、まさにもう一度ピカピカにすることを目的とした。彼らは壁画も漆喰から塗り直して、新しく神様を描きなおしてきたのだ。ロマネスクの小さな祠(ほこら)から、その片鱗は見つかる。彼らの仕事は千年以上の歴史があり、プライドも高かった。教会における修復では、様々な技術が総合的に必要であり、伝統技術も彼らが伝承してきたと言えないわけでもないし、クオリティを保つために、その後、学校を作って資格取得者のみ重要な文化財を触らせることにした経緯がある。ドイツ人の合理的な考えがなければ、彼らの伝統技術も新しいマイスター制度も成り立たなかったはずだ。

さて、もし彩色木彫の長い歴史のあるドイツで、この「獅子」が処置されたらどうなったかというと、①原作の上の加筆の除去 ②残ったオリジナルの絵具層を、例え断片であっても、保存する処置を行う ③原作を保護施設に収め、コピーを作って、元の場所に収め、断りを入れる

文化財を保護し未来に残すということは、こういうことではないか? 原作の上に施す新しい彩色は「補彩」と言わずに「加筆、上描き、オーバーペイント」と呼んで、「やってはいけないこと」なのだ。修復はむしろこれらを除去することなのだ。

その「様々な調査検討の結果、狩野派の絵師が彫刻に彩色し・・・云々」は重要な所見であっても、新たに施す彩色は「個人の判断」であって客観的絶対性はない。つまり絵画で欠損部に私が補彩するときは「必ず可逆的状態」を仕込んでおくことになる。つまりに必要とあれば、直ちに除去できることが約束なのだ。どんなに優れた補彩を施しても、ある日は取られるものだ。

文化財保護の認識のズレは、かつてのドイツがキルヒェン・マーラーで苦労した議論をしなければ乗り越えることはできない。ここには厳しい軋轢が生まれるし、感情的になるだろう。日本ならではの問題だ。しかし新たに塗り替えたら、世界遺産の規約にも合致しなくなるのではないか? 厳しい基準を新しく設けることをせず、ある時、気が付いたら、皆新しく塗り替えられていることにならないか?

この国の文化財の多くは、仏教、神道の礼拝の対象であったり、歴史的建造物と指定されていたりする。礼拝の対象は、そこになければならないという問題で、東大寺の仁王さんも、そこから動くことが出来ない。私は忠実なコピーを置くべきと思うが、その方が仏師の腕も磨かれるだろうし、伝統も維持されると思うのだが。礼拝に直接関係しないものは、幸いにして博物館や寺社の敷地内に建てられた宝物館で保存されている。温湿度の整った環境を与えられているのを見て私はいつもほっとする。去年は高野山で快慶と湛慶の彫刻を見ることが出来た。

曖昧な国、にっぽん!!

以前、このNHKのプロフェッショナルで洋画の修復家が紹介された。世界的に活躍されているとか・・・・で、この分野の仲間同士では皆素性は知れているから、こうした大きなでまかせ話はしない方が良い。世界的に活躍するとしたどんなこと?国際学会で論文発表をした?あるいは世界のあらゆる保存修復機関を渡り歩いて活躍しているとか?正確に述べた方が良い。これはこの番組を作る方に問題があるのではないか?内容がないものを在るがごときに見せる?なんてね。

 

 


制作案内 その4(追記あり)

2017-01-11 05:59:08 | 絵画

描画

描き始める前に、下描きデッサンがしっかり固定されているか否か、確認する。画面を汚さないために。何をどう描くかの準備は出来ているだろうか?下描きデッサンを「当たり付け」と呼ぶのは、そのあとは自由な制作が許されるように、本番と区別したためだ。自由に描ける実力も必要だ。

絵具

今日の油彩画ではチューブ入りの絵具が当たり前で、19世紀以前の画家たちのように、石板(多くは硬い斑岩が用いられた)の上で顔料を油と練り合わせることはもうしないであろう。昔の貧乏絵描きは自分で絵具をこねて、裕福な売れっ子画家は弟子に絵具をこねさせた。暇さえあれば水で練り合わせて、顔料をおよそ4ミクロンまで磨り潰したと言われている。そうでもなければファン・アイク兄弟の絵画は無かったと思う。現代の絵具はロラーで磨り潰しながら油と捏ねて作られる。20ミクロン程度が大きさの限度だそうだ。ロラーどうしの間隔を狭めることが出来れば、4ミクロンまで可能であろうが、手間がかかり過ぎて、価格に反映されないのであろう。しかし顔料の細かさより、自分の描写の実力の方が問題だ。

先人たちが、どれほど絵具を作るのに苦労したか、想像できない困難があったに違いない。しかし伝統の中で彼らは、今の我々よりよほど優れた知識の集大成を持っていたに違いない。今時個人で独り頑張っても知識の集積は限度がある。誰かに教えてもらえる状況はすでに失われている。サルバドール・ダリは「もしヴェラスケスが描いているところを見ることが出来たなら、この左腕を差し出しても惜しくない」と言ったそうな。尊敬する巨匠に敬意を表したダリに乾杯!!絵を描くことが「力」であることを素直に認めたということだ。

油と顔料だけ、あるいはこれに僅かな樹脂や精油を混ぜて、当時は練り合わせたと考えられるが、ファン・アイクの絵具の分析でも、油脂は亜麻仁油でも、樹脂が何の樹脂か判明していない。軟質系の樹脂とされたが、コーパル樹脂のような硬質系樹脂ではないと言われている。油と顔料だけで練り合わせて、絵を描いてみるが良い。だらりと垂れて、厚めには描けない。色顔料によって、それぞれ含油率が異なり、油と練ったときに、相性が良いとか悪いとかいう。例えば、黒色顔料は煤であり、まずアルコールで練ってから油で練ることもあるし、混ざり具合からして、それぞれ油との比率の違いが異なるのを考慮しなければならない。それは先に述べたように、画面に載せて、垂れ具合も異なるので、経験が必要であった。この油には樹脂が少し混ざることでかなり描きやすくなり、蜜蝋を少し混ぜて垂れやすい性格を調整しようとしたらしい。油自身も陽晒し(サンシクンドオイル)にするか、湯煎にしてボイルリンシードオイル、ツボで煮て重合油にするかしてから用意すれば、さらに乾燥の速さや粘りの多様な練り合わせオイルが手に入るが、これらで練っても、すぐに描かずに「なじませる」というか、少し日を置いて使うと、糸を引く粘りが良くなるものもある。

リューベンスは絵具に白亜を混ぜたりしたことが報告されている。白亜の含油率は高く、油を吸い込みと半透明になる。しかし分量が多すぎると絵具層の硬度を弱める。(含油率はそれぞれの顔料によって異なるので、練り合わせてみて、盛り上がりが作れるかどうかで、分量の適不適を判断する)

鉛白はそれ自体が油と混ざると乾燥が早くなり、練り合わせてツボなどに入れると、比重が大きいので沈殿して絵具としてすぐに使えない。こういう場合には蜜蝋を少し溶かし込んで沈殿顔が遅くなるようにする。乾燥を早めるブラックオイルは鉛白と亜麻仁油を温めて混ぜるとコーヒーミルク色になるが、時間が経つと名前の通りブラックになる。これは炭酸鉛でも酸化鉛でも良い。要するに鉛化合物である必要がある。

 

練りあわされた絵具は、その日のうちに使い切るとは限らない。初期的にはツボに入れて、表面に水を張っていたであろうが、豚の膀胱に入れて保存もした。つねに肉屋に注文したのであろうか。絵具の入った膀胱の表面が乾かないように湿したり、気を使う必要があった。19世紀半ばまで活躍したイギリスの風景画家J・M・Wターナーは亜鉛と錫で出来た注射器型の絵具入れを使っていた。彼の絵具箱には顔料の粉末が入った瓶も一緒に入っていた。この後頃がチューブ入り絵具の普及する時代で、屋外で制作した印象派の画家たちはその恩恵にあずかった。コローは少しずれていたが、写実を求めて、屋外で制作することに躊躇しなかった。

現代の我々はチューブ入りの絵具をメーカーが適切に製造し、溶き油さえ用意すれば絵が描ける時代で幸いである。絵具にアルミナのような可塑剤や蝋が適量混ぜられて、その性格が異なる顔料一つ一つに、適切な処置が施されて、今我々が気が付かない、どれも均一な硬さの絵具を手に入れているのである。W&Nやクサカベ絵具は少し硬く、ホルベインやルフランは少し柔らかい・・・。

ゴッホが亜麻仁油にダマー樹脂を混ぜていたことをご存じだろう。弟テオに当てた「ゴッホの手紙(文庫本である)」に描かれている。その分量も、絵具もどれほどの分量、割合で用いていたかも見当がつく。彼はチューブの絵具に亜麻仁油とダマー樹脂をよく混ぜて描いている。練り合わせは丁寧で均一であり、結構なめらかであるが盛り上がるほどの硬さである。そしてこの絵具は他の印象派の画家たちの絵具より硬く、保存上優れているが、彼は絵が仕上がるたびに、乾燥していない作品を張り枠から外し、しかも積み重ねておいたために、画面に上に重ねられたカンヴァスの裏面の繊維が付いたり、布の痕が付いたりしている。こうした作品を再び木枠に張り戻したりすると、亀裂の原因となり彼の作品の多くの亀裂は絵具層の乾燥亀裂も見えるが、むしろ大半はカンヴァスの扱いの悪さである。(ゴッホ作品の亀裂で乾燥による亀裂は厚塗りによる乾燥時の収縮のアンバランスから来ている。その特徴は亀裂が入って絵具層が割れてから、更にチジミ続けたときに、断面が亀裂辺の内側に向かって少し反っているのでわかる。この亀裂は手当てによって閉じる(亀裂の幅を狭くする)ことはできない。)

チューブ入りの絵具を少し古典的な風合いにしたければ、毛羽立たない画用紙にチューブから出した絵具を載せて、一時間ばかり待って「油抜き」をする。ガラスパレットの上で、その油抜きした絵具と顔料と自家製メディウムとをパレットナイフでよく練り合わせる。硬さはメディウムの分量次第だが、元のチューブ入り絵具のような硬さは必要ない。さらに緩くするにはテレピン精油を用いるがメディウムを薄め過ぎないようにする。直に描けるぐらいで、筆にとって画面に好みの厚さに延びることが基準だ。

 

 メディウム

わざわざメディウムと言うと、この国では練り合わせ材、膠着材、接合材、媒材、展色剤とも言われ、技法や手段もメディウムと言ったりもするからややこしい。この国では一般的に「混ぜるもの」と言う意味だろうか。ミックスメディア(mixedmedia=multimedia)とも言う言葉があって、展覧会のキャプションでミックスメディアと書かれていたら、「二種類以上の素材で作ら(描か)れている」と言う意味だが、辞書には載っていない。同義語らしいmultimediaと言うのは映像と音楽などの二種類の手段が用いられていることだそうだ。美術の専門用語でも統一されていないのでそうした辞書を作る必要があるだろうが、技法については実技を知らない語学者や美術史家が担当すると混乱するだろう。昔、ルーブル美術館の保存科学研究所と西洋美術館の資料室と保存修復室で日仏美術専門の技法用語集を作るフランス側の科学研究費というのがあって、途中まで作って何処かへ行ってしまった。(本当に申し訳ないと思う。・・・これが日本の科学研究費だったら、始末書では済まなかっただろうね)

メディウムは英語では「絵具を説く溶剤、展色剤」とされ、油絵の具を作るときはbinding mediaあるいは binder(バインダー)とも言う。溶剤や展色剤は硬いチューブ入り絵具を柔らかく溶くあるいは延ばすと言う意味だから限定的な使用法で用いるべきだと思う。そうなるとこの国で使われているメディウムの意味は油や樹脂ではなく、テレピン精油やペトロール精油(これもmineral spiritと英語では言うが)のことになる。フランス語でもmediumは、媒材、溶剤とあるが、薄めたりするときは、dilution 希釈剤と言う言葉を使っていた。で、フランス語でbinding mediaに当たる言葉はaglutinant(アグリュティナン)と言っていた。つまり膠着材とか接合材と訳されているが、どうもぴんと来ない。ついでにドイツ語ではbindermittel(ビンダーミッテル)接合剤と言う意味に近い。

絵具を作る場合、この膠着材や接合材と呼ばれる言葉はぴんと来ない。むしろ「練り合わせ材」と言う言葉が一番良いように思う。英語やフランス語の場合はそれで構わないが、一般用語ではなくて美術の専門用語として適当かどうかである。

我々がパレットの上で絵具に混ぜるときは、チューブ入り絵具が基本であるから、これに混ぜて延ばして使うもの、つまり溶剤、しかし固化を助けるものとしての媒材が入っているという意味をメディウムと言う言葉に持たせていると解釈している。

ややこしい話をしたが、メディウムと言う言葉を使うことを正当化しなくてはいけなかった。

さて、メディウムであるが、歴史的に見て、油彩画の前にテンペラや水彩絵の具のようなものが先行して、次に蝋を混ぜるエンカオスティックが登場し、広くヨーロッパに卵テンペラ絵具や膠絵具が円熟期を迎えてから、油彩画の登場である。テンペラの原型的意味を指して、膠もイチジクの汁、桜のガムなどの樹液もテンペラの材料と考えられるが、極端な話、現代ではアクリルもテンペラに数える事に成りかねず、一般的でなさ過ぎるので、むしろ今日の使用の頻度から、テンペラと言えば、卵テンペラを意味するものとしておく。

イタリアの卵テンペラでは、新鮮な卵のみ用い、黄身を器に取り出し、よく撹拌するときに、茶さじ一杯の酢を入れる。イタリアのことだからワインビネガーだろう。これは長期保存と水に溶けやすくするためと思われるが、使い切るなら無くてもよい。全卵を用いるときも同じ。顔料と練り合わせるとき、スリガラスの上で、練り合わせた塊が立ち上がる程度の硬さに煉る。これを水で溶いて用いる。じゃぶじゃぶと用いるわけではないので、つまり薄め過ぎては固着力が弱くなるので、その時は卵液を足すしかないが、昔、東京芸大の卒業展覧会でテンペラ画を見たとき、「目玉焼き」を食べた後のように、卵液が垂れていたのを見て驚いた。同様に、技法に無頓着な学生が、油彩画でも油壷にドバっと筆を突っ込んでチューブ絵具と混ぜていたが、いつまでも乱暴で、大学生に成ったら止めて欲しい。(正直言うと、自分もそうだった)テンペラ技法は卵の量で乾燥後、独自の微細な亀裂を生じることがある。板画の上では剥落しにくいが、カンヴァスに描くと剥落は常に気を付けなければならない。また湿気でカビが生えやすいので、多湿の暗い所に置いておくと被害に遭う。

卵白のみを用いると、乾燥後も水に溶けるので卵黄のような固着力は期待できない。しかし中世の写本などでは用いられている。ベルギーでは修復の補彩に、この卵白を撹拌したものに顔料を練り合わせて用いていた。補彩は時間のかかる作業のため保存管理が大変だった。(今ではガッシュを用いている)

テンペラ画の魅力は仕上がりが、しっとりとして、3年ばかりすると、半光沢の表面になり、独自の効果を魅力に出来ることだ。地塗りへの吸いこみは筆痕が残るため、大変邪魔であるが、卵液を水に溶いたものを地塗りに吸い込ませて乾燥させてから描くと気にならない。テンペラ画はハッチング(斜線)で描くものと思い込んでいると、つまらない技法でしかない。自由に様式化することもあり得るし、この絵具の地塗りへの吸い込みは「宿命」ではなく、選択の余地のある「運命」であって、自分が望めば吸い込みを調整して技能にできる。フラアンジェリコの祭壇画の絵具はテンペラであるが、白の地塗りの上に透けて見えるほどの絵具層でも、筆痕が残っていない。レオナルドの《聖ヒエロニムス》(未完成・ヴァチカン美術館)はテンペラで描かれた下描きそのままであり、グリザイユ(オーカー、アンバー、黒色の三色程度)の手順で終わっているが、その上にくる油彩の層に邪魔にならないように筆痕を残さないように描かれている。要するに柔らかい筆で丁寧に描くことが基本である。

油性テンペラにするときは、黄身を撹拌するときに亜麻仁油(重合亜麻仁油でも構わない)を少しづつ、卵の黄身一つに茶さじ2杯まで入れて構わない。余り入れると分離しやすくなる。この油性テンペラは乾燥した油絵の具の上にも描けるが、固着力がそれほど高い訳ではないので、重ねて多用しすぎないこと。

 

絵具の選択

絵具は描きたいイメージをどうすれば実現できるかを考慮して選択できる。日本画でもチューブ入りもないことはないが、賢明な選択ではない。日本画家でアクリル絵の具で制作する人がいるが、伝統的な表現はしない人だ。やはり伝統的な顔料と膠で溶いて作り、白を胡粉と膠で練って作る人は、手を抜かずに百叩きを繰り返して、きめの細かいまろやかな味わいの効果を得ているだろう。

顔料では一度に大量に買わなければならないのは土系の天然物で、少しづつ買うと同じ色を買えないことがある。フィレンツェにゼッキという店があるし、ローマにもスペイン広場の近くに小さな店がある(名前は忘れた)で、イエローおーかーだけでも4種類からあって、他の店のものとも比べると、これまた異なる色味であった。この顔料は空気に触れるとまた少しづつ茶っぽく、あるいは黒っぽくなる。フィレンツェからバスに乗ってシエナに行く途中の山の斜面の畑の色は、まさにオーカーからアンバーまでのグラデーションで感動する。これらの色だけでも美しい絵が描けるだろう。

今、日本画材の店以外では顔料と言えば、合成顔料が主流で、修復の補彩に用いる絵具としては注意しなければならないものが多い。だから私は絵具の種類やメーカーに拘って用いた。日頃、顔料は用意してるものの、チューブ入りの絵具を油抜きして用いるのが普通であった。顔料を用いる場合、アクリル系樹脂とパレットで練り合わせて用いることもあるが、普段はダマー樹脂と練り合わせても同じである。テイトギャラリーの会が修復室ではアクリル樹脂(アセトンやトリオールで溶解する)と顔料で欠損部に施された白い充填剤の上に平塗で均一に下塗りの層を作ってから、周辺部の色彩に合わせるための、もう一つ別のアクリル樹脂(ホワイトスピリットやテレピン精油で溶解する)の方法を用いていた。要するに丁寧で、無駄のない方法であることと、将来的に必要とあれば、オリジナル絵画を痛めることなく簡単に除去できることである。(間違ってもこの方法を自分の作品に用いないことです。保存できません)

保存がきかない方法としては、補彩の下塗りは水彩絵の具でして、いつでも上の層から除去できる方法を選択している。つまりこのことは水彩画はアラビアガムという、年数がたっても、再び溶解してしまうメディウムは保存が困難で、我が国のように湿気の多いところでは、水彩画の表面がミクロのレベルで崩れていると言える。アラビアガム自体にはカビは生えないが、黒色や扱いが悪いと水彩画にはカビが生える。その除去は難しい。メディウムのアラビアガムは殆どが紙の方に吸い込まれているので、顔料は裸出しているに近い。空気中に含まれる汚れの付着から逃れられないので、和紙の薄葉紙に挟んで密閉し、温度湿度管理できる場所に保管する。美術館の展示も一年間に30日から60日までと限定しているのが現状だ。また紫外線にも弱いと考えるべきだ。

修復で用いる補彩の絵具は当然顔料やメディウムの劣化を考えて準備するのが、どこの修復アトリエでの建前になっていると思うが。絵を描かない、あるいは描けない(経験がない人)もいるので絵具の問題点は教科書的な問題点しかわからないだろう。

修復用に選んだ絵具を列挙すると・・・ほとんどがウィンザー&ニュートンが占めていて、中にはその色味に近い日本のメーカーはクサカベで補っていることもある。(これは好みの問題だが)

白:チタン白、亜鉛華

黒:アイボリー、ランプ

青:コバルト、ウルトラマリン

緑:テルヴェルト、ビリジャン、カドミウムグリーン

黄色:イエローオーカー、カドミウムイエロー(ディープ、レモン)、

オレンジ:カドミウムオレンジ

赤:ヴァーミリオン、カドミウムレッド、マダーレーキ

茶:バーントアンバー、バーントシエナ、ローアンバー、

この中で、EUが作った法律で、真っ先に製造が禁止されたのはヴァーミリオンだが、日本にはあるので幸いだ。他にカドミウムも毒物扱いだ。

以上の比較的対候性が強い絵の具に対し、中には隠し味(?、許して)として用いることがある絵具として・・・

緑:サップグリーン

黄色:オーレオリン

サップグリーンとマダーレーキそしてアイボリーブラックを混ぜた色彩のバリエーションは美しい古色を与えるのに適している。自分の作品でも全体のトーンを落とすのに、仕上げ前に薄く全体にかけると、一本調子に感じられた画面に雰囲気が増す。(フランスでは1970年頃まで、修復で洗いすぎた作品に古色を戻す作業をビチュームと呼ばれるアスファルト絵具を薄くかけた。70年代にはドイツの絵具メーカーのシミンケでもチューブ入りで売っていた。これはとっくの昔に禁止事項だが、日本でやってしまった修復家が居る。西洋美術館のルノワール作《アルジェリア風のパリの女》が茶色くなっているのは、そのせいである。)アスファルトは固化しないため、常にべたべたし、場合によっては何年経っても垂れることがある。ある日本の現代画家の作品で、アスファルトを大盛にして絵を描いたものは保存できない。重力に負けて、カンヴァスから剥がれ垂れながら変形し元には戻らない。当人は奇抜で面白いと思ったのであろうが、お金を出して購入した人のことは考えていないだろう。このアスファルト色に近い効果を得られるのがサップグリーンで、これは害がないから試してみると良い。

オーレオリンは風合いのある黄色で透明色で薄くグレーズで用いると品のある色が得られる。これはビリジャンと混ぜて用いると古典的な緑の野原のような緑が得られる。

結局、自分の絵を描くとき、アトリエに用意した絵具を描画用に用いるようになる。経験的に知りえた性格を自分の制作に生かせるというメリットは大きい。しかし反省としてパレットに僅かしか載せないので、自分の描く絵が「みみっちー」ものになっているのは避けられない。最近8号以上の大きな筆で描いたことがない・・・たとえ80号のカンヴァスであっても。

 

 

 

 

 

 

 

工事中です


制作案内 その3

2017-01-09 17:36:48 | 絵画

下描き

まさか、この時点で突然、何も考えずに、絵具を画面に投げつけたりはしないでください。あくまで「意図があって、表現しようとする」ことが基本ですから・・・・。大事なのは表現したイメージの具体化、視覚化が美術の目的手段であるわけですから、冷静にかつ情熱的に!!

いよいよ制作に入ると、作品の完成をイメージして様々な手順を踏むことになるが、①白い地塗りの発色を生かす ②有色地にするなどして下描きデッサンを始める。

白い地塗りに黒い絵具を葦ペンのような鋭い線を引ける素材で、当たり付けをすると、描画の邪魔になるため、フランドルでは必ず一度油性絵の具の鉛白を薄く引くことでコントラストを緩衝させた。しかしこの白い鉛白は経年で乳化し、ほとんど透明になり、見た目に下から透けて見えてきており、薄描きの箇所で目障りになっている。最初からグレーで描いておいてくれたら・・・と思う次第。しかし初期フランドルの画家で、これらの当たり付けデッサンに、厳密に従って描いた画家はいなかった。

吸い込み止め

ここで、上描きがされることの準備として、画面の吸い込み止めを行う。特に自分で用意したカンヴァス地、板地にとって、この手順なしでは、保存の観点から、絵具層に含まれる油分も、地塗りに吸い込まれて絵具の耐久性が劣ることになる。また色彩の明度、彩度、色相の三要素がまちまちで、色彩に鮮度がなくなり制作にも差し支える。 ①地塗りを作ったときの同じ濃度か、あるいは少し薄めの膠液を刷毛で均一に施す。夏場なら3日、冬場なら1日乾燥させる(これは日本での目安、ヨーロッパではこの逆)。②さらに先に述べたように黒いデッサンの線を消すために、画面に描画用液に鉛白を混ぜたものを少しテレピン製油で薄めて画面全体に刷毛で施す。乾燥は14日間はほしい。

市販のカンヴァスであっても、吸い込み止めとして、また画面保護として、白いカンヴァスには鉛白の一層を引く。ゴッホやモネの印象派の作品に、カンヴァス地がむき出しの箇所が頻繁に見つかるが、市販のカンヴァス地塗りが油絵の具と同じような耐久性は持たないので、温湿度の影響で伸縮を繰り返し、小さな亀裂が入り、織り目の山の部分に剥落が起きて、そこに汚れや、後日施した保護ニスが入り込んで、黒い点となり、審美性を損ねている。カンヴァスの白い地は、絵画と思い込んでいる人は、そこは白い絵の具で先に白く描いておくべきである。空調機の無いこの国の民間の家での保管は、最悪の状態に半世紀もあればなるであろう。

吸い込み止めが大事なプロセスでありことが伝わったであろうか?

カンヴァスに木炭で描く人が居たが、絵具を汚す。殆どきれいに払い取ってしまうべきである。柔らかい鉛筆のB以上はやはり同じく画面を汚す。HBくらいの硬さでシャープペンのような細描きで行うべき。フィキサチーフは紙のデッサンの固定以外に勧めない。

有色地に従いデッサンする場合、基本は地色より濃い色で描くが、白墨で描くことも歴史上見られる。白コンテは白色顔料の鉛白、チタン白、亜鉛華白で作られ、白さが次の油性絵の具で消えず、邪魔になる。そこで油との屈折率が1に近い炭酸カルシュウムを固めた白墨が適当でよい。最近TVで紹介されたが、世界で最も愛された名古屋で生産されていた白墨が、生産者に後継ぎがなく廃業し、機械設備、製造ノウハウ一式すべてを韓国人に譲り渡した。この白墨は世界中で愛されていて、廃業を知ったスタンフォード大学の数学の教授は10年分を買い込んだが、とても残念がっていた。白墨の命は硬く、折れず、粉っぽくならないこと・・・である。当然描画用にも通じる。そこでこの白墨が手に入らなければ、自家製の物を作ることを進める。何事もチャレンジである。炭酸カルシウムは試薬でなくてもよい。画材屋で手に入る胡粉を用いて、水にアラビアゴム粉末を3~5%混ぜ溶解させる。これで胡粉を練って、粘土遊びの要領で細いひも状にして乾燥させる。硬さは自分で調整されたい。アラビアゴムが入手困難であれば、ホームセンターで手に入る、洗濯糊であるポリビニールアルコール(透明な粘りのある液)、メティルセルローズ(表具糊:粉末)でも良いが、硬さについては、いろいろサンプルを作って自分に合った硬度にされたい。

下描きデッサン

下描きデッサンは厳密に描いておいて、それに従って制作する、ともすれば「塗り絵的」ともいわれるかもしれないが、構想が複雑で、細かな描写が組み合わさったような絵画であれば、下絵として、先に紙の上にプロット画を作成しておいて、それに従って制作していくタイプがある。下絵は正方形のマス目が入れられ、制作画面にも正方形が入れられて拡大して写していく。この時点で、ある程度自由な描きなおしが行われるだろう。赤外線反射画像を取ると、時々、マス目が入った作品に出合う。

イタリアルネッサンスの時代に、フレスコ画では実物大転写が、紙の普及に従って行われるようになった。どれほど大きな紙であったかを知りたければ、ミラノの(申し訳ありません。場所名を思い出せませ・・・そのうち見つけます)コレクションにラファエロがヴァチカン宮セニャトゥラの間のフレスコ壁画《アテネの学堂》の巨大な原寸下絵が展示されているので見ると良い。こうした原寸下絵は石灰を塗って乾かないうちに、上から押し当てて、線をなぞって痕をつける方法か、線に従ってあらかじめ小さな穴をあけておいて、そこに木炭の粉をタンポンするポンサージュという技法がある。ポンサージュは線に沿って、火のついた線香を押し当ててて、幾千もの穴をあけることになる。神経衰弱になるかもしれない。まあ・・・熱意、熱意!!

大きな紙がファブリアーノなどの町で漉かれて生産されるようになると、いきなりイタリア絵画の画面が大きくなっていった。16世紀初頭、方やフィレンツエでミケランジェロが活躍しているころ、ヴェネツィアではティントレットやティッツァーノが大画面の油彩画を制作し始めていた。こうした時代、下絵デッサンが紙の上で、練習を行ったり、先に構想したりして、制作につながったことは想像に難くない。紙と筆記具の発達が、それこそ大きな絵画様式の違いを生み出したと言える。ジョットの時代については、小さな紙にプロットを描いて、注文者に見せてから、制作を開始したと言われている。紙も貴重品だったらしい。ジョットにも大きな紙が与えられていたら、彼の絵画も違っていたかもしれない。この頃、キリスト教にとって大事な写本は羊皮紙から紙へと移行し始める。そして、その中に描かれる細密画も羊皮紙に描かれた当時のものより、より精緻な描き方が実現した。

画材が技法を変化させ、表現の拡大を起こさせ、新たな絵画の表現様式を作り出したことは、美術史上に刻まれている。ファン・アイク兄弟が(実際には違うが)油彩画の発明者とされるのは、その技法の完成度の高さゆえであることは、周知のことであろう。

美術史の人たちは、こういう制作現場についての興味がないみたいです。客観的事実に近づく最もよい方法なのにね。

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制作案内 その2

2017-01-05 02:07:41 | 絵画

地塗りについて

1.カンヴァスの地塗り

 カンヴァスの地塗りが始まったのはマンテーニャ以降である。それまで彼は生地の上に軽く膠を引いて、テンペラ絵具で描いていた。膠を引くのは、絵具が布の繊維にまとわりついて描きにくかったからである。彼のカンヴァス地の織り方は一ミリ四角に4本の糸が交差した平織であった。顕微鏡で見ると布の織り目の動きで、絵具層が浮き上がっているのが確認できた。ミラノのブレラ美術館が所蔵する《死せるキリスト》、犬釘が打ち込まれてできた穴のある足の裏が手前にあって、見事な遠近表現がされている有名な作品であるが、これが西洋美術館に来た時、絵具層は浮き上がり額の表に入れられたガラスの間に、多くの剥落した絵具が落ちていた。そのちょっと前にブレラを訪ねて見たときには、そのような損傷はなかった。日本に送られて、損傷したのである。この作品はマンテーニャを代表する貴重な作品であり、悲しく悔やまれた。

カンヴァス地に目止め程度で描かれたテンペラ画は、絵具層を保護するためのニス引きは遠慮されたために、直接、裏表から湿気にさらされてこうした剥落が起きやすかった。ブリュッセル王立古典美術館のブリューゲルのコーナーに布にテンペラで描かれて、保存状態が悪く、脆くなったカンヴァスを和紙で裏打ちし屏風形式の木枠に張って、温湿度を機密管理したボックスに展示されているものがある。状態は悪く、審美性も失われて、鑑賞にも耐えない。

これらはカンヴァスと絵具層の間に、しっかりとした地塗りがなかったために、大きな損傷につながった例である。マンテーニャの時代は過渡期で、彼の師匠で、義理の父であったジョヴァンニ・ベリーニもテンペラ画の技法で多くの聖像を描いている。イタリア以外の国の美術館の所蔵品では、表面保護のニスは施されていて、ベリーニの作品も絵具が剥落する最悪の状態は免れている。(カンヴァスに描かれたテンペラ画の保護ニスは必要悪であった。板画の場合は、またこれと異なる。)

彼らの後のパドバ、ヴェネツィアでは油彩画が入ってきて、フランドル絵画の影響を受けたアントネロ・ダ・メッシーナの描く作風に、油彩画が広まることで、大型のカンヴァス作品がヴィットーレ・カルパッチョによって油彩絵の具で描かれた。しかし表現された人物は硬直したままで、絵具の外観もまるでテンペラ絵具で描いたような、不透明な塗り絵のようであった。それも先にデッサン下絵が決まると、その輪郭からはみ出さないように構想したために、隣り合う人物も、それぞれが独立しているようであった。彼の場合、油絵の具の表現の可能性を試す以前に、彼は一昔前の描き方から抜け出ることはなかった。(それはそれで魅力的なのだが)しかしカルパッチョはヴェネツィアでティントレットやジョルジョーネ、ティッツァーノと続くカンヴァス画家が輩出する基礎を作った。

海洋都市として発展したヴェネツィアでは大きな帆布が手に入り、カンヴァス画にはもってこいであった。湿気の多い水上都市ヴェネツィアの条件として、フレスコ画は向かなかったため、カンヴァス画が尚更需要があって、画家は大きな木枠に張った絵画が天井画としてあるいは壁画としての役割を担うために、しっかりとした平面の機能をもたらされた。

そこにカンヴァスの布の強度、絵具層とを繋ぐ地塗りには大切な役割があった。

前置きが長くなったが・・・・。

①目止め

カンヴァス用の布に施す地塗りには柔軟性が求められたが、布に直接地塗りをするのではなく、接着力を高め、柔軟性を与える目止めの層が必要であった。この目止めはカンヴァス地の織り目の凸凹を和らげて、平らにすることが出来た。日本でカンヴァス作りの案内書には熱い膠液を刷毛で塗ることが書かれているが、これは不適切である。膠がカンヴァス繊維の中に浸み込むと、硬くなり、経年で伸縮し続けて劣化させる。

膠を使って目止めをする場合、熱い膠液を冷ましてゲル状にして施す。厚い膠液をボールにとり、つめいたい氷の入ったボールに浸けて、膠をゆっくりかき混ぜる。これをへらでカンヴァス地に施すのであるが、薄く均一に伸ばす。気温が25℃以上になるとこの作業は向かない。ゲル状の膠が布の上で溶けて、布に浸み込んで元も子もなくなる。夏の間はクーラーをかけてやる。梅雨は乾燥するまでにカビの菌が繁殖して、地塗りの亀裂の原因になるから避けること。ここで使った膠の濃度は水と膠(三千本膠)の比率15:1程度であるが、13:1より膠を濃くしてはいけない。乾燥時に硬くなり、亀裂が入りやすくなる。ここで使った濃度は次の地塗り液に使う膠液の濃度と同じでなければならない。

膠液は必ず冷蔵庫で保存する。三日以上放置しない。臭くなった膠は亀裂の原因となる捨てる。

膠には日本独自の三千本と呼ばれる膠があるが、牛や馬の筋肉の筋、皮を煮て作るが、たんぱく質と同じで45度以上にすると分解するので、ぐつぐつ煮てはいけない。他にヨーロッパにはトタン膠と呼ばれる鹿の皮からとるものがある。しなやかで三千本よりツッパリが少ない。安いものに骨膠(ほねにかわ)というのがあるが、皿に入れたまま乾燥させると細かく砕けている。大事な絵画制作には向かない。三千本もトタン膠も経年によってツッパリは少なくなる。私は1928年製造のトタン膠をブラッハート先生にもらって、今も実験用に保存してある。

同じような方法でメリケン粉を煮て作ったペーストを目止めとして使う場合もある。膠よりツッパリが小さく柔軟な気がする。メリケン粉のペーストと膠を混ぜて塗ったりしないこと(強すぎて、みみずばれ様の亀裂が入る)。メリケン粉のペーストは膠のように溶けたりしないのでゆっくりヘラで施すことが出来る。厚さも少し厚めでも、乾燥すると布目が出るほど収縮する。

さて、この布目の出具合は画家によって好みが異なるであろう。ヴェネツィア派の画家たちのカンヴァスは織り糸も太く平織、綾織りとバリエーションもあるが、大半は平織で、ジョヴァンニ(甥バティスタ)・ティエポロのカンヴァスはしばしば綾織りで目がそのまま経年で目立つようになっている)。細密な作業が必要であれば、平滑な画面が望ましいが、ダイナミックな描写には布目が荒々しく出ている方が、かすれた表現などに向く。ヴェネツィア派の画家たちが大きな画面に描けるようになった要因は、あらかじめ下絵のデッサンが出来る「紙」の普及があげられるが、当然カンヴァスの上で新たに自由に描く経験が出来るようになったことも挙げられる。ティントレットなど構想のスケールまで自由に拡大したと考えられる画家である。それほどカンヴァスと地塗りは作用していると私は思っている。

②カンヴァス用の地塗り

 カンヴァス用の地塗りは板絵用のものと区別すべきであろう。描写表現の要素に応じて、その厚さは変えるべきであるし、色の具合も、質も変えられる。ベルギーカンヴァスの地塗りの工房では、カンヴァス地を木枠に張り、机の上に平らに寝かせ、やはりゲル状の地塗りの山をへらで動かして塗る方法を取っていた。最近では、木枠に張ったものを立てた状態でローラーを使って塗る方法も行っている。それで出来上がったベルギーカンヴァスは薄い地塗りのあまり白くない表面の製品が出来上がっている。

ルーベンスのカンヴァスの科学調査を行ったが、その時、X線写真に出た白い刷毛痕は、鉛白が地塗り液に入れられいることを示し、幅は5~6cm程度であった。しかし刷毛痕は一部であり、大方は大きなへら(現代のカンヴァス職人が用いるのと同じ)で施しており、どうも全体的には鉛白ではなく、白亜が使われていると考えられたが、この地には木炭の粉が混ぜられて色はクレーであった。何故、一部分に鉛白が入った地塗りを施したのかは不明。ルーベンスはカンヴァス作りは自分のアトリエで行っており、すべて好みの厚さや色の地塗りの指示を出していたと言える。白い地塗りには鉛白を用いることは、当時から当たり前のようであった。と同時に、カンヴァス地に赤ボルースを塗る有色地も16世紀後半から流行り始める。

レンブラント(1606-1669)の地塗り

レンブラントはいくつかの板絵をのぞいて、カンヴァスは基本的にボルース地を採用している。暗い中に人物が浮かび上がるようなレンブラント絵画にはもともと暗い中に、さらに暗い部分と明るい部分を描き分けながら制作するスタイルは、空間、立体表現を楽にし、イメージの定着にスピード感を与えた。多くのバロック画家たちはボルース地より少しくらい絵具でデッサンをして、いきなり人物を描くことが出来た。当時の人物画の肉色の部分は、多くの鉛白を含み、X線写真を撮ると、まるで白黒写真を見ているかごとき、正確な明暗の絵画に見える。しかしこのボルース地にはいくつかの問題があって、描く当初から目が赤い地色に左右され、仕上がりも赤みを感じる場合があるし、経年でボルースに含まれる酸化鉄が湿気で移動し、画面ににじみ出ることがある。レンブラント作品を20点から所蔵しているベルリン国立絵画館で研究生をしていた時、《石板を割るモーゼ》(1659年作)が修復室に運び込まれて、処置と調査の助手をした。この時見たのは硬く反り返る絵具の亀裂の周囲に、まるで赤いカビが菌糸を伸ばして四方八方に広がってくる状況であった。展示室では見えなかったが、明るい部屋で見ると激しく浸食されているのが分かった。この作品のカンヴァス糸は手撚りで、糸の太さがまちまちで織り目も決して詰んでいるとは言えなかった。このカンヴァスの繊維に目止めが浸透しているとか、いないとか判断できなかった。

 

③地塗り液の作り方

 上記項目でも触れているように、カンヴァスに施した目止めの膠液の濃度と同じものを用いて施すのが常識で、薄くすることはあり得るが、濃くすると、必ず亀裂が入る。亀裂のメカニズムとして、下に弱いものがあり、上に強いものが来て、下を濡らして柔らかくしてから、乾燥に入ると、上の収縮の方が強くなり、柔らかく弱い下の層を引っ張って割れる。この収縮はあらゆる箇所で起きるので、どこも小さく収縮しようとすると、小さな力の集合が、あの亀裂の形であると言える。そこで亀裂を防止することは当然ながら、カンヴァスの上に施す時、机の上でへらで地塗りを塗るためには、板の上にカンヴァスを張るかどうかしないと、乾燥時に生地は暴れる。板の上に生地をガンタッカーで固定するときは、生地の下に薄い吸い取り紙を差し込んでやると良い。この場合、タックのぎりぎりまで地塗りが塗れる。生地を木枠に張って施す場合、木枠の内側を表にして、内側に地塗りを施す。この場合、生地を枠に張った張り代分は、ぎりぎりまで塗布できないので不経済であるが、利点として木枠を持ち上げて、乾燥させることが出来る。

膠と白色顔料の地塗りの場合、カンヴァスには厚塗りは禁物で、柔軟性を失うし将来的に亀裂の原因となる。白さが確保できれば十分である。また柔軟性を考慮すると、この地塗り液に重合亜麻仁油を入れると良い。(地塗りの作り方参照)

地塗り液

地塗り液を膠で作る場合

①膠は前日に水に浸け膨潤させる。この時すでに膠:水の比率を守って1:15にしておく。 ②湯銭鍋にかけて溶かす。膠液を50℃以上に上げない。分解する。膠液を冷ます時、ふたをしておく。③器にとり、白色顔料を入れる。白色顔料に胡粉や白亜、石膏を選択したら、器の中心に、粉末を少しづつ注ぎ入れ、自然に膠液を吸収させる。分量比の基本は1:1であるが、目分量で多すぎると、塗る際に刷毛やへらにもたついて、均一に塗れない。器の中に注ぎ入れた粉末が、液の面から盛り上がり始めたら止めるのが賢明である。混ぜて刷毛かへらで持ち上げてみて、軽く糸を引きながら素早く落ちる程度が良い。

もしこれにチタニュウム白、リトポン、硫酸バリウムなどを混ぜる場合、あるいは単独で使用する場合は、出来上がりの白さを確保できれば良いので、分量は1:1では多すぎる。重量比で15%~20%で十分である。(亜鉛華を単独で用いる場合亀裂が起きることがあるので、胡粉などと混ぜた方が良い。)(鉛白は仕上げにサンドペーパーを用いることを考慮すると、地塗りには用いないのが良い)これらの薄い液でもへらで施すと、平滑な表面の地塗りが得られる。

半油性地塗り

半油性地は描画の際に吸い込み止めを殆どしなくてもよい状態に出来る。それに湿気に鈍感になるので、硬さが維持されるが、注意として生地に施した目止めが不均一であったり、薄すぎたりすると生地の側に、経年で脂分が移ることも考えられるので、一つ一つの工程の品質管理を完全にすること。

半油性の地塗りを作りたいときは ①白色顔料の分量と膠液の分量が明確に計測できるようにしておく。②分量が決まったら、白色顔料に器にとり、そこに膠液を少しづつ入れ、粘りのある状態で撹拌じ、その中に重合亜麻仁油、ボイル亜麻仁油、陽晒し亜麻仁油のいずれかを、少しずつ糸を引かせながら注ぐ。注ぐ間中、撹拌は続ける。その分量は白色顔料の重量の10%以下程度で十分、多いと乳化せず分離して、にじみ出るので注意。混じりにくくなったら止めるのが、タイミングでもある。そこでまた撹拌しながら、残りの膠液を少しづつ注ぐ。

 ジェッソ地塗り

ジェッソ(gesso)はイタリア語で石膏、漆喰、石灰、白亜などを意味し、それぞれ物が違うので、こまった名詞である。イタリアでは板地に石膏地塗りが一般的に用いられたが、石膏もいろんな状態で用いられた。つまり水に長いこと浸けて固まらなくなったもの(gesso sottile)を粉末にして、膠と混ぜて地塗りとして用いたもの。これは手間がかかり貴重であったためか、下には天然の祖石膏(gesso  grosso)が塗られ、厚さを十分に確保してから、用いた。もう一つは水と反応して固まってしまうものを、板に塗って固まったところを平らに削るというものがある。この水と反応して直ぐに固まる方は木の板の地塗りとしてしか使えない。思いっきり力を入れて削るからである。

市販のジェッソ

これには2種類あって、一つは油性のジェッソ(ファンデーション・ホワイト)。鉛白や硫酸バリウムをケシ油で練ったもので、チューブ入りの絵具より硬い。いきなり生のキャンバスには塗れない。目止めが必要である。へらで薄く塗って乾かすを複数回繰り返して、乾燥後のサンドペーパーがけを減らす。勿論市販のカンヴァス地にもへらで施せる。硬い状態のものを亜麻仁油とテレピン製油で柔らかく練って刷毛で塗布できる。

さいきんでは胡粉入りの水性ジェッソも売られている。これは元よりリキテックス絵具のために用意されたものであり、アクリルポリマーエマルジョン、胡粉、チタン白で構成されている。紙、布、板などに直接塗って描けるが、表面は一度サンドペーパーがけが必要である。量の割に値段が高いのが難点。

 

2.板の地塗り

 木素地の地塗り

木素地に地塗りが施されるようになったのは、先に木素地の項でミイラの肖像について触れたが、その板に描かれた肖像の延長であろうエンカオスティック画の地塗りとして行われるようになってからである。私の知るところでは7世紀のものに、板の表面の凸凹を解消するために考案されたと理解している。何事も最初は単純で、経験によって改善されるのである。

板に描くことは当然ながらイタリアが先んじたが、イコンの時代は別にして、当時から画家が居たそのものを用意することはなく、地塗りから用意したと言われている。質の悪いポプラには地塗りも載せにくく、亀裂、剥落の心配もあったため、板の上に布を貼ってから地塗りをすることも頻繁に行われた。こうした布地は画面の重要な部分にだけ貼られたものもあり、それらはx線撮影をしなくても、特徴的な亀裂が入るために、すぐわかる。それは多くの板絵が板を横に継いでいるために、その伸縮で、布にも伸縮が伝わり、地塗りにまで、おおきな亀裂が横に入り、そこから小さな亀裂がつながっていくパターンをしている。布は大きな剥落を起こさないためには役に立ったが、イタリアの作法の適切さが欠けたために、多くのすぐれた作品に亀裂が見られることになった。こうしたイタリアの板絵の地塗りは上記にカンヴァス用の地塗りを紹介したような様式で行われた。地塗りの厚さは3mm~5mmはある。

一方フランドルでは正目の通った樫の板に目止めを施し、白亜と膠で地塗りが行われた。その厚さはどんなに大きな画面でも1mm程度の厚さである。刷毛やへらで地塗りは施せるが、乾燥後に磨くには、鉄のへらで平らに、台直しカンナのような要領で刃先を立てて削ったと考えられている。木の板を大佐に削るときも、当時は刃が垂直に立った台直しカンナのようなもので削ったと言われている。

さらに表面を美しくきめ細かい表面にするためには、今日のサンドペーパーのようなものでなく、トクサ(木賊)を用いて表面を磨いたとされている。さらにつるつるの大理石のようなするためには、シャモア(鹿の裏皮)を軽く湿らせて磨くこともあったと考えられる。これはフランドル絵画の絵具層が0.1~0.2mmしかないことから、その地塗りの表情が絵具の表面に現れることで想定できる。つまり、真平ではなく、丸みを帯びた不陸が認められる。

 

 

 銅板のための地塗り

銅板に描かれるようになるのは17世紀オランダでである。そもそも銅板に描かれるのは油彩画である。なぜならもちろん直接には水性絵の具が固着しようもなく、地塗りを必要とする。しかも白い地塗りを見たことがあるだろうか。それもみな、赤いボルース地なのである。銅板は平らで木の板のように削ることなく、製造工程で平らになっていて、絵を描くにはもってこいであるが、やはり油彩絵の具でも直接描けないわけではないが、やはりそれまで木の板地に描いてきた習慣から地塗りがあったほうが画面が作り易かった。

銅の板に直接ボルース地塗りを塗って、平らにしたまま乾かす工程で化学反応が起きた。銅はCu⁻であり、ボルースの主成分は鉄Fe⁺である。つまり地塗り液の水を介して、そこに電気が流れてイオン化が起きて、どちらも成分が溶け合うのである。そして固着する。このボルース地は木の板に施したものより固着力が強く、少々銅板が曲げられても剥落しない。しかし表からガンと硬い物で叩けば、当然ながら傷や剥落は起きる。

 

吸い込み止めについて

吸い込み止めは、油彩画、テンペラ画どちらに使おうが必要である。イタリアのテンペラ画の吸い込み止めについては、確かなことは知らない。しかしテンペラで地塗りの上に直接描けは、筆のタッチが残って、なかなか絵にならない。(何度も言うが、ボッティチェリの人体表現の柔らかいタッチは彼独自の表現様式だ)フラ・アンジェリコの絵画を見ればタッチが残らない方法があることが分かる。恐らく膠は使っているだろうが、それ以上の何かを使っていると思われる。

ファン・アイクの祭壇画《神秘の子羊》を調査した時に絵具層から深く浸透した膠層とその上に油分が浸透した状態が見られた。この油分は下描きデッサンの黒い線を和らげるために、白色絵具を一層かけているため、それが同時に吸い込み止めの役割を果たしたと考えられる。他のフランドルの画家たちの作法も同じである。

 

 

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