まずこの国は地震の巣窟であり、どこにいても地震の被害から免れることはできない。地球の表面を覆うプレートが5つあり日本は半分に仕切られている。活断層はあちこちにあり、温泉のある街には傍に危険がある。地形を見ればどこがどうなるかは想像がつく。
美術館は美術品にとって、生き延びるための最後の砦あるから、自然災害の他、人災からも避難できていなければならない。地震が来て、津波に襲われて電源喪失し、メルトダウンして水素爆発、そして放射能で汚染されましたでは済まされないことが、この国では起きてしまう。これは人災だと言えるほどの過失が原因の「事件(事故ではない)」だ。不作為はどうして起きるのか、もう十分教訓は得られたはずだろう。しかし、野党の質問に「いやそんな津波は来やしない、十分な対策がされている」と言った総理大臣がいた。大震災の前に対策が出来たにもかかわらず、何もしようとしなかった政治が繰り返される。そして政治は責任を取らないで、国民に税金の中に復興税なるものを払わせる。(これは期間限定ではない税金である)
この国の防災意識の低さは致命的だ。国民性として論理的思考が出来なくて、情緒的な結論へいつも向かう傾向がある。東北大震災で有名になった「バイアスがかかった見方」という言葉は「偏った見方」と言う意味だが、論理的偏向ではなく「情緒的な自己満足」が働くためだ。だから政治の議論の場でさえ、曖昧かつ不明な結果が生じる。
「そんなことは起きてい欲しくない」が「そんなことが起きるはずはないだろう」に変わる。それが悪いことにもう一つの国民性である「集団の価値観への共鳴」となっている。
この国では自然災害は永遠に繰り返し、人も財産も失われているのに対策は合理的に進んでいない。つまり人為災害を併発する。
西洋美術館は1993年に始まった前庭の地下に企画展示館を建設するプロジェクトを始めた時点で、前庭にあった屋外彫刻の地震対策を計画し始めた。ロダン作の《地獄の門》は元の位置近くに再設置することになって、コンクリートの地下展示室の上に置くことになった。これらは建築の当初計画に補強が組み込まれ、100トンぐらいの荷重に耐えることが求められた。(最終的には彫刻が10トン、台座と周囲の基台で60トンぐらいだった)他には《地獄の門》の両脇に《アダム》と《エヴァ》、また前庭の真ん中辺りに《カレーの市民》、西側に《考える人》、中央の正門を入った正面にはブールデルの《弓を引くヘラクレス》が設置される計画だった。結局、地下の企画館の天井である前庭はコンクリートで覆われ、平米当たり5トン、梁の上では15トン、垂直な受けとなる壁や柱の上では50トンに耐えるはずであった。と言うのも再設置前に《地獄の門》を内側から接合し支えている鉄骨が錆びて、すでに全体の重さで座屈し始めていたので、将来が保証されなかったから、新しくステンレスの骨組に交換することも同時に行わなければならなかったから、前庭に寝かせて古い骨組みを撤去し、新たに取り付ける処置が行われることもこの計画に入っていた。
私は絵画が専門の修復家であるが、美術館の保存修復担当となれば、絵画、彫刻から紙物、織物までコーディネート出来ることが求められた。こうしたプロジェクトはお金がかかる。防災目的の特例の予算要求を行い、事業はプロポーザル入札を行う予定であった。しかし、いつの間にか当時の施設係長の独断で一般競争入札となっていた。要は施設担当は「免振装置付き工事」をどのように扱ってよいか分からなかったので、それまで経験してきた一般競争入札にしてしまったのである。そこで落札した竹中工務店は社命で、この工事を取りに来た。西洋美術館のネームヴァリューに儲け無しの価格で応札したのである。(それに近かった奥村組は残念であったが)じかし一般競争入札が災いをもたらした。入札結果を受け入れたということは、竹中の工事案を受け入れたということで、内容の変更は通常あり得ない。ここで工事価格もひょっとして増額させたかもしれなかったが、私がプロポーザルで求めた条件に合致しない免振装置が提案されていたのをひっくり返したのだ。もし中くらいの地震の後、《地獄の門》が動いて元の位置に戻らなかったら、笑い事では済まない。だからどうしても竹中が提案したお皿状のテフロン盤の上を滑って地震力を軽減する方法は心配でたまらなかったのだ。
何故、竹中を取り上げたかと言うと、あまりに意気込みのすごさが伝わってきて、一緒に仕事をやっているという感覚は初めてだったから。結局、私の望みを理解して受け入れてくれた。(これには今でも感謝している)そういうことで緩やかな局面を棒状のベアリングが滑る機構に変更して、必ず元の位置に戻ることを確認した。(費用が余計にかかったに違いない。改めて設計からやり直させたのだから。)
97年に始まった工事内容は毎週の会議で詳細を文書にして提案して、合意を取る方法で進められた。問題点は即改善されたし、タイムリーに現場の責任者が決定、実現された。私はこんな手はずに曇りのない仕事は初めてであった。
ロダン作のブロンズ彫刻《地獄の門》のそれ自体の修復処置は工事の最も緊張する仕事だった。何しろ彫刻は21のパーツを裏面からねじで止めて、鉄骨で一体のものとして支えている状態で、この鉄骨が錆びていいて、撤去交換する必要があったから。その処理方法を勘案するのに、パリのロダン美術館が先行して行った交換方法を参考にすべく、報告書を求めに実施を担当したクーベルタン鋳造所の所長を訪ねた。しかし彼の返事は「報告書はないから、口頭で説明する」(後で聞いた話だが、ロダン美術館が報告書を持っていないと言うのはあり得ない話だった。要するに、何か知られるとまずいことが書かれていたのだ)まあ、そういうことで彼は口で説明していることをノートに書き留めて帰国した。
鉄の骨組みを彫刻を立てたまま外すことは不可能。骨組みを取ると自重で形が座屈することが考えられた。というのも、この門は自重を両横の箱型の部分で受けて、全体が2cmばかり浮くように作られていたから。つまり新しい骨組みも、全体が浮くように設計する必要があった。
クーベルタンの所長の話は、彫刻全体を木の枠で固定し、表側から彫刻面に材木を当てて補強して、表を下にして伏せるというものであった。そして裏面の鉄骨を取り去るという単純な方法・・・・実際はそんなに単純ではなかったはずだ。
結局、日本人のやることは、そのアイデアに3倍の強度、3倍の安心を持たせて、彫刻の周りに重量鉄骨で枠を組んで箱型を作り、表面にスタイロフォームで詰め物をし、隙間にポリスチロールを吹き付け充填した。スチロールが発泡する際に出る熱の管理までしてくれた。(正直、そこまでは必要なかった)
この鉄の箱を2台のクレーンで吊って寝かせてから、すこし様子を見た。スチロールのクッションがどれほど重力でつぶされて、全体が沈むか様子を見る必要があったからだ。彫刻は左右対称ではないので、左右で沈み方が異なるはずで、ねじれが生じるのが心配だった。しかし左右の誤差は5mmしか違わず、技術の高さを実感した。しかし今度は古い鉄骨の撤去で、いったん沈んだ彫刻が浮き上がった。その時の誤差は15mmに増えていた。ここでまた新しい骨組みを作らねばならず採寸に追われた。錆びの生じにくいステンレスで、合理的なシンプルな形に設計された。この新しいステンレスの骨組みと彫刻を接合しなければならないが、前の鉄で生じた錆びを防止するために、最も重量で錆が生じやすくなる箇所にブロンズのワッシャーを製作させた。(有)ニッチの職人たちが現場で型を取り、鋳造して作り上げた。(これはロダン美術館の処置より高等な処置だ)ブロンズは銅と錫で出来ていいて、鉄と繋ぐと、異種金属で起きる電食(Fe⁺とCu⁻の間で電気が流れて銅の方がイオン化して溶けだし、鉄は激しく錆びる)が起きていたので、少なくても彫刻本体に錆が生じないようにすることに努めた。もっとも重量を支える箇所は電流は大量に流れると想像できた。新しくステンレスの骨組みが取り付けられたことで彫刻を一体化する剛性は確保された。
相当、高度な配慮によって処置は勧められて満足しているが、ここで肝心の免振装置について述べると、免振性能は阪神淡路大震災で記録された640ガルを八分の一に軽減する、つまり80ガル程度に収める能力が与えられた。80ガルといえばテーブルの上の花瓶が倒れない程度の揺れであるということ。これは2011年の東北大震災で西洋美術館の前庭が揺れた時、その機能を確信した。周りの樹木が揺れている間、《地獄の門》はゆっくりと動いていた。(この時、西洋美術館は企画展のオープニングの式典の最中で、私は外国人の招待客を受け付ける係を命じられていたが、地震が起きると庭に出て彫刻たちを眺めていたら、受付の女性たちに自分だけ避難したとなじられた。ただ自分の仕事を確かめたかっただけなのだが・・・・恨まれてしまった)(職業意識で周りが見えなかった・・・申し訳ありません)
屋内彫刻は他に台座にテフロンを貼り付けたステンレス板を取り付けて、底地面積が増えて転倒防止にした。これらはおよそ250ガル、つまり墓石などが転倒する揺れが加わったときに水平に動き出すように設計した。(観覧者が触った程度では動かない)
絵画については、日本の多くの美術館で採用しているワイヤー吊り展示は直径2mmのステンレス製で、神戸では切れて落下したものもある。もし重量が30kgの絵画であれば神戸の縦揺れでワイヤーが跳ね上がって落ちるときの縦の力(動荷重)で切れてしまう。これを防ぐには額縁の下にブラケットか馬の受けとなるものをつけるのが有効である。横揺れについてはワイヤーが長ければ、免振装置と同じ原理で吊元が短い振動であっても、額縁まで伝わる振動は長周期になって免振される。たとえ揺れても同時に同じ方向に揺れるので隣の絵画とぶつかり合うということはない。
ワイヤーは2mmから3mmに交換した。3mmで企画館のピクチャーレールから500kgの重りを吊って2週間ばかり放置した。これで安心を得た。それでも額縁と壁が打ち合う方向の揺れに対処するには額縁の裏に低反発スポンジか衝撃吸収ゴムを取り付けるしかない。消防法で壁が石膏ボードのような耐火壁でなければならないというのがワイヤー展示の問題で、西洋美術館の新館の壁は改修の時にボッラクス(ホウ素)を浸み込ませた合板を用いることにした。そこに額縁をねじで固定できるようにした。
西洋美術館本館(コルビジエの基本設計になる)はレトロフィットという方式で免振装置が着けられている。当方く大震災の時は大きな船に乗っているような揺れが生じたが、展示されていた絵画では額縁に破損が出た。特定の方向に揺れた作品が壁と打ち合ったために起きたことだが、コルビジエの基本設計というのは美術館としてどうであったかを問われる問題があった。コルビジエのアイデアで低天井部に絵画を展示するようになっていたが、この部分も額縁ごと壁に固定できなかったために、短いワイヤーで吊るほかなかった。説明したように短いワイヤーでは地震の際の揺れは殆ど直接伝わる。改善する方法は壁に直接固定するしかないのである。
デザインを重視して丸柱を構造体として使ったために地震の多いこの国では強度が不足であったし、展示室に露出させて鑑賞者の視覚を遮ることに配慮しなかった。この柱と柱との間は二点の絵画しか展示できない。大きければ一点だけである。照明も天井から自然光を取り入れるというアイデアであるが、不均一で十分な明るさを確保できなかったので、後日館の方で、明りの取入れ部に蛍光灯を足した。作品保護の空調もついていなかった。冷暖房は屋上に配管が露出した状態で役に立たなかった。何しろ石炭を暖房に使っていたので、初期の外観に煙突がそびえたっていた。(内部の事情を知るものは、これが世界遺産に登録されたことに違和感を感じる)問題は世界遺産や重要文化財に登録されて、改良工事が出来なくなったということである。これも自分の見栄の為にあらゆる現場の問題を無視した当時の館長のせいである。論理的議論が出来ないところには未来はない。
どこでもいろんな問題があるが、学芸員の資質の問題でもある。近年、名古屋市美でラファエル前派の展覧会を開催するとき、案の定展示壁が消防法で決められた石膏ボードの為に、軽い作品以外は壁に固定出来なかった。そこでこちらが勘案した、壁にコンパネを貼って経師する方法を快く採用してくれた。コンパネに力を持たせることで、壁の表面に絵画を固定できた。短い期間に準備が行われる段階で学芸員の防災意識が結実した。
西洋美術館在職中に「美術館・博物館における地震対策」の国際シンポジュウム(ロサンジェルス・ゲッティ美術館による組織化をもとに、アテネ、イスタンブールと現地の研究者の発表を組み込みながら発展させたシンポジュウムの東京会場)を開催できた。東北大震災の二年前であるが、バイリンガルの報告書がかろうじて間に合ったが、震災の対策には間に合わなかっただろう。(この報告書はまだ西洋美術館の売店で購入できると思う)《地獄の門》の免振化工事の報告書も出版したが、在庫があるかどうか?(私も自分の一冊しか持っていないので)
対策は一時的なものではなく、日々の心構えでしょう。