河口公男の絵画:元国立西洋美術館保存修復研究員の絵画への理解はどの様なものだったか?

油彩画の修復家として、専門は北方ルネッサンス絵画、特に初期フランドル絵画を学んできた経験の集大成を試みる

戦うしかなかった(備忘録Ⅵ)

2023-10-29 22:56:44 | 絵画

ドイツ留学から帰国した時、東京国立文化財研究所の新井先生に「君は天を衝く勢いで帰ってきたね」と言われた。その時意味は良く分かっていなかったが、自分の思うことはハッキリと言い、思った通りに行動することがもはや日本人的ではなかったのだ。ドイツで「言うこととやることが一致しなければ信用されない」のが当たり前だった。だから日本もそうだと思って行動したら・・・違っていた。西洋美術館という組織の中で、既に違っていたのだ。

釈迦が生まれて間もなく言ったとされる言葉に「唯我独尊」というのがあるがご存知か?自分が一番正しいという意味ではない。「自分は唯一であるから大事にする」という意味であるが、これは仏教国のこの国では理解が進まず、キリスト教国である欧米で「個人主義」として今日在る。自民党のあるバカな憲法審査会の国会議員が改正案の中に「我が国は個人主義が蔓延して社会が荒廃してきた・・・」というような理屈をつけ「一部人権は制限すべき」と述べていた。個人主義を「利己主義や自己中心主義」と誤解している自民党議員。個人主義さえ知らない者が「人権を制限しよう」など・・・あきれた。要するに集団の価値観を押し付けて国民を支配する「阿部流の美しい日本」を唱える権威主義的な「日本会議」の連中の考えが背景にあるということ。こういう連中が登場するのは、自分たちの政策が実行力が無く、「失われた20年」と批判されているからだ。

個人の考えが独創的である事、他人と違っていることは当たり前のヨーロッパで8年半を過ごすと、この国が情緒を優先し、忖度で重大なこともあやふやにして過ごす・・・のど元過ぎれば熱さ忘れる・・・争いは避けるため虐めも知らんぷり・・・ガラパゴスであることが明白であった。だから自分が自分でしかないので自己防衛のために戦うしかなかったのだ。

今私が書いている備忘録の中に「私の怒り」しか感じられないとしたら申し訳ないが、こうなる事件が私の西洋美術館退職後に起きていて、このことはハッキリと関係者に宣戦布告しなければならなかった。

まず国立西洋美術館学芸課の中で分業化が始まっていたにもかかわらず、その認識が無く「私の業務」を無視し、自分たちが学芸課の主であると振る舞う者と日々軋轢が生じた。トラブルに誰が責任を負うのか・・・誰もそんな事は思いもせず・・・・村八分が行われていた。私の後、美術館情報係(旧資料係)と美術館教育・広報係が新設されたが・・・・彼らも同じく業務内容を「無視」された。

或る時、東京国立近代美術館がリニューワルで展示室を工事して、そこでリニューワル展を行うから、西洋美術館が寄贈を受けていた現代絵画を貸し出してくれという要望が来ていた五か月前に、館としては新展示室の新建材が放出するホルムアルデヒドや他のアルカリ環境測定を行って適正であれば貸し出すという学芸課内合意を決めていたが、時の学芸課長幸福輝は「これは自分が処理する」と言って学芸会議は終わっていた。開催記述が近づくにしたがって近美からは催促が繰り返されるが、近美の担当も「ガスなんて大したことじゃない。貸せ!!」と強引であった。開催記述の一月前にはなんと当の幸福はブタペストに出張(原因は展覧会の仕込み)で14日間留守。近美からは「そんな話は聞いていない、貸せ!!」。そこで学芸課内で絵画係、保存修復係で緊急会議。とにかく近美が計測データを出せば貸し出しを許可する。貸し出し作品の添乗は絵画係で・・・と。学芸課長幸福は平課員である頃は「学芸課長が海外出張など許されない」と言っていた当人であるが・・・ブタペスト出張は「展覧会の仕込み」という大義名分も「嘘」で、その後に何も無し。時期はリニューワル展会期直前で「貸す貸さない」でもめたため、なんと近美は館長裁量で貸すことに圧力をかけて、結局貸し出した。計測データを出すという約束も無視された。そこで学芸課長が5か月前に「自分に任せろ」と言ったではないか、しかも放置して学芸課長が出張とはどういうことだったのかと問い詰めたら、なんと幸福が逆襲!!

彼は「今後河口とは一緒に仕事はしない」という「連判状」を作って、学芸会議で私に押し付けたのである。なんて奴だ・・・とあきれてものが言えなかった。「河口は自分勝手なやつで、学芸課内で一緒に仕事はできない」というのが理由付けだったようだが・・・ちんけな権威主義。そのとき私は連判状に名を連ねた課員に直接問いただし、連判状に印鑑を求めたら、沈黙!!一人だけ「前庭の彫刻の免震かでも、河口さん一人ですべてやろうとするから・・・」と理由を述べた。「じゃあ、どうして自分がやると言わなかったのか?」と尋ねたら、沈黙。

これらの学芸課員の行為は「公務員の職権乱用罪」に当たる。これを独立行政法人の理事長に訴えたら、第三者委員会を設けて処理すべき法律があったににもかかわらず、関西の知人の弁護士を採用して、聞き取りを行って報告書を作らせて「関係者全員、訓告処分」にした。何が問題かというと「理事長はリニューワル展に無理やり貸し出せ」と圧力をかけた張本人だった。この理事長は文科省時代、教育改革として「ルート3.14で計算せず3で計算するように」とした有名人でもあった。この後、庶務課長がまた暴言を吐く。訓告処分に不満だった私に「あの時、殴ってやればよかった・・・」と。私は「じゃあ、やってみー・・・」「世が世なら家に在る日本刀でお前をなます切りにしてやったが・・・」と言い返してやったら、沈黙。

なんでこうなるのか?

しかし、その後も幸福の「村八分政策」は続いた。貸し出し作品の「点検調査」は外注で、私と仲がうまくいかなかった外から修復家を呼んできた。こうした行為は直接弁護士に依頼して告発すればよかったのだが・・・。

さすがに作品購入に関して、当初は資料だけ私の研究室に持ってきた・・・・「一応見せたぞ・・・お前にも責任があるぞ」と言わんばかりだったが・・・その内、購入会議など何の連絡もなくなった。そして彼らは画商の言いなりになって高値で購入したり、工房作(画家当人ではなく弟子の作品)を当人価格で購入したりする「愚」を繰り返した。問題は最初にも書いたが、彼らが受けた教育に欠陥があった。なんせ実技を知らない。どうやって絵を描くのか知らない者が何億も出して作品を購入すれば「偽物」を買うことは必至である。「目利き」であることは、この業務をこなすためには必須な能力であり、間違えれば数千万円程度の工房作を億円単位で購入することになる。何度もこの場面に出会ったが、例えば唯一所蔵のヴェネチア派のベロネーゼ作としている聖母マリアと幼子、ヨハネマグラダのマリアが描かれた商品であるが、これをイタリア担当のKは「若描き(若いことに描いた)」として2億5千万で購入した。彼は本当の若描きがどんなものか知らないから、ちょうど私がロンドン大学コートールド研究所の客員研究員でロンドンに対峙している時にロンドン・ナショナルギャラリーに行き、ヴェロネーゼの作品を示して「若描き」とはどのような描写力であったのか教えた。ヴェロネーゼ印(しるし)である特徴は若くしてそこにあるが、筆さばきがフレッシュであるのだ。「これだよ」と言ったら「いやーフィラデルフィアのヴェロネーゼの専門家で権威ある女性研究者が「若描き」と言っていたので信じた」と言い訳をした。本当にそう言ったらその女性は権威ではない・・・・工房作を買った嘘の言い訳に聞こえたが。

他にドイツデューラーが専門だとするものがクラナッハの作品二点を購入候補として会議で発表したが、即、「これは工房作でしかも出来が悪い、クラナッハ調を踏んでいるが上半身と下半身を描いた者が居て、バランスが取れていない」と言ったら「えええー」と「どこがー??」と分からない。同じ者が今度は「初期のオランダ静物画の影響を受けたドイツの静物画家ゲオルグ・ヘーゲルの作品とされるものを持ってきたから、これまた即、「ああこれはコピーだ」「どうしてー?、どこがー」と怪訝に言って、「このヘーゲルの権威が良い作品だと言っている」と毎度おなじみの「権威が言っている」が登場する。自分にはわからないから「権威」という言葉を選択の「枕詞」として用意している。中にはおバカな者は「画商がそう言っている」と墓穴を掘っても気が付かない者もいる。画商は「詐欺師」と思え!!そのコピーだが前に以前話したことがあると思うが、同じ作品が二枚位あると分かったら、どちらかがコピーだ。しかも比較して「ここの花びらが一枚足りない。こっちは葉が少ない」といった具合でよく見ればわかることだが、最初から思い込みがあるために「見えなくなっている」のだ。こうして私は何度も偽物や工房作を買うのを阻止したが、定年まじかでは務めを果たせなかった・・・と言うのも私を排除して購入を決めたのだ。ティツアーノ作とされる「サロメあるいはユディット」とされる女性を描いた作品だが、まず世界に何枚もあるということは、西洋美術館に「本物」が来るはずもなかろうと疑え!!しかし担当者は渡辺で「描き直しがあるのは画廊が本物の証拠だと言っている」と公表しているのだ。その価格は5億円。顔は相当損傷が見られ、リタッチが見え、ティッツアーノ風に仕上げてあるがほとんど修復家の技量だ。同じ作品がメトロにもあるが収蔵庫に眠っている・・・分かるだろうか、収蔵庫行きレベルなのだ。作品の紫外線写真、赤外線写真、そしてX線写真、そしてマクロ写真を見て、損傷部が大きく他の美術館は買わない作品であること。この事実は当時の館長青柳正規に厳密な報告をしたが「いやーまた美術館の為になるようなアドバイスを頼む」と言って笑っていた。

ちょいと目利きの訓練をしてほしい。実践が乏しい者にいきなり鑑定は無理だ。少しづつ海外出張したら必ずルーブルとかアムステルダム王立美術館とかで何日間か通って「視覚的記憶」を繰り返すのだ。目で見て状態を憶えるのだ。私はそうした。その積み重ねで分かるようになる。そして画家がどういう表現を目指していたのか理解するべきだ。西洋美術館にも貧弱ながらコレクションは展示されているわけだから、昼休みにお駄弁りばかりせず、作品を熟視したらどうか!!!そう言われると彼らが「日頃から誇りにしている権威」が不満が鬱積していたのかもしれない。しかし自分を磨かなくてどうするのだろう。彼らから美術作品に関する学術的質問が来たことは無い。私が研究員であったベルリン国立絵画館(ダーレム)ではルーベンスの購入に関して、日本人の私にも「意見」を求めてきた。学芸員のレベルがあまりに違うが、研究熱心でいろんな意見を吸収しようとする日常に感心させられた。

しかしフランスの美術館を模範としてきた西洋美術館にはフランス近代絵画が主で、行う展覧会ものはフランス近代絵画のマネ、モネ、ルノワール、ゴッホなどが大衆的で入館者が多く見込まれるので、これが殆どであったが、80年代以降借用作品の保険料が上がって大きな有名画家の作品展は困難になった。こうした中でもっと学術的な美術館の役割としてあるべき研究企画展が求められたが、故中村俊春の研究企画以来実現していない。フランスの影響が残るのはフランスが誇る権威主義や階級主義だろう。弊害以外、何の役に立たない。

幸福の村八分が続く中、私も少々くたびれてきて、とうとう大森の総合病院の心療内科を訪ねた。それから精神安定剤、睡眠導入剤、胃薬を毎回処方される。住まいの仲池上からバスで大森に、出勤時間に遅れながらJRで上野に向かうのが3年半続いた。河口は悪い奴だ・・・が定着したようだ。

ある日、帰宅する地下鉄の上野駅でドイツ美術担当の田辺とホームで出くわしたら、彼は近寄ってきて、唐突に「皆には家族がいるんだよ・・」と言う。「はあー、何それ?」と聞くと、もういいというようなしぐさで離れて行った。私が独り身であるのが私の「性格の悪さ」だとみんなで噂でもしていたのか? 家族ならいるぞ!!大事な「珠ちゃん」。ここでおおぴらに行ってやろう「皆を200回以上殺してやりたいと思ったさ!!」しかし実際に実行しなかったのは「珠ちゃん」がいたからだ。彼女を置いて死刑になるわけにはいかなかった。

 

 

 

 


はみ出し者(備忘録Ⅴ)加筆あり

2023-10-27 09:14:01 | 絵画

出る釘は打たれる・・・と。

日本の社会または組織は「集団の価値観」を重んじて「社会ルール」「道徳」「マナー」「常識、非常識」という言葉が好きだ。また情緒的に判断し、論理的に言うのを嫌う。何が「理屈」で「屁理屈」なのかも曖昧で、権力者や有名人に忖度する。権力者の無法行為は多くの者は目をつむり、「当然化」させてしまう。集団はそれそのものが正義の様に信じられるから、内部で反論は許されない。プチ軍隊とでも言えるような「規律」が出来あがる。「個人の意見」は「はみ出し者」の要素となる。

国立美術館の中でも同じことが起きていた。

私が主任研究官として新規採用で働き始めても、保存修復係として何をするのか、周辺の人たちは傍観する者と邪魔をする者とに分かれた。修復家の仕事として、まず緊急を要することから始めて、保存環境を適正にするために、展示室では来館者の為に朝9時から夕方5時の開館時間しか温湿度管理の空調を行っていなかったことを24時間空調にするように働きかけた。毎朝、空調機を動かすと吹き出し口から蒸気が噴き出るのを我慢できなかった。収蔵庫でさえ8時間空調で意味が良く分からない状態だった。展示室の8時間空調は「美術品の保存」が目的ではなく、来館者の為に冷暖房を行っていたのだ。誰が決めたのか・・・・。昭和43年の開館以来の出来事だ。問題は海外から美術品を借用して展覧会を開催してきた事。批判は外圧でなければ、西洋美術館内部から誰も動こうとしなかったのだ。「運よく(?)」ロンドンテイトギャラリーからターナー展で借用した際に絵画の額の裏面に温湿度を記録する小さな機器(データロガー)が付けられていて24時間空調をしていると「うそ」を付いたことがバレて、また同展で絵画を京都近美で破損し、保存に対するイギリスからの批判は私が任官する前に起きていて、次にウイリアム・ブレイク展で多くの作品を借用する要望書を送っていたところ、借用契約書に24時間空調の規則が書かれていたが、「また嘘を付かないように」と督促があって、それまで放置してきた24時間空調は「少なくとも展覧会会期中だけはするよう」に努力が始まった。この時、私は恥ずかしい思いで秋の台風シーズンに「電気代」が3倍になったのを憶えている。

当時、空調機器の運転管理は庶務課の施設整備係が担当していて、私が温湿度の厳密な運用が出来るように注意したら「うるさいんだ!!おまえの仕事は別だろうが・・・」と言われて、許せなかった。その若い係員は何が目的で仕事をしているのか理解していなかった。酷いのは、若い担当者が展示室の温度湿度を計測する仕事をサボって、地下の空調機のある部屋でデータをねつ造し、報告書に書き込んでていたことだ。学芸会議でこのことを報告すると、担当者が面倒な仕事を毎日させられている・・・毎日する必要がるのかと同情する者が学芸に居たこと。確かにアスマン温湿度計は床から1mの高さに計器を設置し温度と湿度とを計測する。湿度を測るには温度計2本のうち1本に蒸留水を浸み込ませたガーゼを巻いて風速1mの風を送って蒸発させて温度差を測り、これを表に照らし合わせて湿度を割りだす。これはどこの機関でも基準となる最も正確な値が得られる方法で義務付けられていることだ。学芸員はこれらの知識理解が全くない。これが国立西洋美術館の文化財を収蔵・展示する施設設備だったのだ。

環境問題に関する基本的業務はこれに終わりはしない。

美術史系の学芸員にとって、私の業務は「作業員」扱いで、作品貸し出しの際に保存状態の記録はさせられても、状態が悪いからと言っても、貸し出し許可は美術史系が行っていた。少なくても貸し出し作品には裏面からのショックに対応するために「裏板保護」を義務付けた。こうして如何に所蔵品の保存状態を保つのか、細かな作業が続いた。

保存修復の業務は過去には「積極的処置」という概念で「損傷が激しいものの他にも小さな損傷でも積極的に処置をする」ことが60年代から70年代は行われていた。若い修復家の育成が盛んに行われ「過ぎたるは及ばざるがごとし」と言えるほどに危ういケースも出てきて、一つ一つに質の高さが重要視されるようになった。ドイツでは処置技術や材料においても一つ一つ議論がされ、論理的合理主義というものが各自に必要になってきた。そして時代は変化し、直接的に美術品に処置することは「最小限にとどめる」ミニマルトリートメントが主流となり、同時に「予防的処置」プリベンティヴトリートメントが叫ばれるようになり、コンサーヴァター(保存修復家)と従来の処置ばかり繰り返すレストラー(修復家)が区別されるようになった。

美術館という機関に居れば「所蔵品が置かれている環境」全てに対応するのが業務と言えれば、「美術品を最も壊すのは学芸員である」とまで言われてきたように、学芸員の理解を得るための努力も業務に加わっていた。特にこの国ではプリミティヴであった。

 

西洋美術館の建物はおバカな館長の裏工作で「重要文化財」に指定された本館建物は保存環境が不適切でも現状をいじれなくなっていた。次回は腹の立つ戦いを書くことにする。

 


人格が否定された(備忘録Ⅳ)加筆完了!!

2023-10-12 12:16:37 | 絵画

寝る時間になっても、つい思いだし、怒りがこみあげて眠れない。

金子勇という東大の研究者が京都府警に逮捕されて罪をねつ造された。冤罪だ。彼は当時世界で最も先端を行くWinnyというソフトウェアを開発して無料で他人に使わせた。ある二人が犯罪にかかわる事に使ったために金子氏が京都府警に逮捕されたのだ。詳しい話はネットで検索して欲しい。要するに共犯として扱われて逮捕され拘留されて、長い間研究者として最も大事な時間を無駄に過ごさせられた。「人殺しに包丁が使われたら包丁を作った者が悪い」とされた事件で、当然無罪となったが、何故、京都府警はこのようなバカげた権力を用いて、「当時、わが国で最も先進した科学者の業績を無駄にした」のか。もし彼の才能がより発展性のある時間に用いられていたら、この国のIT技術は多大な進歩をしただろうと言われているが。

運命というのは個人の人生に全く不幸な結果をもたらすことがある。姓名判断というのを否定する人にはどうでもいいだろうが、中国三千年の歴史の一つに四柱推命というのがあるが、人に係わることの統計結果によって判断する方法論だ。これによると金子氏の名前の総画(生命、名前の画数の合計)によると「20画」で、「或る時、人生で大業を成し遂げても、一夜にして無にさせられる」と出ている。そんなことが信じられるか!!??という人は自身の周辺にこのような扱いを受けた者が居ないか調べてみて欲しい。

実は今日の話は「眠れない」話で、自分に降りかかった事件について書くことにする。

書くことで、もし少しでも心に安らぎが得られれば幸いである。

私は1995年の1月17日に起きた阪神淡路大震災の時、すぐにロサンゼルスのポール・ゲッティ美術館からファックスがブリヂストン美術館の田中千秋の所に入った。ゲッティ美術館のジェリー・ポダーニィから「地震災害の文化財救援活動を準備している」と「災害救援活動の専門家も連れて行く」との連絡だ。活動費用はゲッティ持ちだと。この行動の速さは、初めての私は感動した。「腰を上げて自分にできることをしなくては」と思い切って、あちこちに連絡を入れて、仲間を集めて計画を立てた。その時すぐには出かけられなかった・・・・多くの方が亡くなっていて、そこに入るには被災した美術館、博物館との連絡も必要で・・・宿をどうするかも選択しなければならなかった。まずは斥候を送って状況を確認して、出発の日取りを決めた。そして関係官庁として文化庁に「文化庁災害派遣」を行うかどうか打診した。なんと即返事は「行かない」であったが「じゃ結構!!我われだけで行く」と返事して行動開始した。東名高速道路を車で・・・・公用車は無い・・・持ち出しの車3台に7人、私のタウンエースには修復処置の道具、梱包材などを積んで夜10時ごろ上野公園を出発。あいにくの雪で夜中の2時ごろ東名名古屋の手前で降ろされて下道を走り、岐阜羽島でようやく東名に戻った。中国道の宝塚手前で高速を降りて、下道を神戸に向かう。三宮に着いたのは朝の7時頃であったろう。

訪問地の第一は兵庫県立近代美術館、次は神戸市立博物館とすでに連絡が入れてあった。当然ながら展示室の作品は殆ど収蔵庫に収納されて、我々のように遅くに来た者に被害の状況が説明できるように「サンプル」が置かれていた。神戸市立博物館にあっては昼飯の時間になって「お茶」を出されて・・・・何をしに来たのか・・・・お茶を飲みに来たのか・・・と自己嫌悪に陥ってしまった。これでは「議員の見物旅行」と変わらぬ事態で、初日の工程が殆ど「無駄」と思えた。その日は吉川の女子大の寮に泊めてもらって・・・ここでも「歓待!!???」されて吉川牛のすき焼きでもてなされて・・・もう、立場がなくなっていたが、ようやく翌日の訪問に三宮であったか市立美術館で処置が必要な美術品と出会って、来たかいがあったと少し気も楽になった。

要するに地震災害が起きてから救援活動は必要であるが、その前に災害対策が万全であることが大事で、その対策方法を日本中の文化財を持っている機関や個人に至るまで「理解と対策」を徹底する活動がまず先であると思う。

多くの美術品は展示中か収蔵中であるので、その方法が実行力を持っているように、被害の教訓を生かしていこうと考えを変えた。

欧米では「美術品を壊すのは学芸員である」という言葉がある。これは美術品の取り扱いを左右する指示を出すのが多くの場合学芸員であるからである。修復家やレジストラーの配慮が及ばない処で、貸し出したり動かしたりして壊す可能性が高いという意味である。特に学芸員の権力が強いフランスの組織では最悪な状況を作ってきた。保存修復を担当する専門家は組織外部に置かれて、美術館内で環境から保存対策をしなければならないのに、具体的な指示が出せる保存修復家が居ないで、修復家は「壊れてから直す修理屋」扱いであった。今は改善したであろうか?

これに近いのが我が国であって、美術館の組織の形態は明治以降、フランスを真似て出来てきたから、学芸員は基本的な知識や能力もないうちに「権力」だけは付けてもらったのである。

私がドイツから帰国した1982年に西洋美術館を訪ねたときに「保存修復に関する小論文」を提出するように言われたが、その年に西洋美術館は修復家を一名採用するための「増員要求」を文化庁に提出していた・・・・が採用したのはドイツ美術史が専門の学芸員で・・・この時修復家を一名採用したことになっていた。

そこで、実際に修復家を採用できるまで10年かかってしまう。1991年(よわい40歳)に私は国立美術館・博物館で初めての保存修復家として主任研究官で採用されて朝日新聞にも人事紹介された。この時の館長は文部次官であった三角哲夫氏で「河口さん3年でいいからこの美術館に保存修復の線路を引いてくれ」と言われた。実際はそんな簡単なものではなく前途多難であった。

なんせ周囲は「保存修復」が何か知らない学芸員、庶務課員ばかりで、最初から「君は絵が壊れた時、修復だけしていればいいんだよ」と言われてカチンと来て、先輩と口論になった。

この先輩は学芸課が、これまで慣習としてきた「分業体制」から「専業体制」に移行する第一義として、保存修復担当者を雇ったということを理解していなかった。そもそも保存修復とは何かが認識されていない。ロンドン大学では美術館・博物館の学芸員を輩出するだけあって「保存修復・保存科学」についての講座があり、大事な単位になっている。19世紀末には大英博物館やベルリン国立博物館群には保存修復の科学的な理念から部門として確立していたから、欧州の大戦で多くの貴重な文化財が戦災からの逃れられるように対応が出来たのだ。

だが国立西洋美術館の学芸課を筆頭に全国の学芸課の役割は雑務を分業して、せいぜい他人が書いた文献資料を読んでまとめる程度の業務が主となっていた。だから展示室に作品を展示しても、そこから美術史上の発見をするような接し方はしない。そもそも彼らが大学で美術史や美学を専攻しても、それを教える教授たちが根本的に原点である美術品を観察し研究する方法を学んでおらず、結局、文献資料を読んで語る日常が出来あがってしまった。それだけでは美術館業務はなり行かないから、やりたくもないけど分業で作品登録管理、保存管理、資料係(図書)、広報などを数年周りで分業しているのがこの国の美術館・博物館の実際で、いつまでも素人的で専門性の厳しさや誠実さがない。欧米(フランスを除いて)では専業が進み、館長はビジネスマネージングが求められるので、日本の様に現場無視の官僚的な考えで大学の教授などを経験した者ではない。美術館運営の経済力を実行できる能力が求められている。美術史系はむしろ副館長を務め、場合によっては保存修復担当者が副館長になったりした例もある。

特に近現代美術を専攻した人たちはもっと破壊的であった。19世紀末にボードレールやオスカー・ワイルドのような評論家がでて、「作品批評は自分の詩や作品のように書くべきだ」と述べて、これを規範のように信じ込んだ学芸員や評論家によって「文学的」と称される批評やエッセイが溢れ出たのである。制作者の意図や実際とは隔絶して、嘘であっても批評する者の感性(?)でまったく別の「無いものを在るが如きにする」虚構が作られて、読者は「そういうものか」と観念的世界に迷い込んでいる。

まあフランス人の個人主義は、多くは自己中心主義で自分のためなら「うそ」も平気でつき、ドイツの個人主義とはかなり違う。フランスでは個人が何をどのように考えようか自由(?)であり個人のレベルにとどまるが、これが組織で行われると権威主義や階級主義に代わって実際が無視される事多々あり。これがドイツなら個人主義も曖昧では済まない。個人のレベルなら許されても、組織となると「論理的合理主義」でなければ無視されるか批判の的となる。それとドクター主義やマイスター制度で組織を作ろうとするのは現場主義で、各専門家を呼んで「議論」するのを大切にするのは本質を大事にする国民性のせいだろう。

西洋美術館の先輩で「美術史研究者」として接することが出来た人物は希少であるが、イタリア美術の古典の文献の翻訳などに尽力された生田圓(いくたまどか)氏は人生途上に於いて御不幸があって亡くなられて大変残念であった。末永く史学の分野で貢献されるはずであって悔しい。

彼のような研究者といえる人材が国立西洋美術館に集まっていると考えるのは間違いである。西洋美術が専門でも、専攻分野の言語で書く「国際論文」を書く者がいなかった。これは教授からして大学教育で語学力を堪能なレベルに鍛える認識が出来あがっていないからであるし、そもそも美術作品から出発せずに研究の原点が欠如し、西欧の研究者が「参考論文として採用するレベル」から無縁であるからだ。しかし欧米では違った態度で美術作品と接する在り方が伝統的に出来あがっていた。

あるとき学部を芸大の都市デザインがなにかを専攻した者が私の修復室の図書文献整理のアルバイトに来たが、仕事が終わったからと時間中にパソコン付録ゲームをやって遊んでいた者だが・・・・いつの間にか東大の美術史の大学院生となり、イタリア美術史を専攻したとして、元館長の高階秀爾氏の押しで西洋美術館の求人に応募し学芸課員に採用された。しかし彼が初年の西洋美術館紀要に掲載した「イタリア絵画作品の調査」の中身は学部生のレベルで、美術史専門でもない私にボロクソに言われるほどで、何が言いたかったのか焦点が理解できなかった。後に彼は私が前庭の彫刻免振化工事に従事している時に、学芸会議の最中に突如「免震って科学的に説明できるのですか?」と言い出して、会議中全員が「血の気が引けた」状態になり、横にいた保存科学の担当者は私の方を見てにやけ笑いをする始末であった。まあ少し周辺空気が読めないKYであっても我慢はするが、その後もロンドンの美大で洋紙の修復を学び、ホワイトチャペルの大学院を修了し、ワシントンのLibrary of Conguress(国会図書館)で採用され3年を過ごしてきた紙の修復家の女性を私の研究室で短期採用した時に「あんたー臨時雇いだから」と無礼な発言でパワハラで接して彼女を泣かした。この男より彼女の経歴の方が遥かに優れていて、足元にも及ばなかったレベルであることが理解できない者である彼が学芸課長になった時には昇進制度の出鱈目さに閉口したが。

学芸課は私が採用された後、美術館教育部門、情報資料部門と分業化を進めて、そもそも教育普及活動と言えるものは学芸員にとってたまに開催する企画展覧会であるが、共催展のスケールであれば学芸員が自主的に企画できるレベルではなく、欧米の美術史専門家のコーディネーターが居て、それに従う形で行う業務だが、館の費用で自主的に行う「自主展」では企画内容を明確にして、日頃の研究成果を見せるまたとない機会であるが、これに能力が足りる人材は少なかった。

私が恵まれたのは京都大学の助手であった中村俊春と共に行った研究調査の小企画展、リューベンスの《ソドムを去るロトとその家族》ではメトロポリタン美術館の学芸員に「日本でやるには10年早い企画」と言わせた画期的な中村のアイデアであった。マイアミリングリング美術館から原作とメトロポリタン美術館から下描きデッサンとまるでゲリラの様に科学調査の承諾を得て、学術的な視点で、X線撮影、赤外線、紫外線撮影、果ては顔料分できまで許可を得て仕込んだ小企画研究調査展であった。その中で西洋美術館が所蔵してきた《ソドムを去るロトとその家族》は工房作以前のコピーの可能性は事前の公開の結果が見込まれていて、この企画展の結果はリューベンスの研究者をメトロからとアントワープのリューベンス研究所から招聘しシンポジュウムを英語で開催して調査報告は後日出版した。この企画展は日本経済新聞の記者がいち早く新聞に掲載してくれて嬉しかったが、なんと一年後にNHKの科学部の記者近藤が「最新の科学調査の傾向」を番組にしたいと言って・・・これを7時の特ダネニュースとして放送し、どえらいスキャンダルにしてくれた。こっちはかんかんであったが、「文春」にでも事実関係を公開していやろうかと思ったが、後日「謝罪のような謝罪でないような挨拶」に科学部長やディレクターと近藤当人が館を訪れて・・・もめ事が嫌いな高階秀爾館長と馬鹿な庶務課長の手打ちで・・・終わらせてしまった。NHKの全員をボコボコにして「文春」に顛末を書いてもらえば良かったと・・・・今になって反省している。

中村俊春の在籍した間、彼は学芸課の「いい加減な態度」にいつも怒っていて、私は彼を頻繁に仲御徒町界隈に誘った。よく焼き肉屋で飲んだが・・・彼は大声で怒りがこみあげて話すので・・・店のお上に「ちょっと、あんたたち喧嘩ばかり!!よしなさいよ!!」と怒られたが。「いやー喧嘩じゃありません、こいつはフラストレーションが溜まっているので・・・」と言い訳したもので。彼の才能は語学だけでなく、見方、考え方に鋭い感性があって、西洋美術館の学芸課では物足りなかったのだ。しばらくして京都大学の古巣に呼び戻されて助教授として活躍し、私も京大で研究会に参加するなど、彼と過ごした時間は楽しかった。しかし才ある者の命は短く・・・教授になって活躍半ばにして病死した。「中村をしのぶ会」をするから京都まで来てくれと言われたが・・・・涙が出て止まらないから・・・と断った。何故バカばかり生き延びて、はみ出すほどに才能があるものが居なくなるのか。

私は西洋美術館でまるで「はみ出し者」として扱われ・・・・自分たちと同じ考え方をしない者は排除しても良いと考える集団がいることは、この国の精神性の幼稚さを感じさせる。美術館に「専門バカ」が居ても良い。しかし専門性もなくやたら自尊心で地位にしがみつく無能な人材は居てはいけない。