60歳定年でパワハラから解放されたが、定年は70歳でも良かったように思う。
ただ机の上で仕事をしている者と違い、「現場」があるものは積み上げの能力の質が異なる。様々な問題点をクリアするために「現場経験」を積んだことは、その個人の「財産」なのだ。見識の質の違いは明らかである。これを定年制で捨てているのである。
あるホームセンターの店長が定年でいなくなった。次に若い店長が来たが、何をしているのか存在が分からない。前の店長の時、私はチェーンソウの切れ味が悪く、チェーンの取り換えをすることにした。店長が店頭に現れ、チェーンの種類を捜して取り替えてくれた。たった2千円くらいのものであるが、手を油まみれにして交換してくれたのだ。こういう人は日頃から苦労を惜しまない。多くの商品の知識とその利用者のニーズにこたえられる経験は「60歳定年」ではもったいない。彼は定年後、郷里の同じホームセンターの臨時雇用(つまりアルバイト)となった。それまでの収入が減っても働きたいのか、そうせざるを得ないのかは個人のことだが、彼を使う若い店長は、彼の能力を生かせるだろうか?
メトロポリタン美術館のテキスタイル(織物)修復部長が日本人だという話は、何時か書いたように思う。彼女は定年無しで働いている。やはり実力主義の国では「経験と能力」は周囲から認められる。この国とは随分違う。その状況の違いは「論理的合理主義」が通用するかどうかだと言えるだろう。与えられた現場で実力を発揮して「結果を出す」ことは思考の論理的な組み立てと実行力が必要だ。「愚か者は実証に弱い」という言葉があるが、日本では「実証」して見せても無視する者が多いのは・・・・別の政治が働くからだ。ここにこの国の発展の限界がある。
だから、定年後はどう生きるかよく考えて計画を実現しなければいけない。所得も低く「たのしい老後」なんていう前に「死ぬまで戦い」と覚悟しないと。権力者が国民のことを考えてきただろうか?民主主義を唱えたか?
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