河口公男の絵画:元国立西洋美術館保存修復研究員の絵画への理解はどの様なものだったか?

油彩画の修復家として、専門は北方ルネッサンス絵画、特に初期フランドル絵画を学んできた経験の集大成を試みる

ほら民主主義以外のものが見えてきた

2022-07-24 20:58:42 | 絵画

前回はこの国が民主主義は実現する目標ではなかったことを述べた。

では何だったのかと言えば、今日も議論に上がる「選挙に勝つこと」と「保守的な慣習を守らせる」政策の優越を絶えず目指して、後は自分たちのやりたい放題を「嘘をついてでもやる」のが毎日だった。「遠い未来の国民の幸せを実現しよう」とに日々努力するなんてことはしなかったことは明らかだ。

この国の国民は「無宗教」だと言えるとか言っても、イザヤ・ベンダサン(山本七平)氏の『日本教について』という著書に書かれている、日本人が良く気が付かないうちにまるで絶対的価値のように信じて止まない「人間とはこうあるべき」という伝統的な集団の価値観が信仰の対象としてあることを忘れてはいけない。

しかしこの価値観は誰かが扇動すれば、「曖昧」に説明のつかない状態で変化してきた。戦後直ぐはアメリカの言いなりで「反共」「反社会主義」が権力者によって社会に築かれた。60年代から70年代は「人権」を主張すると「赤」と言われたものだ。60年代後半に県立山口高校の生徒だった私は教師に「おまえらに人権などない」と怒鳴られた。今なら暴言だが・・・当時は当たり前の教育の一つだった。ではその後何が変わった?ブラック校則とか言われている「生まれつき茶色の髪は黒く染めてこい」とか変わりはしない。何なのか?教育者は権力者であり、自分体に従わない者は押さえつけて従わせる・・・のが教育だと思う精神性は戦後の自民党が(特に安倍晋三が美しい日本と言った)全体主義、伝統的家族主義と言えるのだろう。半世紀以上たっても変わらない体質には、そこに統一教会という裏の組織がいた。日本の会長は「献金は求めていない」とかメディアに言って、6日後には「献金は大事であるから忘れないでして欲しい」と檄を飛ばしている。大噓つきめ。嘘をいけない事とは思わない日本の権力者と持ちつ持たれつだった。あるメディアは自民党は統一教会とは関係ないとか言っているが、これから色々出て来るだろう。


テロ事件の重さ

2022-07-15 18:39:13 | 絵画

明治時代への変遷には多くの人の血が流れるような抗力と反力のぶっつかり合いがあって、開国派の井伊直弼を桜田門外で攘夷派の水戸藩士たちが襲って絶命させても、大きな流れの中に消え行ってしまう事件だった。

思想信条、意見の違いで意にそわない相手を潰そうとする暴力は相手の命を奪うことが大事なプロセスであった。現代では意にそわない相手を殺すまで突っ走るのはしなくても、権力で脅して発言力や経済力を奪ったりすれば十分に相手をへこませることが出来る。だから権力者はメディアや経団連を押さえている。労働者は低所得に苦しんでもストライキもしないし、デモもしない時代になって企業の奴隷に近い。

押さえつけられていることにも気が付かない者たちがこの国には半数は居る。

一国の元総理大臣がテロに遭って、テロリストは「当人に対する政治思想には関係ない」と述べているが、テロの目的は己の人生を喪失させられた組織に対する復讐がその組織の最も大きな支持者に向けられたのだ。

「人の命を奪う暴力は許されない」とまず前置きして弔意を述べる者が大半であるが、テロリストの人生は既に自分の大事な人生とまりは「命」を奪われていたのだ。だから私はテロリストに同情する。私も同じ立場であればテロもあり得るであろう。テロは相手の命を奪うのであれば己の命と引き換えであって、失敗して返り討ちにあっても仕方ないと覚悟をしなければならない。

私も在職中に何度も殺意を覚えたことがある。しかし行動しなかったのは家に愛猫のタマちゃんや勘助がいたからだ。彼らの命を放っておいて自分の意思を通すことはできなかった。

もし政治家が国民の人生、生活、そして権利のことを大事にする「民主主義の理念」を政治理念として実現に励んでいれば、こんなテロ事件は起きなかっただろう。いつ起きても不思議ではなかったと思うが、テロの少ない国である。政治家が安心して個人の利益ばかり追求しても、それが基で殺されることは万が一にもなかっただろうから、今回は国民の理解は情緒に流されているようだ。

小沢一郎がこの事件について「これまでの自民党の積み重ねによる結果によって起きた」とツイッターで述べたら「人間として疑われる」というような多くの批判を受けている。しかしこの「人間として疑われる」のは批判する側の者だ。欧米ではこの「人間」という意味は理解されない。これは日本人独自の「人間観」であり、「人間はこうあらねばならない」とまるで宗教的に集団で信じ込んでいて、小さい時から教え込まれている精神性を固定する教義の一つであるからだ。欧米では「人間」は動物の中の一つの種であり、これに精神性を付属させると宗教である。欧米人はこの「人間観」ではなく、個人性というものが各自に認められていて、集団として「こうあらねばならない」と言ったら19世紀末に滅んだ教会の教義と思われるだろう。

野田が首相であるとき、党首討論で安倍は「貴方は人間じゃない!!」と言ったとき・・・・英語に翻訳できないと笑ってしまった。この国の政治家に「民主主義」を求めるのは間違いだろうか?

 

 


この国の未来が見えますか?

2022-07-14 21:37:33 | 絵画

この国に生きていて、この国が今どの様な方向に向かっているか考えたことがありますか?

それは明治から今日の歴史的変遷をちょっと考えただけでは気が付かないかもしれない。学校では教えない日本の近現代史には具体的な変化は書かれないし、おおよその国民が「この国の在り方、あるべき方向性」について求めたことがないからではないかと思う。

安倍晋三が銃撃されて、岸田総理は「参院選挙の最中に民主主義への脅威となる・・」とか言っていた。日本人にとって国政選挙が民主主義であり、多数決で国政を決める大事な制度であると思い込んでいる。しかし、はたしてこれまで日本人は「民主主義とは何か?」を理解してきただろうか。19世紀末に選挙による多数支配が民主主義そのものを破壊すると述べた思想家がいた。こうした選挙で多数を得たものが、いろんなところで民主主義の本質を無視し、好き勝手な政策を行うことは目に見えていて、自民党は長い間、政権を独占し、民主主義とは相いれない「自分たちが考える国益」を追求してきたにすぎないことは感じていない様だ。

この国の政治家に「民主主義とは何か」説明を求めたい。戦後、自民党は政策の目的つまり行き着く先に「民主主義」を上げてこなかった。アメリカや西洋の国々では「民主主義」は追求実現すべき目標で、その一つの完成形としてスウェーデン、フィンランド、ノルウェー、デンマークでは税金を高くとって、それを教育費や医療費などを無料にする社会福祉政策を実現している。

この国では恐らく無理だろう。なぜなら島国独自の集団的価値観を押し付けて、その基準に合わない者は阻害する「いじめ」が子供時代から大人の時代にまではびこっている。家族主義が崩壊しかければ保守的な批判を行い、「美しい日本」とか、訳の分からぬ曖昧なキャッチコピーを言い出す。ジェンダーの問題も夫婦別姓も社会の秩序を壊しているというような批判をする人たちが政治を行っていて「民主主義」とは遠い。

「民主」は民つまり国民が「主」つまり主であるという考え方である。国民一人一人の幸福を実現しようとしないで、国益であるとして、グローバリズムと称して労賃の安い海外に企業が進出し、国内の雇用を減らし、人材派遣会社を制度化して不正規雇用者の低所得者を増やし、国内経済を低迷させた小泉純一郎と竹中平蔵の時代から、この国の若者は将来設計もまとも出来ない夢の無い生活を送っている。こんな時やり場のない生き方に付け入ったのは統一教会や勝共連合であり、多くの日本的政治家の理念の無さにヒットした。

自分の心を支える「何か」が無い者は、すぐに過激思想や宗教に転ぶ。しかもそこに論理的合理性は無くても、心情的に自分を救えるものだと思い込む。だから心情的に身を寄せる対象が現れれば、日本人は思考停止する。

カルト教団が神聖な行いだと言えば、貧しい頭の者たちはそれに乗っかるのだ。アメリカは戦後の日本に「民主主義国家」を求めたが、民主主義とは無縁の日本の政治家は戦後の混乱を乗り切ろうとして、戦中の思想に似た集団主義や家族主義から抜け出せなかった。自民党にとっての統一教会や勝共連合の理念はどうであったか、私がここに書かなくても年内いっぱいの話題として残るであろう。

82年に帰国して修復を始めた私のアトリエに「霊感占い」と200万円の「壺」を持って押し掛けてきた2名の若い女性が押しかけてきたのを思い出す。どういうタイミングであったのか忘れたが、高円寺の友人に10万円借りてようやく食事できた頃である。

今回の選挙も50数パーセントの投票率である。後のものはこの国の政治に何も期待していないということだ。

同様にお隣の国で「民主主義」を口にする「共に民主党」という政党が多数を占めて、自分たちの犯罪を摘発できないようにする法律を作っているのは全く同じレベルである。この国も「民主主義」が未来に見えない国だろう。

 


子猫が部屋で大暴れ!!

2022-07-12 22:17:37 | 絵画

16年一緒に過ごしたトラが亡くなって、またペルシャ系の毛の長いメガちゃんが行くえ不明になって合計7匹となって、寂しい思いをしていたところ、隣の水産高校の生徒から「野良猫の子猫がいっぱいいて、貰ってくれる人を捜している」と言われて・・・・すぐ「もらってもいい」と返事した。

ここ浜田では、いつも猫と言えば「船」と関係があって、トラは沖の波止に釣り人を渡す渡船の金時丸でもらってほしいと言われて、まだ東京に住んでいたが、仲池上の家に連れて帰った。それから何匹も受け取った。今回は近所の吉勝丸という巻き網漁船の網本から生後二か月くらいの野良の子猫をもらうことになった。

最初に二匹。この子たちは既に事務室でエサをもらっていて、母親は人見知りせず、初めても私にも愛想がよかった。簡単にキャリーに入ってくれて、のんびり歩いて家に向かっていると水産高校の女子生徒たち5人に囲まれて、子猫たちを披露することになった。うちの大人の猫たち3匹も迎えに来て、キャリーの中を覗いている。決して機嫌が悪い訳ではなく・・・むしろ子猫にはやりたい放題させるのが大人の猫たちだ。女の子たちはキャリーに指を突っ込んだり写メを撮ったりで忙しい。みんながきゃきゃ言っている所に吉勝丸の若社長が車で様子を見にやって来た。

どんな「おやじ」に猫を渡したのか心配になって来たのだろう。女の子に囲まれる子猫に、膝の上に大人の猫を載せている私を見て安心して帰って行った。そういう訳で次から次へと電話がかかってきて、もう一匹、もう一匹ともらうことになった。

その子たちは合計4匹、今テレビを置いている二階の居間で大騒ぎをしている。エアコンが壊れて(このエアコンはたびたび冷媒が抜けて、フロンガスを注入するのに4万円かかるそうな)窓を開けざるを得ず、網戸で外に出ないようにしていたら、これも外して窓の柵に子猫が乗っかっている。下に雨除けの屋根があり、飛び降りることも可能であるからひやひやしていたところ、そとから梯子を使って上ったら部屋の中に戻った。やれやれで網戸が外れないように外からつっかい棒をあてがった。糞暑い夏が始まって子猫たちには申し訳ないが風通しだけは確保した。

しかしなんのその!!4匹のうち最後の一匹は私に慣れず最も心配な子だが、すぐに何かの後ろに隠れ、どこにいるのか行くへ不明となる。他の3匹ははしゃいで部屋中を走りまくって、机の上のものを落とし、ティッシュは箱から出してボロボロ。障子は破く。いまやふすまは上張り、中張り、下張りまで剥がし、張り枠まで露出。もうすぐふすまを破って押し入れの中に入るだろう。

私がテレビを見るとき背もたれの上に座布団を置いてすわると、3匹は私の膝や足の上に載って騒ぐ。しかも細くとがった針のような爪が私の足や体に突き刺さる。もうこればかりは痛くてたまらず大声を出してしまうが、かれらは気にも留めない。そのうち日本語を勉強させねば・・・。痛いが肩に上ってくるのはそれほど慣れてきたということだが・・・風呂に入るときに傷がしみて思い出す。今日は私のお腹の上に載ってきた。寝ているわけではなく、正座の格好で、出っ張ったお腹にちょこんと乗ってきたのである。私は医者には糖分を減らすように言われているが、子猫に改めて指摘されているようだ。

こうしてこの文章を書いている間、書き始めた時には大騒ぎする音が聞こえていたが、いまとても静かになっている。きっと疲れて寝始めているのだろう。

こんな子猫が大騒ぎする時期は今しかないから、やりたい放題いっしょに遊びたいね。