人は暇を持て余すと、昔のことを思い出して「腹を立てる」らしい。
あの時、こうしておけばよかったなどと悔しさも激しく思い出されて建設的な時間は生まれない。しかし一度おおぴらに書いてしまえば、しつこく腹を立てているのは恥のように感じるから・・・・書いておこうと思った。しかし本当にそうなるか怪しいが。
このブログを書く主目的は西洋美術館時代に業務を通して学んだことをポジティヴに書いておこうと思ったところから始まったはずだ。しかし、では正直に書いてきたかと言うとそうではない。肝心のところは触れないようにしてきた。そこを今回明らかににしようということだ。
しかし、いきなり美術館時代から始まると、たしかに楽しかったことなど書きそうもない。だから少し自分のことをさらけ出しておくのがフェアかなあと思う。
備忘録とは「人は忘れるから、その前に書き留めて置くこと」だが、どこに何を書いたか忘れる年齢になった。酷いもので昨日何を食べたかは思い出せないから、年を取っていくのに無駄なことは覚えておかないようにと、きっと「神様」の配慮だろう。しかし西洋美術館での経験は忘れることのできない多くの出来事があった。特に人は楽しかった思い出は消えやすいが、腹の立った思い出は忘れないものだ。ここに楽しかった思い出をそれらしく描くとむなしく感じるだろう。しかし悔しかった、腹の立つ思い出は触れずに放置はできないと思う。きっと読む人を不愉快にさせるとしてもだ。
私が西洋美術館に任官するきっかけは、まずベルギ-、ドイツで絵画の修復を学んだことに始まるが、そのそも画家になる決意でフランドルの絵画技法をベルギーで学ぼうとして渡欧。東京造形大学2年中退、22歳の春だった。世間知らずで、伝統的な街並みに馬車が走っちるくらいに思っていたが、馬車の代わりに電車が走っているのに失望した。当時、枯れ葉がチラチラ舞うパリの風景に憧れて旅行する女の子と変わりなかった。
先に造形大学の先輩の青木敏郎氏がゲントに留学していたので、彼を頼ってゲントの場末の住まいの一角に身を寄せたが、現在フランドル技法などに関連する学校や画家などの情報は無く、彼も訪ねたことのなかったリエージュの王立美術アカデミーや美術館を訪ねて情報を集めることにしたが無駄であった。彼は一年先にベルギーに来ていたが、彼もあこがれたファン・アイク兄弟兄弟の祭壇画のある近くに住むことで、頻繁に祭壇画を訪ねて視覚的に記憶し学ぶことは出来ても、ゲントの町はフラマン語(オランダ語を公用語としている地区だが、実際はフラマン語と呼ばれるゲントの町の方言が話されていた)でフランス語が日常会話として上手くなるのは難しかった。語学もさして準備してなかったので、私は一応一年間日仏学院でフランス語会話の基本だけであるが学んでいたので、仏語が通じるブリュッセルに住むこととした。アカデミーの学期が始まるのは9月であるが、とりあえず下宿や入学試験など準備するために飾り窓などのある娼婦街がそばの北駅の近くの下宿に住んだ。しかしそこでは一月もしないうちに部屋に泥棒が入り、東京から必死に下げてきたソニーの最新型同時録音ができるカセットレコーダーを盗まれた。盗んだものは隣の部屋に移り住んできた者で、なんと部屋の鍵が私のと同じであった・・・。オーナーはインド人であったが、家賃を払わずにとんずらした隣人の為に警察を呼んだが、私がレコーダーを盗まれたと言ったら「出ていけ」と追い出された。何も分からないうちにこれだ。
カセットレコーダーはラジオで流れるニュースを聞いてフランス語を学んでいたのでがっかりさせられた。当時ニュースでは田中角栄の汚職事件を盛んに報じており、フランス語の勉強にはもってこいであったのに。そうこうしているうちに23歳の誕生日が来た。
ブリュッセル
とりあえず、ブリュッセルの王立美術アカデミーに入学して、いろいろ調べてみることにした。しかし誰も中世の絵画技法など教えることができない現代の状況を知ってから、ひょっとしてベルギー王立文化財研究所なら、近年、ゲントのファン・アイク兄弟が残した三連祭壇画《神秘の子羊》を修復することで科学調査も行ていた成果を学べるのではないかと思い、絵画の修復と調査を学ぶつもりで研究所の門をたたいたことで、事が始まる。その時私はブリュッセル王立古典美術館でピーター・ブリューゲルの《反逆天使の失墜》という板絵を模写している最中であったが、修復家になるというよりプリミティヴフラマンの絵画技法(ヨーロッパでもっとも初期に完成された油彩技法)を学びたいという気持ちの方が強かった。
青木氏とは頻繁に会って技法の話などするのに、結局技法が理解できたとしても、ファン・アイク兄弟のような絵は描けない・・・つまり「デッサン力」を身に付けないと技法は観念的な知識で終わるので、二人で競争して「年間1000枚のデッサンを描こうと!!」となった。幸い私がブリュッセルのアカデミーに入学してから、絵画のクラスの授業は午前中で終わりで、午後はデッサンの為にモデルが3ポウズ(45分ポウズ15分休憩)でヌードのデッサンが出来た。これは非常にありがたかった。日本では20分ポウズで5分休憩であるから描きにくかったが、ベルギーのモデルさんは根性でポウズしてくれた。休みの日は家で自画像のデッサンを描いた。年間1000枚は達成したが、満足のいかないデッサンも半分近くあり、思い切りゴミの日に出した。しばらくして日曜朝一の泥棒市で私のデッサンが売られていたのを発見!!そっと近寄ってkimioのサインがあるのを確認して、いくらで売るのか聞いてみたら1000フランだという。私の愛煙したタバコが20フランであったので呆れた。
美術館のブリューゲル作品の前で模写をしているところに日本人とベルギー人の若者と出会ったら、二人はソルボンヌ大学の日本語コースで学んでいる学生で、ベルギー人の方はパトリック・ドゥ・ヴォスと言い(後に人生の大きな変化を与えてくれた恩人となった)ブリュッセルに家があり、家族にも紹介され、彼がブリュッセルにいる間は随分家庭的な思い出を作ってくれた。そこで王立文化財研究所でフランドル絵画の技法を研究するためには紹介状が必要だという話をしたら、なんと知り合いを便って(フランス語系)国務大臣の推薦状を手に入れてくれたのだ。びっくりの出来事だった。
しかし文化財研究所の研修生として受け入れてもらうためのインタビューで所長直々に面接してくれたのだが・・・4メートル離れた席まで匂うほど彼は昼飯の赤ワインで酔っていた。「君のフランス語は良いが、修復額の知識は概略だ」と言って、結局受けれたくなく国外の「チューリッヒ(スイス)、ニュールンベルグ(西ドイツ)、おまけにリスボン(ポルトガル)のいずれかなら紹介状を書いてやる」と・・・酔っているのではないかと思うほどの話・・・・前者二つはドイツ語、もう一つはポルトガル語ではないか。結局、話の流れから仕方なく「ニュールンベルグなら行ってみます」と返事する。
生活費は親の仕送りに頼っていた。郵便はがき送金という最も送金手数料が少ない方法で二月ごとで3万円もらっていたが、ぎりぎりでビールを飲む余裕はなかった。幸いコップ一杯で酔うので飲む習慣はなかったが、たばこは止められずベルガというベルギーの大衆たばこを日に一箱吸っていた。20ベルギーフランで140円と高かった。タバコは吸うべきではなかった。自炊でお米を食べたかったから粘りの無いイタリア米だが、しょうゆはロンドンまで買いに行った。ベルギー側の港オステンドからドーバー海峡を船でドーバーかダンロクヘアに渡り、ロンドンまでは鉄道だったが、港では入管のキツイ検閲に遭った。見た目が貧乏くさく、若いというだけでひどい扱いをするイギリス人がいることは忘れない。
しょうゆだけの為にきつい旅をしたが、結局おかずが和食ではなく、(今でこそ自炊歴も長く、在り合わせの和食をつくれるだろう。)そのうちアラブ人に教わったクスクスという野菜スープをパスタの顆粒状のものにかけて食べる最も安い食事に落ち着いた。これはブリュッセルにいる間続いた。クスクスはお腹に入ってから膨れて空腹は無かった。それでも仕送りの中からお金を残し、アルバイトに日本レストランで皿洗い、大工、魚を焼く焼き場などして、日本人向け魚屋で週末は魚をおろしたり売り子をやったりと生活費の足しにした。鯛からウナギまで下せるようになって今日助かっている。ある時は肖像画家や絵画の模写を売るコピストもやった。
ニュールンベルグ
翌月にニュールンベルグのゲルマン民族博物館のアトリエ(ここには9種類の修復アトリエがある)の部長トーマス・ブラハート博士と面会・・・見せられるものといえばアカデミーで描いたヌードデッサン、東京で描いたレンブラントの模写の写真などを持参して見せると、いきなり「いつ来る??」と言われて「えっ!!来てもよろしいのですか?」と聞くと「君は珍しく、もうヨーロッパ人が学ばなくなった17世紀からのデッサンを学んでいる・・・素晴らしいから来なさい」と言われて、つい嬉しくなって「今金もうけのための模写が完成してお金が手に入ったら来ます」と返事してしまったのが「修復家になる始まり」だった。
まだ何を学ぶのか分からないうちに、半分画家の修行のような気持ちと、修復技術を身に付ければ、絵を描いて暮らすよりは生活が苦しくないだろうぐらいの「下心」が入り混じった「選択イコール決定」ではない中途半端な気持ちがあったのだ。
要するにベルギーでもなく、フランスでもなく、ポルトガルでもなかったのが修復家としての研修に資質を与えてくれたニュールンべルグ。ドイツは理屈が通り・・・いや論理的合理性がなければ議論にもならないし、修復技術の先進した国として人生の大切な時間を費やす価値がなかったであろう。自分の日本人的価値観がひっくり返るほどの技術理論、知識の蓄積に出会ったのだ。まず講釈を垂れる自分にとって「人生勉強」が始まった。
殆どの日本人が儒教的伝統か、地位や年齢に、感情的な考え方に影響されて、物事の本質から遠く離れてしまう傾向があるのに比べてドイツ人は教養の質が高く、論理主義で、仕事も結果的に時間を短縮し民主主義も一歩進んでいると思えた。その環境で学べたのは幸運であった。
ブラハート先生は人格も能力も尊敬できる人物で、私の経歴にもってこいの資質を磨いてきた人であった。若いころライプチヒの美術大学で絵画実技を教えう教授も経験していて、家具の美術史博士で、技法材料に詳しかった。というのもドイツには先人に多言語学者で絵画材料技法に関するイタリア、スペイン、オランダ、ドイツ、フランス、英国の資料文献から膨大な記述の解説書を1900年前後に書いたエルンスト・ベルガー(Ernst Beruger)が居て、更にその後継者であるマックス・ドルナー(Max Doerner、ミュンヘンにドルナー研究所という文化財研究所の設立の元となった人物)が居て、実はこのマックス・ドルナーが書いた初期の戦中戦後ドイツに居て、更にその後継者であり戦後ミュンヘンの美術学校で実技の教授であったクルト・ベールテが更に現代的な解釈で技法材料の解説書を書いた。ブラハート先生はその弟子であり、私はまたその弟子であると・・・勝手に思い込んでいる。
要するにブラハート先生は技法技能が分かる人で、私は運よく巡り合ったわけである。彼は私を大事にしてくれた。入所して3か月でリューベンスの板絵(オイルスケッチ)を修復する仕事をプライベートでくれた。無一文に近かった私に少しお金を稼がせてくれた。またある時、ニュールンベルガー新聞社から博物館の所蔵品であるアントワーヌ・ペン(フランス後期バロックの画家)が描いたフライブルグの領主の息子を描いた肖像画の模写の注文を取ってくれた。その金で一年は暮らせた。
絵画修復室は近代的な作りで、入り口のすぐ左手に秘書室があって、女性がタイプ仕事をしている。十分に空きがあるので、そこで処置作品の写真撮影をさせてもらった。その隣にはどういうう訳か、陶磁器や錫細工のビールジョッキなどを処置する専門の修復家が居て、そこに近付くのは気が引けた。右手にはX線撮影室があって、そこでも調査の写真撮影が出来た。またキャンヴァス画の裏打ちをするホットテーブル(天板が厚いアルミ製で下に電熱コイルが入っていて、摂氏60度近くまで加熱できる。また四隅に小さな穴があって、そこから空気を抜くことが出来るようになっていた。当時としては最新の機器であった。)が置かれていて、私も何回か使わせてもらった。その隣が打ち合わせ室というか、調査の発表や講義が行われた。窓が大きく
ゲルマン民族博物館には多くの修復アトリエがあり、絵画、彩色木彫、家具、陶磁器、金属、ガラスと考古遺物、織物、楽器、書籍(書籍は近代本と古典本とある)の9の修復研究室があり、ブラハート先生はその統括部長だった。若い人の面倒見がよく、新しく研修を受けたい者が良く出入りした。ここで学べることは山のようにあったはず。あるとき地下鉄駅のホームに博物館液として、展示物のコピーを作成展示して宣伝を図ろうというので、手先の器用な者が選ばれて、中世の貨幣、メダルに考古遺物の動物の角で出来た矢じりや釣り針などのコピーを任されていた。私は「ちょっとやってみるかい」と言われて、いくつか本物を横に角の鏃をコピーした。本物の横にコピーを並べて「どっちが本物だ?」と仲間に聞くと、「うーん・・・」と言って他の仲間を呼びに行った。どっちが本物か間違えて答えたら先輩のメンツが壊れると・・・他の者に答えさせたのだ。こういうこととか、裏打ちで使うキャンヴァスを切るハサミが切れなくなっていて皆困っていた時に、私は日本から持参した「金剛砥石」を取り出して、丁寧に刃を立て直したら、これがキャンヴァスに当てるだけで抜群に切れる優れモノになって、皆の注目を集めた。こうした出来事はブラハート先生の耳にも届いて「公男は役に立つやつ」ということになった。こうなると研修生には館の仕事の一部に時間給が払われるのだが、基準が上がって、私は最初、時間10ペニヒだったのが、2マルクになっていた。10ペニヒで小さなサンドイッチ用の素の丸いパンが買えた。研修生で、稼ぎのいい先輩はこのパンにフィレアメリカンを挟んで2マルク20ペニヒを払っていた。それを見て、いつか自分もそれを食べるぞっと決心したものだ。
ある時はブラパート先生にもらったプライベートのアルバイト仕事で、古い板絵の裏打ち(木の桟を十字に組み合わせたクラードルと呼ばれる古い形式の補強)を除去し、新しく軽いバルサ材を組み合わせて接着する作業を請け負って、最後に板絵の周辺にはみ出したバルサ材を削り取る作業をブラハート先生の目の前でやることになって・・・。先生もこれは最も危ない作業で絵に傷が付いたらどうしょうもないと気が気ではなかったが・・・私はドイツ式のカンナの刃を外して、あらかじめ研いでおいた。板絵はテーブル式の作業台の横にプレスが付けられたものにフェルトを当てて板絵には傷が出来ないように養生して置き、横に挟んだ板絵のバルサの面にカンナを当てて・・・まず一押し(日本のカンナは引くが様式のカンナは押すように出来ている)したら、薄いバルサの木くずが宙に舞い上がった。押して向こう端まで届いたカンナの向きを変えて、今度は引いて見せた。しゅるしゅると舞い上がる木くずを見て、先生は「おお、おおー」と一言「君はどうしてそんなことができるのか・・・」「いやー実は母方の祖父は製材所を経営していたけど昔は大工の経験もあって、祖父を見よう見まねで学びました」と・・・・嘘ばっかり!!私は横でいたずらばかりしていて職人が学ぶようなことはしていなかった。しかしその悪さばかりしていた証拠の手の傷はたくさん残っている。
修復室の仲間たちから、やっと信頼を勝ち得たころ。いつの間にかべったりと修復室の先住のような気分で暮らし、気が緩んできて・・・・飛び出してもっと違う経験をしたいと思うようになり、あちこちと行き先を探すようになって「君はいつ行くのか」と何度も聞かれるようになり・・・それが「早く出ていけ」に聞こえて・・・行き先もなく博物館の修復アトリエを出た。
先生は旅たちに最も高尚な言葉で修了証書を書いてくれていた。後日分かったことだが、先生は私を絵画専門の助手として迎えたかったのに私が突如出ていくとなってとても残念がっていたと先生の秘書が言っていた。大変残念で失礼なことをしてしまったと・・・・反省!。助手になれば月1500マルク・・・当時は1マルクは1000円くらいの価値があった。なんせ私が居た下宿の部屋代が電気水道込みで20マルクだったから、1500マルクだと郊外の庭付きアパートで200~300マルク、車も持てるくらいである。おいしい話だった。それもたった1年の研修生がいきなり就職したら同僚の研修生から足を卦たぐられるだろう。なんせドイツ語は話せなく、先生とは英語、助手たちとはフランス語、特にフランス人助手フレデリックの下で学べたから運が良かった。(実はブリュッセルで最後に模写をして金を稼いでいた時、ブラハート先生との会話の為に区立の夜間語学コースで英語の授業を受けていたのだ。しかし習う英語より、それを説明するフランス語の方が難しかった)
実は,、博物館のアトリエを出ていくとき、新しい私の行く先はなかったのである・・・・言い出したからには実行するという頑固な性格が出てしまった。早まったことをした。この性格は未だにこの年になっても変わらない。私と何か一緒に仕事をした人は「そう言えば,どうしようもない奴だった・・・」と思い出すだろう。他にロンドン、カッセルなどいくつか修復アトリエを訪ねて研修をお願いしたが、そして行く先が無くブリュッセルに戻った。
ブリュッセルに戻ると骨董家具屋の息子ローランの家に転がり込んだ。彼のお母さんが「公男はどうしてドイツに行ったのに、フランス語がうまくなって帰ってきたの?」と聞く。そう言われれば、以前よりおしゃべりになって帰ってきたのだから・・・。
そこでまた王立美術アカデミーの絵画クラスに戻った。その時すでに新学期が始まっていて、正規に入学が出来ず「聴講生」ということになった。しかしこれが問題で「外人警察」が下宿を訪ねてきて、ビザなし「不法滞在」であると警察まで呼びだされ「国外追放」となった。この時は大変だった。骨董家具屋のローランの家の地下室に預かってもらっていたブリューゲルのコピーも荷造りして、そのとき東京で最高裁第一小法廷主席として公務員宿舎に居た両親の所に木箱に詰めて船便で送った。父は間もなく退職し、東京高裁で判事になる任官試験を受けて、東京簡易裁判所の裁判官になり、間もなく広島県大竹市と広島簡易裁判所の兼任判事になって、ブリューゲルのコピーと共に引っ越し続けた。私が82年に帰国した時にはまだ大竹の官舎にいた。そしてそのブリューゲルのコピーは官舎の倉庫に放置されていた。
私がベルギーを国外追放になってから、すぐにベルリンのダーレムにある国立絵画館で研究生として受け入れてもらうために面接を申し込んでいた。面接の返事は後日ベルギーに連絡するとのこと・・・・そのとき、もう私の下宿は引き払ってあって、悪友と南フランスの避暑地にバカンスで来ている客の子供相手にくずの飾り物を売りつけて金を稼ごうという話が出来あがっていた。返事は悪友の彼女の所で受け取り、その手紙を南フランスの避暑地の郵便局に私書箱を設置して受け取った。朝から晩まで店を出して14日間で12万円ほど悪友はくれた。有り難かった。いやあ、おまけの話だが・・・ここでも無許可営業で逮捕されたが、ドイツの就業ビザがパスポートにあったので、フランスを直ちに出ていけと言われて・・・・午後にはスペインとの国境を越えてサルバドールダリの博物館のある町(名前を忘れました)で昼飯を食べ、サングリア(赤ワイン入り)で酔っ払ってまたフランスに舞い戻り,夜の仕事をして、とにかくバルセロナ、マドリッド経由でブリュッセルに戻り、皆に挨拶をしてベルリンに旅立った。
1978年の9月末だったと思う。9月だというのに雪が降ってペラペラのハーフコートの肩に雪が積もったのを思いだす。
次は「そろそろ書かねばならないⅡ」 ベルリンでにつづく