河口公男の絵画:元国立西洋美術館保存修復研究員の絵画への理解はどの様なものだったか?

油彩画の修復家として、専門は北方ルネッサンス絵画、特に初期フランドル絵画を学んできた経験の集大成を試みる

そろそろ書かねば(備忘録Ⅲ)

2023-09-18 23:08:07 | 絵画

そろそろ書かねばと思っていたら、意外と忘れることなく憶えていたことの他、出てくるものであるが、ただの履歴書のようにも見える。本当は自分の個人的な生き方、経験から形成されてきた性格、資質が分かりやすく説明できるという狙いがあったのだが・・・。

この先、帰国してからの話になるが・・・渡欧するときは大きな目的があったが、帰国するときはそれほどの目的があったわけではない。むしろどう生計を立てるかが気になって、武者震いしていた。

実は留学には親の援助があって月3万円送ってもらえたが、「アカデミーを卒業するまで」と言う約束で、2年で卒業してしまったので、母親から「約束ですのでこれで仕送りを終わらせていただきます」と手紙が来て、そのバイトをしながら8年半も過ごしたけれど、勉強をすることが目的で、それ以外は全く気にしなかったから何事もトラブルは少なく済んで「やるべきことは大方やった」と思えたが、帰国してからがきつかった。

突然だが、記憶が切れている。

この備忘録の最終章に書くべきことは最初から決めてあって、もっとも問題が起きそうな内容になる予定だったが、それ以前に途中の過程を描くための記憶が切れている。

この前にもあったが、親戚、友人、家族である猫たちの名前を思い出せない時があって、またその再来かと思う日がきた。昨日山口市に購入した農地の登記が終わって、法務局が登記完了証明を取りに来るように言われていたので山口に出かけて、ついでに建築関係の打ち合わせをしてきた。片道120kmであるが、朝9時に出かけて帰宅は夕方8時半となって、お腹をすかせた猫たちにご飯をあげて、突然寝込んだ。

備忘録で「生き方」を書いておこうと思ったが、それどころではない。延長する人生に切れ目があるのに気が付いた。誰もが死ぬときは独りである・・・と言い聞かせて独身を貫いて、世の中同じような生き方の者が男女問わずいるのに何の疑いも持たなかったが・・・。今感じている自分が自分でない日があって困惑する。部屋の中でドーンと孤独を感じてそれが起きる。

で・・・・そう言う訳でしばらく書くのを辞めたい。

新たに生まれた子猫の数がまた減った。山口から帰宅したら子猫の姿が見つからず、ふたりの母親が示し合わせて子猫を捨てたのではないかと疑っていたらミューミュー小さな声が聞こえて書斎のどこかにいると・・・・捜すと、なんと膠の箱(東京を離れるとき日本製の3千本膠を25kg買っておいた)の口が開いていて、その中に8匹の赤ん坊が元気にしていた。現在我が家の猫たちは24匹だ。

この子達のためにも、過去、現在、未来が繋がらないといけない。

 


そろそろ書かねばならない(備忘録Ⅱ)加筆あり

2023-09-11 10:40:30 | 絵画

思い出せば書ききれないほどいろんなことが出てくる。昨日何を食べたか思い出せないのに・・・。やはりキツかった思い出の他に楽しかったことも思い出す。私は週に一回鍋を焦がすので、医者から「認知症の入り口近くにいる」と気を付けるように言われているが、意外と昔のことがたくさん思い出されるから、これは本物の認知症予防になるかも・・・と。

 

ベルリンで・・・

ベルリンはニュールンベルグと変わらぬほど冬が寒かった。ニュールンベルグでも朝、博物館に出かけるのに氷点下20度くらいで、着ているものもフードはついていても、ペラペラのアーミーコートで、中央駅のホーム下の通路を歩くにも、風で吹き曝しの道で今日でいう運動靴が凍るようであった。博物館の修復所は朝8時に開門するから、時間通りにいかないと凍えた。

ベルリンが当時東西に分かれて、丸い市が半分にされ、周囲は鉄条網と幅20mの地雷原で囲われていた。この町に入るにはフランクフルトから鉄道で東ドイツに入るか、飛行機でやはりフランクフルトから西ベルリンの空港に入った。

実はベルリンに向かう前にベルリン自由大学(かつてのフンボルト大学)に留学していた日本人から、ベルリン在住の日本人を紹介されていて、そこにまず世話になることになっていた。その人物はベルリンの日本人は皆知っているようなクナイぺ(ジンギスカンという名の若者向け居酒屋)を経営していた。夜中の2時3時にまでオープンしているから、ビールに和風鶏唐揚げで大盛況で、日本人の若者も多く世話になって、労働許可も取ってもらっていた。自宅の方にも絶えず居候がいて、私もその一人となった。

そこで厄介になりながら、新聞広告で下宿先を見つけた。ダーレムに近い西ベルリンの南部に位置するツェーレンドルフという地区の個人宅の地下室で、三人が下宿住まいであった。鉄条網の国境から200メートルくらいの所にある住宅であった。ツェーレンドルフにはアメリカ陸軍の基地があった。この付近では一般道を家ほどの大きさの戦車が時速40kmくらいで目の前を走ったりする。当時は東西冷戦真っただ中で、チェコスロバキアやポーランドがソ連の支配下で民主化運動が始まっていたので、実はベルリンは東ドイツ軍(とは言ってもソ連軍の戦車基地が何千台もの戦車を駐屯させていた)の侵攻があると噂されると、皆一斉に食料を調達した。スーパーには備蓄用特別価格の塩漬け豚肉のカン詰めが常に並んでいた。西ベルリンは地下鉄やバス交通網が発達しているが、西ベルリンの形から中央から扇状に広がっており、南側のダーレムドルフは地下鉄の終点で、さらにダーレムドルフからツェーレンドルフまではバスでしか行けない。

ダーレムドルフが有名なのは絵画館のみでなく、彫刻館、素描館、東アジア博物館、民俗資料館が併設されていて、市民の行楽や観光の目玉としての役割を果たしていた。近現代美術館は街の中央にあり、ベルリン中央駅のそばにパンダの居る動物園があり、西ベルリンにはご存知のベルリンフィルハーモニーが居て、ベルリン・ドイチェオパー(オペラハウス)があり、閉鎖的な地区でありながら、決して自民に不自由を感じさせないように作られている。

 

そんなベルリンとは露知らず・・・ダーレムドルフの国立絵画館の修復室に出向いた。この絵画館が有名なのはレンブラントが20点、ファン・アイクの小物が2点、、他にフランドル絵画ではメムリンク、ウェイデンなど、デューラーの肖像画、クラナッハなど・・・仲間内にすれば「美術の教科書みたい」という評価だが、私にすれば毎日これらのコレクションに触れられるだけで栄誉を与えられている気持になる。が、絵画館の建物は木造で長い廊下の建物を部屋に区切って使っているようであった。レンブラントの黄金兜の男」もさりげなく飾られていた。しかしドイツ絵画は絵画館の古い入り口から入ってすぐに右の部屋にデューラーやクラナッハなどの有名どころのコレクションが飾られており、オランダ絵画、イタリア絵画なども飾られていた。(現在はこの建物から全てのコレクションは近現代美術館のある街の真ん中に集められている)

修復室はレンブラントが飾られている回廊の上階に、まるで後付けの部屋のごとく作られており、絵画と彫刻修復室が隣り合わせていて、専門が違っても仲間同士の付き合いがあった。彼らは街の住まいの近所に修復が出来るアトリエを構えており、プライベートの仕事を受けていた。公務員の稼ぎよりそっちの方が多かったようだ。彼らの広い付き合いのお蔭で、世間のいろんなことを教わった。

絵画修復室の部長はヘラルド・ピー氏でその下にベアトリクス・グラフ氏(彼女は南ドイツ出身でミュンヘンの南のシュツットガルトの大学院クラスの修復コースで修士を取っている。彼女の修士論文のパステル画についての論文は出版され、パステルに関する重要な文献として歴史に残った)の二人であったが、当然館のコレクション全体の面倒は見れないので、新たに正規採用を一人募集してきたのはブラハート氏のアトリエで先輩であったクローディアだった。クローディアはゲルマン民族博物館の館長の娘であったが、ドイツでは決して実力無しでは地位は確保できない。みんな性格が良かった。私の仕事としてカナレット2点が与えられニス洗浄が主であった。他にイタリア絵画はこれまで修復処置をしたことが無かったので、収蔵庫から面白そうな作品を選んでもらって処置した。

絵画館では私は研修生ではなく「研究生」であった。実はこれが後々問題となり、一年以上長居が出来ないということになって絵画館の修復室を追い出されることになり、隣の彫刻館の研究生に成ったら、すぐに本部のプロイセン文化財団の人事部からクレームがついて「研究生の立場でる者はドイツ人の就職の席を奪う可能性がある」と言われ追われた。まだ勉強が足りなかったので、今度は国立図書館の紙の修復室に研修を求めた。今度は「研究生ではなく研修生」だから問題はなかった。ここでまたとりあえず一年間、洋紙と製本の修復技術を学んだ。とにかく朝8時から夕方5時まで西洋製本、西アジア製本の他、一枚もの(例えばベートーベンの楽譜とか)の修復処置、洗浄、そして製本の基礎を学ぶのに4人の各専門の修復家から呼ばれるままに、走っていき教えられることをメモを取り(この時は下手でもドイツ語だった)3cmの厚さによるメモ帳はびっしりと文字と略図で一杯となった。この時は財団に邪魔されなかったので思いい切り勉強できた。いつしか図書館内部で日本人の修復家見習いがいることが知れ渡って、日本の文化財研究所などとの交流事業を行いたいと、修復やコレクションの保存全般を取り仕切る部長に呼ばれて、アジア部門の部長(女性で日本語も話す)と修復部長の他一名と私の5名の会議・・・・それぞれプロジェクト案など出して・・・最期にまとめとして取り仕切り議長役の部長が各自述べたことを子細の漏れなく一つ一つまとめて見せたのには驚いた。議長というのはこういうものか・・・。

他に日本の表具に使われる「古糊」を手に入れてほしいという要望があって、東京文化財研究所を通して、東京一軒、京都二軒、山形一軒の国宝表具修理からサンプルを取り寄せることが出来た。その荷物の中に「とろろあおい」という紙すきに用いる植物の根から採る糊がその「根」が送られてきて・・・ビニール袋の中でそのどろどろ状態になっていて・・・・税関が受取人である私を呼び出した。宛名住所は国立図書館修復部であるから、一応犯罪者ではなかったがきつい扱いを受けた。なんせ古糊も銀正麩(ぎんじょうふ)と呼ばれる小麦粉からでんぷんを取り出したものを煮て10年間カメに入れて腐らせたもの・・・・要するにカビや酵母菌のような生物によって分解された「糊」だと言っても・・・そんなものヨーロッパの文化にはない代物。なんじゃこれ・・・とお咎め2時間に及び私も閉口した。日本では笑い話で。

 

この頃、隣のポーランドで労働組合の連帯がゼネストを実施し、政権による戒厳令がしかれ、西ベルリンは国境付近の道路には戦車が繰り出して、砲塔を斜めに国境フェンスに向けて・・・当日氷点下20度を下回っているのに、暖房無しの戦車のハッチを開けて黒人の兵隊が周りを見回していたのが忘れられない。この町には長くはいられないと思った次第。このころ、ジンギスカンの佐藤氏の所に厄介になっていたベルリン自由大学でドイツ文学を学んでいたアメリカ人のマリリンと知り合った。この女性とは今なお腐れ縁で付き合っている。お互いじいとばあになったが、個人主義の意思を尊重して結婚には至らず、ずっと友達で数年前に浜田の家に遊びに来た。寒いベルリンで知り合ったが、彼女と二人で道を歩いていたときに前を歩く老婆を見て彼女は「こういうのを見るとお尻を蹴りたくなる」と突然言うから「それはいけんでしょう」と言ったら、彼女は「貴方は私のことを一生分からない」と言って怒ったのが腐れ縁の元になった。確かに私は「どうして?」とは尋ねずに「いけんでしょう」と言ってしまったのだから。「縁」が切れる発言をしたのです。どんなことも相手が何故そう考えるのか尋ねる必要がある。さもなければ相手を無視したと同じになる。彼女はアメリカ人だがドイツに居て私は「ドイツの論理的合理主義」を学ぶ一助になったのだから、今でも感謝している。日本人がすぐに反応する集団の価値観は西洋では通用しません。個人個人の生き方を尊重する個人主義を学ぶことで、ベルリンでの生活は豊かになったのです。

日本では個人主義を利己主義や自己中心主義と混同する人が居て閉口する。個人主義は「個人の人権、考え方、生き方を尊重すること」であるが「自己責任」がしっかりと求められており、行動や言動には厳しく責任を負うのがドイツ流だった。自民党の憲法改正論者の中に「日本には最近個人主義が蔓延しているから、憲法が保障する人権の中の自由を制限すべき」と言った者が居て呆れた。この日本で個人主義が一度たりとも主張されてこなかった。権力や村社会が個人を無視してきたのだ。「郷に入れば郷に従え」という言葉は明らかに個人を無視している。

個人主義がどの様なものか知らず、人権を制限する憲法改正を望むとか・・・安倍晋三が唱えていた「伝統的家族主義」や「美しい日本」の日本会議の理念が習近平やプーチンと変わらぬ考えを権力者は持ってしまう・・・・支配による優越感を感じさせるだけ。

未だに小中学生から高校生まで制服を着せて教育をすることで「個人性」を侵害し、価値観も集団化させガラパゴス化している社会を気が付かないとは・・・・優れた人物を誕生させない国として先が見えないと言われているだろう。

 

9年近くに及んだ欧州留学はベルリンで幕を閉じた。下宿を引き払って最後はマリリンの下宿から荷物一つで帰国の途についた。最も安い航空券は東ベルリンのオストハーフェンからモスクワ経由のアエロフロートの小型のジョット機で・・・・モスクワ直前で下降に入ってから急に左旋回しそのまま機が水平になると同時に着陸した・・・・機長はソ連の空軍パイロットだったそうだ。モスクワ空港で大きな機に乗り換えるのに5時間待たされた。待合室の空いてるテーブルに座った時、目の前で赤いシャンパンを飲むドイツ人に遭った。彼はなんとツアイス・イエナの東京支店長でなかなかの紳士でいろんな話をする中で、ゲルマン民族博物館の修復室では一人一台のツアイスの手術用顕微鏡を使って、記録もツアイスのカメラで重宝していた話をしたら・・・東のツアイス・イエナは戦後同じ会社が東西に分断されて出来た会社だと・・・・レンズの質は誇れると・・・東京に帰ってからパンフレットを送ってもらった。当時日本ではオリンパスが手術用顕微鏡を作っていたが・・・・それはツアイス・イエナの方がレベルは上だった。

東京成田に着いたら、なんと私の荷物が行方不明でまだモスクワにあるらしいという・・・やっと荷物が出てきたら、ベルリンで友人からもらったポルノ雑誌12冊を禁制品として没収されていた。税関が電話をかけてきて説明するので「それあんたたち、仲間内で見て楽しむのだろう」と言ってやったら「いえーそんなことはしません」と言うから「知っているぞー!!」と念押しして諦めた。

 

東京で、に続く

 

 


また生まれたよーー!!(加筆あり)

2023-09-09 12:19:00 | 絵画

我が家の雌猫三匹が大変なことになって・・・・。

年寄りの知ちゃん、わかいふたりのミーちゃんと白ちゃん。

三か月前に知ちゃんは赤ちゃんを6匹生んで、みな死亡させてしまったから、腫れ上がった乳を飲ませるためにミーちゃんや白ちゃんの子たちに飲ませてて乳母の役割を果たした。しかしやはり子供が欲しかったんだね。5月の末から数えて6,7,8月で三か月。今までこんなことは無かったのだが、9月1日関東大震災の日にまた7匹生んだ。猫の妊娠期間は63日だから6月末の仕込みだ。今回は私の寝室の押し入れの前、畳の上で・・・・赤んぼがミューミュー啼いていて驚いた。遠くから覗いて数を毎日数えたラ、いつの間にか6っ匹になっていた。もう仕方がない。最近は毎日知ちゃんの目の前にカリカリと猫ミルクやお水を持って行く。そしてはみ出た赤ん坊をつまんで、知ちゃんの乳の所に持って行く。知ちゃんは怒らないから・・・・信頼されているのか?

そしてまたまた!!今度はミーちゃんがまた妊娠している。先のお子が生まれて三か月もすれば、乳離れして当たり前だが・・・白ちゃんも知ちゃんも3匹が同時に赤ん坊を産んで、みな交代で乳を飲ます習慣があって、なかなか乳離れしなかったから、私も油断した。そこでいきなり不妊手術するとホルモンの加減で全く乳が出なくなるので、手術のタイミングが大事だった。

白ちゃんは乳の出が悪くて子供たちの成長が遅れてしまったから尚更なのだが・・・・その一匹がカリカリを食べるの見て、すぐさま決断!!・・・不妊手術の予約を入れた。

今通っている獣医さんは若くて客はいつも満員盛況。しかし去勢手術も下手くそで、危ない感じがするから・・・・不妊手術はもっと心配で・・・案の定、白ちゃんのお腹には大きな傷と縫い目。以前通っていた獣医先生はガンが見つかって療養中で、頼みにくいので新しい若い先生の所に行き始めたのだ・前の先生は手術の手際は天才級で5センチ開腹したら、両端に隠し糸、真ん中に一つ縫い目があり、三日もすれば腫れも引いてきれいに仕上がっている。去勢となれば縫うこともなく傷も見えないから、本当に手術をしたのか分からない。若い先生は「いやー人に寄りけりで、みなそれぞれです」とおっしゃる。去勢したはずの猫が帰って来た時、もう一つ玉が出来たのかと思うほど丸い球が一つ、ど真ん中に出来ていた。

そこでだ!!結局現在20匹です。もう直ぐあと5匹ぐらいは増えると思います。

あっ、そうそう来年の春には新居が山口市の海側に立つ予定で・・・・皆を連れて引っ越すことになります。6畳ほどの猫部屋を用意しました。6畳はせまいかも・・・。

そうこうしている間にまた一匹子猫が死んだ。6っ匹の中で一番小さな子が乳のみ競争に負けて集団からはみ出ていて冷たくなっていた。親が私の目に着く所に置いたのかも・・・。仏壇に挙げてお線香を焚いた。翌日に埋葬する。

そこでまた、知ちゃんのもう一匹の子が冷たくなって虫の息になっている。母親の胸のところで温めるように戻してやったのだが、しばらくしてまた食べ始めた。もう見てられない。

それだけではない。長い間臨月状態で歩き回っていたミーちゃんがとうとう私の寝室で6匹生んだ・・・・しかし夜のうちの出来事か、私が見つけた時には胎盤もなく、母親の傍に6匹いたと思えば、いつの間にか知ちゃんの子たち4匹が加わって箱の中に10匹のこれ子達・・・・知ちゃんの子たちは早く生まれて大きいかと思ったら・・・・臨月のお腹でミーちゃんの子たちは同じほどの大きさになって出てきたのか・・・。分からなくなって、猫たちが子供を共同で育児することは初めてで、私は面喰っている。そしてまたその中の一匹が死んだようで、知ちゃんがまた食べていた。

結局今回は二人合わせて9匹の子を産んだ。

先に生まれた白ちゃんの子で、生育が悪くて3か月半になろうとも、乳ばかり飲んでいるクロちゃんには困ったもので・・・。結局私が一日に6回以上スポイトで飲ませている。

 

 


そろそろ書かねばならない(備忘録Ⅰ)加筆あり

2023-09-06 14:14:13 | 絵画

人は暇を持て余すと、昔のことを思い出して「腹を立てる」らしい。

あの時、こうしておけばよかったなどと悔しさも激しく思い出されて建設的な時間は生まれない。しかし一度おおぴらに書いてしまえば、しつこく腹を立てているのは恥のように感じるから・・・・書いておこうと思った。しかし本当にそうなるか怪しいが。

このブログを書く主目的は西洋美術館時代に業務を通して学んだことをポジティヴに書いておこうと思ったところから始まったはずだ。しかし、では正直に書いてきたかと言うとそうではない。肝心のところは触れないようにしてきた。そこを今回明らかににしようということだ。

しかし、いきなり美術館時代から始まると、たしかに楽しかったことなど書きそうもない。だから少し自分のことをさらけ出しておくのがフェアかなあと思う。

 

備忘録とは「人は忘れるから、その前に書き留めて置くこと」だが、どこに何を書いたか忘れる年齢になった。酷いもので昨日何を食べたかは思い出せないから、年を取っていくのに無駄なことは覚えておかないようにと、きっと「神様」の配慮だろう。しかし西洋美術館での経験は忘れることのできない多くの出来事があった。特に人は楽しかった思い出は消えやすいが、腹の立った思い出は忘れないものだ。ここに楽しかった思い出をそれらしく描くとむなしく感じるだろう。しかし悔しかった、腹の立つ思い出は触れずに放置はできないと思う。きっと読む人を不愉快にさせるとしてもだ。

私が西洋美術館に任官するきっかけは、まずベルギ-、ドイツで絵画の修復を学んだことに始まるが、そのそも画家になる決意でフランドルの絵画技法をベルギーで学ぼうとして渡欧。東京造形大学2年中退、22歳の春だった。世間知らずで、伝統的な街並みに馬車が走っちるくらいに思っていたが、馬車の代わりに電車が走っているのに失望した。当時、枯れ葉がチラチラ舞うパリの風景に憧れて旅行する女の子と変わりなかった。

先に造形大学の先輩の青木敏郎氏がゲントに留学していたので、彼を頼ってゲントの場末の住まいの一角に身を寄せたが、現在フランドル技法などに関連する学校や画家などの情報は無く、彼も訪ねたことのなかったリエージュの王立美術アカデミーや美術館を訪ねて情報を集めることにしたが無駄であった。彼は一年先にベルギーに来ていたが、彼もあこがれたファン・アイク兄弟兄弟の祭壇画のある近くに住むことで、頻繁に祭壇画を訪ねて視覚的に記憶し学ぶことは出来ても、ゲントの町はフラマン語(オランダ語を公用語としている地区だが、実際はフラマン語と呼ばれるゲントの町の方言が話されていた)でフランス語が日常会話として上手くなるのは難しかった。語学もさして準備してなかったので、私は一応一年間日仏学院でフランス語会話の基本だけであるが学んでいたので、仏語が通じるブリュッセルに住むこととした。アカデミーの学期が始まるのは9月であるが、とりあえず下宿や入学試験など準備するために飾り窓などのある娼婦街がそばの北駅の近くの下宿に住んだ。しかしそこでは一月もしないうちに部屋に泥棒が入り、東京から必死に下げてきたソニーの最新型同時録音ができるカセットレコーダーを盗まれた。盗んだものは隣の部屋に移り住んできた者で、なんと部屋の鍵が私のと同じであった・・・。オーナーはインド人であったが、家賃を払わずにとんずらした隣人の為に警察を呼んだが、私がレコーダーを盗まれたと言ったら「出ていけ」と追い出された。何も分からないうちにこれだ。

カセットレコーダーはラジオで流れるニュースを聞いてフランス語を学んでいたのでがっかりさせられた。当時ニュースでは田中角栄の汚職事件を盛んに報じており、フランス語の勉強にはもってこいであったのに。そうこうしているうちに23歳の誕生日が来た。

 

ブリュッセル

とりあえず、ブリュッセルの王立美術アカデミーに入学して、いろいろ調べてみることにした。しかし誰も中世の絵画技法など教えることができない現代の状況を知ってから、ひょっとしてベルギー王立文化財研究所なら、近年、ゲントのファン・アイク兄弟が残した三連祭壇画《神秘の子羊》を修復することで科学調査も行ていた成果を学べるのではないかと思い、絵画の修復と調査を学ぶつもりで研究所の門をたたいたことで、事が始まる。その時私はブリュッセル王立古典美術館でピーター・ブリューゲルの《反逆天使の失墜》という板絵を模写している最中であったが、修復家になるというよりプリミティヴフラマンの絵画技法(ヨーロッパでもっとも初期に完成された油彩技法)を学びたいという気持ちの方が強かった。

青木氏とは頻繁に会って技法の話などするのに、結局技法が理解できたとしても、ファン・アイク兄弟のような絵は描けない・・・つまり「デッサン力」を身に付けないと技法は観念的な知識で終わるので、二人で競争して「年間1000枚のデッサンを描こうと!!」となった。幸い私がブリュッセルのアカデミーに入学してから、絵画のクラスの授業は午前中で終わりで、午後はデッサンの為にモデルが3ポウズ(45分ポウズ15分休憩)でヌードのデッサンが出来た。これは非常にありがたかった。日本では20分ポウズで5分休憩であるから描きにくかったが、ベルギーのモデルさんは根性でポウズしてくれた。休みの日は家で自画像のデッサンを描いた。年間1000枚は達成したが、満足のいかないデッサンも半分近くあり、思い切りゴミの日に出した。しばらくして日曜朝一の泥棒市で私のデッサンが売られていたのを発見!!そっと近寄ってkimioのサインがあるのを確認して、いくらで売るのか聞いてみたら1000フランだという。私の愛煙したタバコが20フランであったので呆れた。

美術館のブリューゲル作品の前で模写をしているところに日本人とベルギー人の若者と出会ったら、二人はソルボンヌ大学の日本語コースで学んでいる学生で、ベルギー人の方はパトリック・ドゥ・ヴォスと言い(後に人生の大きな変化を与えてくれた恩人となった)ブリュッセルに家があり、家族にも紹介され、彼がブリュッセルにいる間は随分家庭的な思い出を作ってくれた。そこで王立文化財研究所でフランドル絵画の技法を研究するためには紹介状が必要だという話をしたら、なんと知り合いを便って(フランス語系)国務大臣の推薦状を手に入れてくれたのだ。びっくりの出来事だった。

しかし文化財研究所の研修生として受け入れてもらうためのインタビューで所長直々に面接してくれたのだが・・・4メートル離れた席まで匂うほど彼は昼飯の赤ワインで酔っていた。「君のフランス語は良いが、修復額の知識は概略だ」と言って、結局受けれたくなく国外の「チューリッヒ(スイス)、ニュールンベルグ(西ドイツ)、おまけにリスボン(ポルトガル)のいずれかなら紹介状を書いてやる」と・・・酔っているのではないかと思うほどの話・・・・前者二つはドイツ語、もう一つはポルトガル語ではないか。結局、話の流れから仕方なく「ニュールンベルグなら行ってみます」と返事する。

 

生活費は親の仕送りに頼っていた。郵便はがき送金という最も送金手数料が少ない方法で二月ごとで3万円もらっていたが、ぎりぎりでビールを飲む余裕はなかった。幸いコップ一杯で酔うので飲む習慣はなかったが、たばこは止められずベルガというベルギーの大衆たばこを日に一箱吸っていた。20ベルギーフランで140円と高かった。タバコは吸うべきではなかった。自炊でお米を食べたかったから粘りの無いイタリア米だが、しょうゆはロンドンまで買いに行った。ベルギー側の港オステンドからドーバー海峡を船でドーバーかダンロクヘアに渡り、ロンドンまでは鉄道だったが、港では入管のキツイ検閲に遭った。見た目が貧乏くさく、若いというだけでひどい扱いをするイギリス人がいることは忘れない。

しょうゆだけの為にきつい旅をしたが、結局おかずが和食ではなく、(今でこそ自炊歴も長く、在り合わせの和食をつくれるだろう。)そのうちアラブ人に教わったクスクスという野菜スープをパスタの顆粒状のものにかけて食べる最も安い食事に落ち着いた。これはブリュッセルにいる間続いた。クスクスはお腹に入ってから膨れて空腹は無かった。それでも仕送りの中からお金を残し、アルバイトに日本レストランで皿洗い、大工、魚を焼く焼き場などして、日本人向け魚屋で週末は魚をおろしたり売り子をやったりと生活費の足しにした。鯛からウナギまで下せるようになって今日助かっている。ある時は肖像画家や絵画の模写を売るコピストもやった。

 

ニュールンベルグ

翌月にニュールンベルグのゲルマン民族博物館のアトリエ(ここには9種類の修復アトリエがある)の部長トーマス・ブラハート博士と面会・・・見せられるものといえばアカデミーで描いたヌードデッサン、東京で描いたレンブラントの模写の写真などを持参して見せると、いきなり「いつ来る??」と言われて「えっ!!来てもよろしいのですか?」と聞くと「君は珍しく、もうヨーロッパ人が学ばなくなった17世紀からのデッサンを学んでいる・・・素晴らしいから来なさい」と言われて、つい嬉しくなって「今金もうけのための模写が完成してお金が手に入ったら来ます」と返事してしまったのが「修復家になる始まり」だった。

まだ何を学ぶのか分からないうちに、半分画家の修行のような気持ちと、修復技術を身に付ければ、絵を描いて暮らすよりは生活が苦しくないだろうぐらいの「下心」が入り混じった「選択イコール決定」ではない中途半端な気持ちがあったのだ。

要するにベルギーでもなく、フランスでもなく、ポルトガルでもなかったのが修復家としての研修に資質を与えてくれたニュールンべルグ。ドイツは理屈が通り・・・いや論理的合理性がなければ議論にもならないし、修復技術の先進した国として人生の大切な時間を費やす価値がなかったであろう。自分の日本人的価値観がひっくり返るほどの技術理論、知識の蓄積に出会ったのだ。まず講釈を垂れる自分にとって「人生勉強」が始まった。

殆どの日本人が儒教的伝統か、地位や年齢に、感情的な考え方に影響されて、物事の本質から遠く離れてしまう傾向があるのに比べてドイツ人は教養の質が高く、論理主義で、仕事も結果的に時間を短縮し民主主義も一歩進んでいると思えた。その環境で学べたのは幸運であった。

ブラハート先生は人格も能力も尊敬できる人物で、私の経歴にもってこいの資質を磨いてきた人であった。若いころライプチヒの美術大学で絵画実技を教えう教授も経験していて、家具の美術史博士で、技法材料に詳しかった。というのもドイツには先人に多言語学者で絵画材料技法に関するイタリア、スペイン、オランダ、ドイツ、フランス、英国の資料文献から膨大な記述の解説書を1900年前後に書いたエルンスト・ベルガー(Ernst Beruger)が居て、更にその後継者であるマックス・ドルナー(Max Doerner、ミュンヘンにドルナー研究所という文化財研究所の設立の元となった人物)が居て、実はこのマックス・ドルナーが書いた初期の戦中戦後ドイツに居て、更にその後継者であり戦後ミュンヘンの美術学校で実技の教授であったクルト・ベールテが更に現代的な解釈で技法材料の解説書を書いた。ブラハート先生はその弟子であり、私はまたその弟子であると・・・勝手に思い込んでいる。

要するにブラハート先生は技法技能が分かる人で、私は運よく巡り合ったわけである。彼は私を大事にしてくれた。入所して3か月でリューベンスの板絵(オイルスケッチ)を修復する仕事をプライベートでくれた。無一文に近かった私に少しお金を稼がせてくれた。またある時、ニュールンベルガー新聞社から博物館の所蔵品であるアントワーヌ・ペン(フランス後期バロックの画家)が描いたフライブルグの領主の息子を描いた肖像画の模写の注文を取ってくれた。その金で一年は暮らせた。

絵画修復室は近代的な作りで、入り口のすぐ左手に秘書室があって、女性がタイプ仕事をしている。十分に空きがあるので、そこで処置作品の写真撮影をさせてもらった。その隣にはどういうう訳か、陶磁器や錫細工のビールジョッキなどを処置する専門の修復家が居て、そこに近付くのは気が引けた。右手にはX線撮影室があって、そこでも調査の写真撮影が出来た。またキャンヴァス画の裏打ちをするホットテーブル(天板が厚いアルミ製で下に電熱コイルが入っていて、摂氏60度近くまで加熱できる。また四隅に小さな穴があって、そこから空気を抜くことが出来るようになっていた。当時としては最新の機器であった。)が置かれていて、私も何回か使わせてもらった。その隣が打ち合わせ室というか、調査の発表や講義が行われた。窓が大きく

 

ゲルマン民族博物館には多くの修復アトリエがあり、絵画、彩色木彫、家具、陶磁器、金属、ガラスと考古遺物、織物、楽器、書籍(書籍は近代本と古典本とある)の9の修復研究室があり、ブラハート先生はその統括部長だった。若い人の面倒見がよく、新しく研修を受けたい者が良く出入りした。ここで学べることは山のようにあったはず。あるとき地下鉄駅のホームに博物館液として、展示物のコピーを作成展示して宣伝を図ろうというので、手先の器用な者が選ばれて、中世の貨幣、メダルに考古遺物の動物の角で出来た矢じりや釣り針などのコピーを任されていた。私は「ちょっとやってみるかい」と言われて、いくつか本物を横に角の鏃をコピーした。本物の横にコピーを並べて「どっちが本物だ?」と仲間に聞くと、「うーん・・・」と言って他の仲間を呼びに行った。どっちが本物か間違えて答えたら先輩のメンツが壊れると・・・他の者に答えさせたのだ。こういうこととか、裏打ちで使うキャンヴァスを切るハサミが切れなくなっていて皆困っていた時に、私は日本から持参した「金剛砥石」を取り出して、丁寧に刃を立て直したら、これがキャンヴァスに当てるだけで抜群に切れる優れモノになって、皆の注目を集めた。こうした出来事はブラハート先生の耳にも届いて「公男は役に立つやつ」ということになった。こうなると研修生には館の仕事の一部に時間給が払われるのだが、基準が上がって、私は最初、時間10ペニヒだったのが、2マルクになっていた。10ペニヒで小さなサンドイッチ用の素の丸いパンが買えた。研修生で、稼ぎのいい先輩はこのパンにフィレアメリカンを挟んで2マルク20ペニヒを払っていた。それを見て、いつか自分もそれを食べるぞっと決心したものだ。

ある時はブラパート先生にもらったプライベートのアルバイト仕事で、古い板絵の裏打ち(木の桟を十字に組み合わせたクラードルと呼ばれる古い形式の補強)を除去し、新しく軽いバルサ材を組み合わせて接着する作業を請け負って、最後に板絵の周辺にはみ出したバルサ材を削り取る作業をブラハート先生の目の前でやることになって・・・。先生もこれは最も危ない作業で絵に傷が付いたらどうしょうもないと気が気ではなかったが・・・私はドイツ式のカンナの刃を外して、あらかじめ研いでおいた。板絵はテーブル式の作業台の横にプレスが付けられたものにフェルトを当てて板絵には傷が出来ないように養生して置き、横に挟んだ板絵のバルサの面にカンナを当てて・・・まず一押し(日本のカンナは引くが様式のカンナは押すように出来ている)したら、薄いバルサの木くずが宙に舞い上がった。押して向こう端まで届いたカンナの向きを変えて、今度は引いて見せた。しゅるしゅると舞い上がる木くずを見て、先生は「おお、おおー」と一言「君はどうしてそんなことができるのか・・・」「いやー実は母方の祖父は製材所を経営していたけど昔は大工の経験もあって、祖父を見よう見まねで学びました」と・・・・嘘ばっかり!!私は横でいたずらばかりしていて職人が学ぶようなことはしていなかった。しかしその悪さばかりしていた証拠の手の傷はたくさん残っている。

修復室の仲間たちから、やっと信頼を勝ち得たころ。いつの間にかべったりと修復室の先住のような気分で暮らし、気が緩んできて・・・・飛び出してもっと違う経験をしたいと思うようになり、あちこちと行き先を探すようになって「君はいつ行くのか」と何度も聞かれるようになり・・・それが「早く出ていけ」に聞こえて・・・行き先もなく博物館の修復アトリエを出た。

先生は旅たちに最も高尚な言葉で修了証書を書いてくれていた。後日分かったことだが、先生は私を絵画専門の助手として迎えたかったのに私が突如出ていくとなってとても残念がっていたと先生の秘書が言っていた。大変残念で失礼なことをしてしまったと・・・・反省!。助手になれば月1500マルク・・・当時は1マルクは1000円くらいの価値があった。なんせ私が居た下宿の部屋代が電気水道込みで20マルクだったから、1500マルクだと郊外の庭付きアパートで200~300マルク、車も持てるくらいである。おいしい話だった。それもたった1年の研修生がいきなり就職したら同僚の研修生から足を卦たぐられるだろう。なんせドイツ語は話せなく、先生とは英語、助手たちとはフランス語、特にフランス人助手フレデリックの下で学べたから運が良かった。(実はブリュッセルで最後に模写をして金を稼いでいた時、ブラハート先生との会話の為に区立の夜間語学コースで英語の授業を受けていたのだ。しかし習う英語より、それを説明するフランス語の方が難しかった)

実は,、博物館のアトリエを出ていくとき、新しい私の行く先はなかったのである・・・・言い出したからには実行するという頑固な性格が出てしまった。早まったことをした。この性格は未だにこの年になっても変わらない。私と何か一緒に仕事をした人は「そう言えば,どうしようもない奴だった・・・」と思い出すだろう。他にロンドン、カッセルなどいくつか修復アトリエを訪ねて研修をお願いしたが、そして行く先が無くブリュッセルに戻った。

ブリュッセルに戻ると骨董家具屋の息子ローランの家に転がり込んだ。彼のお母さんが「公男はどうしてドイツに行ったのに、フランス語がうまくなって帰ってきたの?」と聞く。そう言われれば、以前よりおしゃべりになって帰ってきたのだから・・・。

そこでまた王立美術アカデミーの絵画クラスに戻った。その時すでに新学期が始まっていて、正規に入学が出来ず「聴講生」ということになった。しかしこれが問題で「外人警察」が下宿を訪ねてきて、ビザなし「不法滞在」であると警察まで呼びだされ「国外追放」となった。この時は大変だった。骨董家具屋のローランの家の地下室に預かってもらっていたブリューゲルのコピーも荷造りして、そのとき東京で最高裁第一小法廷主席として公務員宿舎に居た両親の所に木箱に詰めて船便で送った。父は間もなく退職し、東京高裁で判事になる任官試験を受けて、東京簡易裁判所の裁判官になり、間もなく広島県大竹市と広島簡易裁判所の兼任判事になって、ブリューゲルのコピーと共に引っ越し続けた。私が82年に帰国した時にはまだ大竹の官舎にいた。そしてそのブリューゲルのコピーは官舎の倉庫に放置されていた。

私がベルギーを国外追放になってから、すぐにベルリンのダーレムにある国立絵画館で研究生として受け入れてもらうために面接を申し込んでいた。面接の返事は後日ベルギーに連絡するとのこと・・・・そのとき、もう私の下宿は引き払ってあって、悪友と南フランスの避暑地にバカンスで来ている客の子供相手にくずの飾り物を売りつけて金を稼ごうという話が出来あがっていた。返事は悪友の彼女の所で受け取り、その手紙を南フランスの避暑地の郵便局に私書箱を設置して受け取った。朝から晩まで店を出して14日間で12万円ほど悪友はくれた。有り難かった。いやあ、おまけの話だが・・・ここでも無許可営業で逮捕されたが、ドイツの就業ビザがパスポートにあったので、フランスを直ちに出ていけと言われて・・・・午後にはスペインとの国境を越えてサルバドールダリの博物館のある町(名前を忘れました)で昼飯を食べ、サングリア(赤ワイン入り)で酔っ払ってまたフランスに舞い戻り,夜の仕事をして、とにかくバルセロナ、マドリッド経由でブリュッセルに戻り、皆に挨拶をしてベルリンに旅立った。

1978年の9月末だったと思う。9月だというのに雪が降ってペラペラのハーフコートの肩に雪が積もったのを思いだす。

 

次は「そろそろ書かねばならないⅡ」 ベルリンでにつづく