河口公男の絵画:元国立西洋美術館保存修復研究員の絵画への理解はどの様なものだったか?

油彩画の修復家として、専門は北方ルネッサンス絵画、特に初期フランドル絵画を学んできた経験の集大成を試みる

ノミの瓶詰

2021-06-29 10:19:38 | 絵画

このところ何ともはっきりしない天気で、何時梅雨に入ったのか、本当に梅雨なのかもはっきりしないでイライラしていた、これは政府のコロナ対策と同調しているみたいで・・・気持ちが悪い。私の性格が姓名判断でいう性格に当たる部分が7画で「せっかちではっきりしないとイラつく」性格だからか。

梅雨の湿度の高い時期には毎年「ノミ」に悩まされると前にも書いた。高湿度に変化した4月の終わりころからノミが廊下を歩くたびにズボンに纏わり(まとわり)つくようになった。5月には大量発生し、家の猫たちの動向と関係なく廊下にいるようになり、殺虫スプレーを10本ばかり買い、あちこちに設置して「こんにゃろー!!」と撒き散らかして殺したが、廊下や階段の隅のホコリの中に住んでいる者(ノミ)が私の足音に反応して、近くを通ると足元に飛びついて「食事タイム」に入るのである。しかしそうそう食われてたまるかと、廊下や部屋の隅々まで掃除機をかけると少しノミの数も減るので対策としては有効だが、どうしても万全と行かず、寝るときにはベットの上に上がるのにノミを持ち込まないように気を使うことになる。油断すると寝ている間に露出させた肌には必ず食いついてくる。

そこで寝る前にはベットの上がる場所を決めて、そこで足をパンパンと払ってノミがシーツの上に落ちるのをスプレーで殺す。間に合わない時は直に上から指を押し付けてシーツの上で摺りまくる。小さな点であはあるが血の跡がシーツに着く。「糞!!てめえら許さん!!」と・・・用意したのは坐骨神経痛などでさんざん飲んで空になったコンドロイチンの瓶・・・・これにノミを入れてみようとベットの脇に一つ、テレビのある部屋に一つ用意して、ノミ集めを開始した。

血を吸ったノミは動きが悪いから、さっと指でつまんで瓶の口に指を深く突っ込んで放つ。指の突っ込みが浅いと中には指を伝わって逃げる奴もいる。スプレーで死んだやつも皆瓶に入れてみた。瓶の中では死にきれずに飛び回っているのも多数。しかしノミは瓶の口を開けるたびに飛び出るのではないかと思ったが、どうもノミは垂直には飛べない様だ。ノミは自分の身長の100倍飛ぶことが出来るとか言うけど、それは過小評価、1mmのノミが10cmしか飛ばないなんてことはない。20cmいや30cm近く飛ぶものもざらである。一瞬にして空間移動したみたいに視覚範囲から消えてしまう。

で最近、ベットの所では300匹程度、テレビの所では200匹程度捕まえただろうか。今日は6月29日で普通なら7月20日ころまで梅雨だからノミも頑張っていると思いきや、このところいきなり減ってきた。瓶に一杯にしようと思っていたのに、どうも残念なことになりそうだ。ベットにもあまり来なくなって、毎夜2~3匹程度になってしまった。

で、猫たちに助けてもらおうかと思ったが、背中のしっぽに近い所にノミがわいている猫が多数いて・・・・繁盛している。「ノミの瓶詰」を作るのにノミを頂戴なんて・・・虐待をしている様なものか・・・。で仕方ないからまず彼らを一匹ずつお風呂に入れた。そこで子猫も大暴れしてかなり引っ掻かれたが・・・・いるはいるは・・・洗剤の界面活性剤で溺れたノミは洗面器の底に沈んで、まだ生きているやつは浮いている。「死ね死ね死ね」と数百のノミが沈んでいたが・・・・これを集めて「瓶詰」にする気は失せてしまい、流した。泣きじゃくる猫たちのうるさいこと。タオルで拭いてやろうとしても怒っているから・・・・拭かせず走って逃げる。後で見たらまだノミが死に切れず、毛の間で走りまくっている。つぎはママレモンで洗ってあげよう。界面活性剤が37%で強力だし、臭いもシャンプーのように長く香って猫の嗅覚の邪魔をしない。

とか言って、かわいそうだからノミ取の薬を買ってきて散布してやった。いま13匹だが、一斉に実行するのはやはり困難。二度繰り返すこともあり。

瓶詰めのノミはどうするかって?梅雨が明けたら火あぶりにしてやる!! 

我が家の生物・・・ねこ、ねずみ、もぐら、穴掘りガニ、トビムシ、フナ虫、げじげじ、ムカデ、蚊、コバエ、ニクバエ、金バエ、トカゲ、ヤモリ、モンシロチョウ、カミキリムシ、コガネムシ、足長バチ、スズメバチ、熊蜂、スズメ、燕、シジュウカラ、トンビ、カラス、アオサギ、たぬき、日本アナグマ、いのしし・・・そうそうゴキブリ、アブラムシ・・・ノミと私。こうやって書くと結構いっぱいいる、大田区仲池上に住んでいた時はこんなにいなかったけど、今いなくて困っているのは「ミツバチ」だ。1kmくらい離れたところにミッキー・カーチスが趣味で養蜂をやっていてミツバチがスイカやズッキーニなどの受粉をやってくれていた。浜田では全くミツバチは見ない。だから今年もスイカの受粉はお絵かき用コリンスキーの筆で花粉を着けて、今の所3個食べられそうだ。庭の向こうは海だから、魚は一杯いるけど我が家の中には飛び込んでこないから。

そうそう、一番多い生物はクモだった。これにはそこいら中にネットを張り巡らせるものは二時間あれば通路の顔の位置にネットを張って占拠し、まず私が捕まってしまう。台所では昨日の朝に飲んだマグカップの中にクモが巣を作っている有様。玄関から廊下に数えきれないほどのクモの巣がある。これは蚊やハエを捕まえてくれると益虫扱いなのだ。他に飛びグモ・・・巣は持たずにそこいら中を飛び跳ねてダニを食べてくれるクモ。美術館の展示室にもいた。飛びグモはダニを。ダニはカビを食べてくれるから・・・殺さないようにと言ったら、庶務の女の子からヒンシュクものであった。

そうそう我が家の生物多様性に「フクロウ」を忘れていた。そこに彼らのエサとなるトカゲにネズミ、にもぐらがいる。うちの猫も時々ネズミやモグラは捕ってくるから・・・。

それからノミが廊下から減って殆ど見かけなくなった・・・ということは梅雨が明けた証拠になるだろう。毎年この時期はこの現象を繰り返すのだ。反面、猫たちのお尻にノミがパンデミックしているから、これを何とかしなくては。


反逆天使の墜落

2021-06-17 22:47:21 | 絵画

ピーター・ブリューゲルの作品に《反逆天使の墜落》という板絵がある。私はこの作品を1975年頃にブリュッセル王立古典美術館で一年がかりで模写した。この作品は大天使ミカエルが神の使いとして聖書の黙示録の物語にある終末の裁きを反逆の天使たちを天国から追い落とす場面を描いたものだ。悪に染まった天使は化けの皮を剥がれて魑魅魍魎(ちみもうりょう)となって地獄へおちるのだが、彼らは毒を持ったイナゴに刺され、額に悪人の印をつけられる。

西洋のキリスト教にはダンテの《新曲》に表された地獄へ悪人が落ちるという思想が絵画を通して人々に伝えられた。文字が読めなくても絵画であればと画家たちはイメージを作り出した。特にブリューゲルの絵画はヒエロニムス・ボッシュの表現イメージの強い影響で死や地獄を表した。

私はいつの間にかその影響で絵を描いている。美術館という職場では修復家として所蔵作品の保存修復に携わったが、家では他人には見せない絵の世界に没頭した。「生や死」がテーマで、自分の中に溜まっていく世界観が形になり色となる。

山口の大殿中学校時代に姉がいた美術クラブに入れてもらおうとしたら、担任に「自画像を描いてこい」と言われて、それを描いて姉に渡したら、担任に「グロテスクだ」と突き返されたと・・・私の自画像を持って帰ってきた。このことは一生忘れない。私はグロテスクなものが好きなのだろう。学校から帰ると一直線に机に向かい絵を描いていた・・・・近所では「帰宅して直ぐ勉強をする感心な子」として有名であったが、何のことはない。

私に今も絵を描かせる何かがある。コロナで死ぬ人が居ると、人間の社会に落とされた、毒を持ったイナゴの、まるで神の制裁のようにも思えて苦しい。悪いことをしなくても無差別に平等に死を与えるのだから。

次は私の番さ。


あるLGBTSのドキュメント(加筆あり)

2021-06-12 17:06:58 | 絵画

一昨日のNHKのドキュメント番組であった。藤彌(ふじや)さんと言ったか、見た目女性の若い人が島根県邑南(おうなん)町の村役場に勤務する人だが・・・。東京の会社に勤めていた時にはスカートをはいて勤務しなければならない環境に疲れて、島根県の田舎町に救いを求めたのだが、取りあえず町役場に職を得て懸命に働き、町に役に立ちたいと頑張って様々な行事などには限定る姿を記録している。町の中でもっと自分を認めてもらいたいと思た時、ふじやさんは自分の感じていること、思っていることを町の人多たちに話し始めた。

町の年寄りたちは若い人が過疎の町に来て定着し人口を増やしてくれるぐらいに思っていることに「自分は恋愛したことが無く、結婚もしない」と告げても、年寄りたちは「結婚して子供育てることは女の幸せである」と言い続ける。

またふじやさんは地区の消防団に参加しているが「女」と「男」の区別で、女性がやる役割に加えられ、直接消火に当たる作業には参加させてもらえなかった。ふじやさんんが移住してきたときの家の隣が火事になったとき、必死で消火作業に取り組んだ経験があって、どうしても消火作業に加わりたかったのである。しかし消防団の責任者は「女性を守るのは男の役目、女性に怪我をさせられない」と言い続けるのである。

このドキュメントを見たふじやさんと同じ仲間は「苦々しい気持ちで見た」と言う。まあそうであろう。私も苦々しく、情けなく思えた。ふじやさんのコミュニケーションはすれ違いのまま今日まで続いている。過疎の町に残っている人たちは高齢者で人生を半分以上終わらせている人たちである。外から新しいものが、あるいは未知のものが入って来ても、自分たちの経験してきた以外のものに思考の基準はない。特に個人的な違いは同一化によって地区の均一化に吸い込まれて「理解」が行われている。個々人の違いは見えないことで地区の秩序が形成されると、ふじやさんが何を考えようと「地区の(村の)価値観に納まることが求められるのである。

この国は「集団の価値観」で縛られているのだから、昨今議論に出る「多様性社会」ははなはだ遠い未来であろう。個々人の違いを基本的に認めてから付き合うことなど無いのである。LGBTについて「種の存続にかかわる・・・・受け入れられない」と言った自民党の国会議員がいた。また憲法改正の草案に、「この国に蔓延した個人主義によって社会が乱れている・・・」とか言った自民党の国会議員がいた。これらの発言をする人たちが「村の年寄り」に支持されて戦後60年以上自民党政権を存続させているのである。思考停止しているとはこのことだ。

この国に「個人主義」は蔓延どころか、全く理解されていないと思う。「個人主義が蔓延している・・・」とか言った者は個人主義が分からなかっただけではなく、おそらく「利己主義」と勘違いでもしたのでは。いや、ただ「全体主義」が好きなのだろう。

個人主義は「個人の思想や生き方を尊重する考え方」である。かつてこのブログにこんな事を書いた。元カノとベルリンの町を歩いていた時に、前を腰をかがめて歩く年老いた女性がいた。元カノは「後ろからお尻をけりたくなる」と言ったので「そんなことをしてはいけんでしょう」と言ったら「貴方は私のことを一生分からない!!」と言って怒った。「ええ??どうして?」と聞いたら「なぜ、どうしてけりたくなるのか?と聞かないのか」と言った。この時、私は彼女が私より数段格の高い思考をしていると思った。その時、私はヨーロッパに8年も住んで、日本の教条主義的な「集団の価値観」から出ていなかったのである。彼女とはお互いを尊重して別れたが、今もメールでやり取りしている。両者独身である。

人の考え方はそれぞれだから何でも理解できるとは限らない。しかし理解しようとするか否かは人と接する上で最も基本だから大事にする年寄りでありたい。

ふじやさんの話が聞いてもらえるようになる未来は来ないであろう。ふじやさんは「自分は自分だ」とより強くなるだろう。若い人たちの中から、いつかきっと理解者が現れる。ふじやさんは自分を「男とか女」の範疇ではないと感じている。つまりレズとかゲイとかどちらでもない人間なのだ。

人はある時、自分のことを知って欲しいと願うことがある。しかし大方叶わない願いだろう。それがこの国では独自の国民性と呼ぶべき「集団の価値観、感性」なのだから、自分が自分であろうとすれば「軋轢」が生じて仲間から排除される。だから生きる上で「打たれ強い精神性」を持つしかなく孤独を味合うだろう。

私の経験ではドイツでは違っていたと思う。ドイツ人は物事を曖昧にしないで議論する。質問されたら必ず答える国民性では、相手への忖度は時に不遜な扱いであり、具体性のない意見は不適切、不親切なのだから。意見を述べ合うことで相手を理解し受け止めるのが当たり前なのだ。つまり多様性の社会だ。もし意見を感情的に述べればお終いで、論理的、客観的に整理された意見を述べなければ、感情的な表現に相手は入れないから人間関係はお終いになるのだ。実に学ぶことが多い国だった。ふじやさんいもドイツはきっと生きやすい所だろう。

余談だが聖書に登場する天使は男女どちらでもなく、LGBTでもなく中性なのだ。そう、つまりふじやさんと同じなのだ。理解されなくても、笑顔を絶やさず一生懸命に町の為に、町民のために働く姿は天使のようにも感じる。