河口公男の絵画:元国立西洋美術館保存修復研究員の絵画への理解はどの様なものだったか?

油彩画の修復家として、専門は北方ルネッサンス絵画、特に初期フランドル絵画を学んできた経験の集大成を試みる

合理主義が嫌いな人々

2019-04-30 10:51:34 | 絵画

ネット記事に「日本人は合理主義が嫌い・・・」とかいうのがあった。最近また、ドイツ在住27年の日本人ジャーナリストの記事に、日本とドイツの国民性の違いを比較したものがあった。どちらも日本人は「他者に忖度」で、ドイツ人は「個人主義」ということが引き出されて精神性の違いとなっていることが趣旨だった。

私もドイツで4年間、絵画の修復保存を学んで帰国した時、「他者に忖度」が出来なくて、「天を衝く勢いで帰ってきた」と言われた。この頃、日本語の単語の意味は分かっても、会話の相手が「何を言おうとしているのか」分からなかった。この国では、何かを伝えるのに趣旨を直接言わずに、その言いたいことの周りをぐるぐる回って、相手が「忖度する」のを待っているということが理解できるまで3年かかったのである。つまり社会復帰するのに3年間必要だった。で、やっと「天を衝く勢い」とか言われなくなったのである。

しかし、ドイツ的な思考、つまり合理的に考える性格や個人主義的な性格は僅かでも残って、この国では煙たがれることもしばしばだった。もうこの年になって、その性格になってしまった人格は変えようもない。

例えば美術館業務で、西洋美術を扱うのに、公文書に当たるものは「西暦」ではなく、「元号表記」であることが、納得できなかった。ここに業務の無駄があって、合理的でないのが、この国の生産性を悪くしていると思った。長く生きた人は「あれは何年だっただろうか?」と考えるのに、元号だけで生きてきた人は面倒もないだろうが、10年からヨーロッパで過ごした者にとって、この間の元号年は何かと結びつかないから分からない。明日で元号が令和に代わるというから、また新しく面倒が増える。しかし世の中は新しい元号に浮かれて、テレビもこればかり喧伝している。のど元過ぎれば熱さ忘れるという国民性には、たまに元号が変わって「平成はどんな時代だったか?」と振り返ってみるには良いかもしれないが「反省はしない」だろう。

この元号制を法制化したのは「日本会議」という右翼の集団の影響を受けた安倍政権である。安倍は集団の価値観を強制し、国旗国歌も法制化して国家主義を押し付けている。これも無駄で生産性がない。何故、元号なのか、国旗国歌なのか説明がなく法制化したのだから、国民は納得してはいけないのだが、これも「忖度」だろう。誰に忖度しているのかと言えば、天皇に対してではない、国家主義という価値観に対してであろう。「国民に対して誠意をもって説明する」とよく言うが、これは観念的な言葉を弄んでいるだけで、端からその気はない。元より説明できる明確な理解が出来ないから、彼は平気である。

私は個人的に天皇に対して何か思うところはないが、彼には宿命であって仕方がないだろうが、生まれた時から「である」というのは嫌いであるから、聖書の「神は人の頭に冠を授けず」という考えである。だから天皇が来たと言って日の丸の小旗を振るとか、涙を流して喜んだりはしない。GHQが戦後に天皇制を残したのは、これもやはり日本人の国民感情に「忖度」しての話で、天皇が居ないと戦後の日本がまとまらないと主張した人が居るからだと聞いているが・・・。

ドイツでは「忖度」によって法律が作られることはない。忖度は「相手を思う気持ち」のことだが、日本人はこれを大事にする。その反対にドイツでは「忖度」はしてはいけないことのように扱われる。ドイツでは「人の気持ちは悪魔にもわからない」と言われる。曖昧な意思表示が全く無駄で、効率が悪く嫌われる。だからお互いに合理的な意見交換によって、個人的な考えや感じ方を明確にして付き合うのである私はこれに慣れるまで、個人的な意見をはっきり述べない日本人として、ドイツでは「あいつは気取っている」と言われていたまあ確かに、潔癖すぎるドイツ人には「もう少し」どう感じるかも気を使ってほしい面もあるが、曖昧さを残さないでスッキリしようとする精神性は健康的ではある。どうしても悪く言えば「相手を論破する」ということだろう。

日本人はやはり島国根性でガラパゴス化している全く欧米先進国と付き合うのに、国際標準な意見交換が出来なければ独立国家として通用しないであろうに。

しかし、他国からどのように見られているかを気にする国民でありながら最近の出来事として「ゴーン元会長」の長引く拘留に、海外からの批判が気になって、「自白するまで拘留する」この人権無視の制度について、やっと考え始めた。また元官僚の池袋での交通事故の扱いで「上級国民」だから特別扱いをしていると批判がされても平気な法務省だが、この制度も変える気はない。弁護士でも「上級国民」という扱いは無いように言う記事がネットに載っていたが、警察に詳しい友人によると、犯罪者の取り調べを行う「供述調書」」には特別に「爵位、叙勲」などと書かれた項目があって、明らかに「上級国民」としての区別あるいは差別があることは確かだ。これは「忖度」の極みである。これでは法治国家としての資格は無いが、きっと「こんなのは他の国と比べればましな方だ」というだろう。

ゴーンを自白するまで拘留するのは無駄だ。彼の弁当代がもったいない。フランス人で「自分が悪かった」と認める者はいない。最終的にばれた時には「セラビー!!(これが人生さという意味であるが、しょうがないという意味でもある)」と肩をすくめていうだろう。

この国で、個人の権利や人権を守るためには、合理主義や個人主義が不可欠だと思う。誰もが自分の意見を持っていて、堂々と表明できる社会こそ民主主義の根幹にあり、個人の幸福感は少しマシになると思う。

ああ、そうそう、私は何かあるたびに、責任者が雁首揃えて謝罪する会見が嫌いだ。謝罪は罪を認めることだから、欧米人は絶対しないが、この国では罪を認めて謝ると、その罪が半減するから不思議だゴーンは絶対に謝らない。謝ることは罪を認めて、その責任を刑事、民事両方の責任を負うことだが、この国では謝ってごまかす。安倍は東北大震災で原発の津波対策を、津波が起きる前に国会で質問され「津波対策は十分されている」と答えていた。で、その責任はどうした?公文書偽造の佐川は何処に行ったこれがもし合理主義のドイツであれば、みなその責任を問われて、刑務所行きか弁済義務を負うだろうこの国では個人主義や合理主義が嫌われる原因は責任を問われるからだろう。


ノートルダム寺院が燃えちゃった!

2019-04-21 00:38:20 | 絵画

皆さんもノートルダム寺院が燃えている映像を見られただろう!!

あっていいことではない。何故そういうことになるのか・・・疑問に思うが・・・スプリンクラーもなく、他に消防設備もなく、これまで800年を生き抜いてきて、慢心したか!しかし何となくその卦があって・・・そう言えば現役時代にルーブル美術館の修復室、科学研究所を訪ねた時、これがフランスの文化財保存の最前線かと思わされる状況で、要するにルーブル美術館の選任修復家というのは居なくて、外部委託の修復家を束ねるコーディネーターが2,3人いるだけで、制度的に大プロジェクトを実現するなど、修復家が決めることではなく、美術史家である学芸員が議論して決める制度になっていた。つまり伝統的階級制度が厳しくて、ボスが全てを決めるというフランス独自のやり方があった。現場の声が受け入れられない国なのである。ここがドイツと大きな違いだ。日産のゴーン問題がそのいい例である。現場の問題が理解されずに進み、これまでもルーブル美術館内での作品展示も学芸員が指示を出して決める状態で、ドイツやイギリスの現状と比べれば目も当てられない状況だった。パリ郊外にあるベルサイユ宮の中に、旧兵舎の建物に様々なところから持ち込まれる美術品の修復所があるが、どうも先端の研究成果によって活動しているとは思えなかった。つまりフランスの美術館で学芸員はキュレーターではなく、コンセルバトワールと呼ばれることからも、その役割や権限が大きすぎる。なぜなら、いくら何でも美術史系の者は保存科学や保存修復で問題となる研究成果を知らなさすぎるからである。権威主義、階級主義などが延々と生き残る社会であることに違いない。ノートルダム寺院がフランス人の心であるなら、やはり文化財保存に徹しなければ、いけんちゃ!!

日本も美術館学芸員はフランスの学芸員のあり方をモデルにしており、何時まで経っても専業性が進まず、素人の学芸員が「保存担当業務」を兼任している。意外と小さな美術館でも学芸員の数は多く、ほとんど雑務を兼務しているので、専門家としては、欧米と比べ物にならないほど資質が低い。欧米では専業化が進んで、それぞれが業務内容にプロフェッショナルな意識で仕事をしている。だから学芸員でも国際シンポジュウムで発言できるだけの資質を持っている。しかしこの国での、こういう状況が変わりにくいのは、非合理的な国民性のせいである。ネットに「日本人は合理主義が嫌いだから」というのがあったが、生産性が悪く、社会構造の変化に消極的で、島国根性、井の中の蛙的な国民性を持ち続けて、周囲を見て安心するところは危ないというべきだろう。

ついでに、今日のニュースから、「働き方改革」で法制化された内容に、残業時間を厳守、有給休暇の消化など怠れば「30万円の罰金」とか。街角でのインタビューでは「休めと言われても・・・やることがない・・・」「残業なしに切り上げて帰宅すれば、女房にいろいろ言いつけられるから帰りたくない」とかいう男性会社員がいて、全く情けないと思う。早く家へ帰って「洗濯物でも洗え!!」。「女性が家事をするものだと固定観念を持っているのは、差別主義だろう」

自由な時間が主体的に過ごせないというのは「自分」の欠如であり、おそらく会社の中でも「無能」であるに違いない。自分が個人として自立していないのは、代々継がれた「無我」の教育のせいであろう。学生服を着せて、集団行動、集団の価値感を植え付けられていつの間にか「自分が自分であること」を意識できなかったからだろう。ここに必要なのは個人主義であるが、安倍自民党と安倍の日本会議は訳の分からぬ「美しい日本」とか言って、個人主義が蔓延してこの日本をだめにしてきたとのたまう。違うだろう!!この国をだめにしているのは安倍の全体主義、集団主義だろうに。

個人がそれぞれ自分のやりたいこと、好きなことができることが、この社会をまともにするのだ。

ごめんなさい、また余計な事を書いちまった。


見る3

2019-04-11 14:37:24 | 絵画

見る。また「見る」ですけど、「見ること」は語り尽くせない色々な視点があるので、また今回も書くことにした。

もう、新学期が始まって、私の愛弟子Kちゃんも上京した。Kちゃんは東京芸大の油彩画科の受験に落選し、一浪することになった。これは想定の範囲内だ。しかし、東京芸大の油彩画科を受験したが、正直言って、大きな問題だった。というのも今年も実技デッサンの出題が「世界を見る、考える」であった。私の読者で、絵を描く人描かない人にとっても、これはややこしい課題で、木炭紙の倍の大きさに、5時間で、木炭あるいは鉛筆で表せという求めに、どれほどの者が的確に応じられるだろうか疑問である。この課題を視覚的に表すのは私でも面食らうし、例えば分筆が優れた人でも、文章で表すのでも難題と言うべきだろう。しかし芸大の教授陣は毎年同じような出題を繰り返すのである。かつてお笑い芸人の爆笑問題がNHKの「00爆問」とか言う番組で、芸大の学生が制作するアトリエを訪ねた時,当時の宮田学長が案内する教室での風景は衝撃的で「まるで小中学生の図画工作の延長」でしかない作品には呆れた。もはや大きな期待は抱かぬ方が良いのだ。

前にも述べたが、この出題の仕方は、観念アート的で、アイデアを求めており、「感覚的才能」を求めているとは言い難い。この方法で選抜される者が「視覚芸術的才能」を持ち得るとは、私には到底思えない。油彩画科、日本画科という分類があるのであれば、観念アート学科でも作ればよいと述べてきたが、、しかし「観念アート」は殆どの場合「視覚芸術」ではなく、頭で考える表現であって、見る事とはかなり距離感がある。「自分たちは知的な表現をやっている」と思い込んでアイルのだから、例えば東京大学の文系の学科として「観念アート」学科を作るべきと思うが・・・・学科科目の能力を求めない美術系からの応募はないであろう。要するに観念アートには「哲学的能力」が求められているからである。

芸大油絵科のネット・ホームページの案内に登場する教授が椅子にふんぞり返って「芸術は愛だよ・・・」とか言うのには、あきれる気持ち悪さに・・・・もはや「自分たちは特殊なのだ」と言わんばかりの横着さを感じさせられる。作品で示せと言いたいが、言葉で言ってしまうところが「観念的」としか言いようのない教授陣なのだろう。

Kちゃんにとって、今回の受験は冒険であったが、来年は日本画科を受験するように進言した。日本画科の教授たちは、旧来の「描写力」も求めており、これから美術の世界に入っていく入門者としてのプロセスを踏んでいるように思うから、油絵と日本画では画材や技法に違いがあれど、描写については、もはや伝統的な表現ではなく、石膏デッサンの影響か立体的、空間的表現ではもはや油彩画も日本画も境がなくなっている。

石膏デッサンの問題点については、これまで述べてきたが、もう一度言えば「現象を追いかける描写」のところが良くなくて、誰もが個人的な感性の特異性に気が付かない様式に落ち込んでいるからだ。描写方法はこのデッサンの問題から各自の感性のすばらしさを大切にすれば、今現在陥っている紋切り型の表現から、描写表現が一皮むけるであろうことは分かるだろう。そこには「観念アート」とは違う「現代美術」がある。

そこで、今回の「見る3」の趣旨がある。

絵を描く者は「モチーフを見るとき」は一般の人が物を見るときとは違う目線で見ているが、「現象を追う人」は究極的に「写真的な絵画」に至る。これが面白くも全くない「右から左に写す」ための目線で、自分の感性や目的意識がない状態で形や色を決めてしまう。これで鑑賞者が感動するのは「きゃあー!!本物そっくり」という感想で、芸術性は全くない話だ。現代に「写真的に絵を描く人」に古典の巨匠のデッサン力について話しても「馬の耳に念仏」だろう。そう昔の巨匠は「本物そっくり」に描くのではなく「無いものを在るがごとき」にするデッサン力を持つことが画家としての証であったから、「見えるままに描く」ことは許されなかったのだ。

ここで絵を描かない人に「無いものを在るがごときに」と言っても「ないもの」とはいったい何なのか分からない人がいるだろう。この無いものとは「我々の現実世界に無いもの」という意味で、作者が心の中で「見たもの」ということである。それを描写することで、鑑賞者に視覚的に伝えようとするのである。観念アートのように伝わらない作品に「言葉を添えて見せよう」とはしてはいけない。詐欺になるから。

古典の巨匠たちが、その彼らの時代に見せられなかった「無いもの」を現代の作家が「あるがごときに」描いて見せられる主題は山ほどある。だから安心して描写の絵画に参加すればよい。心の中に「見える世界」を描けばよいのである。