河口公男の絵画:元国立西洋美術館保存修復研究員の絵画への理解はどの様なものだったか?

油彩画の修復家として、専門は北方ルネッサンス絵画、特に初期フランドル絵画を学んできた経験の集大成を試みる

エンブレム問題の焦点…のど元過ぎれば・・・。

2016-10-19 21:48:49 | 絵画
2015年の夏は東京オリンピックのエンブレム問題で熱かったが、もう「のど元を過ぎて」しまっただろうか?
何事も、時が過ぎれば罪も忘れ・・・福島の第一原発の責任も問わないかもしれない国民性。
しかし、ちょっと思い出してみてほしい。エンブレム問題は美術関係者にとって、何を学んだかの大事な問題だったはず。

デザイナー兼アートディレクターの肩書の佐野研二郎氏が制作したとされた作品が、2020年東京オリンピックのエンブレムに採用されたが、ベルギーの劇場のロゴマークの登用であると・・・訴えられて、我が国のオリンピックのレベルまで疑われる事態に発展していったのである。
2015年7月24日に子のエンブレムが発表されてからすぐに問題が発覚し、9月1日にエンブレムを取り下げることになったのである。
取り下げのきっかけは、彼がデザインしたとされる他の作品に多くの盗用が見つかって、いくら彼が「子のエンブレムは自分のオリジナルで決して盗用ではない」と言っても、ネットという便利なツールからの数多くの盗用や無許可の借用が指摘されて、窮地に追い込まれての取り下げであったと思う。
当時のベルギーのロゴマークの盗用については、ベルギーで裁判沙汰になって、損害賠償も含めて、簡単に終わりそうになかった。

デザインの世界については、私はあまり知らないが、一つ大事なことはデザインは商業美術ともいわれ、お金の問題が直接付きまとう。ここが芸術と違う点であるが、デザインは商標や商品のイメージを決定するもので、芸術が虚構性を大事にするのと違い、太宰ンは実態を表す手段としての機能性や有効性が求められる。またこのデザインのテーマを与えるのは作者個人ではなく、商業目的で必要としている企業や注文主と呼べるお金持ちで、一方の芸術は作家個人の内的な意識である。
またデザインは、その歴史が始まって以来、商標登録や著作権などの権利が生じて、これが売買され、その案件は世界で100万を超える。したがって簡単なロゴ、単純な形にされたロゴはすでに作り尽くされているともいえ、制作は容易ではない。
後発のデザイナーが何かデザインしようとすれば、先人の作品を注意しながら避けて、自分のオリジナルにたどり着かねばならない。
しかし現実はそう楽な話ではなく、巷のデザイナーは他人の仕事からヒントを得て、少しいじりなおしたものを作製して、自分のオリジナルのような顔をして商売にする。才能がなければこれが常套手段になってしまう。人の作品から貰うことはクリエーションの一部だと思えば・・・・次第に鈍感になって、コンペにも応募してしまうのだ。
研二郎氏の作品もこうして表舞台に出たのだろうが、コンペで彼の作品を審査したデザイナーもこの程度ならよいだろうと思ったのではなかろうか。

問題が発覚してから取り下げるまでに、一か月はかかってしまった。オリンピック組織委員会は「ベルギーのロゴは国際的な商標登録がされていないから問題ない」言い続けたが、あまりに多くの盗用と思える過去の作例と無断使用が指摘されて、行き場を失うことになった。そこで組織委員会はデザイン選考に当たって、原案とされたものを紹介し、そこからさらに改良を施したものが選ばれたエンブレムであると…記者会見を開いて問題の終息を図ろうとしたが、これがさらに問題を起こした。
そこに示された原案が二年前に銀座で開催された《ヤン・チヒョルト展》のポスターに用いられたロゴにそっくりであったから、また攻撃された。

これらの指摘をしたのは、研二郎氏の敵あるいは出鱈目な制作態度が許せない同業者、美術関係者か、ニュースを作り続けるメディアか?ネットの2チャンネルに始まり、呼びかけが大炎上を誘ったのだ。
まあしかし、鳥肌が立つほどの追い打ちで、狙った獲物は逃さない・・・という感じで、次から次へと問題提起がされた。
どこかで研二郎氏は多くの者たちの反感を買う信号を送っていたのだ。だが、どうも彼が憎いから盗用や転用が問題視されたのではなく、在ってはならないものが数多く見つかって、言い訳できないのに素直に認めて引っ込まなかったことに、更なる攻撃が続いたことの原因だろう。ここは日本的なのだ。すぐに謝って済ますのが日本的なのだが、彼は・・・。
自分のオリジナルだと言ったからには、そのエンブレムの制作過程を示すスケッチや企画書類を示して、「偶然似たもの」だったと証明する必要があった。例えば、アルファベットのフォントを独自に発明するとか、努力や才能があれば、他にも見つかった盗用疑惑などあろうはずもなかった。

エンブレム騒動の終息には、その影響を見守るだけの時間が必要だった。IOC、オリンピック組織委員会、デザイナーの責任問題が追及される中、損害賠償問題まで出てくる。すでにあちこちの企業や東京都、民間団体などがポスターやロゴを入れたコマーシャルまで作っていたのだから。
取り下げを発表する記者会見では、組織委員会の役人的な考え方、責任逃れの弁解、デザイン選考委委員を務めた永井一正氏の「あれは彼の独自の作品だ」・・・君たちにはわからんだろ・・・という雰囲気での発言は、テレビを見るものをイラッとさせたであろう。
研二郎氏は「エンブレムは自分のオリジナルで盗用ではありません」と自身のブログで言い続けているが、もはや誰も信じないであろう。

すでにエンブレムはIOCの手に渡って研二郎氏のものではなかったが、「今回の問題で家族まで誹謗中傷にあって、人間として耐えられないから取り下げる」と言い出した。
自分は悪くないけど、周りが悪いから、今回のエンブレムが使えなくなるのは、自分のせいではない・・・と言ったのである。

お昼のワイドショーの格好のテーマとなって、コメンテーターに現役のデザイナーや美術学校の教師を呼んで解釈を求めた。しかし奇妙なことに同業者のデザイナーからも「これはやってはいけないこと」なのの具体的な発言はなく、曖昧にデザイン界ではよくある話として紹介された。現代日本の美術界全体が、盗用や転用の切り返しをしてきたような印象も与えた。

時間が経って、次第にマスコミの報道からも、騒動の核心を突くような、教訓的な批判と思える発言がデザイナーから出てきた。「ネットが盛んに利用され、様々な素材に触れることが出来るようになって、安易なツールになっているが、利用するにはやってはいけないことがあるから、より注意する必要がある」と言った。
そこには現代デザイン業界のあり様が見えてくる。多くのデザイナーがネットを資料集めに利用し、参考となるデザインの見本や写真、材料を集めて自分流に作り直しているのだそうだ。それらの著作権や、意匠登録を無視することもある。
従ってパクリと参考とが混然一体となる要素は業界にあって、作者のモラルの問題は個人のものとなっていて、「参考としたものとの類似性」が厳しく問われているかどうかは個人の人格の問題である。つまりこの社会に生きて自分に戒めの意識を持たせているかどうかである。
欧米ではこの点はもっと先進していると思う。
しかし、また類似していても「根本的にコンセプトが違う」と研二郎氏は言った。つまりデザインは作業に入る前に実現すべき意匠の表現性を示してコンセプトと呼んでいる。しかしデザインはコンセプトではなく意匠という形象の造形であり、視覚的に「類似しているかどうか」を素人でも判断できるのである。
しかし彼等は「それは一般人にはわからない」「プロだけが分かる」コンセプトの問題だそうだ。注文する側を無視し、小ばかにしたこの発言は傲慢としか言いようがない。

ここで登場する「コンセプト」は近代、現代美術の産物であり、作品の持つ感性に当たる部分ではなく、むしろ基礎となる考え、思想に表現の主体があるする美術史家、評論家の扇動によって出来上がった意識である。
これに対して2チャンネルの有志たちは、言葉によって人を惑わすコンセプトより、「観念的ではなく感覚的に見た」のである。この主観的な世界観は一般人には健全な体質として残っているように思える。

パクリの類例は多彩であまりに多く、2チャンネルの民から指摘を受けた。ネットに載った彼の作品はあまりに類似性の高いものが多く、素人目にも「同じもの」と言えるところまで、際どいものだらけだった。しかしデザイン業界のプロから見た目では、「そんなことは良くあること」という返事だった。また「素人には分からない」と傲慢な意見を言う手合いもいた。この者もネットで炎上しが、多摩美術大学や東京造形大学の学生にもこの業界を擁護する者もいた。その言い方で「教養のないものには分からない」と傲慢さがもう身に着いていた。もう伝統になっていて救えないかもしれない。

この業界といわず、この国にはモラルが薄い人が多いのだ。政治家も責任を取らないで、曖昧にする国だ。今回の問題はデザイン業界にとって戒めとならなければならないが、この国が発展途上国だということを忘れてしまっているのかも知れない。物は豊かになっても精神性が豊かにならなければ何にもならない。特にモノづくりに向かっては。
他人の影響で「似たもの」が出来たとしたら、作者当人に独自にあるべき「美意識や洞察力」がないからで、本来なら個人の美意識の違いで、一味も二味も違うものが生まれるはずである。要するに「素直」に自分を見つめる時間が少なすぎて、他人を真似して終わるのである。

一方で諸一活動で用いられたエンブレムは女子美術大学の学生作品だった。さわやかな五輪、東北大震災の復興を祈ってテーマとして作ったといわれている。素直さが感じられ、盗用や転用から全く無縁の作品だった。どうしてこれが基本にならないのだろうか。
(権威主義の委員会が学生作品ではエンブレムにふさわしくない・・・・とでも言ったのではないかと疑念を抱かせたが・・・。)

長々と前置きが長くて申し訳ありませんが・・・・

今回の問題はデザイン業界だけの問題としてはならない。美術界全体にある「美術の本質から離れた在り方」が蔓延していて、醜いことが一杯ある。どれほどの人たちが純粋に創作の喜びを感じて、無心になっているだろうか?

今回の問題から学べることは「物を作るものは、決して無から新しいものを作り出せない」のであるから、オリジナルという架空の対象に向かって、なにを基準にするか、自分に強い信念を持たねばならないということだった。
他人から影響を受けないことはあり得ないから、堂々と受け入れればよい。画学生の時は、まるで模倣から入るので、他人のものは他人のものとして潔癖な分別を学ぶ必要がある。そして自分の世界観を育んで、自分のオリジナルを作り出すのだ。

創作は好きから始まる。他人の作品からインスピレーションを受けることは、大いにある。好きであればなおさら近付いて、真似近くまで接近するであろう。しかしまったく同じになるはずはない。どうしてもどこか違うものに変化することを、突き詰めた者は気が付くであろう。それが自分のオリジナリティで、この道しかないのだ。

以下に他人から影響を受ける類例、ファクターを取り上げてみた。

①引用
 自分の説の拠り所とする。
②Pastisher(仏語:ハスティッシェ)
 芸術家、著作家のスタイル、様式を模倣、模索すること。
③Imitation
 模倣、真似
 劇:ほかの俳優の演技の模倣
 楽:(対立法の)旋律の反復
 書体、署名を似せて書くこと。貨幣の偽造、模造品
④翻案
 前の人の行った事柄の大筋を真似、細かい点を変えて作り直すこと。特に小説、戯曲についていう。
⑤アレゴリー
 比喩、風論、寓意
 それ自身の形などからくる形象的価値より、他の観念を一義的に示唆するための、単なる機縁や記号として機能するもの。
⑥パロディ
 内容表現や様式を模倣し、内容を変えて滑稽化、風刺化したもの。楽しく創作する方法として定着している。
⑦オマージュ
 尊敬、敬意。賛辞、献辞。
 Hommage(仏語:オマージュ)「誰かへのオマージュ」で意味するところは尊敬や敬意を表するという意味の他に、「何かを献上する」という意味が あるが、日本後で「人から影響を受ける」ことに近い意味に変化しているかも知れない。「だから真似をしたのだ」といういい訳かも知れない。
⑧影響
 ある人の影響を受けるとは、消極的な意味で、真似るが自分が無いような状況を示し、積極的な意味では、意識的に真似て真似に近づくこと。
 表現様式や作り出された形象にまで及んで近付くことになる。
 つまり似ていると判断できることが基準で、似ていないと影響を受けたかどうか他人には判断できない。
 良い意味で言えば、自分の実力に加味されることを意味する。
⑨パクリ
 人の作ったものをさも自分が作ったように見せてしまう。倒錯であり、転用も同じ。犯罪行為だ。
⑩贋作
 パクリのように、さも自分が作ったように見せるのではなく、ある作家が作ったように作品を作る。
 本物に近づくために技法材料から表現様式まで真似る。
 意外と、目の悪い美術研究者などがひっかって、その作品が本物として世渡りをする。最初作ったものはただの遊びであったかもしれないが・・・。

他人の作ったものを楽しく遊ぶ方法として、または学ぶ方法として、他者からの影響は当たり前のこととして考えればよい。それは芸術であればこそで、商業美術では許されない範囲は広い。そこが商業美術が芸術になれないところだ。
形象は似せただけの単純な表現に用いてはならず、必ず表現の内容は別物でなければならない。

この問題はまた引き続きテーマとして考えたい。

またまた知りませんでした。「ためしてガッテン」NHKから

2016-10-17 23:51:35 | 絵画
年を取るにしたがって人は目が悪くなり、耳も聞こえが悪くなってポンコツとなるのは仕方がなく受け止めていたが・・・。「加齢による色覚異常」になるとは思っていなかったから、高齢者になっても絵を描きたいと思っていた私には少しショックだった。
例えば、ドレスの色が何色に見えるかという出だしの質問に、ある者は青と黒、またある者は白と金と答えて、そのギャップの大きさに驚く。スタジオの参加者も半々で年齢差というわけではなかった。見え方そのものは錯覚で感じてしまうように、脳に組み込まれているという。

番組で得た情報をまとめると、特に青色に関して加齢の夜色彩の変化が起きるそうで、目の奥にある網膜上に並んだ錐体細胞(650万個ぐらい)と呼ばれる知覚細胞があって、青、赤、緑(光の三原色)を感じる細胞があるらしい。この内、青色を感じる細胞は元来数が少なく、個人差もあるのだそうだ。青色の細胞が少ないのは太古の時代に祖先が海から上がって、青色を識別する細胞があまり必要なくなったせいだと・・・。うまい話だね。
しかし全体的に20代が知覚力のピークで、加齢によって機能が低下して、薄い黄色のフィルターをかけたような状態になるらしい。つまりそれぞれの色が弱く感じるようになるということ。

修復家として失われた絵具層に新たに色を与えた頃、私の知覚はどうであったろうか。時には顕微鏡をのぞいて補彩の作業をしたこともあるが、あまりに小さな点を補彩して、自分でもわからなくなるほどであったが・・・。たまにはその作品を見に行った方が良いかもしれない。
この先も絵を描く自分としては事実を受け止めて制作しなければならなと思うが、私の青は一体どんな青なのだろうか!!??

十代から絵を描き始め、美大に進んだ。入試の他に色盲色弱検査というのがあって、カードの数字を読ませるというものだった。カードには二つのパターンがあって、あるカードは彩度の強い赤と緑の点が散らばっていて、健常者には見辛い。もう一つの方は薄いピンクは灰色の点があって、中に数字が表されている。これは点が全て同じ明度で表されて、色も弱く、色盲色弱の人には読めないようになっている。
これを私は両方を読み答えてしまった。しかも正解だ。そこで担当者はどうして分かるのかと尋ねたので、解説して見せた。普通はどちらかなのだと・・・。両方答えたのはまずかった。まあ大学入試は合格したが。
目がいつの間にか明度と彩度を区別して見ていることは実際に起きる。絵を描く者ならそのぐらいの能力は身に着いていてもおかしくはない。今から思えば絵画の修復家として多くの絵を点検調査して、処置を施すのに役に立っているのだから。失われた箇所に新たに補彩するなど、色を判別し、明度を合わせる、汚れを判断することは瞬時にできないと困る。
しかし修復家としての仕事は止めて、今は絵を描くことに専念したいから・・・。
まあ見え方の個人差は、当然誰にも当てはまることだから、私が特別良い訳でも悪い訳でもない・・・・と思えば、それもありだろう。よく考えれば絵を描いて表現するとなると技巧上の問題であり、芸術性の問題ではないので、まだ大事なことは一杯ある。

昔から、ファン・アイクの描いたブリュージュ(ベルギー)のフローニンヘン美術館にある《The Paele Madonna》の左横の教皇のマントのラピスラズリの青色を再現したいと思っているのだが・・・。無論20代の時のように見えたとしても、再現能力は絵画の描写力であって、別のものだ。
絵を描くなら日ごろの修練のほかに弱点を克服するために、照明の明るさに気を付けることになるだろう。絵画の修復アトリエでは机の上で700luxの確保を基準にしていた。色彩の判別や細かな部分を判別するのに必要な明るさだ。勿論自然光であるが、直射でなく、紫外線や赤外線を遮断するフィルターを通している。電球色は用いないし、蛍光灯は青味が強いので、照明が必要な夜間は色を使う仕事に向かない。最近はLED照明のおかげで、太陽光の明るさに近づいたが、青味が少し強いので割り引かねばならない。

そうそう見え方のことを言えば、展覧会で油絵の照明は180~200luxで、紙に書かれている、デッサン、水彩画、パステル画は厳しい保存条件で50luxで展示されるため、明るいところ来た来館者にはよく見えないこともある。正直言って色彩を判別するには不十分な明るさだ。
20分ぐらいすると目が暗さに慣れてくるが、展示経路で次第に少しずつ慣れさせる配慮が必要だ。そんなことをする学芸員はいないが。
よく来館者に怒られました。
年と共に生きること・・・ためしてガッテンです。

林先生が驚く、初耳学・・・TBSの番組から

2016-10-17 21:59:50 | 絵画

番組の中で、「浮世絵の背景に青が使われるようになったのは、プルシャンブルーという絵具が発明され、大量にに青が使われるようになったら・・・・。先生ご存知でした?林先生は「知ってました」という返事。
えー?そうなの?私は知りませんでした!!
本当ですかね?
番組では、初期の浮世絵(美人画)と広重の《東海道五十三次》の一枚の部分を紹介して、前者は背景がなく、後者は遠景に風景が描かれ、青が使われているものを比較させた。今まで使われなかった青が、プルシャンブルーが使えるようになったから・・・・というような発言で・・・進行役のアナウンサーが「先生、お見事です!」という。
いやー知りませんでした・・・。いやいや先生!青色が日本には無かったような話はいけませんよ。
この国には昔から…おそらく古代から・・・、量は少ないものの世界各地でとれる岩群青(アズライト、藍銅鉱、塩基性炭酸塩)と藍(あい、インデイゴ)が使われてきたし、青がなかったような話にしてはいけませんよ。それまでの日本画には多くの青が使われてます。
初期の浮世絵は当初は白黒の線描の版画であったものが、大衆的要望によって、手彩色で色付けするようになり、さらに百年の歴史の中で色摺り版画として庶民に愛されるようになったもので、青色がなかったから初期版画が色なしのモノクロだったわけではないのです。またプルシャンブルーが手に入ったから青が摺られたのでもありません。これは時代の中での表現様式の変化と考えるべきでしょう。

当時の青、群青は鉱石として出たものを、粉砕して水簸(すいひ)したものを粒子の細かさで分別し、それぞれ色の濃さ、粒子の大きさが異なるものを、用途に応じて使ってきた。粒子が細かいと乱反射が大きくて水色のように明るく、粒子が大きいものは青さが濃い。これは水性絵の具として用いるのは構わないが、油と混ぜて用いると屈折率のせいで、暗く濁った色になり、美しい青味は失せて適しなかったために、鉛白と混ぜて青味を際立たせて用いられた。西洋では中世期からラピスラズリという青色絵具は世界の大半がアフガニスタンで産出し、日本で使われた証拠はないが、用い方は群青と同じである。
マルチタレントの林先生ですが、TBSのプロデューサーのいうがままに従っていると、博識に傷がつきますよ。
しかしプルシャンブルーが浮世絵に使われているとは知りませんでした。誰か裏付けを採ったのでしょうか?文献などありましたら教えてください。(浮世絵が大衆的なものであるためにも、安く手に入る青が必要であった。当時、べろ藍とか言われて、鉄を多く含む染料に近い青として中国を経由して入ってきたらしい。)

そこで、取りあえず本に書かれているような知識だけは提示しておきましょう。
プルシャンブルー(プロイセン青)1704年にドイツで発明された。フェロシアン第二鉄またはそれに類似した化合物であるとか・・・この鉄の化合物は占領に近い性格を有しており、様々なバリエーションで類似した製法があって、色味も濃青色から黒青色や赤みを帯びたものまである。透明性のある染料の性格をしているが、細かな粒子で、沈殿してできる。これを用いて鉛白を染め付けると目に見えるほどの顔料になる。
この微粒子染料でプロイセン軍の軍服を青色に染めたらしい。
光や空気にかなりの耐久性があるとされているが、アルカリには鋭敏に反応して弱く、褐色に変色する。アルカリの石灰で地を作るフレスコ画には用いられなかった。酸には強いらしい。油に混ぜると褐色に変色することがあるらしい。今日ではペイントや印刷用インクとして用いられる。

そこで発明は1704年でも、詳細な製法が公表されたのは1724年でヨーロッパ全体で生産されるようになったのは1750年頃だそうだ。最初に絵に用いられたのは1770年で、その後ありふれたものになったらしい。
私が画学生であった1970年頃にプルシャンブルーの油絵の具があったように思うが・・・いつの間にか無くなった(実際にはある。画材屋に行けば見つかる、ただ修復のような厳しい材料指定があるものには向かないから、排除されている)。私の正直な感想は「汚い青色」であった。ボールペンの青色と同じで美しくはなかった。

そこで最初に戻って、時代のことを言えば、広重の浮世絵は1835年頃の版である。空の青は地平線から薄青い色から濃い青になるが、プルシャンブルーの色味ではなかった。当時はまだ完全な開国はされておらず、中国を経由して輸入していたとは・・・知りませんでした。
勿論日本での生産はあり得ない話だ。
しかし林先生がプルシャンブルーだとおっしゃるなら、ぜひ文献などを紹介していただきたく思います。
河口公男の初耳学です。