毎日のことだが、朝から靴下はどれを履こうか考えるのは職務期間中のこと。美術館業務では拘って生きてきたから、一つ一つがこだわりの積み重ねだった。
今はもう、毎日が日曜日で働かないから好き勝手にしていると、こだわりが無くなる。それは靴下の柄、冬物、夏物だろうが気にしなくなった。ある日、歯医者に行って診察台に座って足を見ると、左右の靴下の柄も色も違っていた。片方は黒、もう一方は青だった。青い方には横線の模様に成っていて、一目でそれはペアではないことが分かった。仕方がないことだ。洗濯しても面倒で乾燥後にペアにして仕舞い込むときに「プイっと」しておく。そのせいだ。
日頃から自分は年寄りだと思わないように・・・しているつもりでも靴下は、まさか年のせいでと思わない。只昔から人生の大事と思わないことに気を使わないようにしていたから。(しかし穴の開いた靴下は冬場は冷たいから、ちょっと避ける)しかし、日ごろから運動不足を分かっていて、今一真面目に取り組まないから・・・・高い所にあるものに手を伸ばそうとして、飛び上がって20cmの高さの物に手が届かなかった。これはヤバいと思う。人生の先が不安になる。
人は生きている以上「こだわり」は必要だろう。若く見せるために姿勢を良くして歩くとか食事中もテーブルに顔を近づけないで、背すじを伸ばして食べる。これは誤嚥(ごえん)を防ぐために大事らしい。
独り者の男が「食事中に背筋を伸ばしている」のは奇妙だろうね。
いや、一方で、実は絵を描く上では「こだわり」が邪魔になってスランプの原因になっていた事を書いた。こだわりは素直さを押しつぶしている時もありっ見えるものが見えなくなることもある(ここで言う見えるものとは、心に見えるもの、つまり創作イメージの世界)。
ああ、それと最近はコロナとか以外に、家の事つまり自分は何処で最期を過ごすかということ。この浜田を引っ越して、山口の方でもう一度新鮮な気持ちになりたいと思っている。しかしそこにも障害となるものが山ほどあって、飛び移れる身軽さはない。ここにも「こだわり」がある。
左右の柄が違う靴下を履くような軽い気持ちが欲しい。
と言いつつも、先週は片道3時間かけて鳥取県境港市のスーパープラントまでカニを買いに行ったのだから・・・・やることが恣意的で、独身だったせいだね。