だいたい5月ごろが春猫の誕生で、六月となれば母親に連れられた子猫が人目に触れる場所に登場する。猫の母親は猫が生まれると普通は一目にも、他の猫にも見つからない場所を選んで子供を育て始める。猫の妊娠期間は63日と言われているが、その間も他のオス猫がさかって啼いて歩いているから、それは同時に子猫たちにとっては危険な時期で、父親とは違ったオス猫が子猫を殺して交尾を求める時期だから、子猫を隠す。我が家にやって来た野良のあいちゃんが私が5月13日に東京から戻ると4匹産んでいた。階段下の段ボール箱の中で乳を欲しがる子猫の鳴き声で気が付いたが、ずいぶんと誰にも気づかれるラフな場所に生んだものだと思った。もう一匹の野良のともちゃんにも生まれたが、こちらは最初からどこにいるかも知れずに、夕食に時間に通ってくるだけだが、お腹が辺ちゃんこになっているので、生まれたのだろうと推測。何匹か、生きているのかも知れないが、ともちゃんの乳を見て、とんがってきれいに見えれば子猫が飲んでいる証拠だ。しばらくするとともちゃんが子猫たちを連れてやって来た。3匹のどうもメスばかりの子猫たちだ。それと入れ替わるようにあいちゃんが4匹を連れて何処へ移動したかと思うと、直ぐそばの棚の下で子猫たちが鳴いている。そしてゴミだらけになって目の見えない子がひょろひょろ出て来て、こちらを驚かす。ひょいとつかんでゴミを取ってまた押し込んでおいた。
人が触るとやはりよくない。あいちゃんは子猫4匹を連れて、家の外に出て行ってしまった。悪いことをしてしまった。一方のともちゃんの子たちは軒下で、室外機の下にいたが、このところ雨に打たれたりするので、危なくてしょうがない。子猫には危険だ。子猫は脂肪がないから直接寒さがこたえるだろう。
他の猫のことも心配だが、父の一周忌があったので岩国の実家に4日出かけたが、やはり他の猫たちもみなちりちりバラバラになっていた。猫は家に付くと言われているが、人に着く猫もいる。私がいないと何匹かいなくなる。今回はずいぶん多く5匹帰って来ない。その理由として感が和えられるのは、新しく子猫が家に上がってきたからだろう。夜遅く帰宅して見ると、足元に目の開いて間もない子猫がうろうろしているから、驚いた。ソファーの下に置いておいた段ボールの中に住んでいるが、居間が運動場だ。この子たちはあいちゃんの子だが3匹しかいない。家から離れて子育てする間に1っ匹死んでしまったのだろう。あいちゃんにとっても初産で4匹全て育てられないだろう。まだこれからも死ぬかもしれない。ともちゃんは家の軒下に3匹の子猫を置いたままだ。家の中に入れない。
こうして子猫たちが登場すると、大人の猫たちは遠慮するのだ。食事の時に戻ってくる猫たちが少なくなった。家のそとで待っているが、雨が降らないから・・・・中国地方は梅雨入りしていないのだろうか・・・・雨が幸いにして降らないから、今夜は満月で昼夜の温度差が激しいが、あいちゃんは子猫3匹を外に出して夜更かししている。この文を書いたら、ちょっと様子見に行ってくることにする。
猫が我が家に増えるのは困るが、野良猫が我が家を頼って来て、生まれた以上私は最大面倒を見たい。死なないで大きくなって欲しい。住む家があっても子猫たちが無事育つとは限らない。市役所などでは野良猫にエサをやると爆発的に増えるようなことを公報しているが、身勝手な言い分だ。自分たちの主張に都合の良いようにフェイクニュースを作るのだ。
野生でない猫は決して防衛本能が発達していなくて、人を頼りにして居るから、質の悪い人間に簡単に殺される。食べ物よりテリトリーに拘り、自分のいきかた に合わなければその家を出ていく。いきなり命の危険ががあっても、自分が自分であることが大事なのだ。 子猫が生まれると、他の猫たちが遠慮して、差しさわりのないように気を使っているのが分かる。干渉はしない。だから猫は生きたいように生きていく個人主義なのだ。 人も少し学ぶべきだ。特に日本人は。日本だけだ引きこもりが問題になるのは。自分が自分であることを許さない国だからだ。
ここ浜田では美味しいものが少なくて我慢がならない。
かつて、郵便局のお姉さんの話を書いたと思うけど、「なんでこの町に来たの?東京に居れば何でもあるのに」と言われて。そこで「いや、人はなんもかも必要なことはなくて、そんなにいらないよ」と答えたが・・・。やはりおいしいものは食べたい。ある程度覚悟はしたが、仕方がないと思って、料理の本をたくさん買ってきた。
和食、中華、京料理、おせち、パンの本、パスタ、魚料理とさばき方、世界の野菜、などなど。もし結婚していたら、奥さんがきっといろいろ試してくれて、おいしいものも教えてくれたに違いない。これだけは、後悔先に立たず!!で、仕方がないから自分で創ろうとしてきた。父が生きていたころ、年末はおせちを作って重箱に入れて届けた。最大25品が記録だ。黒豆、野菜の炊き寄せに始まって、伊達巻たまごに真鯛の西京焼きなど、やれるだけ試したが、銀座のデパートで買えた頃が楽でよかった。独身男が人のために作っているというのも奇妙な絵面だ。
やはり、自分が作ったものより、人に作ってもらった方が美味しい。
先日、上京した時、渋谷の東横デパートの地下、食品売り場でイタリアンチーズにサラミ、スペインのハモン、オリーブの塩漬けを買い、御徒町の吉池ではホヤの塩辛、カニなどを買った。(カニはホテルでビールを飲みながら食べてしまった)みな浜田にないから、都会に出かけた時はこうして物資を調達する。しかし思った通りにものが見つからない。上野に行けば、昔よく食べに行った「絵のある街」という焼肉屋に行ったが、肉も質が落ち、もみだれ、着けだれもまるで別物になっていた。もう行かないだろう。食い意地が張りっぱなしで浜田に戻る。
結局、東横デパ地下で買った、なつかしの「クスクス」を作る。これはベルギーで画学生をしていた時、お金が無くてたどり着いた「腹いっぱいになる食事」として、美術アカデミーのモロッコ人のクラスメイトに教えてもらったアラブ料理だ。クスクスとは小麦粉で作ったパスタのようなものを顆粒状に粉のようになったものに野菜っスープをかけて食べる、要するに「ぶっかけめし」だ。クスクス鍋というものがあって、下でスープ、上でクスクスを蒸す二段鍋だ。貧乏画学生でも、これを買って持っていた。これを最近、再現して食べてみた。当時、鶏がらを買ってきてお出汁を取って、野菜スープにした上等なものにしたら、おいしかったが、5回続けて食べたら、もうしばらく食べたくなくなった。昔を思い出して、懐かしかったからイイカ。まあ、作り過ぎたカレーみたいなものだ。
この町で食べれる美味しいもので満足すべきものは、となりの水産高校のN先生の無添加で塩だけで発酵させて作る「いかの塩辛」「無添加のさつま揚げやマグロやサバの缶詰」「かまぼこ」などが美味しい。他に家の前で春にとれる「わかめ」「アカモク」。渡船金時丸で沖の波止に連れて行ってもらえば、時期が来ればヒラマサや真鯛がいるし、今この頃、剣先イカが釣れている。このイカは釣れたてが美味しい。3日寝せた方が美味しいという人もいるが、釣りたてはぷりぷりで味が繊細で品がある。夜釣りだがまな板やしょうゆにワサビを持参して最高の味が楽しめる。これは東京にはなかった。
そう言えばまだ出雲そばの本格的なものを食べていない。神田の出雲そばは年の暮れによく行ったが、島根は本場だろうが、意外と求める質の高い物には出会えない。
世界は美味しいものであふれていません。手間暇をかけて、お金があればね。
追記:生ハムを作ろう
豚肉は肩ロース肉が良い。塊が大きくて少し脂肪のさしが入っている方が良い。①塩を全体にまんべんなく、しっかりかけて、二日間水気を出してやる。②ソミュール(漬け汁)を作る。A.日本酒に漬けるタイプは、酒にお砂糖を入れて漬ける。B.白ワインに漬けるタイプは、ニンニク、セージ、ローズマリー、タイムなど好みの生ハーブをミキサーにかけたものにやはり砂糖を入れて、月桂樹の葉を一二枚入れて、そこに二三日つけこみ、何度かひっくりかえして味がきんとうにしみこむようにする。そして乾かす。AもBも乾かす時にあらびきの黒コショウを振りかけてから、カギにひっかけて風通しの良いところに干す。陽に当ててはいけない。脂肪が溶けだしてしまう。ヨーロッパの家屋の地下は室温が18度kurtid保てるので良いが、日本では梅雨時期はカビに注意。乾燥した日を選ぶ。乾燥は肉の塊の硬さが均等に硬く、どうじに反発力がある弾力がある状態が良い。乾燥が進めば、売っている様な表面に塩気が白くなって出て来て、中の肉は美しい赤黒い色に変化する。食べるときは薄切りで、じっくり噛んで味わえる硬さが良いだろう。Aのタイプは少しだし醤油を入れても良い。その後にイタリアンハーブミックス(市販の)を振りかけて乾燥させても良い。保存方法はラップに包んで冷凍か、冷蔵する。冷蔵で一週間ほどするともっと味わいが深くなる。
薄く1ミリ程度に切って、ビールのつまみに。次はサラミを作ろう。
引きこもりの問題がNHKで語られていた。
引きこもりになる人のタイプは「物事を敏感に捉える人」「高度な知的領域を目指していた人」とか挙げられていた。そこに外部からの要因で自分の目指す方向を失ったり、疑ったりしてしまう人が引きこもってしまう傾向にあるそうだ。少なくとも私は違うタイプだ。
引きこもりになるタイプの人が受けている、この社会環境の問題から考えてみたい。
以前から取り上げているように、この国では集団の価値観が優先されて、生き方を束縛されている。この国以外の国でどのような考え方があるのか考えたり、感じたりすることが出来なかった人たちは、この集団の価値観を当たり前のこと、つまり「正義」として考えている。最近の殺人事件で母と息子が息子の妻の異常な性格に耐えかねて殺してしまったという事件で、裁判員裁判の中で、中年女性の裁判員が法廷に控えていた妻を殺した息子の父親に対し「貴方は息子に人を殺すような教育をしたのか?」と質問した。そして「親として謝罪したらどうか!!」と言った。フジテレビのお昼のグッディの中でのさいげんVTRでの話だだが、少し誇張した演出は感じられたが、大筋裁判員の発言に違いはあるまい。この裁判員の発言をどうして裁判官が許したのか?想像もつかないが、裁判員が何故事件と無関係の父親に責任を問うのか理解できなかった。父親の返答は「アメリカで長年育って、この場合謝罪することはしない」と。当たり前のことである。
この国ではメディアが加害者の家族を見つけ出し、インタビューを試みる。「加害者の親としてどう感じるか」とマイクを向けるのが日常的にある。だからこの裁判員は、ここで親に謝罪させようとしたのだろうか?
謝罪は何か悪いことをしたときにするものだが、その謝罪すべき原因と結果に合理的な理由がなければならない。それにしてもこの国では皆ペコペコ謝るのが日常化して軽く感じる。「謝ったのだから如何する」と聞きたい。これまで書いたと思うが、ベルリンに居た頃、ある日本人の学生が国立図書館で本を写すのをめんどくさがって、1ページを破いて持ち帰った。当然それを見たドイツ人が許す訳はない。彼は裁判で「追出来心で、初めてやりました」と認めた。「初めてだから許してください」と言ったかどうかは定かではないが、彼は9か月の実刑判決を受けた。器物損壊と窃盗の罪だ。日本であれば執行猶予付きであろうが、ドイツでは応法刑主義である。謝罪は罪を認めることで、罪を許してもらうための手順の一つではない。責任を取るということだ。
この国の裁判では、犯罪者が「謝罪」したかどうかで「量刑」が異なる。そして裁判官は判決以外の「判決理由」として、「被害者の家族の無念さをおもんばかれば極刑もやむなし」とか言う。殺人事件などでは被害者の家族も法廷で傍聴し、裁判官は意見を述べさせるようになった。昔はそんなことは無かったのだが・・・・裁判員制度とともに法務省が始めた制度である。殺人事件であれば、被害者の感情としては「極刑を望む」となる。そして死刑判決ともなれば、私にそれは「裁判で被害者と被害者の家族に代わり「報復」を行うとしか思えない。先に述べたドイツでの裁判であれば応法刑つまり「法律に従ってのみ量刑は考えられる」ということで、これが責任を重んじる合理主義というものだと思う。
この国の社会環境の問題は、このような一場面でも議論が尽くされていなくて、国民が情緒的にどう感じるかで世の中が大きく動いていることに気が付いてほしい。これはとても危険で、この国の個人は集団の中の一人で、自分ではない。自分がどう感じようが、逆らってモノが言えないことが一人の人間としての独立性を阻害しているのだ。裁判員で父親に「謝罪を求めた」女性は自分が考えたことではなく、周囲に同化して「正義」であると思い込んだことを自分の外に発信しているのである。この女性のタイプと対極にあるのが「引きこもりのタイプ」である。
引きこもりのタイプの人は外部の環境で起きていることに自分を照らして見ている。例えば親や学校の教師、同級生、仕事の同僚、上司などが個人を取り巻く環境要因だ。彼らが何気なく発する言葉に敏感に感じる。自分の考え方や感じ方が他の者たちと違うことが問題と感じてしまう。私に言わせれば「これで当たり前」なのだが、自分が確立できなければ、この環境に負ける。悪意のある言葉では追い詰められることもあるだろう。悪い奴は「人を追い詰めるために、傷つけるために言葉を選択している」こともあるだろう。私のように「はみ出し者」で結構!!とか考えられる生き方を選択できるだけの人生経験がないことが悲しい方向に人を向ける。つまり自分をダメ人間だと思い込んでしまうことで、世の中から遠ざかることで解決しようとする。何かをしたいのはやまやまなのだろう、しかし外に向かってはできない。いや、させてくれない環境がある場合もある。大学を出たらすぐ就職しなければならないとか、(今年の就職内定率は70%を超えている、すでに!!)私に異常だ。もっと若い内に経験すべきことが山ほどあって、本来人生の時間は自分で自由に配分できなければならない。欧米のどの国でも、日本や韓国のような悪習じみた社会構造は見つからない。(国連が日本のメディアの独立性が危ういと言ってもピンとこない政治家ばかり・・・で気が付かないのだ)欧米と比べて社会構造に問題があるのだ。そこに自分の立ち位置を置けない社会がある。要するに最も自分が自分らしく生きようとする時期に、教師や親が当人の為にと、ああしろ、こうしろとおせっかいを焼くこの国の人間関係がある。安倍が「美しい日本」という旧式の家族関係が日本民族の強さだと言う・・・まさに集団でいようとする考え方が個人の成長を妨げている。そこに引きこもりがある。
最近、元事務次官の人が引きこもりの息子を刺殺した事件があって、今回のテーマを語るべきだと考えた。この事件の場合、追い詰められた家族の暴発ということらしいが、殺された息子のケースは「引きこもりの問題」を超えている。もう年も40過ぎの息子のことだ。中学生のころから外部環境と自分の関わり合いが出来なくて子劣等感と優越感が(劣等感、優越感は同時に存在する裏返し)がコントロールできなくなったのだろう。(親が優れていると無言の圧力を子供は感じているものだ)そして暴力で解決を試みるところまで行ったのだ。
今引きこもっている人たちの多くはここまで至っていないだろう。彼らに最も大事なのは「自分が自分であること」だろう。他人と比べないことだ。自分の最も好きなこと、やりたいことをやるべきだ。
私は絵を描きながら、自分の芸術的主題について考えた。長い間自信が持てなかったが、現代美術界がよしとするもの、流行しているもの、美術史上優れているとされるもの、「くそくらえだ!!」ここでは自分しかいない。
今私は引きこもっているのと変わらない。それでこそ、いい絵が描ける。
ともちゃんが2匹の子猫を連れてきた。茶トラとキジトラだ。エアコンの室外機の下に暮らし始めた。彼らの人生は始まったばかりだ。早く一緒に遊ぼ!!
今日の朝、子猫をチラ見しようと、室外機を見たら向うからガン見している。何ともう一匹いた。三匹で私を見つめている。こういう時手を出すと、母親がみんなをどこかに避難させてしまう。もう一時、我慢だね。
我が家には多くの動物がいる。最近、突如いなくなった猫がいて、とても寂しい思いをしている。
絵を描くことも大事だが、猫は家族だからもっと大事だ。気持ちが落ち着かずにイライラしてしまう。浜田に引っ越してきて、一番最初に居なくなったのは、間違えて東京から連れてきてしまった本物のねこオスの野良ねこヤンキーだ。今の家にみんな放して、寒い冬だったので家に閉じ込めていたら、他の猫たちをいじめたり、噛みついたりで大変だった。この子は自由にするしかないと思って、最初に戸を開けて出してやったら、数十秒でいなくなった。可哀そうなことをしたと思う。仲池上にずっといた方がよかったのだろう。その次に居なくなったのは、仲池上のボス「ハヤブサ」(なぜはやぶさっだったのか仲池上の猫お姉さんに聞いてみないと分らないが、相手が犬であろうとも、じっと腰を低くして尻尾を数回降ったかと思うと、いきなり襲いかかる獰猛な猫だった)。自尊心が強くみんなと一緒に住むのがいやだったのだろう。ある時は私の布団にきて泣いた。啼いたのではなく泣いたのだ。「なんでこのんあ所に連れてきたのだよ・・・・」と、今まで泣くことが無かったハヤブサが悲痛な声で泣いたのが忘れられない。仲池上の家の駐車場でエサを与えていた野良たちを皆連れてきたのだ。その時、13匹がハイエースに乗って引っ越した。その次が初代「珠ちゃん」(たまです)私が一番最初に飼ったアメリカンショートヘアの珠ちゃんが、正月を挟んで一か月半いなくなって、・・・・やばいと思ったが・・・浜田に来て3年経ったまだ寒い3月に居なくなった。いなくなる2週間前から毎晩私の布団に来て一緒に寝た。まだ寒かったので、温かくして居たいのだと思ったが、後で考えると「これで、さようなら!!」だったのだろう。彼女も他にいっぱいの猫たちがいるのが許せなかった。
最近、10日ぐらい前であったろうか、突然大雨が降って、外に遊びに出ていた子たちが帰って来なかったことがあった。25匹のうち10匹から帰らなかったが、ぽつりぽつりと帰って来て、後はミミだけ返ってこない・・・といことになって、今まで遠出しなかったミミだから、いやな予感がしている。彼はハヤブサの弟分でいつも仲池上では二人が仲良しで遊んでいた。ハヤブサが居なくなってからは、この家の猫たちの世話役で、ケンカしないように皆をまとめていたジェントルマンだった。最近歯槽膿漏だったのか、口の中は歯が一本も見当たらず、一度口に入れた食べ物がポロリと落ちるようなことが多くなっていた。しかしまだ元気だったので、ふらっと帰ってくるのを待っている。
市役所が野良猫対策として「野良猫にはエサをやらないでください。やるとあっという間に増えてしまいます」という広報を出していたのに抗議して、「愛護動物保護法には愛護動物にエサをやらないのは虐待です」と書かれている、猫は人間が作った動物で、彼らが野にいるのは、同時に違法行為である「動物の遺棄」に依るもので、彼らは被害者だ」と訴えてから、何年たっただろう。市役所は「改めます」という返事をくれたが、不妊手術の補助金にいたるまで随分時間が経った。しかしこの町で港への「捨て猫」は減らないし、海に猫を投げ込む奴も減らない。魚を水揚げする埠頭に猫を捨てれば生きていけると思うやつがいるのは許せない。結局私がひらって来ることになる。
それでなくとも、我が家には野良のお腹が大きくなったメス猫がやって来て子供を産んで置いていく。すでにあいちゃんが4匹産んでしまって、あちこちに隠している。ともちゃんにこどもは何匹なのか分からない。時々おっぱいを触って乳を飲んでいるか確かめるが、良く分からない。それも最近になって触らせてくれるようになったのだから・・・・エッチなことは考えていません・・・誤解無きよう。
3月の末にまた狸があらわれて、これが回線病を患った危ない狸で、追い回して逃がした。回線病は細菌感染(おなじくカイセン病というのが、ダニによるもの)で、毛が抜け落ちて最終的に命に係わる猫にも人にもうつる。他に大きな動物はイノシシで、これも危ない。クマが市内の真ん中で目撃され、一頭はわなで捕まえられ処分された。だれが食べたのかなあ・・・。次に大きいのはトンビで家の前で釣りをしたり、釣った魚をさばいてあらを投げると飛んでくる。口笛を吹いてピューピューと繰り返すと、空の上で見ていたものや近所の巣で聞いていたものが飛んでくる。かわいいけど不用意に釣った魚をてに持って油断すると、急降下して手から奪い取って行く。これは危ないから怒ったほうが良い。誰に?トンビにです。他にカラスがゴミ焼き場のゴミを散らかすし、プランターのトマトを食べられた。カラスは頭が良いから、怒ると来なくなった。
逆に来て欲しいのはシジュウカラとかホウジロ、うぐいす。でも猫に食べられてしまうので・・・初代珠ちゃんはツバメやカケス(カラスみたいに大きな鳥)まで取って食べてしまって、往生した。畳の上に羽を散らかして、心臓だけ残して血まみれにしてしまう。生きた状態で雀をくわえてくると、取り上げて空に投げることにしている。それを知ると殺してから見せに来るようになった。殺生は魚以外にはやりたくない。そう、ある夜、猫が生きた状態のフグをくわえて帰ってきた。私はフグを取り上げると、急いで懐中電灯を下げて庭に出て「おい!!猫にフグを食わせるんじゃない!!」と暗闇に大声でどなって、フグは海に戻したが、間もなく次には生きたメジナの子をくわえて帰ってきた。もう頭にきて木刀をもってそこいら中を走ったが、釣り人は見つけられなかった。
他に我が家に出没する生物で大きいのはカニで、切り土の土手に穴を掘って住んでいる。彼らの食べ物は腐った木の葉だ。家の中まで入って来て、玄関からお風呂まで入ってくる。食べられないけど、石鯛釣りの餌にしてしまう。他に恐ろしいムカデ、気持ちの悪いげじげじ。家中巣を作るクモ。今朝、マグカップの中にクモの巣が張られていて、がっかりした。山が家の後ろにあるので昆虫は名前が分からい物が多い。蚊取り線香を焚くとクモも嫌がるようだ。まあ、このクモは蚊取り線香の代わりだと思ってきたが、朝のコーヒーを入れようと、マグカップを覗くとクモが巣を作っているから、(一時間もあれば玄関先の通路もクモの巣で通行止めになるくらいだから)驚かされる。勿論クモは飲まないから、どいてもらう。御多分に漏れず、ハエは銀バエ、ニクバエ、コバエ、アカ家蚊にやぶ蚊。しかしハチはオオスズメバチ、小型スズメバチ、熊蜂で、残念ながらミツバチがいない。西洋ミツバチを一度見たことがあるが・・・・。西馬込のミッキー・カーチス氏のミツバチがスイカの受粉に来てくれていたのが懐かしい。ここでは小筆を取り出して、自分が受粉して初めてスイカが食べれる。ズッキーニも同じ。時々熊蜂が変わりをしてくれているようだ。
ああ、それから一番この時期に迷惑しているのが猫のノミだ。寝る前に布団から排除しなければ寝れない。最低10匹は殺すことになる。2年前の夏にうちに来た(要するに拾った)メガちゃんは、まず一番にシャンプーしたが、洗面器に350匹程、ノミ取くしで50以上殺したから、この子が我が家の記録かな。梅雨時期はノミ大繁殖の季節だから、殺虫剤とキンカンを用意した。毎年片足だけで200か所から噛まれる。廊下に猫からこぼれたノミが私の足に飛びついて血を吸うのだ。どうです!!??我が家に遊びに来ませんか?歓迎しますよ!!東京の仲池上ではハエも蚊もめったにいなかったが、田舎暮らしにはいろんな命が身近にいる。
そうそう忘れてはいけない。我が家が誇る二年前から住み着いている(同じものではなく世代交代しているかも)のが「大アマガエル」だ。少し暗くなると大きな声で啼く。ゲロ、ゲゲゲ、ゲロ!!と何とも言えない風情がある。一昨年は庭のイチジクの枝に大きな泡の卵を産んで、楽しませてくれたが、なんせその泡の真下にあるはずの水はゴミ用の青い90リットルの大バケツだが、卵からかえった子供たちがそこに狙い通り落ちるかと思いきや、どうも外れているから、枝をひもで引っ張っておいて、バケツの上に来るようにして置いたが、その後どうなったか。「また今年も産んではるわ・・・」なんてね。まだ卵は無い。今日は曇り空でしきりと鳴く声が聴ける。
また忘れてはならないのが亀ちゃんだ。いや、カメムシです。プランターの唐辛子の茎の汁を吸いに今年もいっぱいいる。子供のカメムシだが、気持ちが悪いし、一向に唐辛子の苗が大きくならない。そして不良作物になってしまう。もう100匹上始末した。トマトがなって食べれるようになってから、安心して口に入れないことだ。ミニトマトとともに私が食べたのはカメムシだった。これがきつい味だった。急いで家の洗面台に行って、うがいをしたが、あの味は今でも恐怖を覚える。カメムシは食べれません。
ぬぬ・・・玄関先をカニが歩いている。猫はカニは食べない。安心して歩いているから・・・たまらんちゃ!!
お隣の水産高校の生徒が「おじさん、むこうで猫が車にひかれて死んでいるよ」と言うから、急いで近くの道路を捜したら、何と死んでいたのは「オッポッサム」だ。ネットで調べたから間違いない。生きた状態では見たこともないから、話に聞くと、むかし益田市(山口県寄りの町、浜田から45kmある)で繁殖していたらしい。我が家の猫であったら気が狂うところだった。
街の中を熊が歩いているとか、サルが出たとか・・・きりがないが…