河口公男の絵画:元国立西洋美術館保存修復研究員の絵画への理解はどの様なものだったか?

油彩画の修復家として、専門は北方ルネッサンス絵画、特に初期フランドル絵画を学んできた経験の集大成を試みる

あの頃

2018-03-23 23:55:14 | 絵画

高校二年生になってから、美術の道に志した。一年生の時は水産大学でクジラの養殖をしようかと考えていた。まあクジラの養殖をやってみるのも面白かったが・・・・しなくて良かったのだろう。ただ釣りが好きで、魚が好きで・・・という程度のモチベーションだった。今魚釣りはやっているが、必死さは欠けていて、いまだに大鯛の記録は作っていない。やはり「釣れた」ではなく「釣った」でなくてはいけない。その点、絵を描くことには明確な意識と欲望があるから続けていられる。

一年生の終わりになって美術クラブの部室を訪ねた。先輩たちが狭い部屋で石膏像の木炭デッサンを描いていた。後で思えば、みんな受験が念頭にあって、芸大の受験に必要な石膏デッサンを身に着けるのに必死で、「あのおー、美術を勉強したいのですが・・・?」と部屋の扉を開けた時、皆が振り向いた顔がちょっと怖かった。誰かが空いた場所に私の為にイーゼルを立てて、そこでデッサンをするように言ってくれた。目の前にあったのはラオコーンの石膏像で・・・今から考えると、最も初心者には難しい角度だった。私の横で同じラオコーンを描いていたのは一年先輩で彫刻家志望だったN氏。彼のデッサンはまっ黒だったので、同じように描いていたら、「君も彫刻志望か?」と聞かれて「そうです」と答えた。本当は絵画も彫刻も良く分からなかったのだ。「彫刻のデッサンはボリュームを描くのだ」と言われても良く分からなかった。

まあ、初心者にとってボリュームだの、、立体、空間だの言われてもちんぷんかんぷんである。誰も教えてくれなかった。

そう、高校の美術クラブと言えば、まともな先生はいないと同じだ。美術の教科は選択科目で、情操教育の一環で、音楽、習字、美術のうち一つを一年生の時に選択して単位を取るだけだった。高校教育の美術の位置づけは、40年経っても変わらないらしい。美術クラブの担当教員はこの美術の教科を教える先生であったが、クラブには年に一回程度しか来なかった。だから何かを教えてもらったことはない。

何かあれば先輩に聞くほかなかった。クラブに与えられた活動資金の補助金はすべて「木炭デッサンの洋紙、木炭紙」の購入に充てられていた。「木炭で描くのですか?」「画材屋さんはどこにあります」などなど。将来、美術に進むことはずっと親には内緒で、画材を買うお金ももらえなかったので大変であった。

まずは彫刻家になりたいのだけれど・・・という告白は親をなんとか説得した。というのも、当時は私は左翼思想にかぶれた高校生で、山口大学の全共闘学生たちと頻繁に密会したりして、警察にも目を着けられていたので、途中で水産から法科に行って左翼系弁護士になる・・・と考えていたのよりは許せると思ったのだろう。父は職場の裁判所の先輩の娘がやはり彫刻家を志して、大金を支出している話を聞いてきて「ノミの打ち間違いで10万円もする大理石が一瞬にして粉々になるらしい・・・」と将来の負担を気にして「絵画ならねえー!!」と一言漏らしたので、絵を描くことになったのだ。しかし、毎月の小遣いで油絵具のチューブ1本づつ買うことになった。

もう一つ、美術志望を許すキッカケがあった。山口高校のクラブの先輩たちの進学率は悪くなく、東京芸大にも多摩美、武蔵野美大、東京造形大学などと、皆そこそこ現実的に合格していた。というのもクラブの先生が教えてくれなくても、山口大学の助教授の先生にみんな時に完成したデッサンを持参して、教を請いていたのだった。山本文彦先生で後には筑波大学の教授なられたが、当時、先生は30歳ぐらいで、「お兄ちゃん」という感じで、実に親切で教え方も誠実な方であった。多くの高校生が世話になった。

父が、松江の地方裁判所に転勤となっても、私は山口に残って先生に師事できた。これが私の将来に大きかった。

ビギナーという者は、何も分からないので「格好から入る」のが普通である。「絵画」という大きな概念も、小さく限定される一枚の作品にあるはずの「虚構世界」も何も知らなかった。描くことになって、白い紙の中に何かを作ろうとしていることさえ分かっていなかった。

目の前の石膏像が置かれているから、紙に描く・・・が。何をどうすべきか?どう描けば「良し」と認められるのかも誰も教えてくれなかったが、ある時山本先生は「ほっ!!、立体感が見えてきたね!!」と言ってくださって、やっと「デッサン」が始まったのである。

いま受験生を預かっているが、私が今度は教える番で、デッサンのデの字は「立体感」だと口を酸っぱくして言っている。そこから始まり、いろんなことが見えてくる。線のつながり、形のつながりが見えると楽しくなるはずだ。物が出来上がる楽しみは初心者の特権みたいにある。

ただ疑問に思うことは、小学生や中学生であった頃、物を見なくても、色んなものが描けたのを不思議に思わないだろうか?大人になるにしたがって描写が出来なくなるのはどうしてだろう?ある時、交通安全のポスターの中学生の作品に驚かされた。斜め3・7に構えた自転車のタイヤ、リム、スポーク、ペダルの上に運動靴をはいた少年の足が載っている。少年の顔は頑張って自転車を漕いでいるようで、歯がむき出しになっている。どうみても誰かがモデルになって描いているのとは違う自由な描写に驚いて、このポスターの作者の想像力の力に感心した。このイマージの一つ一つは観察と記憶によって出来上がっている。この中学生は「絵心」も持っているのだ。

こうした経験を忘れて、大人になる。「私は絵が下手で・・・」という人は視覚の記憶があいまいな人だが。きっと子供のころ見ることが新鮮であった経験が失われてしまったのだろう。

さて、美術を志す若者は、この視覚的経験の楽しさが忘れられないのだと思う。私もそうであったように思う。

皆さんも絵を描きますか?美術史を研究している人たちも絵を描けばもっと楽しくなると思うけど。

 

 

 

 

 


絵画以外の現実の話です

2018-03-19 15:08:23 | 絵画

昨日、倉庫に野良猫のデブが帰宅していた、このところ4~5日留守だったが・・・・。口の周りに黒いものを着けて、目から黒い血が垂れてこびりついている。「オイオイ!!どうした?喧嘩でもしたか!!」彼は体はでかいが、おとなしい方で声出しでけんかはするが、取っ組み合いは見たことが無かった。

私が声をかけると、寝床の箱から出て来て、すりすりを始めたが・・・・血の腐った匂いがする。「ちょっと、みせてみんさい」やはり口の周りのケガが問題だ。よだれが垂れて…感染症にかかっているかも知れないと思ったが、日曜日はは動物病院は休みで、救急治療はできなくて、今日月曜日の朝9時に医者に見せた。すぐに抗生剤の注射から始まったが・・・・。「交通事故かも知れない」という話。あごは砕けているかも知れないと・・・・また恐ろしい話になった。このデブは玉付きの野良で、この時期あちこちを徘徊し、メスにアプローチをするのが日課だ。いつかこんなことが起きると心配していたところだ。

結局、男として申し訳ないが、玉を取って長生きする方を選ぶべきだろう・・・と医師には「玉を取ってください」と今回の出費を覚悟した。デブは今晩、泊りで、明日の朝に迎えに行く。手術代がいくらになるかまだ分からない。

ここのところ、メスの子猫2匹(2万4千円x2、オス1匹(1万9千円)の不妊、去勢手術を行って大金を払った。どの子も捨て子や野良出身だ。いつも私のところに話が来て、あるいは彼らが「お腹がすいた」とやってくるのである。私の年金収入は少なくて、市民税は非課税であるが、介護保険、健康保険、は取られている。東京の家を売った金がなければ、即、生活保護対象者だ。このところ、食いつぶしが激しい。私が死ぬ前に、猫たちは先に死んでほしい。そして私は餓死することにする。役所には直前に「餓死するのでよろしく」と言っておくことにする。

しかし、この町で死にたくないな。郷里の山口市に戻りたい。山口であれば「何処にっても同じだ」とあきらめがつく。諦めることが「絵を描くこと」につながる。画材だけは死ぬまで貯えがあるので、目の前が暗くなるまで、描き続ける事はできる。

いま一人、受験生を預かっている。プロダクトデザイン志望だが、私は古典的絵画が専門であるからして、教えられるのはデッサンや彩色程度である。まず、デッサン力で一番の山は「立体感」を感じ取って、立体的、空間的な構成が実現できることが必至の課題。私も高校生であった頃、立体感もやっと描けるようになっていたが、塊と空間の存在感は貧弱であった。結局一浪したのだが、その覚悟は必要だろう。何しろ合格者は一浪が一番多いのだ。つまり受験競争の主体は一浪なのだ。現役で合格することは不可能でなくても、入学後情報不足や認識不足、覚悟不足で4年間をうまく使えない。だからうちの受験生には「何が好きか、何をしたいか」をいつも念頭において、学習するように言ってある。

ものを描き表すというのは、初歩的には観察不足でつじつまの合わないものが出来る。観察10分、描写30秒と指導する。その繰り返しで対象を観察して記憶することが先なのだ。5分で絵を描くクロッキーはもってのほか。そんな才能は誰にもない。絵を描かない者の狂信である。うちの受験生は私の厳しい注文ににこやかに答えてくれる。少しのんびりしているが、それは経験の差であって、私が多くの情報を与えることで理解力は急速に発達している。高校生というのは吸収が早い。さあ春休みだ。厳しさを倍増させて受験戦士を育てよう。

 

 

 


具象絵画の完成度

2018-03-10 22:58:07 | 絵画

今回はすごく個人的な基準を書くが、タイトルを「絵画の完成度」としても良かった。端から抽象(絵画)や観念アートなどは絵画のジャンルに入れていない。(文学には純文学と大衆文学とが分けられているように・・・だ。)抽象画があっても、そこに「我々の住む現実から離れて自律している世界」を感じないからである。以前から述べているように「自律」という言葉を用いているが、それは作品画面の中にそれだけで充足していると感じさせる条件が整っていることを意味し、別世界として存在しているように感じる・・・つまり錯覚することが必要条件である。その自律の度合いが「完成度」である。

自律していると感じるには、見た目十分騙される状態が実現していないといけないが、鑑賞者が作品の前に立った時、作品全体がよどみなく見渡せて、すんなりとその世界に気持ちが引き込まれること。文学でも音楽でも同じであるが、その世界に疑いもなく引き込まれる魅力が必要だ。

作中に奇妙な、経験したことのない、理解に苦しむものがあったとしても、それは絵画という虚構であるが故であり、全体のバランスに溶け込めばよいことだが、その判断は作者の基準だ。あるとなしとを決めるのは作者だが、作者の力量を問われる。

創作性の少ない風景画、静物画、人物画では「充足している世界の条件」は最初から先入観で補助されているから、完成度の中に「我々が住む世界から離れて自律している」と言えるべきものが作られているとは、今一言えないであろう。17世紀の静物画が当時、芸術性が低いとされたのもその一つだろう。勿論、中には創作性も抜きに出たものもあって、レオナルドの《モナリザ》やヴェラスケスの《ファン・デ・パーレハの肖像》、スペインの静物画家メレンデスの《銅製の水入れのある静物》は動かしがたい完成度と存在感を見せつける。フェルメールの《ミルクを注ぐ女》は人物画ではなく、構想画の一つだが、言葉を失うほどの世界が創られている。

そうすると完成度の高さはモチーフの選択ではなく、表現の実力ということになるだろう。そこには「品性」というものが必要だろう。(むかし「国家の品格」という本が評判になったが、中身は軽く、著者の個人的基準で言いたい放題を述べたものだったが、品格を述べるに「品性」が無かった)「品性」とは言葉になかなかできない難しい問題だ。「品」のある状態を語ろうにも、ポピュラリズム(大衆迎合)の基準では困るが、だからといって鑑賞者の感性に訴えることが必要で、この基準を何と表現しようか?フェルメール作品の様に理知的で物静か・・・・。威張らず、主張しすぎず、控えめな中に確信が感じられる。

 やはり絵画の究極の世界を言葉で表すこと自体、間違っている。


インスピレーションや潜在意識を信じるか?+補筆

2018-03-08 14:25:10 | 絵画

貴方は絵を描いているだろうか?もし描いているのであれば、インスピレーションや潜在意識が作用として現れていると思うだろうか?もし現れていると思えばそれは何なのだろうか?

私は漠然として、インスピレーションや潜在意識が働いて、作中の表現に恩恵があるとかつて思っていたが、ブログを書いていて・・・何やら無責任な捉え方だなあーと思うようになった。

以前にも書いたが、クロッキーは何百万回描いても、何の役にも立たないと述べた。クロッキーは短い時間に対象を捉える練習で若い時分はよくやったが、今では「創作に対するもっともいい加減な理解」を表している方法と思う。だいたい物事を始めて間もない者がどうして物を捉えることが出来ようか?しかも5分や10分で・・・何が見えていたのだろうか?

何も見えていなかった。只そうするものだと、言い聞かされていただけだ。対象をよく見もしないで鉛筆を動かした。何一つ感覚的に受け入れられる結果が残っていない。時間の無駄をしたのだ。

まず最初の線を引く前に、よく観察し感じて得た形を表してみるのがデッサンの基本であって、10分観察して30秒線が引けるだろうか?

クロッキーは別物だと思っている者が多かった。そこにインスピレーションであるとか、潜在意識であるとが現れると思っている者が居たのだ。描く側の者が思っていたのか、それとも批評する側の者がそう思っていたのか?インスピレーションとは「天から降って湧いたような霊感のこと」らしいが、そんなものを感じることが誰にしもあるのだろうか?錯覚にはその根拠となるものがるが、根拠がなければ「錯誤」ではないのか?私は「霊感」などというありがたいものは感じたことはない。私以外の人にはあるのだろうか?潜在意識とは「意識に現れず、無自覚に働いている意識」だそうだ。例えば気が付かないうちに絵を描いていた・・・などとでも言うのか?それとも描いているうちに、思いもしなかったことを描いていたということだろうか?貴方はそんな経験をしたことがるだろうか?

普通は自分の表現の世界は意識によって形作られる。絵を描き始める前に何を描くかも明確にせず、いきなり描き始めるのは「素人」である。何をどうしたいのか分からずに芸術はあり得ない。芸術作品にはそこに誰もが感じ取れる世界が作り出されていない限り、表現されているものが伝わらないのであるから、それでも何かそこにあるというのは「カルトの信者」かイカレタ評論家である。

「物」を創るものは偶然出来たと思うかもしれないが、「もの」を創る者は偶然作れない。必然によってのみ実現可能だ。「表現」は意識によって成されたものを言うのだから。

しかしこの国では、油絵の具と言えば分厚く重ね塗りする「意識欠如」の者たちが多いことは市や県の展覧会を見に行くと見つかる。当初から何を描くか、どう描きたいかなど基本が分かっていれば、無駄を省くだろう。また意識は経験によって高められ、分厚く絵具が盛り上がって、下に隠れる絵具が無駄であることは考えなくても理解されているはずだが。意識が潜在化していることと、「意識欠如」とは違うから、誰でも合理的な結論は得られるだろう。

問題はこの国の国民性である「精神性の曖昧さ」にあるのかも知れない。

私は幻想(あるいは空想)画を描いているが、意識というか「意志」はハッキリしていて、こういうものを表したいと欲したものを描いている。白い画面に現れるものは、それまで自分が描き表してこなかったものが主で、それがうまく描き表されると満足する。そこで何点も描いているうちにトータルな結果として、「このような意識が働いている」と誰かが感想することは可能であるが、そこで言われることは決して私にとって気が付かなかったことではなくて、自分をよく理解しているつもりであるからこそ「潜在意識はこれである」とは言われたくないのである。そこで私が感じていいる意識とは「人の生と死」のことで、これが最も自分が生涯気になる疑問点で、少しでも「生と死の核心」に近づいてから生涯を終わりたいと願っているからである。

魚を釣りに行くと、大物を釣ることがあるが「釣れてしまった」のか、狙って「釣った」のか周りは気にする。釣った当人は分かっているであろう。表現にたまたま「描けた」はない。意志でもって「描いた」しかないはずである。 

例え空想画でも、記憶やその時の嗜好や表現能力で描くしかないので、理想的結果にも限度が生じる。だから作り手は「力」を日ごろから養い、「想い」を具現することに意識するのである。

 

むかし、妙な夢を見ていいた。会ったこともない女性と親密になり性的な関係を持つ夢だ。男の夢の中の性行為の相手は現実に近しいところにいる女性ではなく、イメージの合成だそうだ。そこで言われるのが潜在的意識がこの合成イメージを作り出す「好み」を組み立てるのだとか・・・。もしこの合成イメージに近い女性が現実に現れていたら・・・・夢中になっっていたかもしれないと思うが。

私は画中に登場する想像の女性がこの潜在意識イメージの女性だと言われたくない。夢も虚構、絵画も虚構だが、夢は全くコントロールが効かないが、絵画は恣意的でも狙いを定めている。だから絵の中の女性に惚れて性的魅力を感じて「興奮」したりしないから・・・。