河口公男の絵画:元国立西洋美術館保存修復研究員の絵画への理解はどの様なものだったか?

油彩画の修復家として、専門は北方ルネッサンス絵画、特に初期フランドル絵画を学んできた経験の集大成を試みる

月の明かり

2018-11-24 23:03:07 | 絵画

これまで書いたように、神経痛を発症して随分疲れやすくなった。すぐ横になって休みたくなってしまう。昔からの腰痛(腰椎分離症)も頻繁に起こる。

夕刻、猫たちにご飯をやってから、少し横になった。しばらくうとうとしたであろうか・・・・疲れも取れたような気がして手洗いに立ったら、二階の物干しの窓の外がやけに明るい。「いやー、もう明け方か、そんなに寝てしまったか?」と。階下に降りると、室内はやたらと暗いが、玄関先だけ明るいので、外に出てみた。夜はまだ明けてはいなかった・・・・やたら月が明るい。空を見上げると天頂に満月が輝いている。まるでサーチライトで頭から照らされたように明るく、雰囲気は十分異常である。北方の換気を背負ったちぎれ雲までが白く、闇夜の照明のように見える。

しかしそれにしても明るく、普段から照明もなく明るい庭先が、すべて見渡せるほどに明るい。庭の先は瀬戸が島との間の水路であるが、日本海につづく岩磯に砕ける荒波がハッキリ見える。こうした不気味な夜が好きである。絵に出来るほど技量は私にはないが、この味わいは忘れてなるものか。自然にはいつもかなわない偉大さを感じて、想像の構想画を描いている自分が異常に思えるが・・・・それしかないので・・・。

ここ浜田にきて良かったことは、隣人が病気の私の世話をしてくれて、お見舞いに来てくれて・・・・。人との絆を感じていること。

ベットに戻ると、まめちゃん(亡くなった父親に預けていた猫)がわがまま放題で・・・今日は私の枕に「ウン子」をしているのを発見。怒らない・・・怒らない!

昨日は放蕩から帰宅した文子(ぶんこ)ちゃんが私の膝の上で、「オシッコ」をした。しかも大量にである。下半分着替える事に成ったが。怒らない・・・怒らない!

こうした現実から逃避するためにも・・・・虚構にどっぷりつかって、疲れをとるのである。

しかし「枕」は別のものを用意したので。おやすみなさい。


難しいことを描く?書く?

2018-11-10 21:18:22 | 絵画

いつも自分の絵画は難しいことを描いているので、ブログの記事も難しくしてしまう。かつての職場の同僚であった友人から「ブログ読んでいるよ・・・しかし難しくて・・」と言われて・・・・反省します!!!これまで結婚出来なかったのは、一方的に話をする、この性格が災いで、自己中だと思われるため。お見合いをしたときには、まず相手のことを中心に訪ねて、自分のことは後回しにする気遣いが大切だと思う。記事を書くときにも、相手があることを考え、語るように書くことが大事だと・・・昔書いたように思うが・・・・内容の取扱いは自己中でしかなかった。

で、結局、ボーっとしてしまうが、体調も今一で、頭はボケ。体重は3週間で10kg減り、その殆どが腕と足の筋肉が失われたせいだ。このダイエットはお勧めできない危険なものだ。ベットから起きられない状況は、生命活動の限界が目の前にあって、飲み食いすれば出さなければならない生理に、逆らって食事を制限すれば、出るべきはずのウン子も「ガス!!」に変わり・・・何故ガスなのか理解できないが(しかも臭わない)・・・・、おしっこも飲んだ分ほど出なかった。神がそうされたのか?・・・・しかしある日とうとう行かねばならない日がきて、トイレに痛みをこらえて、汚い床を這って向かう。それでも出なかったから、どうして10kgも減ったのか理解できない。きっと激しい痛みでエネルギーが消耗され、体重が減ったのだと思うが・・・。脳みそも減ったようにも思う。

久しぶりに自分で立ち上がって、痛みをこらえてコーヒーを入れる。「おいしい!!!」。半分飲みかけて、用事を思い出して間をおいてまた飲む。ぐーっと飲んで、口に何か当たったのでカップの中を見たら、溺死したゴキブリの遺体があった。そう言えば前にもこんなことがあった。その前は何かのスープであった。その時はお出汁がとれたのだろう。

こんな事を書くと、また注意を受けるかも。

問題の痛みは大分和らいで、リハビリテーションも少し初めて、痛いことは痛いのだが・・・・伝い歩きから、立って歩けるようになったし、希望が持てるようになった。みんな一生治らないと言うけど、まだ若いしイジケルことはない。運動不足だったことが一番悪い!!

で、早く要介護1から卒業し、自分で歩いて、買い物など、生活環境を整えて、絵画制作にも精を出したい。いまあるベットは猫と分け合っている(三分の二は捕られている)状況を打破するために、下半身の防御カバーを考案することにした、彼らは普段から寒くなると私のベットに上がってくる。シングルベットに13から14匹に上がられると、もう寝ることはできない。頻尿でトイレに立つと、帰る祖国は失われ法の憂き目にあう。「お前たち、覚えていろ!!」・・・「ふん・・・父ちゃん何を言っているの?」てな感じ。何度も経験し、別の部屋にまたベットを新たに作り寝るが、すぐそこにも2~3匹の侵入者が現れる。今書いている端から、ベットには10匹がど真ん中に寝ている。おとといは新しいシーツを取り換えたが、すぐにその上にゲロをしたものが居て、掃除の追われたが、昨日はくしゃみをしたペルシャ猫がクシャ、クシャとやっている間に下痢を漏らした。で、今日は枕元にオシッコを漏らしたのがいる。私はぶつぶつ言いながら掃除をするが、何も言わない徳の高い人格は持てない。ベットの足元にはマジックリン、ファブリーズ、ハイターそしてティッシュが置かれて、防災対策は怠らない。

ひなが一日、リハビリテーションと猫の世話が大事で、小事は元気になったら二を買いに行くか考えること。一月も買い物をしないと不足が出る。ヘルパーさんが買える範囲は食べ物、日用品程度で、薬(売薬も)酒もだめ。お金を下ろしてくるなどということはタブー。猫のエサも無理。介護に関係ないから。

やはり介護のシステムは、せいぜい生きている範囲が狭くて、介護の沙汰も、お金次第。自分の健康が一番。猫は二番。

皆さん、坐骨神経痛にはならないようにしましょう。一夜で要介護1です。一生治りません。運動不足が一番の原因。代謝が悪く血圧も高い人。気を付けて!!!

今宵はこげんところで、良かろうかい!

今夜はこねえなところで、ええじゃろうかねえーー!・・・と。

 

 


介護保険なるもの

2018-11-09 11:16:03 | 絵画

介護を受ける身になって、考えることは・・・・。

その前に、介護保険料なるものが先にあって、ここ浜田市(島根県)は県内で最も「保険料が高い」と市役所で言われるまで、気が付かなかった。ということは日本一高いと思われる。お金のない自治体ほど、福祉事業にかける予算がないと考えられるが、同時に馬鹿な議会が福祉事業以外に無駄な支出を考えていることも原因の一つだ。

介護保険料は自治体が決める。自治体によって税収が少なく、高齢者社会になって、税金を納められない老人ばかりになっていたら、所得税も住民税も非課税の世帯が増えて・・・。浜田市では課税対象者の4割が非課税で・・・・税金を納めていない。市の予算支出は既に赤字で累積が始まっている。国や県からの交付金頼みなのだ。この先駆者に破綻し「破綻した夕張市」を思い出すだろう。この町の行政は破綻前の夕張市と同じで、市長から市議会議員(4万人少々の人口で、22人いる)まで、市の議会報告、広報誌を読む限り、無能で腰かけや税金泥棒の怠慢サラリーマンみたいなのばかりで構成されている。金がないのに市の歴史資料館を改築する、石見神楽記念館を建てる、浜田城資料館を建てるとか、ここの市長は箱モノで自己主張する、市の現状を顧みない大馬鹿者である。後、十数年で行政区としても機能を失うとまで言われているのに、この町を何とかしようとは考えていない。

十年ぐらい前に、280億円からの国の補助金をもらって、港の整備に、港の中の島の一部を埋め立てて産業誘致を計画し、不必要な大きな橋(ランドマークのつもり)を作ったが、橋は見た目だけで、橋の上から首吊りをする場所になったりした程度で、あとは釣り客の利用があるくらい。今の前の市長が国民の税金を無駄っ使いした。漁業の町で日本海側の漁業を活性化するための「指定港」としてもらった補助金だった。しかし漁業は衰退し、港にあった冷蔵庫も解体。落ちぶれる。スーパーの漁業部門を見れば、この町が魚をあまり食べないことが分かる。東京の場末のスーパーより魚種が少なく、値段も高い。東京より安いのは土地の値段とサラリーマン給与くらいだろう。公務員はこの町では高給取りである。今の市長は元銀行員で、浜田出身で「東大出」であるだけで当選した。しかし銀行員であったなら、金融のプロであり、ビジネスマネージングのプロでもありはずだが、自分では何もせず、市内の「県立大学に地方再生を専門とする学部を作ってもらおう」とか言っている。彼は横浜に住んでおり、ときたま議会があるとき、行事で選挙活動の一部としてやってくる。

この町は資質に欠けている。

そこでゴミも有料で、市民税の中でやりくりできない。ゴミに関して人件費が2億円かかっていると市の広報誌に書かれていて、市に確認したら、「ゴミ公務員はいません」とかいうから「じゃあ何故?」と言ったら、答えられない。ゴミ分別が悪く燃やせるゴミにビニールが入っていけないとか、資源ごみの概念が欠如した状態で、集めたごみをさらに分別する業者に費用を払っているのだ。

この町の状況は未来が見えない。若者も町を出たら、二度と帰って来ない。夢がないから。

で結局、福祉事業に支出する費用も大きいのは分かるが、その運営にも影が落ちる。介護担当者の人員不足は日本中らしいが、この町では若者が居ないから、年配者のヘルパーさんばかりで、サービスも一時間と限定されて、私も頼めるのは買い物と洗濯ぐらいである。このサービスは完全に介護保険で賄われていると思いきや、別途費用が掛かる。サービスは国民に一律同じ内容であり、収めた金額には関係なく、介護サービスを利用すれば、更にお金がかかるシステムだ。だからといってヘルパーさんたちの給与も低いし合理性が感じられない。

介護保険とは名ばかりで、つまり保険であれば、掛け金の大きさによってサービスも段階があるはずだが、これは保険ではなく「介護保険税」で、本来「保険」と名前を付けず、「介護税」とすべきところ、政府厚生労働省は言葉だましをしているのである。しかも「総合所得」に税をかける方式は厚労省独自の税算出方式である。「総合所得」とは税引き控除前の合計所得に一律に課税する方式で、びっくりする金額を徴収されることがあった。私の故郷の岩国市では、この算出方式でも、市が違えばこの介護税は半額であった。岩国は米軍基地があり、国から毎年補助が数億あるので、それまでだが、私も住民票を年内に移そうかと思ったほど金額に差がある。しかし東京で給与をもらっていたころの介護税はさらに安かった、岩国の半額以下であったのは、どうしてであろう?

安倍の政府は「在宅介護」とか言っているが、病院などの設備やサービスが行き届いたところで死ぬのでなく、何もできない家で死ねと言っている。在宅介護の現状は地獄であり、介護で家族の負担は大きく、仕事が出来なくなったりして、元もなくなって家が崩壊する事例も多い。だいたい家族が介護できる訓練もされてなくて、苦労、精神的負担も多い。年老いた夫婦が心中する事件は身近に感じる。

安倍はトランプに脅されて、ミサイルやジョット機などの兵器を買わされようとしている。これはそもそも日本の企業が輸出過剰になっている落とし前として出た話だ、にもかかわらず企業には収益があって問題化しているのに、そのまま穴を国民の税金で兵器を買うことにしたのだ。そこで福祉は削り、生活不安から皆がため込んだ預貯金に貯金税をかける話も出てきた。彼だけでなく自民党がそうなのだから、悪党というほかない。それでいて企業には恩恵ばかりで、経済が活性化すれば「給与が上がる」と嘘ばかり。財政支出には政治家や官僚の世界だけで、国民の生活は放置されている。安倍はまた加計にお金をくれてやるのか?

もう一度言う!!介護保険は保険ではない。ただの税。しかも、国民からふんだくれるだけ取ってやろうとする税である。

 

 


要介護1の認定

2018-11-08 18:22:58 | 絵画

ベットにくぎ付け、安静第一が回復の道だと知らされて、いろいろ覚悟した。

救急車に乗った一日の出来事は、この先、決して忘れないだろう。N先生には一家をあげて世話になることになった。

Y病院から家に戻って、再びベットに横たわって、少し安心したが、そう言えば、24時間何も食べていなかった。水も飲んでいなかった。N先生がお茶とお結びを買ってきてくださった。(3週間はお茶や弁当を持ってきてもらう生活になってしまった。)トイレにも行っていなかったので、そこで排便と排尿が気になった。しかし心配は真逆の方向に向かって、痛みをこらえながら、床を這ってトイレに行って、痛くて座れなかったので、中腰で踏ん張ったのだが、ガスが「すー・・・」と出た切りで、悲しかった。要するに宿便に変わり、大腸の中に溜まっていくのだった。小水はバケツにとることにした。本当に申し訳なかったが愛弟子のKちゃんに急遽「バケツを持ってきて」と頼んだ。結局3週間は便は出なかった。激痛の体調や薬がそうさせたのだろうか?

こんな調子で、猫のエサやりもKちゃんに頼むことになり、毎日休みなく夕方には猫に缶詰めを開けて、十数匹が夕方の食事に集まってくるのに名前まで覚えて、猫たちに好かれている。反対に目の前のベットに寝ている私には猫たちは愛想が悪くなってきた。しかしKちゃんの本分は受験生で、デッサンと油彩画を学んでもらうために来ているのに、一時間から猫のために時間を費やしていいて、申し訳なかった。

猫たちは自分たちがいつも居るソファーを荷物置き場にされたため、私の寝ているベットに集まってきたのだ。シングルベットに13匹マックス乗ってくる。大半が彼らの占有で、3分の1でもあれば良い方で、痛い私の足の上にもお構いなしだ。3日分の薬が切れたので、N先生の奥さんがY病院にもっと長期に薬を出してくれるように頼んでもらったが、また3日分しかでなかった。(診察してやるから、当人が来いということだ)腹が立つ病院だ。もう二度と行かないし、誰にも勧めない。田舎の病院は相手にならない。入院は不可能。ベットに空きがないほど、老人患者であふれる街なのだ。国立の医療センターは「死にかけているなら受け入れる」などと言っているから、医療の根幹にかかわる不作為だと思う。N先生にかけている負担はこれ以上続いてはいけない。

そこで対応を考えて、N先生がいろいろと調べて、市の福祉事務所の担当者に行き着いて、市の福祉行政の世話になることにした。10月10日に、市の担当者、福祉事業者、ケアマネージャ、ヘルパーさん派遣会社の担当と介護タクシーまで大勢が私のベットの周りに集まった。さすがに大半の猫たちは外に退避した。そして介護認定を受けるために内科の主治医の診察を受け、介護認定の審査を受ける事に成った。この時、鎖骨神経痛発症から4週間目であった。簡易トイレがベットの横に届いた。これは買取だそうだ。そのおかげで、翌日通じがあった。なんと三か月分ではないが、宿便の一部が出たと思う。これで気分が良くなって、嵐の後に朝日が昇ってきたような気分だった。

内科の先生はY病院の医師とは真反対で、事細かに説明してくれて、患者に安心を与えるインフォームドコンセントに徹して、安心させてくれた。しかし朝方医者に行くものではない。老人の患者であふれ、私は寒い廊下で車いすに乗ったまま一時間半またされた。老人たちは朝が早いのだ。診察後、介護認定は一か月かかるのだそうだ。先生の話では「介護認定1」になるそうだ。

しかし、介護認定が下りるまで、ベットにくぎ付けになる身分は避けたい。体を少しでも自主的に動かすことにした。まず立つことに危険なほど、立ち眩み(くらみ)があり、足が弱っていて、ふらつく。まずベットに寝たまま、足首を動かしてみる。10回動かして5分ぐらい休んで、また繰り返す。足のしびれは一歩出るのに要注意だった。アスリートでさえ2週間も寝ていたら、回復に何倍も時間がかかるそうだ。その後風呂に入って驚いた。足の筋肉がふにゃふにゃになっていて、太さも半分の大きさになった。ベットの上で寝る時間には猫たちが大入り満員で、私のしびれて痛い足の上にも乗ってくる。いた個所をかばって、寝返りを繰り返すのが健康な証拠だが、私の場合、お行儀が良いので塩蔵も良いし、腰痛の遠因となる圧迫が頻繁に起きている。だから寝ている間だけは自由に動けることが大事だ。ここまで病状が改善しないのは猫たちのせいだと思ってしまう。

ようやく立って歩こうとすると、地球の重力が感じられた。自分が重くて腰が砕けそうだった。そのまま座り込んでしまった。だが止めるわけにはいかない。生活はヘルパーさんの登場でいろいろ買い物してもらえたが、生活に関するものだけで、薬は売薬でもだめ、医者に行って処方箋をもらうのもだめとか、いろいろ制約があっても、弁当もN先生の奥さんにこれ以上迷惑を掛けたくなかったので、月水金のローテーションで買い物に弁当の数を調達してもらった。ああ、野菜の煮物は味が薄い場合、カビが生えやすいので気を付けなければいけない。いずれにせよ、ヘルパーさんの来訪は生活の基準を変えてくれた。

介護認定の基準については行政が案内パンフレットを出しているが、要介護のサービスは生活機能の維持、改善が必要な人のためで、1~5の基準がある。私の場合、ベットから起きられても歩けないというのが基準だが、確かに長く歩けないから買い物には行けない。車の運転も危うい。ハッキリ言って長く同じ姿勢が取れない。こうしてPCの前に座っているのも、時々休みながら書いている。

この先のリハビリにも問題があって、私はいつの間にか高血圧で175~185ぐらい高い方がある。標準は130ぐらいらしいから、立派な高血圧で下げる薬を飲むしかないが、簡単に下がらない。鍼灸の治療を受けたいが、150以下でないといけないらしい。

坐骨神経痛は完全に治らないのが普通らしいと聞いて、少し失望している。只病気と闘っている気分でいたくない。このさき、やはり絵を描いて自分を確認したい。すべての原因は、これまで運動不足を軽く見ていた自己責任は万病のもとと理解する。老化は仕方がないが、楽しく老化することを考えなくては。

回復してきたら、この記事の続きは書きます。




救急車に乗ったどオ・・・!!

2018-11-08 00:49:27 | 絵画

ブログが突然、更新されなくて・・・怠けているように思われたかもしれないけれど・・・。大変な身の上になって椅子の上に座ることも出来ませんでした。

10月8日(日)朝、左のお尻に激痛が走り、ベットから起き上がれなくなった。その前まで腰痛で苦しんで、つえをついてようやく歩いていいたのが、少し改善したと思えば、左側の腰からお尻にかけて新たな激痛で苦しみ始めた。昔から腰痛もちで、東京にいた頃、整形外科で「腰痛分離症」(5つある腰椎の一番下の5番目に亀裂があり、神経が飛び出す病気。日本人の500人に1人にある奇形、またアスリートの30~40%が持っている症状で、十代の若いころスポーツでなり易いとか。)だと診断され、椅子に座っている生活から運動不足で発症した。この腰椎分離症に伴ってなり易いのが、新たな神経痛だ。

起き上がることが出来ずに、ずっとベットの上で苦痛に耐えていたが、夕刻に愛弟子のKちゃんがやって来て、「ちょっとここにいるよ!!」と声をかけた。実は夏の豪雨災害で罹災した実家の減税申請をするために岩国に出かける予定であったのが・・・・二階から声をかけて、Kちゃんはけげんに思って二階の寝室に顔を出したら、苦痛な声を出す私を発見したが、取りあえず寝ているから「貴方は絵を描いていなさい」と言ったのだが、父親のN先生(我が家の隣が職場の水産高校の先生)が飛んで来た。即、「救急車を呼びましょう」と言われて、私もその気があったのだが、いつもの優柔不断で「ちょっと待ってみます」と答えた。少し治ってきたら照れ臭いと思ったのだが・・・。夜通し激痛は激しく耐えられないほどで、とうとう9日の朝9時、自ら119番へ電話した。

「火事ですか?救急ですか?」と消防。「独りで二階に寝て、動けなくなっている。階段は狭い。体重は80kg。」などを知らせて、間もなく遠くから、ピーポーピーポーが聞こえてきた。これで救われる。枕元にあったレジ袋に財布、免許証、鍵、スマホを入れて待った。

きたきた、6人の男性がどかどかと私の寝ている二階に上がって来た。この時私の寝ていたベットは天蓋ベット(屋根付きで、周囲に猫除けの防獣ネットが付いていた)に、救急隊員もびっくり。「なんじゃこりゃ」だったが、2人が手早くソフト担架を私の体の下に挿入してきた。私は「イタイ、痛い・・・イタ」激痛は頂点に達し、「アーアー、ウーウー・・」とうめく私にかまわず、階段から私を頭を上にして階下に降ろし始めた。もうどうでも良かった。苦痛から逃れられるプロセスに違いないと・・・自ら慰めた。玄関から外に出たとたんに、大粒の雨が降り始めて、みんなびしょ濡れになった。途中私には窓付きのビニールカバーがかけられたが、寒かった。救急車のところには、車輪の着いた担架がまっていたが、びしょ濡れだった。ソフト担架から移された時、背中に雨水がしみて冷たかったが、激痛とすべてを受け入れた。

救急車に乗せられるとき、N先生が既に来ておられ、心強かったが申し訳なく思った。この時からN先生には大変な迷惑をおかけすることになった。救急車になかでは直ぐに胸に3点、指にも電極が着けられ、心音を採取、血圧も測られた。寝させられた目の横の計器にに数値が出る。「これはひょっとして私の血圧ですか?」なんと数値は199を示していた。

救急車内では無線のやり取りで、行先を打診していた。「国立医療センターは拒否・・・00医院も、じゃY病院か?」「Y病院に行きます。良いですね?」。私に否定しようがない。そしてピーポーと大きな音とともに走り始めた。恐らく2~3分のことだろう。車の中に寝たままの外の景色は、全くどこにいるのか分からなかったが、国道9号線を走っていた。Y病院はさほど遠くは無かった。

Y病院に着いたら、すでにN先生が先回りして着いているのが見えた。院内に入ると病院の担架に移されたが、その担架には分厚いビニールが敷かれていて、血まみれの患者やお漏らしする患者に対応しているのか・・・・感じが悪かった。・・・で、移動する度に強い痛みを覚えた。看護師にどうしました?と聞かれて「腰が、お尻が痛い・・・」と答えたら、年老いた二人の男性(どう見ても二人とも80過ぎにしか見えない)の担当医師が現れたが、一人の胸の名札に「院長」の文字。この人は何もしない。もう一人が担当らしかったが、「どうした?」「腰痛の後、腰からお尻が痛むようになって、昔から腰椎分離症だと、東京の医者で言われていた」と私が答えると。そこですぐX線撮影。なぜか胸部X線撮影?痛いのに立たされて撮影。腰は三枚、ゴロンゴロンと台の上でも痛いだけ。終わったらまた元の車付き担架で診察室に移動、そして看護師が「痛み止めをあげるわ」と言って、いきなりパジャマの尻をめくって、肛門に座薬を差し込んだ。座薬の痛み止めが一番効くと聞いていたので、まあいいか・・・と。次は、その老いた担当医が私の足を針で突いている、・・・・イタイ、痛い。そうすると看護師が「足がしびれているかどうか確認しているのよ!」と言う。そして次は血液採取。「炎症が起きているか調べるから」と言ったが、後で何も説明がなかった。院内は寒かった。「あのう寒いのですが・・・」。看護師が足元に薄い布団をかけてくれた。「あのオシッコがしたい・・・」すると、看護師が尿瓶(しびん)を持ってきて、私のパンツを下すなり、股の間に尿瓶をいれ、そこに私の縮こまったおちんちんを引っ張っていれて「ハイ!」と。手際が良くて、何も言えない。結局、痛くて何も出ない。また診察台から別の担架に移されて待たされた。また新たな年老いた患者が載せられてイタイ、イタイと言っている。

で、その、老いた担当医が遠くで「坐骨神経痛」だと誰かに言っている。これが私の病名だ。定年後、楽しく絵を描いて暮らすなんて、とんでもない話になってきた。

ここで坐骨神経痛について解説すると、大腿部背面から足元(腓骨神経ひこつしんけい、脛骨神経けいこつしんけい)までの広い範囲、最大最長の末梢神経で、大腿部の元は坐骨、つまり座ったときにお尻が当たる骨盤の左右の出っ張りの骨辺りから始まる、太さは鉛筆の大きさからあると言われている。原因は椎間板ヘルニア、脊椎の腫瘍(がん)、腰部脊椎変形症、腰椎分離症などから坐骨神経が圧迫、刺激されるなどして起きると言われている。

で、私の場合、腰椎分離症の後、ここに冷え、圧迫などで血流が阻害され、炎症が起きると痛みが始まる、が、その痛みは経験した者にしか分からないだろう。くしゃみをしても、体を反らせてもイタイ!。足は痛みとしびれで歩行は不可能。結局寝たきりで、安静にしているしかない。

Y医院の話に戻ると。看護師がここにはベットの空きがないから、入院はできないから「家に帰れ」と言う。薬(痛み止め)を三日分出すから、「三日後にまた来い」と言う。「ええ!来るとき救急車で来たのに、歩けないし、また救急車を呼ぶのか?」と尋ねたら、その看護師は首を横に振った。担当医師から何の説明はなかった。血圧も測った、X線もとった、血液も採ったし、何か説明があると思ったが、インフォームドコンセント無しとは(くそ!!やぶいしゃめ!!)。要するに整形外科では「対症療法」しかなく、痛み止めしか出さない。この薬を処方して貰うには、やぶでも整形外科に行くほかない。

愛弟子のおとうさん、N先生が「仕方がないので帰る用意をしましょう」二階の寝室に戻るのは無理だろうから居間にベットを作りましょうか?」と・・・・もう、すべて甘えてお願いするほかなかった。「帰って用意をして、また迎えに来ますから」、N先生を小一時間担架の上でまった。痛み止めの座薬が効いてきたので、痛みは少し和らいでいたが。

N先生の迎えで、車に乗り込むとき、やはり痛かった。N先生の支えなしに車に乗れなかった。家について、車から玄関までのアプローチが長かった。20メートルほど、先生に支えられ歩いた。居間には二階の客間に置いてあったベットが置かれ、布団まで敷かれていたが、何と猫が5~6匹載っていたが、そこに倒れ込むしかなかった。痛みを増幅させないためには「絶対安静」だと言われ、ベットの上で大人しくしているしかなかった。

こうしてベットにくぎ付けの生活で、N先生家族に全面的に世話になる日々が始まった。

以下次号につづく・・・なんてね。

誰もが、一生に一度は乗ることになるかもしれない救急車!! 乗り心地は「良い訳ないよなあ・・・」