ブログが突然、更新されなくて・・・怠けているように思われたかもしれないけれど・・・。大変な身の上になって椅子の上に座ることも出来ませんでした。
10月8日(日)朝、左のお尻に激痛が走り、ベットから起き上がれなくなった。その前まで腰痛で苦しんで、つえをついてようやく歩いていいたのが、少し改善したと思えば、左側の腰からお尻にかけて新たな激痛で苦しみ始めた。昔から腰痛もちで、東京にいた頃、整形外科で「腰痛分離症」(5つある腰椎の一番下の5番目に亀裂があり、神経が飛び出す病気。日本人の500人に1人にある奇形、またアスリートの30~40%が持っている症状で、十代の若いころスポーツでなり易いとか。)だと診断され、椅子に座っている生活から運動不足で発症した。この腰椎分離症に伴ってなり易いのが、新たな神経痛だ。
起き上がることが出来ずに、ずっとベットの上で苦痛に耐えていたが、夕刻に愛弟子のKちゃんがやって来て、「ちょっとここにいるよ!!」と声をかけた。実は夏の豪雨災害で罹災した実家の減税申請をするために岩国に出かける予定であったのが・・・・二階から声をかけて、Kちゃんはけげんに思って二階の寝室に顔を出したら、苦痛な声を出す私を発見したが、取りあえず寝ているから「貴方は絵を描いていなさい」と言ったのだが、父親のN先生(我が家の隣が職場の水産高校の先生)が飛んで来た。即、「救急車を呼びましょう」と言われて、私もその気があったのだが、いつもの優柔不断で「ちょっと待ってみます」と答えた。少し治ってきたら照れ臭いと思ったのだが・・・。夜通し激痛は激しく耐えられないほどで、とうとう9日の朝9時、自ら119番へ電話した。
「火事ですか?救急ですか?」と消防。「独りで二階に寝て、動けなくなっている。階段は狭い。体重は80kg。」などを知らせて、間もなく遠くから、ピーポーピーポーが聞こえてきた。これで救われる。枕元にあったレジ袋に財布、免許証、鍵、スマホを入れて待った。
きたきた、6人の男性がどかどかと私の寝ている二階に上がって来た。この時私の寝ていたベットは天蓋ベット(屋根付きで、周囲に猫除けの防獣ネットが付いていた)に、救急隊員もびっくり。「なんじゃこりゃ」だったが、2人が手早くソフト担架を私の体の下に挿入してきた。私は「イタイ、痛い・・・イタ」激痛は頂点に達し、「アーアー、ウーウー・・」とうめく私にかまわず、階段から私を頭を上にして階下に降ろし始めた。もうどうでも良かった。苦痛から逃れられるプロセスに違いないと・・・自ら慰めた。玄関から外に出たとたんに、大粒の雨が降り始めて、みんなびしょ濡れになった。途中私には窓付きのビニールカバーがかけられたが、寒かった。救急車のところには、車輪の着いた担架がまっていたが、びしょ濡れだった。ソフト担架から移された時、背中に雨水がしみて冷たかったが、激痛とすべてを受け入れた。
救急車に乗せられるとき、N先生が既に来ておられ、心強かったが申し訳なく思った。この時からN先生には大変な迷惑をおかけすることになった。救急車になかでは直ぐに胸に3点、指にも電極が着けられ、心音を採取、血圧も測られた。寝させられた目の横の計器にに数値が出る。「これはひょっとして私の血圧ですか?」なんと数値は199を示していた。
救急車内では無線のやり取りで、行先を打診していた。「国立医療センターは拒否・・・00医院も、じゃY病院か?」「Y病院に行きます。良いですね?」。私に否定しようがない。そしてピーポーと大きな音とともに走り始めた。恐らく2~3分のことだろう。車の中に寝たままの外の景色は、全くどこにいるのか分からなかったが、国道9号線を走っていた。Y病院はさほど遠くは無かった。
Y病院に着いたら、すでにN先生が先回りして着いているのが見えた。院内に入ると病院の担架に移されたが、その担架には分厚いビニールが敷かれていて、血まみれの患者やお漏らしする患者に対応しているのか・・・・感じが悪かった。・・・で、移動する度に強い痛みを覚えた。看護師にどうしました?と聞かれて「腰が、お尻が痛い・・・」と答えたら、年老いた二人の男性(どう見ても二人とも80過ぎにしか見えない)の担当医師が現れたが、一人の胸の名札に「院長」の文字。この人は何もしない。もう一人が担当らしかったが、「どうした?」「腰痛の後、腰からお尻が痛むようになって、昔から腰椎分離症だと、東京の医者で言われていた」と私が答えると。そこですぐX線撮影。なぜか胸部X線撮影?痛いのに立たされて撮影。腰は三枚、ゴロンゴロンと台の上でも痛いだけ。終わったらまた元の車付き担架で診察室に移動、そして看護師が「痛み止めをあげるわ」と言って、いきなりパジャマの尻をめくって、肛門に座薬を差し込んだ。座薬の痛み止めが一番効くと聞いていたので、まあいいか・・・と。次は、その老いた担当医が私の足を針で突いている、・・・・イタイ、痛い。そうすると看護師が「足がしびれているかどうか確認しているのよ!」と言う。そして次は血液採取。「炎症が起きているか調べるから」と言ったが、後で何も説明がなかった。院内は寒かった。「あのう寒いのですが・・・」。看護師が足元に薄い布団をかけてくれた。「あのオシッコがしたい・・・」すると、看護師が尿瓶(しびん)を持ってきて、私のパンツを下すなり、股の間に尿瓶をいれ、そこに私の縮こまったおちんちんを引っ張っていれて「ハイ!」と。手際が良くて、何も言えない。結局、痛くて何も出ない。また診察台から別の担架に移されて待たされた。また新たな年老いた患者が載せられてイタイ、イタイと言っている。
で、その、老いた担当医が遠くで「坐骨神経痛」だと誰かに言っている。これが私の病名だ。定年後、楽しく絵を描いて暮らすなんて、とんでもない話になってきた。
ここで坐骨神経痛について解説すると、大腿部背面から足元(腓骨神経ひこつしんけい、脛骨神経けいこつしんけい)までの広い範囲、最大最長の末梢神経で、大腿部の元は坐骨、つまり座ったときにお尻が当たる骨盤の左右の出っ張りの骨辺りから始まる、太さは鉛筆の大きさからあると言われている。原因は椎間板ヘルニア、脊椎の腫瘍(がん)、腰部脊椎変形症、腰椎分離症などから坐骨神経が圧迫、刺激されるなどして起きると言われている。
で、私の場合、腰椎分離症の後、ここに冷え、圧迫などで血流が阻害され、炎症が起きると痛みが始まる、が、その痛みは経験した者にしか分からないだろう。くしゃみをしても、体を反らせてもイタイ!。足は痛みとしびれで歩行は不可能。結局寝たきりで、安静にしているしかない。
Y医院の話に戻ると。看護師がここにはベットの空きがないから、入院はできないから「家に帰れ」と言う。薬(痛み止め)を三日分出すから、「三日後にまた来い」と言う。「ええ!来るとき救急車で来たのに、歩けないし、また救急車を呼ぶのか?」と尋ねたら、その看護師は首を横に振った。担当医師から何の説明はなかった。血圧も測った、X線もとった、血液も採ったし、何か説明があると思ったが、インフォームドコンセント無しとは(くそ!!やぶいしゃめ!!)。要するに整形外科では「対症療法」しかなく、痛み止めしか出さない。この薬を処方して貰うには、やぶでも整形外科に行くほかない。
愛弟子のおとうさん、N先生が「仕方がないので帰る用意をしましょう」二階の寝室に戻るのは無理だろうから居間にベットを作りましょうか?」と・・・・もう、すべて甘えてお願いするほかなかった。「帰って用意をして、また迎えに来ますから」、N先生を小一時間担架の上でまった。痛み止めの座薬が効いてきたので、痛みは少し和らいでいたが。
N先生の迎えで、車に乗り込むとき、やはり痛かった。N先生の支えなしに車に乗れなかった。家について、車から玄関までのアプローチが長かった。20メートルほど、先生に支えられ歩いた。居間には二階の客間に置いてあったベットが置かれ、布団まで敷かれていたが、何と猫が5~6匹載っていたが、そこに倒れ込むしかなかった。痛みを増幅させないためには「絶対安静」だと言われ、ベットの上で大人しくしているしかなかった。
こうしてベットにくぎ付けの生活で、N先生家族に全面的に世話になる日々が始まった。
以下次号につづく・・・なんてね。
誰もが、一生に一度は乗ることになるかもしれない救急車!! 乗り心地は「良い訳ないよなあ・・・」