このところ、普通の人には面白くもない絵画技法についての講釈を述べてきたからこのブログの読者がめっきり減って250人ほどになった。是非もない。
ある県美の古い知り合いに「最近は県美展で描写の絵画展は受け付けていない」と言われて、やはり現代アートと言われるジャンルに重きを置いているのかと失望した。ある意味、県の美術展と言えばどこも団体展の利権がらみで審査員を輩出させて、身内を入選させて既得権を主張する「アーティスト」でも何でもない者が群がる会になってしまっているので、主催する側として「苦肉の策」として現代アートに切り替えたとも・・・思えるが、それでいいのだろうか?
これまで現代アートに関しての問題について批判的にブログを書いてきたが、美術に興味がある人たちの多くが「現代アートの作品は良く分からない」と面白くないと批判していることに主催者側が気にもかけず、反対に「認識が低いからだ」と上から目線で言ってきた。東京国立近代美術館の副館長までなった者がこう言う視点であったから、私は「現代アートの問題点」を述べてきた。とにかく私にも何を言わんとしているのか分からないので、付き合う気もなくなった。
前も書いたように、現代アートの存在意義は「何を表現しても良い」「どのような手法を使っても良い」「未完成でも良い。すべては試しである」といったところだから、それがどれほどの誠実さでどのような理念で行われた行為なのか分からなくなるのは当然であろう。是非もない!!
私は「芸術は虚構である世界が作品の中になければならない」「そこに世界があると感じさせなければ表現は成立しない」と言ってきた。文学、音楽、美術にせよこれまでの優れた芸術作品には、そこに「世界」が認められてきて歴史の中に残って来たのだ。
今の日本には有名で作品の値段は何千万円という御仁もいるが、これは市場があってそれに群がる資本主義者がやることで芸術性とは関係ない。芸術界とよばれる世界に属していると思いたがる者の煩悩は尽きることはなく、閉鎖的な世界だ。これに属さない自尊心の塊は「現代アート」を産んだのだ。まさにフランスで食えなかったマルセル・デュシャンはニューヨークで現代アーティストとして生きようとして・・・・しかし晩年は売り絵を描いていたと言われている。「好きなことをして食えたが勝ち」と人生をそう捉えるのも勝手だ。しかし芸術と呼ばれ特権階級のように思い、「他者に優越感を覚えている者には地獄あるのみ」だ。
自己の作品と誠実に向き合い、自己の表現性を大事にする者には虚栄もない。大事なのは自分であり「唯我独尊」でなければならない。何を表現したいか、何を表現すべきかを考えるのではなく、感じていることが物質主義や拝金主義から逃れさせるだろう。
最も自分の中にある世界を表現するのに私は具象を選んだ。具象であろうが他の手法であろうが、手に技は必要であり、感じていることを具体的にして見せるには感性に支えられた能力も必要だ。しかし現代アートにはその片鱗さえも感じないから具象に行き着いたのだ。
今日のテーマ「は絵画技法と技巧」だ。絵画技術と言ったり、絵画技法と言ったり良く分からぬ。絵画「技術」と言うほどに技術があるのかと言われれば無いような気がする。つまり工学的な技術ではなく、あくまで感性と技の世界だから「技法と技巧」と言えばよい。技法については先に紹介したドルナー本やヴェールテ本に書かれているが、言葉で読んだだけではちっともわからない。実際を紹介した見本が無いと分からない。そのせいかテンペラ画の技法にうるさかった者たちから優れた表現を行う者が輩出しないね。別の理由もあると思うが・・・ハッキリ言わない方が良いかもね。
分かったとしても、どのように自分の表現に用いるべきか、そのままでは食えない。結局本に書かれていることは、観念的で現実味が欠けるから自分で試行錯誤の上で具体的にするほかない。私も模写を通して再現して見たり、見本を作ってみたりした。模写は現物があるので再現可能かどうかで判断の一助にはなる。こうして理解は少し得られるのである。己の世界の表現手段としての技法は一つあれば良い。いくつもやってみて時間を浪費すのはもったいない。それで出来なければ才能が無いのだろう。
その1976年の後、修復家になるために巨匠の作品の修復の現場を経験した二十代後半から1982年に帰国して、四十代までに多くの展覧会の作品の保存状態点検するなどして、多くの作家の作品を観察できた。つまり視覚的記憶を得たのである。観察で終わらず作者の表現性まで(修復家としての仕事ではないが)洞察するように仕向けた。こうすることで絵を自分で描かなくても、まるで描いている様な感覚で観察できたので「技法」のバリエーションを見ることが出来た。
作者は何をどう描こうとして、どんな絵具を用いて筆をどの様に動かしたかも感じるようにしてきた。これは面白くて癖になる。
「技法」は画家にとって手段でしかないが、自分にとっての理想のイメージを表現するのに最も優れた「技法」が一つあれば良いのである。(この一つはトータルな完成度を得るための一つという意味である)そして技法は「技巧」として才能の伸びしろを与えるものでなければならない。「技巧」つまり能力であるから、出来不出来は「技法」のせいではなく、当人の才能のせいである。
現代アートのように「才能」を問わなくなった「表現」(はたして表現と言ってよいのか問題だが)は小中学校で学んだ図画工作の延長でしかなく、古典の巨匠たちが目指した「錯覚の世界」つまり優れた虚構性を構築することとははなはだ遠い。
アンディ・ウォーホールについてご存じだろうか。彼はマリリンモンローやキャンベルのスープの缶詰。ベンツの車などの写真をシルクスクリーンでキャンヴァスに印刷した作品で有名になった。彼曰く「シルクスクリーンで僕の絵が僕のものか、誰か他人のものなのか誰も分からくなってしまえば、それはとても素晴らしいことだと思う」と言ったそうな。確かに写真を印刷するだけで、アイデアでしかないのだが、何かそこに事ありげに発言し、それを多くの現代アートの評論家は更に彼の作品に現れていないことを「事ありげに」評価する。誰にでもできる手段を用いることで「作者の主観を消そうとしている」のだそうだ。物と自己との関係において、自己がその物の価値を定めるような主観主義的な態度ーーー世界に存在しているものを自分の主観でもって自分の立場から評価しようとするーー自己中心的ないし独善的なとも言える態度ーーーの対極にある姿勢なのです。このような反主観主義的な芸術創造的な居り方を断固として追求してきたことこそがウォーホール芸術の現代性の根源にあるものなのです。(この批評はNHK放送大学「芸術の理論と歴史」青山昌文著の教材から)
これを読んで、現代アーティストが事故の作品中に現れていないことを「表した」と自負し、作中にないことを「在るが如き」に言葉で補い、評論家も職業上の利益の為か・・・錯誤を扇動するのである。
誰もが自分の行いに価値を見出さねば生きていけないではないか!!ウォーホールも同じだからシルクスクリーンの技法を選択し、見せているのである。彼から自己中心的で独善的な考えを排除して表現があるとお思いか!!??
正直言って、このような詐欺的現代アーティストと評論家の時代が「観念主義的な弱さの時代」としてこれからも続くであろうことは悲しいが・・・。現実より観念的なバーチャルな世界にどっぷり浸かって「存在」が分からなくなっている。こうした連中がもてはやされて、一緒になって遊ぶのが流行なのだ。それは演技の一つで、嘘を如何につくかが評価の対象だろう。作品本体より演技が大切なのだ。
自分を否定せず、主観を大事にしてこそ生きている実感があり、表現があることを知ろう。
私はウォーホールの作品を見て「何だ写真を写しただけではないか」としか感じない。他人が撮った写真を利用して「著作権料」を払ったのかな・・とかしか感じない。彼の作品の前を通り過ぎてしまう。
現代の画家たちに技法書はいらない。ファン・アイク兄弟がテンペラ絵具を用いて描いたとか・・・どうでも良いことだろう。しかし図画工作の延長の作品など歴史に残りはしない。
葛飾北斎は弱い90歳にして「あと十年生きられたらもっと優れた画工に成れたのに・・・」と言ったとか。あと十年で得られる技巧があったということだろう。画欲が尽きないことが才そのものだ。今年の展覧会には何を描こうか?などと考える御仁は才能はないでしょう。私の描写をこの人たちと一緒にされたくないな。
まずはやりたいことは山ほどあるが、遅々として進まず手が遅い。技能がまだ十分でないから「技法」通りにはいかない。ファン・アイク兄弟の技法は簡単さ!まず完全な油絵だから・・・素地、地塗り、素描、目止め、下塗り(下描き)、上描きの順番だからね。しかし、この手順でイメージを完成するには、繰り返し身につける経験が必要だ。時間が欲しい。
いや、最近有難いことに家のしょうゆ君が成人を迎えて(19年5月10日生まれ)突然人格いや猫格が変わったのだ。廊下にわざとらしい毎日3~6か所の「ウンコ」をしなくなったのだ。これには随分悩まされたが終わったね・・・彼は私にストーカーしていたのが、自律してきたみたいで、体格も変わり独りで過ごす時間が増えて大人の猫っぽくなったのだ。まあしかし今は猫ノミの大量発生で、梅雨が終わるまで夜は寝所で5~15匹ぐらいのノミと闘わなければならない。梅雨が終わると居なくなるのだ・・・何故かね?
今日の嬉しいことがもう一つ。庭に三つの月見草が生まれた。黄色の小さな花が梅雨空の薄暗さに、あわてて出て来てしまったみたい。
もう夜中だ。つまらない文章を書いていて夕食を食べるのを忘れた。