先週の読者は167人だったらしい。去年の年末に継ぐ快挙。台風のせいで3連休が外出取りやめの人が読者かも知れない。しかも鬱陶しく長い文章に、時折休憩を入れて、再読したために2人計算になっている人もいるかもしれない。
しかし、いずれにせよ、こんなに私の言いたい放題を呼んでもらえるなんて、感謝、感謝!!有難うございます。
この項目は途中で一度、消えてなくなったので、再び書いている気持ちが変!!
今日はちょっと個人的なことを書きます。
私の住んでいる島根県浜田市は、まだミサイルも飛んでこないし、絶対と言ってよいくらい戦争のターゲットにはならないと思う。その点は安心していられるが、人口が少ない。市町村合併でやっと6万人弱。面積は東西45km、南北に35kmくらいだろうか。日本海に面している地域は冬は雪は5cmほど積もるけどすぐ消えてしまうので左程寒くないが、南方向に山がちの地域ではスキー場もあるくらい雪も積もる。島根県そのものは全国で二番目に高齢者率が高い(一番は高知県)、三番は隣の山口県だそうだ。山陰両県と言えば鳥取島根のことで山口県は北側は日本海に面していいるが山陰とは言わない。時々九州の一部と思う人が居るくらい・・・。
私は山口県の岩国市生まれ(市町村合併までは玖珂郡という山の中)で、島根県ではどうもしっくりこないは県民性の違いだろうか。島根県は東西に200km近く細く長い県で県庁所在地は鳥取寄りにあって西の果てから、ほとんど200km離れている、西側は石見地方、東は出雲地方と呼ばれているが、県民は仲が良くない。天気予報では西部地区を代表して「浜田の天気」だが、町として文化的なのは、山口寄りの益田市だ。山口に接する津和野町は森鴎外、西周(にしあまね)を輩出したし(昔、津和野町は山口県に入りたいと望んだ時もあったそうだ)。益田市は雪舟が庭を作ったお寺が三つ、水墨画も残っている、どちらかというと山口、萩文化圏だ。そのせいか益田市の人たちの方がおおらかだ。
ここ浜田は山が海の際まで迫っていて、平らな土地が少なく、人の性格もせせこましくなるのも仕方がない。静岡の伊豆地方の漁村がそうだろう。ここ浜田ももとより漁村だが、昔は浜田城というお城があった。松平の殿様が居て、維新では長州の大村益次郎の率いる軍に攻められ、城と町に火をつけて岡山に逃げてしまった。市内に大正期に建てられた文化財級の建物も簡単に壊して鉄筋建築に換えてしまう文化意識だから。今日に至るまで歴史的な香りはない。(しかしこの町のキャッチは「人が輝き、文化が香る町」だそうだ)
なぜ、こんな町に東京から引っ越してきたかと、郵便局の窓口のお姉さんに「問い詰められた」(親近感のある人もいた)。「東京には何でもあるのに、何もないこの町になぜ来たの?」と。面白い人だなあ・・・と思ったが「人はそう多くの物は必要ないのだよ」・・・なんて、格好をつけて言い訳したけれど、本当にこの町には欲しいものはない。美味しいものが食べたいと思っても・・・ない!。
漁業と水産加工が主要産業の町だから、魚がおいしいだろうと私の知人、友人は言うけれど、さびれていくこの町の行く末が象徴している。魚が東京のスーパーより高いし、品数も少ない。地物と書かれた魚の数は知れていて、萩や九州から送られてきたものを多く目にする。この町の産品のノドグロ(あかむつ)は、実はほとんどが萩からくる。流通システムの良し悪しによる商品価格は、特に野菜や生鮮食料品の価格に反映しているが、地産地消で近くの農家から提供された野菜は、地元を応援する意味か少し安く提供されている。スーパーで売られるメーカー商品の価格は東京の方が安いというのは、競争がないせいだろう。美味しい魚が食べたければ、「自分で釣りに行け!」だそうだ。
まあ、当初の目的は年を重ねる父の面倒を見ようと、なるべく近くを探したのだが、「お前とは一緒に住まん」と言われ、ついでに釣り、畑作、田舎という条件で浜田に行きついたのだが、夏目漱石の小説「草枕」の主人公曰く、「何処へ行っても同じだと思ったとき、ふっと詩が生まれる・・・」と同感する。詩イコール絵を描くことだ。で、最近絵も描かずに、このブログを書いているが。要するに、欲求不満がたまっていて、御託を並べるようになったのだと思う。
私の定年後の生活は決して安く上がらないが・・・・住んでいる家の価値が下がって、固定資産税は五分の一以下になった。築30年だから当然か。
今、家に猫が23匹いる。東京から12匹連れてきた。そのうち野良が6匹。家の駐車場で飼っていた子たちだが、家の猫だけ東京の地震から非難するというのは耐えられず、連れてきた。中に間違って連れてきた子が居て、来たくもないのにつれられてきた(つまり拉致されてきた・・・)ということで、来てからしばらくして家の戸を開けたとたんに居なくなった。悪いことをした。今の家は猫たちにとって決して悪い条件ではなく、300坪の敷地、隣は水産高校で交通事故に遭う危険性がかなり低い。目の前は海で砂浜は彼らのトイレになっても、誰も文句を言われないプライベイトビーチだ。にもかかわらず行方不明になる子も出てきた。食事も十分、寝るところも完備してあっても、猫の気まぐれか、遊びに出かけ遠出して帰れなくなった子もいるかもしれないが、どうい訳か「かわいい子」に限って帰って来ない。不妊、去勢手術は皆している。周りに迷惑をかけている子はいない。水産高校の敷地で「ウン子」しているのはカンニンして。
市役所の公報やパンフレットには「野良猫にエサをやらないでください」と書いてあった。市役所で「あのう・・・野良猫に・・・」と言いかけたところ「野良猫にはエサをやらないでください!!」と高飛車に言うから・・・・市長あてに手紙した。「犬や猫の遺棄、虐待は犯罪です」となっていて、「捨てられたら犯罪被害者なのに、エサをもらえないのか?」「生きる権利はないのか?」と批判した。「ついでに偉そうに市民に向かって言うな」と。で、返事が来て「改めます」とあった。しかしその後も「猫は家の中で飼え」と言っている。彼らは自分で考えることはしないようだ。
それから野良猫にエサをやったら爆発的に増えると役所は考えているが、全く事実と異なることを平気で言う。「そうに違いない」と一度考えたこと、あるいは「周囲がそう考えている」と、平気で確認もせずに野良猫を悪者にする。猫が嫌いな者が、好き嫌いで彼らを断罪することは人類であるまじき行為だ。人間には許されると思っている。私は市役所に「野良猫にエサをやると爆発的に増えるという科学調査論文でもあるのか」と尋ねたが、返事はない。猫の乳首は八つあるから、8匹生まれることもまれにあるが、家で飼っていても、せいぜい多くて5匹だ。うちでは5匹がこれまでのマックスだった。ひどいときは5匹生まれて、5匹とも死んでしまったこともある。(我が家のレギュラーメンバーは皆不妊と去勢手術を受けているから、外から生みにくる野良猫のメスがいる。これらの子は噛みつくので触れない。)若いメスは初産で体調が不十分で死なせてしまうこともある。5匹生まれて一匹だけ生き残ったときもある。私はもう30っ匹から埋葬した。大人の猫は行方不明になるから、この数には入らない。在職中に初めて家に来た珠ちゃんは14歳で行方不明になった。いなくなる前の2週間、毎夜私のところにきて、腕枕で寝るようになっていたが、これは最後の挨拶だったのだろう。突然帰って来なくなって、2年半がたった。
そうこうしても、だいたいアベレージは23匹くらいで、30匹というときもあったが、多くは死んでいく。市役所が言うような増え方はしない。今年は3匹増えた。皆子猫で2匹は港に捨てるものが居て、耳の中から長い毛の生えている黒い子猫、それから生後2か月ちょっと、やっと乳離れしたくらいで、ペットショップのウィンドウに居るような子、居なくなった珠ちゃんの再来か・・・・アメリカンショートヘアのメス。人気の波打つような模様のある子(これはオスだが)ではない。なぜこんな子を捨てるかというと「メス」だからだろう。この子に珠ちゃんと名前を付けた。(正直言って、珠ちゃんロスで未だに行方不明の珠を思い出すので、どうかと思ったが)。もう一匹はどうも誰か、我が家に子猫を投げ込んだ。夕方の食事の時間に、皆勢ぞろいのときに、とつぜんご飯茶碗に突進してきた子がいた。「ちょっと!この子は誰の子だ?」と叫んでも、だれも日本語を理解しない。こういう場面は、この五年間で我が家では何度もあったが、子猫は初めてだ。
上野公園で、公園事務所が「野良猫にエサをやらないように」という看板を立てた時、公園事務所に「猫おじさん、猫おばさん」が40人以上押しかけた。(その中に私もいたのだが・・・・ゲ!!)台東区の保健所も同席して、お互いの理解が深まるようにと、獣医の講師も呼んできたが、その獣医いわく「猫は砂漠の出身だから、そんなに水を飲まないから・・・公園に水の器を置かないように」と抜かしたら、皆でブーイングだ。「おまえ獣医のくせに猫が水を飲まないというのか??!!」と。と、要するに公園事務所側の主張を代弁するから、奇妙な発言になって、しまいには偉そうに言うから、私は「おまえ! 我々に説教しに来たのか!!」「偉そうに!!」と言ってやった。みんなで「そうだそうだ」と。
何故、西洋美術館に勤務しているころから、上野でこうなったかというと、実はロダンの「地獄の門」の免振化工事の時、この彫刻の中で猫が子供を4匹産んだのだ。工事計画を立てるために、調査をしている時に、中から「にゃー」と黒い母猫が出て来て、「えーー、ここで何しているの?」と聞いたら、また中に入るので、よく見ると「大きな毛虫」みたいな生まれたての子猫がいて、驚いたの何の。そこで、すぐに御徒町の吉池(スーパー)エサを買いに行って。美術館の敷地内に猫の小屋を作って、そこに引っ越してもらおうとしたら、あまりに学芸課の女の子たちも、きゃーきゃー騒いで、子猫に触るものだから・・・・・地獄の門から出て行ってしまった。しばらく私の作った小屋に居たが、また引っ越した。上野公園にはカラスが居て、子猫は食べられてしまうことが多いから、子供連れて身を隠したのだ。
そこで、地獄の門免振化計画は進行し始めたが、猫たちはすぐそばの公園事務所のそばの売店の倉庫の床下で寝起きしているようで、私がエサを持っていくと、必ず出てきた。この工事は竹中工務店と一緒に行ったが、竹中の若い監督が「エサをやっておきました」とか言うようになって、彼はネコ当番を命じられていたのだった。一年近く続いた工事期間中には子猫が生乾きのコンクリートに落ちて毛がバリバリになってしまったこともあった。勿論、コンクリートの面は修正されたが、場所によっては子猫の足跡が残っていることもあった。私には良い思い出の一つだ。
こうして猫と私の絆というか、深い関係が生まれた。だから「市役所が何を言うか」という気持ちなのだ。
田舎の町に引っ越してきて、最も身近に感じることは「東京の常識は、浜田の非常識。またその逆あり」。
ちょっと今回、愚痴が多いからここいら辺で終わりにします。