定年を迎えたサラリーマンにとって、拘束からの解放に反して、社会から忘れ去られる恐怖で定年後の生活が苦しいものになるらしい。老後の生活に経済的不安がない程度の年金や貯えのある人で、組織での仕事以外にやることを持たなかった人は、人生の目標が無かったことに気が付く。家でゴロゴロして、何もすることがないと、横になってテレビでも見ている定年後のおやじを見て「粗大ごみのようだ」と家族に言われる。そこで何とかしようとして、新しい一歩を考える。この時期の15年間、つまり男子の平均寿命から「黄金の15年間」と呼ぶようだが、人によっては「赤さびの15年間」とも。
貯えの年金も不十分であれば、即再就職やアルバイトを探し始めなければならない。私もハローワークに出かけて、新しい人生を感じようとしたのだが、マンションの管理業務(清掃、ごみ捨てなどの世話)しか見つからなかった。手続きは屈辱的であった。区の公報で募集した受付業務も電話をしてみれば、若い女の子を目論んだ募集であって「おやじではない」と、まるで性差別であるが、募集要項には記載がない。その程度は想像しろと。つまり定年後の職探しは、社会から見捨てられた年齢であり、役に立たないとの基本的な認識がある。
西洋美術館での再就職の話もない訳ではなかった。これは役所としての義務で、5年間まだ働く気があるかどうか尋ねただけだ。上司からパワハラを受けている状態では長居は無用だ。これ以上どんな仕打ちをされるか分からない。西洋美術館に任官する前はフリーランスの修復家として、河口美術修復工房なるものを稼働させていたので、また元に戻ればよいと考えもあったが、いろいろと考えて修復業務も再開しなかった。
当方く大震災の影響で「次期関東直下大地震」を想定したことも、90歳の半ばを超えた父親が独り岩国の家で生きていることも気がかりであった。もっとも現実的な問題は、実は年金が少なくて、そのとき住んでいた家の固定資産税が27万円と年金額の三分の一を持っていくし、所得税、住民税、国民健康保険料、介護保険料もとられれば、もはや老後の楽しい生活が見えなくなった。おまけに復興税というのがあるし、消費税も値上げされた。結局選択は都会を離れることであった。住んでいる家を売り、その金で老後を生きようと考える。
こうして老後の基本が定まって、島根県浜田市に裁判所の競売で手に入れた家に引っ越す。これはこれで大変だった。東京のアトリエの荷物が引っ越し先の古屋には入らない。仕方なく6x8m、高さ5mの倉庫を自分で建てたが、それでも荷物で満杯だった。定年で仕事と切れて、東京とも切れた。新しい生活は「自分が何をするか」だけにかかっていた。
私にはやってみたいことがあった。畑を耕し魚を釣り食物を得て、絵を描いて、本を読んで、猫たちと遊び、静かな日常を過ごす。ごく普通に思える晴耕雨読の老後が計画の主眼であったが、現実はどちらかというと、へき地でサバイバルとでもいうべきか。自分が選ぶ生き方次第で随分騒がしい生活になる。
まず、家の問題だが、競売で安く買ったが、以前は干物屋の工場があって、破産後ゴミになっていて、これを撤去しないと先が見えなかった。撤去費用に430万円もかかって、普通の中古物件を買ったと同じ結果になった。そこで、この工場を撤去して気が付いたのは、冬場はカーブミラーを捻じ曲げるほどの強い西風が直接家に当たることである。家の敷地は広いが、西側の敷地の境界は直接「海」である。すべての風は塩を含み、鉄や銅を錆びさせる。庭に放置した工事用の一輪車は2年ほどで形を失い、タイヤだけになった。倉庫に入れた工具類はすべて錆びた。海に面した敷地の先は波除の波止があって、釣りが出来る。そこへ侵入者がうちの敷地を通って行く。釣りをする者は人の家の敷地など気にもかけない。フェンスがないころ、広島ナンバーの車が庭に駐車していて、50cmオーバーのクロダイを釣って帰った。そうこうしている間に、泥棒が二回入った。コソ泥に釣り道具をごっそり持っていかれ、プロは掃き出し窓のガラスを破って逃げた。プロは現金狙いだから、貧乏人だと理解してガラスを破っただけだったが、警察を呼んだら捜査の刑事が、床板を張る道具をくすねて行った。(お前のところの刑事が盗みを働いたぞ・・・と電話で怒鳴ったが、「うちの者に限って、そんなことはありません」と。そいつが最後に触っていたのを目撃しているのだから・・・。警察官には油断しないことだ。)
田舎というのはいろいろ都会の常識と違うことが分かったが、毎日朝昼晩と聞かされる市の防災無線のスピーカーから流れる音楽には閉口する。朝は「浜千鳥」、昼は「浜田市民の歌」、夕方は「家路」。しかも全曲聞かせる。昼と夕刻は70デシベルを超える音量で、気分が悪くなるが、いくら文句を言っても改善する気がない。東京大田区の住まいのすぐそばにスピーカーがあったが、夕刻に「夕焼け小焼け」を11秒流すだけだった。しかも音が小さくて、近所の中学校の生徒が帰宅するのを促す程度だった。これが「都会の常識」だが、田舎では鈍感だ。毎日大音量で「浜田市民の歌」を聞かされるのはヒッチ・コック劇場のカルト世界を見ているようだ。また、こうした行為がダサイ。うるさいから音量を計測してほしいと去年の12月に頼んだら、「今調整しています」という返事。とうとう6月に「告訴する」と手紙を書いたら、やっと測りに来た。で結果は、79.6デシベルで、70以上が騒音だから立派だ。その後また、音沙汰がない。結局なあなあにされるだろう。
そう言えば、都議選があって東京都の議員が127人だと分ってがっくり。ここは僅か6万に満たない人口で市議が25人もいる。何もしない市長に市議が作る町は近い将来2025年までに行政区としての機能を持てなくなるという話だ。人口はさらに減少し、年寄りが増加し、国や県からの補助金でしか収入がなくなる。市役所は大きく、職員も多いのにびっくりする。要するに職がないから、公務員が最高の職業で、縁故採用や過採用がまかり通る。市議は議会が開催されるときと、委員会があるとき以外は、家で自分の仕事をしている。それでも1000万円以上の給与があり、また様々な政務活動費がもらえる。今の国会議員もひどいが、地方の町では資質のある者によって行政が行われていないことは明らかだ。権力を行使できる立場になると、お高く留まる者は日本中にいる。生活さえ安定すれば職務怠慢もありだ。筋を通そうとするとパワハラを受けるから、黙ってしまう。それ以上に社会的興味がない人たちが多いために、状況は改善されない。この国の国民性は「集団の価値観の押し付け」と「情緒的で曖昧な判断」、そして最近はやっている「忖度」。これらを良いことだと思っている人たちが多いのが、この国の歴史に刻まれている。ドイツに居た時、テレビ局のインタビューを路上で工事をしている職人に、現行の政治について尋ねた時、とうとうと自分の意見を述べていたのに感心した。自分のこととして政治に対し自分の意見を持っていることは、日本では稀のような気がする。ドイツの個人主義というのは、自分で自分を教育し、自律していることだ。そして個人責任を負っている。すぐに群れたがる日本人は島国根性で外国では通用しない。何か未知の出来事に出合っても、日本の価値観でしか判断できないから、外国で災害に会うことも多い。そのとき周りが何とかしてくれると思うのだろう。
ちなみに、市長は「浜田城資料館」を計画中だと聞いている。かつて幕府側の出城であったため、長州征伐の時、長州軍に攻められ、当の城主は城と武家屋敷に火を放って逃走したために、この町には歴史を感じさせるものは何も残っていない。石垣も後世の修理が入り、城の池は埋め立てられ、民間会社が社屋を建てている。何をいまさら「資料館」なのか?この町のキャッチフレーズは「人が輝き、文化が香る町」だそうだが、東大出の市長は何もせず、結局箱モノに予算を無駄遣いする。文化を行政が作ることはできない。市民が心を一つに通わせて出来上がってくるものだろうに。
さて「黄金の15年」か「赤さびの15年」かの話に戻ろう。
時間はアッと言う間に過ぎていく。今住んでいるこの町がどうであれ、自分が何をしたいのか実行しないと何もならない。もはや「阿部の政治」に不快感を感じるなどと言っていても、自分の時間を批判にくれてやるより、自分のやりたいことをやる為に使わなければ。
私には伴侶が居ない。だが猫が20匹はいつも居る。彼らが子供だ。病気になれば必死で看病するし、彼らに危害を加えるものを許さない保護者としての自分がある。また僅かな庭にイチジクやブルーン、キウイ、梅、山椒を植え、プランターにはトマト、スイカ、空芯菜にハーブ類が植わっている。(スイカはミツバチが居ないので細密画を描くテン毛の筆で人工授粉させて、4つ出来た)。最近釣りはイサキ釣りとイカ釣りに出掛けたが、イカは何とか19杯釣れたので、猫と一緒に食べることが出来たが、梅雨の時期と言えばウナギだろう。去年も鰻といえば一応転園ウナギを一匹食べたが、今年こそと思って浜田川に糸を垂れたら、エサを着けて投げ込んで、他の竿を用意している間にガタンという音とともに、あっという間に一匹釣れたのだが、竿を抑える間もなく、支えの三脚が川の中に落ちた。買ったばかりの三脚で2500円だった。この一匹のウナギより高価だった。それに浜田川のウナギの臭いこと。焼いてタレをつけてもどぶ臭かった。これが私の「黄金の15年」の一部であることは否定できない。
だが、まあずっと続けていることに「絵を描くこと」がある。美術館にいるときに絵画素地となる「板」は出入りの美術工芸会社に頼んで厚さ15mmのランバコアを大量に注文しておいて、これに板画を描いている。カンヴァスに地塗りをして描くのはあまり自分には向いていないと思うから、残りの人生に十分なだけの量の板を買い込んだのだが、そんなに描けるものではない。ここからが人生の問題だ。
絵を描くことは、真剣になって何が表現したいかを考えることのように思う人が多いが、それは凡人のやることで画家を名乗っている人の恐らく99%は頭で考えて何を描くかを決めている。(何も考えずに趣味で絵を描く人は除く)芸術的才能というのは、頭で絵を描くのではなく、本能的ともいえる潜在的な感性で描きたいものがあって、それに従って自然に描いてしまうはずだ。頭で「他の誰もがやっていないこと」「観る者に衝撃を与える内容」とか考える者は芸術家ではなく、プロデューサーなのだから、私にも関係ない。
結局絵を描こうとすると、自分の中にあるもの以外に何も引き出せない。優れた古典の巨匠から、今更影響を受けるだけの新鮮な感覚も持ち合わせない。だから今できる最大限の表現を行って、結果を自分で評価しながら次を考える事しか進化は得られない。これが最も現実的な制作なのだ。現実の世界を描くわけではないので、想像の産物であることには違いない。しかし発明ではないし、心象風景という言葉がよくつかわれたが、それに近いだろう。聖書や神話のような物語があるわけでもなく、アニメや漫画のような世界でもない。絵画である以上、一点でこの世と隔絶した世界を表すことが、毎回の制作の主眼であるから、説明はいらない。
もう一つやっていることは「売り絵」を描くことだ。一度も売れていないのだから「売り絵」と言うにはおこがましいが、目的があって、それにふさわしい内容でモチーフを選択しているので、つまり昔から画廊によく見かけた「富士山」や「バラ」のようなものだ。これは年金以外に収入がないからという理由と、もう一つは職業画家というのを経験して見たかったという程度のことである。(近いうちに画像ホルダーに作品の写真を入れます。ええ、そんなもの見たくもない?・・・まあ、そういわずに。)
「黄金の15年」はまだ経験していないが、私の寿命が来た時、振り返って、終わりのない「心象風景」と「売り絵」を作り続けることで「赤さびの15年」にならないようにしようと思っている。
しかしプロデューサーはいやだね!!