言葉だけで、絵画について御託を並べても真意が伝わらないと思う。終いには読むのにも飽きてしまうと思う。
実は画像を載せたいと思うが、画像の取り込み方が分からなくて、何時まで経っても自分の作品や議論の対象となる参考作品などが紹介できないでいる。まことに申し訳ありません。そのうち誰かに教えてもらいます。
言葉だけで、絵画について御託を並べても真意が伝わらないと思う。終いには読むのにも飽きてしまうと思う。
実は画像を載せたいと思うが、画像の取り込み方が分からなくて、何時まで経っても自分の作品や議論の対象となる参考作品などが紹介できないでいる。まことに申し訳ありません。そのうち誰かに教えてもらいます。
その1
フランドルならびにネーデルランドの画家たちが描いてきた絵画は「写生(直接物を見て書く)」と呼ばれるものとは同じではない。19世紀の写実主義(事物をありのままの状態に描写する主義)以降に登場する写実的な絵画とよく比べれば理解できるはずであるが、モチーフを見ながら描いたと言えるのは19世紀の方である。シャルダン、ファンタン・ラトゥール、クールベなど、少し古典的と思しき画家たちの作品は目の前に花や果物を据え置いて描いたと言えるものばかりだ。しかも実物に対して素直に接していることが分かるだろう。しかしこの中で、クールベは生活のために絵を描く以外に、写実主義というイズムに拘り、画中の描写による写実ではなく、テーマの社会性における写実にしてまでしてしまった。
19世紀には具象絵画といえどもリアリズムの神髄ではなく、観念的に考えることでリアリズムから逃げてしまうのである。そこには時代の流れに従って新しくなければならないというような、まるでルールがあると錯誤した歴史観によって、近代から現代にいたるリアリズムの崩壊の道をたどるのである。
フランドル、ネーデルランド時代には、目の前に物を置いて描けるのは金持ちの画家だけだったろう。しかしモチーフは、借りてきても、まずはスケッチすることが先でそれを基に後で組み合わせて描くのが普通だったはずである。観察による記憶は画家たちにとって必須の能力であった。
それまで人物画においても、モデルをそこにおいて何日も描くはずはない。例えばドレスの布のひだの形は毎日同じにすることは不可能だろう。勿論早く描く能力も求められた。そうしたアトリエでの作業では、最も重要なプロセスとして紙にデッサンを取り、水彩絵の具などで基本の形や色を決めておくなどの制作の基本となる一歩があった。これはオリジナルスケッチとか呼ばれるが、リューベンスなどはオイルスケッチと呼ばれる、板に油彩絵の具で構想を素早く描いて残し、弟子たちの共同作業ににも生かした。
ある時、リューベンスは自分の妻を嵐の海岸の杭に縛り付けて、悲壮なシチュエーションをデッサンしたといわれている。もっとも嵐の中でカンヴァスを立てて絵を描くなど不可能である。それは臨場感を最大限に得られる現場で、光景を目に焼き付け、素早くデッサンにしておくことで、後でアトリエで最終的な完成画にするのが普通だったはず。
アトリエは画家にとって大きな役割を果たす。完成は絶えずアトリエで記憶や想像に頼りながら制作するのが当たり前で、こうした能力や生態のようなものが評論家や美術史家には伝わっていない。
多くの人が「写生」はあるがままに写す行為だと思われているために、画家の感性が伝わらないのだ。あるがままに描くことが画家の目的ではないのだ。目の前のものを写すだけに終われば、何も芸術的な創造性は認められない。そんな面白くない歴史をだれが続けられたであろう。
その2
ヨハネス・ヴェルメールの絵画について書いたものに、多くカメラオプスクーラを使って、カンヴァスに投影して輪郭をなぞって描いたとか‥‥彼自身の絵画作りに関して、、実技者として理解できないような評がされていて、他の画家とどこが違うのか、本当に光学的な機能に頼ったのか明確な証拠が示されないまま、いつもカメラオプスクーラが登場する。画家の視覚の特異性が注目されているのだが、いつも関連付けられるのは、点描を用いたと《ミルクを注ぐ女》の机の上のパンの端切れの表現、《デルフトの眺望》の建物の石の表現などがぼんやりとした中に消え入るような点が用いられているのは、カメラオプスクーラで覗いたときに見えるとか、景色全体を一堂に配して見える機能から眺望を描いたとか。こうした理屈を立てる者はおおよそ絵画の実技を知らないものである。
カメラオプスクーラは一度覗いてみれば十分である。要するに、昔子供のころにおもちゃとしてあった幻灯機の仕組みであり(古い話で、より近い話だとスライドプロジェクターのこと)、目の前のものが小さく逆さに映る世界は、それまでの時代性からすると、非日常的で興味深いものであったであろう。その経験が何かしらの影響を与えることはあっても、これを誰かが言い出すと多くの研究者が納得してしまうのは、実際にの経験の無さからである。ロンドンナショナルギャラリーのネーデルランド絵画の展示室の一室に、このカメラオプスクーラが置いてあるから、一度覗いてみると良いだろう。
まあ、さらに言うに事欠いて、カメラオプスクーラでカンヴァスに投影して、その画像をなぞったと言う者がいる。画像をなぞったと言うことは、ヴェルメールは「写生」していたのだという意味になるだろう。しかも人物にせよ風景にせよ、自然のありままに写し取っていたということになるが、彼の絵画がそんな粗末な方法で作られているなどと・・・・彼の絵画を観察することも、感じ取ることも出来ないていどの話だ。現代ではスライドを投影して輪郭をなぞる者がいるが、元より写真的に描くことを目的としているか、絵を描くことを小ズルく考えているかである。これらと同じ次元で語ることは、いくら何でもヴェルメール先生に失礼であろう。
話は少しそれるが、同時期に室内と人物を多く描いたヘラルド・デルボルヒ(Gerard Terborch)という達筆な画家がいる。小さな画面に描かれた人物は細部に至るまで完璧というべきほどに美しい絵の具の使い方は、絹のような表現においては彼の右に出る者はいないであろう。私がニュールンベルグにあるゲルマン民族博物館の修復アトリエで研修を受けていた時、師匠のブラッハート先生のところに持ち込まれたテルボルヒの作品があった。誰かが破壊的な洗浄をして足元の絵具をすべて失わせていた板絵である。アーバングレイの地塗りに、足や靴が小筆で鋭く美しい線で描かれていた。この上に正確に仕上げの絵具を載せていき完成させるのかと、驚嘆した。
赤外線吸収画像によっても、黒い線で描かれた下素描は見ることが出来るが、彼の作品のように暗い室内を描いた作品では全体に黒が使われていて、地塗りも暗いと赤外線を吸収しすぎて下素描を見れることはまれである。あまりに幸運にして(作品の重要な部分が墓視されていることは残念であるが)彼の制作工程の一つを見ることが出来て、自分の世界観を広げてくれたと思った。以下にオランダの画家たちが描写力に優れていたか、絵画技法に興味のない画家や修復家、美術史家にいたるまで、こうした客観的な資料を大事にしないと、未知の感性の世界が一生わからないで終わるだろう。
ちなみにブラッハート先生は、修復処置として、この下描きデッサンが見えるままにして、アンバーグレイの地塗りと残っているオリジナルとのバルール(明暗)の調子を合わせたにとどめた。これが修復の良識である。
さて、話をヴェルメールに戻すと、彼が話題性の多い画家で、絵画が完璧であると感じる人が多いことから,こうした話題が提供されるのであろうか。注目すべきは、作品のテーマは当時の画家が多く描いた世俗的な室内の出来事であったりしながらも、作品の雰囲気は品性を保ちながら、登場人物の人格や俗性を感じさせずに、しかも音の無いような静かな場面を描き続けたことである。それは遠くから光景を冷たい目線で眺めて描いていたように思われる一因であろうが、切り取られたような日常の世界は当時の他の画家も描いている。また決して彼だけが、遠くから眺めたような世界を描いたわけではないことも見つかるだろう。
しかし音を感じさせない世界は、絵画がこの世から離れて自律している上で、究極に完成した状態を表していると言えるだろう。ヴェルメールの世界の他にレオナルド・ダ・ヴィンチの《モナリザ》にも、そう感じないだろうか。
イタリアルネッサンス時代に登場した幾何学的な点遠近法や空間処理の絵画手法よりも、ずっと以前にフランドルでは、より自然な視覚に作用した感覚的遠近法が、ファン・アイク兄弟によって完成されていた。絵画空間そのものを我々の現実に近づけておいて、虚構性を独自に感じさせる方向に変化させていた。だから彫刻家であったミケランジェロにとってフランドルの画家たちの人体の扱いやモチーフの細かな扱いは受け入れ難いものであったようだが、もうその時フランドルはイタリアルネッサンスで花開く絵画伝統とはすでに大きく違うものであった。それは元をたどれば教皇庁がアビニヨンに遷都され、シエナ派の画家たちが、そこで活動したことから北方に細密画が伝わり、その表現様式や技法、技巧がフランドル人に残っていくのである。イタリアルネッサンスの直接的な影響を受ける前に、フランドル独自の画風は小さな板絵に鮮やかな色彩で精緻に描くことが出来る油絵の具の登場で完成していったのである。
フランドルに絵画性を伝える効果を最も発揮したのは「細密画」の優れた描写と高い完成度に仕上げられるテンペラ絵具ではなかろうか。細かに描くのには、最も簡便で色彩の強さも発揮でき、表現の可能性を拡大させた。卵黄も卵白も両方用いられたようで、艶の必要な茜の赤、アズライト青などのような透明色には卵白を用いて艶やかに描かれたりもした。そのせいで後世になって保存に問題も生じているが。油彩絵の具が日常的に使われるようになるまでに、つまり油彩技法が完成するまでにシエナ派が伝えた技法や作法はドナウ川の北の方まで伝わっていたのではなかろうか。それと思しき技法の交流した痕跡が見つかっている。
ファン・アイク兄弟も細密画家であったと言われているが、色彩の扱い、建物や風景の細部の描写、人物の衣装の装飾性など細密画家が行った作法に近い。事細かに美しく装飾的でもある細密画法は、油絵の具でも可能な限度を追求したともいえる。《アノル・フィニ夫妻像》の足元にいる子犬の毛の表現で、本物の毛よりも細く描いている。この細い線は油彩はもとより、テンペラ絵具でも引くのが困難である。(テンペラ絵具で、油彩画の上に細い線を引くと絵具がはじいて線が切れたり太くなったりする。油絵の具では線が細くなりにくく、10cmの長さに弾くことは不可能に近い。)何故、ここまで描写したのであろうか。テンペラ絵具を用いた絵画で先行した当時のイタリア絵画にはこのような表現はない。
宗教画家の描く「物」は表象として描かれるが、その後に登場するネーデルランドの静物画家たちの「物」はもちろんそのものを描こうとしてわけではないが、直接的な物に近い。
この項その2の冒頭で‥‥具象画家のリアリティというものは経験上、絵画の中で再現できるものである・・・と書いたが、我々が考える表現のリアリティは言葉の観念として存在するが、実際には存在しない。ただ錯覚によって実在するように感じさせるように描いたことがリアリティだと言える。したがって写生によって細かく、まるで本物のように描くことがリアリティではない。
その3
ローマ故、昔からイタリアに学ぶというのは多くの知識人にとって当たり前だったようだが、イタリアに出かけたとしてもフランドルの画家たちにとって、最も影響を受けたのは地元の画家たちの作品であったように思う。ピーター・ブリューゲルはイタリアを訪ねても、イタリア絵画あるいはイタリア美術から何一つ学ぶことなく帰国した。旅の途中に描いたとされるデッサンが残っているが・・・・。帰国後、より伝統的な精緻な描写を、より自由で簡略な描き方にしていろんなテーマを描いていく。そのため当時のフランドルでは彼の作品の評は大変悪かったと言われている。彼はイコノクラスム(偶像破壊)の嵐が吹き荒れる予兆を感じ取っていたのか、宗教的主題は正面から描いておらず、作中の脇に置いて描く方法を取っている。そして、たった10年の間に大量の制作を行い、彼の世界を作り出した。
Rubensの一世代前の画家 Jan des Vos(ヤン・デ・フォス)はVenezia のTintorettoのところに弟子入りし、人物の描き方、技法などでかなりの影響を受けてフランドルに戻って活躍しているが、帰国直後間もなく制作したと思える国立西洋美術館所蔵の《最後の晩餐》はカンヴァスに赤いボルス地用い、デッサンも構図もテントレット風の描き方だが、さすがにアズライト青を使った布の表現はでは、その部分だけ下塗りとして一度発色の良い白を塗ってから、その上に青い絵の具を重ねる技法にしている。そうしないと青い絵の具がその輝きを発揮しないからである。帰国後注文が増えるにしたがってフランドルの伝統的な技法に回帰している。それは板に白い地塗りを施し、明るさが下から透けて上にくる絵具をより輝かせる効果がある。そしてフランドル絵画の伝統のようになっている描写の効果にも白い地塗りが適していることは疑うこともない。
恐らくティントレットとのテーマ性の違いで、彼の描くドラマティックな作品は暗い地塗りが技巧を助けたであろうが、アントワープに帰国したデ・フォスには宗教的な主題の注文が多く、暗い雰囲気にできなかったのであろう。アントワープにある《キリストの復活》《マリアを描く聖ルカ》では、後続のリューベンスに影響を与えたと思える技法が見て取れる。豊かな色彩の表現はリューベンスそのものだから。
そのリューベンス自身もイタリアに学んで、ボルス地に描くが、結局帰国後、デ・フォスの技法と同じ回帰をたどるのである。しかし伝統的な技法の束縛があったわけではなく、気候風土や色彩の効率的な使い方には白い地が優れていたからともいえる。しかしかれは次第に白だけにこだわらずに明るい地塗りを基調とした黄土色に近い色、砂色、炭を混ぜたグレーの有色地などに描いて、独自の雰囲気を演出させている。それぞれの下地の色は上にくる色に美しい変化を与えるからで、グレーの地の上では冷たく覚めた青味がかった調子が得られた。
ヴェネツィア発祥の赤いボルス地は、ネーデルランドの画家たちも多用し始めて、バロックの時代にはヨーロッパ中がカンヴァスに赤いボルスを塗って描いていたと言える。バロック絵画のように暗い中に光が当たった人物などが書かれた時代には、描画プロセスをより簡略にしてくれた。有色地は最初から暗いので、背景と前景のモチーフが簡単に分けて制作できた。光の当たった部分は明るい絵の具でわずか描けば暗い中に浮かび上がり、簡単に形や空間を決定できた。この画法はロココ、古典主義の時代まで引き継がれた。
当然ながら鉛白を使った明るいところが厚くなり、そのX線写真はまるでモノクロ絵画のように思えるほど、的確な明暗を作り出している。特にレンブラントの人物画のX線写真は見事な雰囲気を感じさせてくれる。こうした画法の美しさを最初に実現させ、多くの画家に影響を与えたカラヴァッジョに感謝しなければ。
さて多くの人が古典の画家たちはモチーフを見ながら描いていると誤解していることの原因に、あまりにリアルに描かれていることがあげられるが、その目的を達成させるために「目で追う写生ではなく」もっと画家たちは「記憶の感性を使っている」と述べたかった。理解されただろうか。
何度も書きかけ原稿や完成させた原稿を飛ばしてしまい、落胆して書くのを休むことがあって、中途半端な話で筋が良く見えないと思います。
もう、こういうパターンでしか書けないように思うので、作文途中のものを、未完成のまま随時投稿し、仕上げていく方法にしたいと思います。
それで、未完状態の文章を読んでご不満を与えるかと思いますが許してください。